「石河幹明は不誠実な「仕事」をした―都倉武之論文への応答とその他のことども―」

last updated: 2018-07-21

このテキストについて

平山氏からの依頼により「石河幹明は不誠実な「仕事」をした―都倉武之 論文への応答とその他のことども―」を掲載します。

本文

はじめに

福沢諭吉の著作を特定する、ということは、福沢の思想を研究するための当然の前提である。拙著『福沢諭吉の真実』(文春新書)が平成一六年(2004)八月に刊行されるまで、福沢の著作とは岩波書店刊行の『福沢諭吉全集』(以下現行版)に収められた文章のことと信じて疑われることはなかった。

ところがこの十数年のうちに、私の主張、すなわち、弟子の石河幹明が編纂した大正版『全集』と昭和版『続福沢全集』に収録されている新聞『時事新報』の社説には福沢自身によらない文章が混入しているため信憑性に乏しく、現在のところ信頼できるのは福沢自身が編纂した明治版『全集』に加えて存命中に刊行されていた署名入り著作までである、という主張はほぼ定説となった。私の考えが受け入れられたことはまことに喜ばしいかぎりであるが、必然的に、ではどの社説が福沢のものなのか、という難題が持ち上がったのである。

その解決のためには、要するに、明治版『全集』所収論説の立論を基準として、直筆草稿残存社説を参考にしつつ、井田メソッドを援用して福沢の関与度の高い社説を選び出すという方法を取る以外にはない。その井田メソッドの信憑性については、すでに安川寿之輔(注1) ・山田博雄(注2) ・杉田聡(注3) ・都倉武之(注4) らによって疑義が呈されている。私としては、全部が福沢起筆(カテゴリーⅠ)と全部が社説記者起筆(カテゴリーⅣ)の区別なら、高い確度での選別が可能と考えている。

明治一五年(1882)三月一日の『時事新報』創刊から福沢が脳卒中を発症した明治三一年(1898)九月二六日まで、社説は福沢と通常三名の社説記者によって起草されていた。福沢と社説記者の合作(カテゴリーⅡⅢ)も多数あるが、それらの判定は後回しにすることにして、まずは福沢のみの社説(カテゴリーⅠ)を抽出するのが優先すべき課題となろう。

というのは、誰が書いたのかという問題については文体・語彙によって判別可能でも、誰の思想であるか、については文章の外見からは判断がつかないからである。私は同じ合作でも福沢立案記者起筆の社説をカテゴリーⅡ、記者立案福沢添削のものをカテゴリーⅢとして区別するのであるが、それらの外見は記者の文体・語彙に、福沢のそれらが混在するという点において区別はないのである。その両者の区別は福沢による当該社説への言及の有無や、福沢とはっきり分かっている論説との遠近によって、立てられるにすぎない。

福沢が書簡等で言及していないカテゴリーⅡの社説は数多く存在しているはずである。また、現行版『全集』の「時事新報論集」には、立案は社説記者にせよ福沢も関与しているカテゴリーⅢばかりか、完全に記者の作であるカテゴリーⅣの社説も含まれていると想像できる。(注5) その点が広く認められたからこそ、現行版「時事新報論集」の採録は信用できない、という私の主張は定説となったのであるが、残念ながら、そのもともとの編纂者である石河幹明の仕事ぶり、つまりは社説採録に当たって自らの任務に誠実に取り組んだか否かということ自体に疑問がある、という私の立場は十分には受け入れられていない。

その典型例が都倉武之の論文「福沢諭吉における執筆名義の一考察-時事新報論説執筆者認定論への批判-」(『武蔵野法学』五・六号、平成二八年(2016)一二月・武蔵野大学刊、以下「執筆名義」論文)で、そこで批判されているのは井田進也と私による社説執筆者認定論である。都倉は、福沢が本来の語彙や文体とは異なる仕方で文章を起草したことがあることをもって井田メソッドの無効を主張するが、約六千編という福沢存命期の社説の総数からいえば、自らの文体を隠している社説などごくわずかにすぎない。福沢は自分の文体を隠したいときにだけそうしたのであって、その必要がないときにも別の文体で書いたわけではないのである。

さらに念のために注記するが、社説が誰の思想か、という問題についての井田と私の立場は明確に異なっている。かつて安川と杉田は井田と私を一緒くたにして批判していたため、私は『アジア独立論者福沢諭吉』(平成二四年(2012)七月・ミネルヴァ書房刊)でその誤謬に反論しておいた(同書二八二頁)。にもかかわらず都倉は、「執筆名義」論文において、井田と私の立場の差を明確にしないまま社説執筆者認定論の無効を主張している。私が見る限り「執筆名義」論文で否定されているのは井田の立場だけで、私の立場は依然として有効なのだが、論文を一読しただけではともに無効とされていると誤解されてしまうのである。

とはいえ、その点に深入りすると論旨の乱れが生じる。それを避けるため先ずは私に向けられた批判に対してのみ応答することにする。

1.「不誠実」とは「故意」という意味である

都倉「執筆名義」論文の目的は、「福沢の言説が表面的に「自家撞着」に満ちているだけで無く、体裁を自由に変え、時に他者の名前さえ騙ることなどを通じて、実に多様な側面を有することを再確認し、福沢の言説に関する議論の再構築を図ろうとする」(「執筆名義」論文三七五頁)ものである。それは立場として認められるとしても、問題とすべきは、私の研究ともかかわる第三節「『時事新報』社説に関する自意識」において、社説すべてを福沢の反映とみなしていることである。(注6) つまり、『時事新報』社説は福沢を含む複数の記者によって書かれているが故に主義主張の異なる社説が混入している、とは考えないわけで、その前提は私の理解の範囲を超えている。というのも、高橋義雄・菊池武徳・柳荘太郎ら日清戦争開戦前までの編集部在籍者は皆社説は福沢と社説記者が輪番で書いていた、と証言しているうえ、戦後については福沢本人が、『時事新報』からはだんだん遠くなった、と『福翁自伝』で語ってもいる。そのため、晩年に近づくにしたがって福沢本来の考えとは異なる社説が掲載されるようになった、と推測できるのである。 (注7)

