福沢諭吉と西田幾多郎
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平山氏からの依頼により、2019年10月12・13日に米国ハワイ州ハワイ大学マノア 校で開催された International Association of Japanese Philosophy(IAJP)での発表 "Yukichi Fukuzawa and Kitaro Nishida"の日本語原稿 「福沢諭吉と西田幾多郎」を、平山氏の了解のうえアップロードします。
本文
福沢諭吉と西田幾多郎
① 浄土真宗門徒の家庭に生まれた福沢と西田
福沢諭吉(1835~1901)と西田幾多郎(1870~1945)という、この発表の表題を目にした皆さんは、比較の対象の意外性を感じたことと思います。しいて言うならば、二人とも19世紀の日本に生まれた大学の先生という程度の共通点しかないように見えるからです。
福沢は明治維新より30年も前の江戸時代の生まれで、武士階層の出身、西田は維新後の生まれで庄屋階層の出身ということから始まって、共通点を見つけだすのが難しいくらいです。しかし、思ってもみないような共通点があるのです。
その共通点とは、ともに浄土真宗という日本仏教の門徒の家庭に育った、という事実です。著述の中ではこの二人とも、自分自身では、自分の思想と浄土真宗という信仰とは深い関係はない、と言っています。
でも、それは本当でしょうか。二人とも幼少時から真宗の法会に出席して、菩提寺の僧侶の説法を聞いていたのです。自分では影響を受けていないと思っていても、知らないうちにその心に深く刻印されている、ということはないでしょうか。
この発表は、一見無関係に見える二人の思想の、根底におけるつながりを明らかにすることを目的にします。
②日本仏教における浄土真宗について
聴衆の中には仏教についてよくはご存じない方もいると思うので、まずごく簡単にその説明をします。仏教は紀元前5世紀ごろインド北部にあった王国の国王であったシャカによって開かれました。彼は厳格な身分差別に基づくバラモン教のありかたに疑問を抱き、現世における絶対的な無差別を説くとともに、その理想へといたる心の修養を教義の根本に据えました。
この初期の仏教は小乗仏教(上座部仏教)といって、現在のミャンマー・タイ・ベトナム南部・スリランカなどに広まりました。この仏教に大きな教義上の変更が加えられたのは紀元前後のことで、それを大乗仏教と呼びます。この大乗仏教は個人の救済だけではなく人類全体の救済を目指すようになります。大乗仏教は紀元後から中国・朝鮮・ベトナム北部へと広まります。日本に伝えられたのは6世紀の初めのことです。
日本に伝えられた仏典はサンスクリット語の原典ではなく、漢訳仏典でした。中国ではすでに紀元前から儒教が政治思想として採用されていましたから、日本に輸入された仏教は、もともと儒教化された仏教といってよかったわけです。
紀元後9世紀までの中国・朝鮮・日本ではこの儒教化された仏教によって国家が運営されましたが、中国・朝鮮では仏教はやがて衰退していきました。ところが日本でだけは大乗仏教が生き残り、現在なお日本人の90%以上は大乗仏教で葬儀を執行しています。
福沢家・西田家がともに信仰していた浄土真宗も大乗仏教の一派で、13世紀の初頭に親鸞によって開かれました。この信仰もまた他の大乗諸派と同様全人類の救済を目指していて、そこでの救済は一心にアミダ仏(シャカの師)を信じることにより、死後は必ず極楽浄土に再生するという教えである、と説明されています。これを「絶対他力」による「成仏」と言います。
親鸞の教えは主として日本の近畿地方から中部地方にかけて広まりました。西田家があった石川県は15世紀には「門徒領国」(浄土真宗門徒が支配する土地)と呼ばれていたほどです。一方の福沢家は九州大分県が本拠でしたが、その祖先は17世紀初頭まで信濃国(長野県)にいたことがはっきりしています。おそらく福沢家の信仰は信濃以来のものなのでしょう。
次に福沢と西田の思想に見られる浄土真宗からの影響を西田・福沢の順に明らかにします。年代の順としては逆になるのですが、理解するためには西田についで福沢について説明するほうが理解しやすいと思われるからです。
➂西田哲学における浄土真宗
西田幾多郎は1870年に裕福な庄屋の家に生まれました。庄屋というのは近隣の農家を統率する家のことです。したがって前近代の身分制によれば農民身分ではありますが、自分で農業を営むことはなかったようです。
西田の生家は真宗の寺院の隣でした。母親は熱心な門徒で、親鸞の後継者である蓮如の『御文章』を彼に読み聞かせました。その中にはいわゆる「白骨の章」という文章があります。浄土真宗では葬儀の時に必ず読まれる蓮如の手紙の一節です。