社説全部を福沢の反映とみなす立場をとっているため、都倉は『時事新報』社説の真偽判定を無意味とする。そして、大正版・昭和版の「編纂者である石河幹明の恣意性をことさらに強調し、現在の議論の混迷の原因を石河の人格に帰する如き議論には一切与しない」(「執筆名義」論文三七二頁)とも述べている。この部分には註が付されていて、そこにはこうある。

福沢をアジアへの侵略主義の魁と見る見解に対して福沢擁護の立場を掲げる平山洋は、例えば『アジア独立論者福沢諭吉』(ミネルヴァ書房、二〇一二年)において、「不誠実」という言葉を多用し、石河個人の積極的な悪意を強調する。しかしそれは今日の高度な実証的視座を前提にした一方的批判といわざるを得ない。実証研究の視点からは、確かに厳密性に欠け、今日の水準には合致しないものとなっていることは強調してやまないところであり、この点は私も度々強調している(前掲「時事新報論説研究をめぐる諸問題」等)。しかし『時事新報』の原紙を閲読することがほとんど不可能であった時代に、その主要な議論を研究の俎上に載せた石河の全集編纂は十分その役割を評価される必要がある。(「執筆名義」論文四〇四、四〇五頁)

創刊三年後の明治一八年(1885)四月に入社した石河は大正一一年(1922)一一月の退社にいたるまで一貫して社説欄を担当していた。社説は最初の三年を除いて彼の目の前で作成されていたので、そのいずれを福沢が書いたのかについて、石河にだけは選択眼があると、拙著『福沢諭吉の真実』が刊行されるまでは一般に信じられてきたのである。私もまた、石河がその能力を有していたと考えている。しかしその能力を「誠実」には使用しなかった、すなわち、福沢作の社説だと知っていながらあえて全集に採録しなかった、と言っているのである。要するに私の用いる「不誠実」が意味するところは、「故意」にということである。

安川や杉田がアジア蔑視の侵略論として批判する社説の大多数は、昭和六年(1931)九月に勃発した満州事変の直後に刊行された昭和版『続全集』の「時事論集」に収録されているものである。その「付記」に示されているように、昭和版「時事論集」所収社説の起筆は、後になるにつれて石河が担当したものが多くなっている。そして、安川や杉田が侵略論として批判する社説も、後になるほど増加していく傾向にある。その一方で満州事変の五年前に刊行された大正版『全集』の「時事論集」には、安川や杉田が批判する社説はほとんど含まれていない。こうした事態を偶然と片付けてよいものであろうか。

その点に疑問をもった私は、『時事新報』から昭和版「時事論集」への採録にあたって石河が、①故意に自らが起筆した社説を優先させたばかりでなく、②石河以外の社説記者執筆の福沢立案社説(カテゴリーⅡ)を排除し、さらには③福沢直筆社説(カテゴリーⅠ)までも収録しなかったことを示した。この事実がどのように明らかにされてきたかを初出順に要約してみる。

まず①については、昭和版『続全集』「時事論集」の例言に、「先生の校閲を経て社説に掲げたものでも他人の草稿に係る分はこれを省いた」(『福沢諭吉の真実』七四頁に引用)とある。従来まで例言のこの部分は記者からの持ち込み原稿を福沢が修正して社説とした場合(すなわちカテゴリーⅢ社説)の「時事論集」からの排除を謳っていると考えられてきた。ところが福沢の署名著作である『修業立志編』中の社説九編を「時事論集」に採録していないことから、例言中の「他人の草稿」とは、石河以外の記者が起筆したカテゴリーⅡの社説をも含んでいることが明らかになったのである。となると『続全集』の「付記」にある石河の弁、「固より社説記者は私一人のみではなかつたが、私が筆に慣るるに従つて起稿を命ぜらるることが多くなり、二十四五年頃からは自から草せらる重要なる説の外は主として私に起稿を命ぜられ、其晩年に及んでは殆ど全く私の起稿といつてもよいほどであつた」(『福沢諭吉の真実』七五頁に引用)というのも、結局は「時事論集」における石河起筆社説の優遇を告白していると見てよいだろう。

ついで②については、『修業立志編』の一件もそうなのだが、それ以外にも物的な証拠がある。それは時事新報社に勤めていた中村梅次なる人物が残していた「福沢先生添削時事新報掲載社説原稿(一覧)」とその草稿により、「全集収録済みの六編のうち五編が石河起筆であり、未収録の九編中七編までが北川の執筆」(『福沢諭吉の真実』一二二頁)と判明したことである。この「北川」とは北川礼弼という福沢から高く評価されていた社説記者のことで、一時は編集長を務めていたほどであったが、福沢の脳卒中発症後に新聞社を去っている。その北川起筆の社説を石河は全集に採録していないのである。

さらに③については次のような手順で証明された。すなわち、『時事新報』社説欄に連載後福沢名で単行本化された著作は全部で一五冊(合本もあるので表題数としては一八タイトル)刊行されたが、そのうち連載に先立って発表された原型とも言うべき単発社説が一二タイトル発見できた。しかし石河によって全集に収録されたのはそのうち「徳育余論」一タイトルにすぎず、原型社説の大部分は全集未収録とされているのである(『「福沢諭吉」とは誰か』第六章「福沢署名著作の原型について」参照)。原型社説と連載後の単行本との類似は一目瞭然で、判定に際して井田メソッドの出る幕さえないほどである。石河が『続全集』編纂の過程で原紙に掲載された原型社説を見落とすなどとは考えられず、彼はそれらを福沢作と知っていながら全集に収録しなかったのである。

以上により、昭和版『続全集』の「緒言」にある「大正十五年再版の「福沢全集」に漏れてをる先生の遺文は、此続全集七巻の中に殆ど全く包羅した筈」(『福沢諭吉の真実』七一頁に引用)などという言葉がまったくの虚偽であることは明らかとなった。福沢自身の草稿が残存している社説一〇八編中石河が大正版と昭和版の「時事論集」に採録したのは半数以下の四九編に過ぎない。残余の非収録五九編には日清戦争開戦直前に掲載された「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」(18940705) (注8)が含まれている。朝鮮の独立を唱えたこの社説が採られなかったのは石河の見過ごしによるのではなく、故意にであったと考えられる。

2.同じ「時事論集」を称していても大正版『福沢全集』と昭和版『続福沢全集』とでは内実が異なる

この十年ばかりの福沢研究において特筆すべき成果として、まず第一に挙げられるのは福沢諭吉生誕一七五年・慶應義塾創立一五〇年を記念して作られた『福沢諭吉事典』(平成二二年(2010)一二月・慶應義塾刊、以下『福沢事典』)の刊行であろう。従来の研究史ではほとんど取り上げられることのなかった『修業立志編』についても第Ⅲ部「著作」できちんと立項されていて、担当した坂井達朗は「この書を『福沢諭吉全集』に単行本のかたちでは採録しなかった理由を、全集の編者は「中には二、三の福沢以外の人の執筆したものも混っており、且つ福沢執筆の社説はすべて「時事論集」中に採録してあるので」と説明している」(『福沢事典』六六二頁)と書いている。

坂井の解説にある全集の編者とは富田正文のことであるが、実際のところ富田は石河による大正版『全集』の凡例をただ引き写しただけである。坂井はそれ以上の説明をしていないが、これだけで全集から『修業立志編』が排除されている事実に納得できる読者は少ないのではないか。というのは、大正版『全集』の「時事論集」には石河が執筆したと断り書きのある社説が一四編収められているからである。『修業立志編』についても同様に、単行本の形で大正版『全集』に採録したうえ、福沢ではない収録社説の起筆者名を注記すればよかったのである。

明治三一年(1898)四月に刊行された『修業立志編』の装丁はその前後の単行本と何ら変わるところはなく、表紙にははっきり「福沢先生著」とある。大正版『全集』刊行時にも慶應義塾では依然として教科書として使われていたのだから、全集を目にした卒業生(塾員)は、なぜ『修業立志編』が入っていないのだろう、といぶかしく思ったことだろう。

かつて『福沢諭吉の真実』(一〇八頁)にも書いたことだが、『修業立志編』の編集を担当した弟子の菅学応は、所収の演説・社説四二編を、『時事新報』編集部に備え付けられていたスクラップブックから選んだ。それから二七年の後、大正版『全集』刊行にあたって、石河はそのうち九編を大正版「時事論集」から排除している。結果として大正版「時事論集」には二二四編の『時事新報』掲載の演説・社説が収められ、そればかりでなく、明治一二年(1879)八月に福沢以外の名義で刊行されたため明治版『全集』には洩れていた『国会論』までもが収録されることになったのである。

明治版『全集』に入れられている『実業論』までの署名著作と、それに加えて大正版『全集』になって新たに増補された『福翁百話』以降の署名著作、さらに「時事論集」に入れられた社説・演説に加えて『国会論』については、昭和七年(1932)刊行の『福沢諭吉伝』では、「福沢先生は…と述べられた」という形で引用されている。それに対して、昭和版『続全集』所収の社説については、「時事新報は…と報じた」という形式となっている。『福沢諭吉伝』が出版された時点では『続全集』は未刊行であったわけだから、石河は大正版『全集』所収社説と、後に『続全集』に加えられることになる千編以上もの社説を区別して表現しているのである。

このように石河の主観としては福沢の思想と時事新報社の主張とは分けられていたにもかかわらず、現行版『全集』の「時事新報論集」では、大正版・昭和版のいずれに収められているかについて何の目印も付けられていない。さらに、富田正文による現行版の「時事新報論集」の解説(各巻の「後記」)では、その下敷きとなっている昭和版『続全集』の解説(各年の「概説」)中で「時事新報は…と報じた」とされている社説まで、「福沢」が主語とされている。つまり、昭和版『続全集』の時点では時事新報社の法人としての見解とされていた社説が、現行版『全集』では福沢個人の意見に替えられてしまっているのである。

石河は『時事新報』の見解と福沢のそれを区別していたのに、現行版『全集』の編者富田正文はどの社説も全部が福沢の見解としてしまった。この富田による一緒くた戦略ともいうべき方針は、残念なことに労作『福沢事典』にも引き継がれていて、第Ⅷ部「『時事新報』社説・漫言一覧」でも、リストアップされた全ての福沢存命期社説の現行版『全集』への採否は表示されていても、各社説が大正版の段階ですでに収録されていたのか、それとも昭和版になって収録されたのかについては示されていない。『修業立志編』所収社説・演説の明示とも合わせて増補改訂の折りには掲載全集別の記載を望みたい。

先にも触れたように、大正版『全集』の「時事論集」のもとになったのは、編集部に備え付けられていたスクラップブックだった。その例言にある、それをそのまま全集に収録した、という石河の言葉は信じがたいが、確実な事実を述べていると推測できる「編者曾て社説起草の参考に供する為め其主要なるものを抄写して之を座右に置けり」(『福沢諭吉の真実』六八頁に引用)という記述には注意が向けられる。福沢が元気に活動中であった時期でさえもこのような参考用スクラップブックが必要だった理由は、福沢と編集部員の接触する機会が限られていたからではなかろうか。

時事新報社が三田構内にあった最初期の中上川主筆時代でさえ、福沢が編集会議に出席していたという証言は得られていない。福沢は明治二〇年(1887)四月までは中上川彦次郎主筆、同年七月以降は伊藤欣亮総編集を介して『時事新報』の言論を統制していたのであって、日々の社説を掲載前にチェックしていたわけではなかったのである。日清戦争の前あたりには新聞社に姿を現すことはまれとなり、そのためにか会社の運営を切り盛りしていた伊藤総編集については「虎の威を借る狐」に類する陰口がささやかれていたことを明治二八年(1895)に短期間在籍していた池田成彬は回想している。

私は明治二十八年の末に時事新報に入つた。当時伊藤君は、人事、営業の事に就ての総支配人と云つたやうな事をして居られたが、病気の為に出勤せられなかつた。其後私は三四週間で退社してしまつたので、時事新報時代には遂に会談の機会を得なかつたのであるが、当時社内下級の方では総ての事に不平が多かつた。就中給与の少ないことが不平の最も甚しい点であつた。是は殆ど社の全権を握つて居た伊藤君の遣方が悪い、伊藤君が福沢先生の聡明を蔽ふて居るのだ、と云ふ噂が高く、私共も伊藤君は奸物のやうに同僚先輩から聞かされて居つた。(『伊藤欣亮論集』下巻、昭和五年(1930)三月・ダイヤモンド社刊、「付録」一〇三頁)