(死んだ後遺骸を・平山註)いつまでもそのままにしておけないので、野辺送りにして火葬にすれば、夜中に立ち上る一条の煙となり、ただ白骨だけが残される。あれだけ必死にかき集めたお金も財産も何一つ持って行くことはできない。これでは一体何の為の人生であったのか。人はこれを哀れというが、むしろおかしなことではないか。人生を最後まで見通すとこういうことになるのである。(蓮如『御文章』「白骨の章」の一節)
経済的には豊かな家庭に育ったとはいうものの、西田は妻や子に先立たれるという不幸に見舞われています。これは、経済的に貧しい家庭に育ちながら、幕府内で出世を果たして裕福な家の出の妻をめとり、9人の子をなして全員が成人するという当時としては稀有な家庭的円満を実現させた福沢とは対照的なありかたです。
ともかく肉親との別れを多く経験しなければならなかった西田には、死とどのように向き合うかという問題意識が常にありました。そのよすがとなるのが宗教です。一般に西田哲学は「純粋経験」「自覚」「場所」「絶対矛盾的自己同一」の四つの時期に区分されます。そしてそのどの時期においても宗教は学問道徳の根本と考えられています。
西田が特に宗教に関心をもち、それについて深く考察したのは前期の『善の研究』(1911 年)と中期の『一般者の自覚的体系』(1930 年)と晩年の「場所的論理と宗教的世界観」(1945 年)においてです。今は詳しく述べることはできませんが、宗教に対しての態度は次の三点で一貫していると思われます。
まず(1)として、宗教を主として倫理との関連で考え、宗教を倫理の極限と考えていることです。たとえば『善の研究』とは、その表題をそのまま理解すれば、『倫理学』と同じ意味となりましょう。しかし、『善の研究』において倫理学の部分は第三編で扱われているにすぎず、結論部は宗教が主題となっています。つまり倫理は宗教に包摂されるというのがその真の目論見であったと考えられます。
ついで(2)として、宗教は価値の問題ではなく自己という存在の根拠の問題であると考えていることです。いいかえれば宗教は「いかに生きるか」の問題ではなく、「なぜ自分は存在するか」の問題と考えていることです。哲学の立場としては、その問題を宗教と切り離して考察するありかたも考えられますが、ともかく西田は、「なぜ自分は存在するか」という問題を宗教の問題と考えたのです。
さらに(3)として、宗教は個人と超越者との関係の問題であり、具体的には両者の同質的関係あるいは相即的関係の問題であるとするところです。個人(すなわち被造物)と超越者(すなわち造物主)が同質であるとは一般の一神教では考えないのですが、西田の発想の根本には仏教があるため両者に質的な違いを想定しません。
こうした基本的な部分を押さえたうえで、西田の根本概念と真宗について具体的に述べている部分を引用しましょう。まず『善の研究』に付されている「知と愛」は、純粋経験とは結局のところ宗教的絶対者の顕現だったという全編の結論が開示された後に、念押しとして置かれたエッセイです。
学問も道徳も皆仏陀の光明であり、宗教という者は此作用の極致である。学問や道徳は個々の差別的現象の上に此他力の光明に浴するのであるが、宗教は宇宙全体の上に於て絶対無限の仏陀其者に接するのである。(中略)「念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」とかいう語が宗教の極致である。(『善の研究』「知と愛」)
この引用の冒頭にある学問というのは『善の研究』の第一編「純粋経験」と第二編「実在」のことを、道徳というのは第三編「善」のことを具体的には指しています。学問も道徳もブッダの教えの作用である、というのがこの時点での西田の結論といっていいと思います。
ではこの考えは晩年になってどのように変わったのか。1944年12月23日(すなわち死の半年前)の務台理作宛書簡に注目するべき記述があります。
場所的論理には個と一般とが何処までも相互否定的に対立する、即ち仏(ノエマ的)と自己(ノエシス的)とが何処までも絶対に対立すると云うことが含まれて居る。而も場所の自己限定として我々が仏陀の光明(Gottheit)に摂取せられる、否せられて居る所に場所的論理こそ真に浄土宗的世界観を基礎付けるものとおもいます。(1944年12月23日付務台理作宛書簡)
ここで西田は浄土宗的世界観すなわち『善の研究』の立場を包摂するするものとして場所的論理を主張しており、浄土宗的世界観だけでは捉えきれない残余の部分を想定していることがわかります。