伊藤総編集と石河との間に対立があったことはすでに別のところで書いた(『福沢諭吉の真実』四〇~四二頁、『アジア独立論者福沢諭吉』第一四章「誰が『尊王論』を書いたのか」参照)。そうしてこの対立にはなかなか根深いものがあった。というのは、中上川退社から伊藤就任までの四ヶ月の間編集長をしていたのは石河で、彼は伊藤に職を奪われた過去があったからである。人事上の不満が爆発したのは伊藤が総編集になって一年後の明治二一年(1888)一〇月二二日のことで、それは池田の入社に先立つ七年も前のことである。第二次世界大戦後に発見された福沢の中上川宛書簡によれば、福沢は本気で伊藤と石河(および渡辺治)のいずれを編集部に残すべきかについて検討していたのである。かねてより私は重要な書簡として研究者の関心を惹こうとしてきたのだが、なかなか取り上げられてこなかったので、ここで再びその書簡の中心部を引用したい。

時事新報にて伊藤が独り編集を司り居候処、渡辺、石川等が少々不平にて、新聞の権力は編集に集り、自分等は労して功なきが如し。就ては其権を分つ可し云々之事を申出候に付、何とか不致ては不相成義と存候。其際、或は穏ならざる言葉を吐きたるよし。薄々承り候に付、左様な事を申せば、新聞局中壱人も入用なし、諭吉が唯独りにて請合うべし、役にも立たぬ少年は一切不用と云はぬばかりに話しを仕掛けて、先ず事は治まり候有様なり。全体を申せば伊藤は年も長く智恵もあり、颯々と事を為す処に、渡辺、石川等は年若くして少々筆に頼む所のものあるより、グヅグヅ申出したるならん。何分度量の狭き少年共にて、共に語るに足らず。斯る様子にては渡辺も石川も後年大に為すあるの人物ならずと、先ず鑑定は出来申候。尚い才之事情は追々御知らせ可申候得共、あらまし之処のみ右之通りに候。(『福沢諭吉書簡集』第六巻(平成一四年一月・岩波書店刊)六〇頁)

ことの次第を勘案するに、福沢はその日編集部内で起こったことを伊藤から聞いて渡辺・石河両名を呼びつけたのである。伊藤からの伝聞「或は穏ならざる言葉を吐きたるよし」とは尋常ではない。福沢は一度は両名の新聞社からの放逐を決意するが、それでは日々の社説制作に滞りが生じるということで考え直し、

渡辺も石川も文章の拙なる者にて、此者等が不平などと云はずして文の修業致し、ほんとふに社説が出来る様になれば、老生は快く之に譲渡す積なれども、自分を顧みずしてグヅグヅとは、自省之明なきものなり。

前文之次第に付、老生唯今之考には、渡石輩をして騎虎の勢に至らしめず、程好く、まのわるくないやうに致す積りなれども、若しも彼等がうぬぼれより六ヶ敷事を申つのり、是非共伊藤を擯けよなと申して、力むときは如何すべきや。伊藤を擯るは社の不利なるゆゑ、渡辺、石川等を其りきむままにして、退社せしむ可きや。さりとは血気無辜之少年、甚だ気の毒なり。是れには老生も当惑致し候。唯今渡辺、石川が去りたりとて、老生が全力を尽せば、社説に困りは不致。又雑報は他の少年にて出来可申なれども、生も老してますます多事なるは好む所にあらず、御考可被下候。(『福沢諭吉書簡集』第六巻六一頁)

と矛を収めている。

このような内紛があったことを、もちろん石河は『福沢諭吉伝』で一言も触れていない。自分は終始福沢の命じるままに社説を書いていたと述べているわけだが、それが虚偽であったことは、書簡中の福沢の弁「ほんとふに社説が出来る様になれば、老生は快く之に譲渡す積」により明らかである。さらにここで『福翁自伝』では過去形で書かれていた「社説を譲渡す」が、未来形で記されていることにも注意が必要である。つまり福沢の主観では、社説の掲載権は明治二一年(1888)から三一年(1898 )までのいずれかの時点で社説記者たちに委譲されたという認識だったのである。

さて、総編集である伊藤と社説記者石河の対立については、明治二九年(1896)七月に福沢捨次郎が社長に就任して五ヶ月後の同年一二月に伊藤が退社したため自然と解消したわけだが、それと時を同じくして参考用スクラップブックへ採られた石河起筆社説の比率が高まっている。明治三〇年一月以降の大正版「時事論集」所収社説・演説一四編中八編について石河起筆と注記されているのである。

このように大正版の「時事論集」でさえ日清戦争後については石河起筆社説の優遇がほの見える。にもかかわらずその採録に一定の価値があると考えるのは、まず第一にそのかなりな部分が福沢生前にまで遡ることができる編集部備え付けスクラップブックに由来していること、第二に大正版『全集』の刊行時点では当該期間に在籍していた記者たちの多くが存命していて、大正版を目にしたはずの彼らが収録社説に異を唱えた形跡がないことによっている。

それに対して昭和版所収社説については、石河の選択眼以外に由来する採録の根拠がまったく示されていない。同僚の社説記者たちは既に死去していたので、石河がどのような社説を選ぼうとも、「これは福沢先生が書いたものだ」と言えばそう扱われたのである。昭和版への採録に信憑性が全然ないことは、以上により明らかであろう。そして、この昭和版「時事論集」がはらんでいる問題点は、そのまま現行版の「時事新報論集」に引き継がれているのである。

3.『修業立志編』は福沢全集に収録されるべきだ

前節でも触れた『修業立志編』に関する論文を私が最初に発表したのは平成一六年(2004)三月のことだった。その書き出しは「福沢諭吉に『修業立志編』という単行本があることを知っている人は少ない」(石毛忠編『伝統と革新』ぺりかん社刊、二一七頁)となっている。それまで同書に言及していたのは、管見のかぎり、現行版『全集』第一九巻七七五頁に掲載されている「少年修業立志編緒言」と、その草稿に添付されていた第一八巻所収の菅学応宛書簡だけであったため、私もその存在に気付いたのは、『福沢諭吉の真実』の原型を書くための調査においてであった。

平成一三年(2001)の夏は新たな『福沢諭吉書簡集』(岩波書店刊)の編纂のため慶應義塾福沢研究センターは大忙しだったのだが、私は無理をいって旧図書館内のセンターにお邪魔をし、福沢名義の全単行本を閲覧したのである。その時初めて『修業立志編』の実物を目にして、他の福沢名の単行本と装丁がまったく同じこの本が、大正版『全集』に収録されていないことをいぶかしく思った。その後程なくして収録社説・演説を現行版の「時事新報論集」と一つ一つ照らし合わせてみたところ、全四二編中九編が全集未収録となっていることが判明したのである。思えば石河幹明の仕事に対する不信感が抱かれた最初はこの時であった。

収録社説・演説の一覧はすでに最初の論文に掲載してある。しかし記念論文集中の一編であるため容易には読みがたいということ、また、九編ある全集未収録社説の初出がほぼ判明したことから、今度は『修業立志編』への収録順ではなく掲載順の一覧を掲げることにする。

題名掲載日所在備考
11「学問の要は実学にあり(演説)」18860202第一〇巻五四九頁
13「成学即ち実業家の説(演説)」18860218第一〇巻五五四頁
24「徳行論(演説)」18860304第一〇巻五七二頁
10「恃むべきは唯自家の才力あるのみ(演説)」18870504第一一巻二五四頁
27「徳風を正に帰せしむるの法は其実例を示すに在り」18880213第一一巻四四四頁
25「私徳固くして楽事多し」18880223第一一巻四四七頁
15「物理学の必要(演説)」18880317第一一巻四六一頁
14「後進生に望む」18880507第一一巻四八一頁大正版非収録昭和版収録
12「先づ鄙事に多能なるべし(演説)」18880605第一一巻四九六頁
1「独立の精神」18880611全集未収録菊池起筆?
20「人生の快楽何れの辺に在りや」18880614全集未収録菊池起筆?
26「徳教は目より入りて耳より入らず」18890130第一二巻九頁
28「忠孝論」18890204全集未収録日原起筆
6「慶應義塾の懐旧談(演説)」18890507第一二巻一三〇頁
19「文明教育論」18890805第一二巻二一八頁
42「英国の学風」18890928全集未収録高橋起筆
32「実業家の学術思想」18900305第一二巻三八八頁
23「礼儀作法は忽にす可らず」18900527全集未収録菊池起筆?
18「富豪の処世法」18910630第一三巻一四二頁
5「金銭は独立の基本なり(演説)」18910715第一三巻一五八頁
4「一身独立して主義議論の独立を見る可し」18910728全集未収録
2「独立の大義を忘るゝ勿れ(演説)」18910802第一三巻一六六頁
41「心養」18910807全集未収録
3「須く他人を助けて独立せしむべし(演説)」18911020第一三巻二〇五頁
35「父母は唯其病是れ憂ふ(演説)」18920220第一三巻三〇六頁
16「須く政論の上戸となるべし(演説)」18920320第一三巻三二三頁
36「衛生の要は消化の如何にあり(演説)」18920402第一三巻三三二頁
9「小心翼々以て大功を期すべし(演説)」18921029第一三巻五五四頁
8「人間万事児戯の如し(演説)」18921124第一三巻五七二頁
37「寿命の大小」18930104第一三巻六二〇頁
34「社会の人心は其尚ふ所に赴く」18930314第一四巻九頁
40「体育の目的を忘るゝ勿れ」18930323第一四巻一八頁
29「先進と後進」18930425第一四巻三四頁
30「新旧両主義」18930609第一四巻七一頁
22「士流の本分を忘る可らず」18930627第一四巻八二頁
31「無学の弊恐る可し」18931006第一四巻一四七頁石河起筆?
7「銅像開被に就て(演説)」18931101第一四巻一七九頁
17「人生の楽事(演説)」18931114第一四巻一九五頁
39「国民の体格と配偶の撰択」18940407第一四巻三三六頁石河起筆?
33「国は唯前進す可きのみ」18960920第六巻三〇四頁『福翁百話』第六二話
21「活発なる楽を楽む可し」18970731全集未収録北川起筆
38「衛生の進歩」1898????全集未収録社説下書で非掲載?

判明した掲載日順に並べてみると、今まで気づかれなかったことが見えてくる。

先ず第一に、「衛生の進歩」はそれ自体としては紙上非掲載らしいことである。形式は社説の様式に則っていて、題名変更の可能性も考慮して探しているものの、平成三〇年七月現在当てはまる社説は見つかっていない。あるいは『修業立志編』が準備されていた頃合に掲載が見送られていた社説原稿が福沢の手元にあった、ということなのかもしれない。明治三一年(1898)四月一四日付『時事新報』広告欄には、「来る一六日発行」として「本書は福沢先生が明治一九年以来慶應義塾々生の為めにせられたる演説又は世の少年子弟の為めに立論せられたる論文」を集めたものである、とある。

第二に大正版への収録が見送られた「後進生に望む」(18880507)が昭和版になって復活していることである。この社説が編集部備え付けスクラップブックに入れられていたことは疑問の余地はないので、それを大正版編集時には石河は起筆者は福沢ではないといったんは判断した後、昭和版採録に際してまた福沢のものと思い直したこととなろう。

そして第三に福沢が脳卒中に倒れる五ヶ月前に刊行されている本書ではあるが、初出が判明している所収の社説・演説等は、最後の二編を除いて、発症を四年もさかのぼる日清戦争開戦前の発表であることである。戦後発表の二編についていうなら、「国は唯前進す可きのみ」は最初『福翁百話』の第六二話として明治二九年(1896)九月二〇日に、また、北川起筆とはっきりしている「活発なる楽を楽む可し」は明治三〇年七月三一日に紙上掲載されている。

かつて杉田聡は、『修業立志編』に対する「福沢の関与はおそらく弱い」(『福沢諭吉 朝鮮・中国・台湾論集』平成二二年一〇月・明石書店刊、三五一頁)と述べていたが、このようにしてみると、今のところ紙上掲載未確認の「衛生の進歩」を新たに加えたり、すでに『福翁百話』に収録されている「国は唯前進す可きのみ」の再録を許可したりと、かなりな介入ぶりがうかがわれる。本書には福沢以外が起筆した社説も含まれているのだが、収録を許した以上、いずれについても福沢は自分のものと認めているのは確かである。