その残余とは、仏教以外の全宗教のことです。『善の研究』の時点での西田は一神教(端的にはキリスト教)のことをよく理解していなかったため、キリスト教をも仏教の一派のように記述していましたが、その後の約30年の研鑽のすえ、一神教と仏教の両方を基礎づける場所的論理の立場に至った、ということなのです。
④福沢思想における浄土真宗
西田哲学と浄土真宗との関係はこれくらいにして、次に福沢の思想と真宗の関係について話を進めましょう。福沢は西田より35歳年長で、ちょうど親子ほどの年齢差です。江戸時代の身分も違っていて、先にも触れたように、下級の武士階層の出でした。
おそらくは浄土真宗門徒の家庭に生まれたところだけが共通点で、『福沢全集緒言』には、「兄が朋友と何か文章の事を談ずるその談話中に、和文の仮名使いは真宗蓮如上人の御文章に限る、是れは名文なり云々と頻りに称賛する」とあります。福沢一家は「白骨の章」のこともよく知っていたはずです。
実際福沢の晩年の文章には、「白骨の章」と呼応するような内容をもつものがあるのです。『福翁百話』の第十話「人間の心は広大無辺なり」、通称「人生蛆虫論」です。
人生は見る影もなき蛆虫に等しく、朝の露の乾く間もなき五十年か七十年の間を戯れて過ぎ逝くまでのことなれば、我一身を始め万事万物を軽く視て熱心に過ぐることあるべからず。生まるるは即ち死するの約束にして、死も亦驚くに足らず。況んや浮世の貧富苦楽に於てをや。(『福翁百話』の第十話「人間の心は広大無辺なり」)
いうまでもなく福沢は日本の近代化の立役者で、明治維新後は政府には入らなかったものの、日本を経済大国にするべく邁進した功利主義者であると一般には考えられています。その基本線はその通りで、私も賛同するのですが、一方でこのような諦観に満ちた小編も書いているのです。私は、福沢について重視されてこなかったこうした側面は、家の宗旨である浄土真宗に由来していると考えます。
ただ、西田の場合とは違って、福沢には浄土真宗への全幅の信頼といったものはありません。1840年代に福沢が触れていた九州地方の浄土真宗は、1870年代に西田が深く関わっていた北陸地方のそれとは様相を異にして、どうやら聖職者の腐敗が進行していたらしいのです。また、明治維新後の福沢は真宗の聖職者が世襲制であることにも疑念を抱いていました。
福沢は1882年10月20日付の『時事新報』に「真宗の命運久しからず」(全集未収録)において、次のように述べています。
唯其仕組(浄土真宗・平山註)の當代の文明に不適當なるは本山大谷家は勿論其門末の各寺院に至るまで法を世襲するの一事なり。父子の間に血脉は以て傳ふ可き法は以て傳ふ可らざること古來人の熟知する所にして、必ずしも文明の光に照らして後に知るに非ざるなり。親鸞が此宗派を起したるは鎌倉北條の時に在りて所謂世祿封建の時節なりしを以て、法の世襲も或は人心に適應し遂に德川の世を終るまで武門の世祿と共に之を存續し得たることならん。然るに文明の歴史は武士の威力をも恐れず維新の一新世祿の大名藩士を一掃して又其傷跡を留めざるなり。(「真宗の命運久しからず」『時事新報』1882年10月20日)
このように福沢は浄土真宗の運営方法に不満を抱いていたのですが、それでも最後まで門徒としての立場を捨てることはありませんでした。仏事をないがしろにすることはなく、お墓も麻布の善福寺という浄土真宗のお寺にあります。
また、私が調べたかぎりでは、福沢は真宗の教義が悪い、とは言っていないようです。だからこそ多くの外国人キリスト教宣教師と交流をもち、おそらくは入信を勧められたであろうのに、ついにキリスト教徒とはなからなかったのも、究極的には真宗を信じていたから、という以外にはないように思われます。
もともと真宗は農民のための宗教ということができます。農作業の決まり切った日常のうちでは成仏を約束する善行もままならないため、アミダ仏に恥じない生活を日々送ったうえで名号「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば極楽往生が決定する、というのがその教えのもっとも重要なところです。
福沢は武士身分の出ですから、必ずしもそうした真宗の教えに囚われる必要はなかったのでしょう。門徒として仏事は欠かさなかったものの、それ以上信仰の道に深入りすることはありませんでした。豊かではない家庭環境にあったせいか、むしろ経済的な成功はいかにしてもたらされるかに関心があったのです。
福沢家の当主は代々中津藩の下級職員として財政に関与していました。具体的には大坂蔵屋敷に集積される藩の年貢米を市場で有利な条件で売ることを本務としていました。この職は日常的に米商人たちと接触する役職で、福沢が、武士身分でありながら商売人に偏見をもっていなかった一つの理由であったようです。