にもかかわらず石河が本書を大正版に収録しなかった理由は、同時期に執筆の準備が始まっていた『福沢諭吉伝』中の福沢像と、『修業立志編』収録社説・演説等との内容上の齟齬に配慮したためではなかろうか。というのは、大正版「時事論集」中の石河執筆と注記されていた一四編の社説が日清戦争後の大陸積極策を強く支持する内容を有していたのに対して、本書にはそれに類する思想が一切見られないため、大正版「時事論集」を素材として書かれつつあった『福沢諭吉伝』にとって、『修業立志編』は不都合な存在であったと推測できるからである。

4.徳富蘇峰の福沢批判に小泉信三は『続福沢全集』を用いて応えた

さて、都倉「執筆名義」論文の主眼は、もともと福沢の論説には表面上「自家撞着」に満ちているのだから、論説相互にみられる矛盾をいちいちあげつらうのは無意味であるというところにある。この「自家撞着」という術語は、徳富蘇峰による明治二一年(1888)の発言「君が二十年間唱道したる所の議論をば、其著述したる所のものに就て、即ち西洋事情、学問の勧め、文明論の概略、分権論、民情一新、時事小言、近くは時事新報の社説に至る迄、細に之れを点検したらば、随分自家撞着も多かるべし」(「執筆名義」論文三七三頁)に由来している。

蘇峰はここで実際に福沢著作の自家撞着を指摘しているわけではなく、推量で「多いだろう」と言っているだけである。それよりも蘇峰の福沢批判としては、明治二一年から五六年を経た昭和一九年(1944)の発言のほうがはるかに重要である。当時蘇峰は言論の指導者として、進行中の「大東亜戦争」を翼賛するのに余念がなかった。(注9) そんな彼が雑誌『言論報国』三月号誌上の「蘇翁漫談」欄で福沢諭吉批判を行ったのである。蘇峰の戦時中の発言など今では省みられることもないと思われるので、その部分を全文引用する(原文には改行無し)。

それでもう一つで終わりたいと思ふが、福沢先生は伊藤とか、西園寺とか、陸奥とかいふ人よりも学者の大いなる看板を掲げ、大先生として三田の一角に拠つて隠然明治政府より一敵国視せられた人である。政党の人も彼を頼りにした人もあり、又怖かつた人もある。然し兎に角福沢先生は当時薩長政府に対して一番大いなる存在であつた。この点は実に先生は偉いと思ふが、然し西洋のことを無茶苦茶に輸入する点に於ては伊藤や陸奥なんかの比ぢやない。より以上のものである。彼は西洋のいいことを輸入するといふよりも、日本のことを悉く壊すといふ方針でやつて来た。福沢先生の破壊した力といふものは非常に大きなものであつた。福沢先生にいはすれば世の中は一切平等である。所謂楠公権助論の如きは余りにも世間に聞へてゐる。先生自身拝金宗でないにしても、拝金熱は先生によりて鼓吹せられた。福沢先生もその点に於ては板垣先生と同様に議論と人間とを比べてみれば、議論より人間は余程高尚な人であつた。又議論よりも人間は余程日本人であり、愛国者であつたと思ふが、議論だけは非常に困つた。福沢先生は功利主義といふものを理論の上でいふたばかりでなく、その実行、実現を皆に示してやつたために天下の人心は悉くそれに靡いた。日本の従来の良風美俗といふものをして全く地を払ふに至らしめた。私共は福沢先生に対して啓蒙運動をされたことについては非常に感謝するけれどもが、日本の従来の良風美俗をして地を払ふに至らしめたことについては福沢先生はまことに重大なる責任を持つて居られることと思ふ。

私は「新日本の青年」といふつまらない小冊子を書いて居ります。それを出版したのは明治二十年ですけれども、十七年から十八年にかけて書いたものである。その本は私は福沢先生を対象として書いた。実は福沢先生の議論に対する私の抗議を書いたものであります。福沢先生はさうでなかつたらうが、その弟子は所謂人種改良論などといふ本もつくり、拝金宗などといふ本もつくつて公然その方面に活動した。所謂支那人の言葉に「其の父仇を報ずれば其の子は劫を行ふ」といふ言葉がある。父が敵討をしてみせれば息子は斬取強盗をしてみせるといふ諺があるが、弟子の方は先生よりも相当下つたところまで落ちて行つたんぢやないかと思ふ。

この功利主義といふものが非常に盛んになつた。さうして福沢先生の最後の結着は独立自尊といふことになつてしまつた。独立自尊といふことは要するに個人主義を異つた言葉で説明したものである。それでこの思想といふものは非常に個人主義的である。独立自尊であるために例へば国家の大事でも自分に於ては何等頓着ない。今日の戦さでも誰が戦さをして居るか。まるで外の人が戦さをして居るといふやうなわけであつて、我々は何をして居るかといへばそれをただ眺めて居るといふだけである。皆竹林の七賢人のやうな考へを独立自尊のために持つやうになる危険がある。然し福沢先生は日清戦争のときには先んじて寄付金を出して居るといふやうな人である。自分は愛国心がある。若し先生が今日居られたらば先生は言論報国会の一大指揮者となられたであらう。然しいはれることは独立自尊である。独立自尊でやつて行く以上は愛国といふことなどとは縁が遠くならざるを得ないやうな結果になつて来た。(『言論報国』昭和一九年三月号六一、六二頁)

この福沢批判に敏感に反応したのが時の慶應義塾長小泉信三であった。なにしろ当時の世論をリードしていた『言論報国』誌上での福沢批判である。ことによっては憲兵や特高警察との不測の事態さえ覚悟しなければならない。そこで小泉は三月中に四百字詰原稿用紙にして三〇枚ほどもある反論を執筆して『言論報国』編集部に寄稿した。四月下旬に掲載不可の返事があったため、原稿を回収して今度は慶應義塾内の新聞『三田新聞』に載せたのである。その「徳富蘇峰氏の福沢先生評論について―先生の国権論その他―」(『小泉信三全集』第二一巻、昭和四三年(1968)一二月・文藝春秋刊、所収)は五月一〇日付の同紙五四六号にあって、冒頭に蘇峰のどの発言に反論するのかが示されている。

すなわち第一に、蘇峰が「彼(福沢)は西洋のいいことを輸入するといふよりも、日本のことを悉く壊すといふ方針でやつて来た」とする点、第二に「福沢先生其人は愛国者であつたが、その議論だけは非常に困つた」などとする点、第三に「独立自尊でやつて行く以上は愛国といふことなどとは縁が遠くならざるを得ない」とする点についてである。要するに蘇峰は明治の初頭にはすでにあった福沢批判を雑誌『言論報国』で蒸し返しているに過ぎないが、それに対する小泉の反論は、福沢の愛国心と大陸積極策を強調している石河幹明の『福沢諭吉伝』と『続福沢全集』に主として依拠することになったのである。

蘇峰より四歳年長の石河が八四歳の生涯を終えたのは、つい前年昭和一八年(1943)七月のことであった。彼が仕事場としていた慶應義塾構内の福沢先生伝記編纂所はその後塾史編纂室と名前を改められて弟子の富田正文に引き継がれ、さらに昭和五八年(1983)に大学の付置研究機関である福沢研究センターと改称されて現在に至っている。場所は大正一二年(1923)の開設以来赤レンガ造りの旧図書館一階西側から動いていない。

石河が終生蘇峰をライバル視していたことは伝記『福沢諭吉』(平成二〇年(2008)四月・ミネルヴァ書房刊)や『アジア独立論者福沢諭吉』に書いた。その一例として、大正一二年(1923)に『近世日本国民史』の業績を以て帝国学士院賞を受賞した蘇峰に倣って、石河は『福沢諭吉伝』で同賞の受賞を図ったのではないか、という推測を最初に示したのは谷沢永一(「偽装」『Voice』平成一六年一一月号所収)であった。こうした微妙な問題についての物的証拠や証言はないのが普通で、それは一種の伝説にすぎぬと言うこともできようが、ただひとつだけ確かなことがある。それは富田正文が現行版『全集』編纂の労をもって昭和四〇年(1965)に日本学士院賞を受賞したという事実である。

このようにしてみると蘇峰の批判に対して小泉が石河による伝記と全集、そしておそらくは石河の遺児ともいうべき富田の助言によって対抗したことで、逆に、第二次世界大戦後には左翼陣営による福沢批判に反論する手段をひとつ奪われてしまったことが分かる。小泉を始め慶應義塾関係者が戦時中は石河の立論にしたがって福沢の弁護をした以上、戦後にその根拠が危ういということを明言することはできなくなった、ということである。

敗色が濃厚になりつつあった昭和一九年(1944)五月に塾長の職にあった小泉にとって、先ず何より優先しなければならないのは、蘇峰ら戦争指導者たちの福沢批判から慶應義塾関係者の名誉を守ることだった。二年前に戦死した愛息信吉もその守られるべき塾員の一人である。反論は迅速に『言論報国』の読者に届けられなければならない。それがかなわぬなら慶應関係者にどのように反論するかを教えなければならない。それが塾長たる小泉にとっての使命だったのである。

この反論の最後の部分で、小泉はともかくこれだけは言いたい、と次のように述べている。

最後に福沢の教えを受けたものは愛国と縁が遠くなる云々の第三の点についていいます。これは簡単に申します。福沢の教えを受けたものといえば、私共の同窓の者は皆そうです。そうしてその中の幾千百の青壮年は今陸上海上空中において戦っています。そうして彼等は皆福沢先生の名を口にして襟を正すものですが、それ等凡べての者が非愛国者だと徳富氏は言われるのですか、まさかそんな事を言われるとは思いません。しかしこの一段の言葉は不穏当の嫌いがあると思います。取敢えずそれだけをここに申して置きます。(『小泉信三全集』第二一巻三八四、三八五頁)

おわりに

いかなる言葉も、その時々の状況に応じて発せられる。昭和一九年(1944)三月、乏しくなってきた用紙の少なからぬ分量を使ってまでして蘇峰が福沢批判を行った理由は、おそらく潜在的な親英米派の巣窟としての慶應義塾に対する牽制があったのだろう。国内に巣くう親英米派は打倒しなければならぬ。蘇峰が会長の職にあった大日本言論報国会はその同じ三月に「米英謀略撃砕思想戦全国講演会」を開催していることから、前年一二月の談話であるこの「蘇翁漫談」はその講演会と呼応している可能性がある。

中退したとはいえ蘇峰の母校である同志社もまた親米派の牙城ともいうべき学舎である。しかし彼は明治二〇年(1887)の『新日本の青年』で福沢批判者としてデビューを果たして以降、日清戦争後においては専ら、福沢とは逆に、自らのもつ卓越した語学力を西洋文明との対決のために費やしたのだった。「大東亜戦争」においても言論人として中心的な地位を占めていた蘇峰は、戦争終結後の昭和二〇年一二月二日にA級戦犯容疑者の通告をされ、国際検察局から巣鴨拘置所への出頭を命じられている。しかし高齢を理由に自宅軟禁へと措置は変更されて、蘇峰に代わって戦時期の代表的イデオローグとして東京裁判で訴追されたのは大川周明となった。

このようにしてみると、安川らによる「大東亜戦争」(アジア・太平洋戦争)のイデオローグとしての福沢の姿は、じつは徳富蘇峰の幻影だったということが分かる。蘇峰は戦争終結後十年あまりを生きたが、死を迎えてはもはやその存在など無にも等しいものとなっていた。もう一方の福沢は市民的自由主義者として復権を果たしたが、同時に、小泉が蘇峰への反論のために用いた石河の『福沢諭吉伝』と『続福沢全集』はそのまま残されることになった。そこにある、安川らによって批判されてきた社説に福沢本人が関与したという証拠はない。あるのは石河が不誠実な「仕事」をした、という事実だけなのである。(終)