要するに福沢家当主の代々の仕事は中津藩の米を売却するという一種の商人であったのに対して、西田家当主の代々の仕事は、金沢藩向けの年貢米の納入を代行する仲介者の役目がその一つでした。福沢の関心が結局はビジネスに向かい、体を動かす仕事をしたことのない西田の労働理解がどこか浮世離れしたものであったのは、彼らそれぞれの育ちの差によっていたと考えられます。
福沢の立場はよく「マンモリズム」(拝金宗)といささか批判的に称されます。ところがこの称号は彼への批判者によって作られたのではなく、愛弟子の高橋義雄によって唱えられはじめたのでした。
この拝金宗は、守銭奴とは違います。一身の独立から一家の独立、一家の独立から一国の独立へと向かうべきだ、という彼の主張は、金銭的な余裕があってこそ立派な振る舞いができる、ということを主唱したものです。衣食足って礼節を知る、とはこのことで、より重要な、立派な振る舞いの根底には浄土真宗の教えがあったと考えられます。
そうしたわけで『福翁自伝』は拝金宗とは無縁の三つの希望が語られたところで閉じられています。その三つの希望とは、第一に、日本人の品位、とりわけ男女交際を高尚にして、文明の名に恥じないようにすること、第二に、穏健な宗教によって民心を和らげ、国内を平穏無事にすること、第三に、純粋にアカデミックな研究所を設立して、そこに優れた研究者を集めること、の三点です。
私の生涯の中にでかしてみたいと思うところは、全国男女の気品を次第次第に高尚に導いて真実文明の名に恥ずかしくないようにすることと、仏法にても耶蘇教にてもいずれにても宜しい、これを引き立てて多数の民心を和らげるようにすることと、大いに金を投じて有形無形、高尚なる学理を研究させるようにすることと、およそこの三カ条です。(『福翁自伝』「人間の欲に際限なし」)
この三つの希望のうち、第一は、『日本婦人論』、『男女交際論』、『日本男子論』そして遺作『女大学評論、新女大学』などの著作が、とりわけ女性の読者を獲得したことによって、第二は、『福翁百話』と『福翁百余話』が広く読まれたことによって、また、第三は、医学者北里柴三郎が設立した通称北里研究所を支援することによって、いくらか実現されたのでした。
⑤まとめ―福沢と西田の共通点と相違点について
では福沢の思想と西田の哲学について、その共通点と相違点についてまとめます。まず共通点については三点指摘することができます。
まず共通点の第一は、ともに浄土真宗の家に生まれたために、意識するとしないとにかかわらず、その宗旨の根本にある日常生活でアミダ仏に恥じない生活を送る、という様式を守っていたことです。
また共通点の第二は、ともに人間にとって最重要なのは精神文明ともいうべきもので、物質文明はいわば二次的な価値しか持たないと考えていたことです。
また共通点の第三は、ともに人間はまず個として存立すると考え、その集合体として全体があるとしていた点です。これは哲学的にせよ政治的にせよ全体主義とは真逆の考え方で、そこに立脚しているがゆえに、福沢も西田も社会主義に批判的な立場をとっていたのでした。
こうした共通点に対して相違点も三点指摘できます。
まず相違点の第一は、福沢が宗教の根本にはまず倫理があると考えたのに対して、西田は倫理の根本に宗教があるとしていたことです。この点からみると、西田は真の意味で信仰者であったのに、福沢は何らの信仰心ももっていなかった、という評価も可能となります。
ついで相違点の第二は、福沢にとって宗教は生活の一部であったのに対し、西田にとっては生活のすべてが宗教の内にあったということが指摘できます。福沢にとってなにより重要なのは、立派な振る舞いをするために経済的な基盤を築く、ということでした。これは個人だけでなく国家についても言えます。一方西田にとっては宗教がすべてなので、そこから経済的独立というような発想は出てこなかったのです。
そして相違点の第三は、福沢は浄土真宗の宗旨を捨てなかったにせよ、最終的には普遍宗教ともいうべきものを追求した(『福翁自伝』1899年)のに対して、西田は『善の研究』(1911年)の時点では浄土真宗をとくに重視していたようには見えないのに、最晩年には仏教のうちでもその宗旨を重んじるようになっていたことがあげられます。
浄土宗的世界観などという用語は、初期の西田の文献には見られないものです。福沢にとっての浄土真宗の持つ意味は生涯を通じて一貫して逓減していったのに、西田にとってはむしろ後半生になって重要度が増しているように見えます。これは真宗系の哲学者である清沢満之との交流が深まっていったことが背景にあるのかもしれません。
以上が福沢諭吉の思想と西田幾多郎の哲学の比較の概略です。 (本文終)