注記:本文中の旧漢字は原則として新漢字に改めた。

脚注

(1)
『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(平成一八年(2006)七月・高文研刊)。なお、安川・杉田そして雁屋哲(漫画原作者)の三人による「福沢の引退を求める三者合同講演会」活動に関しては、安川編『さようなら!福沢諭吉』第五号(平成三〇年五月三一日発行)で「雁屋哲『マンガ・まさかの福沢』が意外に売れていないとのこと。杉田聡『福沢と帝国主義イデオロギー』も同様とのこと」(同書九一頁)と報告されている。
(2)
「研究文献案内―二〇〇七年から二〇〇八へ」(福沢諭吉協会『福沢諭吉年鑑』三五、平成二〇年一二月・同協会刊、所収)。
(3)
『福沢諭吉朝鮮・中国・台湾論集』(平成二二年一〇月・明石書店刊)「解説」。
(4)
「時事新報論説研究をめぐる諸問題」(青木功一著『福沢諭吉のアジア』平成二三年(2011)六月・慶應義塾大学出版会刊、所収)。
(5)

中上川彦次郎主筆兼社長の後を受けて総編集となった伊藤欽亮の遺稿集『伊藤欽亮論集』(昭和五年(1930)三月・ダイヤモンド社刊)の下巻巻末は、明治二〇年(1887)から明治二八年(1895)までの間伊藤の下にいて編集部に詰めていた記者たちの思い出話集になっている。そこには、社説は福沢と社説記者たちが輪番で担当していた、とある(柳荘太郎の証言・付録七九頁)。また、「福沢先生は自分の新聞であるから毎朝隅から隅まで目を通し、文字の末まで見落されない。そして社に出て来ては紙面の評論をされる」(同八一頁)ともあって、福沢が社説のほとんど全部に目を通したというのは、掲載前ではなく、掲載後のことなのではないか、という印象がもたれる。

新聞の命は速報性であるため、福沢の許可がなければ製版に回せない、などという不文律があったとしたら、生きのいい紙面を作ることなどは不可能である。伊藤の論集に掲載されている思い出話を総合して記述するなら、新聞印刷までの日々の流れは次のようなものであった。すなわち、伊藤ら新聞社の幹部は昼頃出社し、夕方までその日に入ってくるニュースの様子をうかがい、その後の編集会議で方針を決定、割付をして紙面を完成させてから階下の組み版印刷部に回してゲラ刷りを出し、校正を終えて本刷りを開始する。と、オンライン化される前の、およそ三〇年前までの新聞社の様子そのもので、一連の制作の過程に、福沢が直接関与できたことは多くなかったようである。

もちろんオーナーである福沢自らが、向こう数日間に掲載予定の社説原稿を検閲することもあったであろう。しかし当日事態がどうなっているかは誰にも予見できないわけで、政治状況の変化や突発的事件の発生によって、予定されていた社説が掲載差し止めとなり、編集部にいた記者によって急遽社説が書かれることも、稀ではなかったと推測できる。こうした社説の差し替えは、総編集以下編集会議に出席していた幹部の合意によってなされていたと考えられる。

このように日々の新聞制作の実態を、石河以外の人々の証言に基づいて描いてみると、カテゴリーⅣ(福沢無関与)の社説は相当数あった、そうでなければおかしい、というのは明らかである。ところが、福沢批判者である安川らはもとより、福沢を全体として肯定的に評価している竹田行之・川崎勝・平石直昭そして都倉まで、カテゴリーⅣ社説を想定しないことで『時事新報』社説は全て福沢の思想の内にある、と考えているようである。しかしそれでは、日清戦争後の新聞の論調と、同時期の福沢の署名著作やカテゴリーⅠ(福沢真筆)社説との内容上の齟齬の説明がつかなくなる、ということを、私は『福沢諭吉の真実』(一七七頁)で指摘して以降、機会あるごとに表明しているのであるが、誰からも説得的な回答は得られていない。石河証言の虚偽を認めさえすれば、すべてがすっきりと理解できると私は考えている。

(6)
この見解は先行する論文「時事新報論説研究をめぐる諸問題」(青木功一著『福沢諭吉のアジア』平成二三年(2011)六月・慶應義塾大学出版会刊)で、都倉は時事新報論説を類別するにあたり、『福沢諭吉の真実』で私が採用した四類型ではなく、三類型をとっている(青木著作四五三頁)。すなわち、福沢がまったく関与していない、私の区分ではカテゴリーⅣの論説を想定していないわけで、その根拠は、「福沢は長期旅行などの際も周到に準備をして出掛け、旅先でも郵送や使者によって校閲の労を執っていたとされるため、脳溢血で倒れる一八九八年九月まで、福沢が目を通さなかったことはほとんどないといわれている」(四五三頁)にあると考えられる。社説掲載にあたっては、最低でも福沢の事前検閲があったのだから、まったく無関係の社説は存在しない、ということであろう。しかし、この石河幹明著『福沢諭吉伝』第三巻二五六頁に由来する記述については、相当に怪しい点がある。簡単に言えば、石河以外の誰も毎日の社説を事前に検閲する福沢の姿など目撃していないのである。
(7)
最近の論説でも都倉は「福沢が脳卒中で倒れる一八九八年まで、社説の方針を主導していたことは書簡に明らかである」(「「福沢諭吉と朝鮮問題」の今後―月脚達彦著『福沢諭吉と朝鮮問題』を契機として―」『福沢手帳』一七七、平成三〇年(2018)六月・福沢協会刊、四頁)とする。この「書簡」とは明治二九年(1896)以降の石河宛数通のことであろうが、私はそれらを福沢が社説を「時々立案」(『福翁自伝』「時事新報」の節)していた証拠としてしか見なしていない。もし日清戦争後も社説に関与し続けていたなら、新聞から「段々遠くなって」とは言わないのではなかろうか。
(8)
社説題名の後の括弧内の数字は掲載年月日(社説番号)を示す。
(9)
徳富蘇峰は昭和一七年(1942)から同二〇年まで存在していた大日本言論報国会の会長だった。その機関誌『言論報国』のモットーは「指導者の指導誌」というもので、言論人蘇峰による戦争指導が活動の目的だった。戦後のGHQによる対応は日本の知識人の戦争責任に関して比較的甘いものであったが、大日本言論報国会だけは通常の文化統制団体とはみなされず、超国家主義・軍国主義の団体として解散を命じられ、その理事は公職追放令のC項パージの対象とされた。市川房枝の公職追放は同会の理事であったために起きた(赤沢史朗著『徳富蘇峰と大日本言論報国会』平成二九年(2017)四月・山川出版社刊「知識人の戦争責任」の項を参照)。