福沢諭吉と朴泳孝

last updated: 2019-05-22

このテキストについて

平山氏の依頼により、2019年5月18日に大韓民国全羅北道全州市全北大学校で開催された韓国日本近代学会での発表「福沢諭吉と朴泳孝」の要旨をアップロード します。

なお平山氏より次のようなメールをいただきました。平山氏の許可のもと引用 します。

大会では基調講演「いま、『金大中・小渕恵三共同宣言』を考える」を 担当された元駐日大韓民国大使崔相龍(チェサンヨン)氏と翌日の 全羅北道での東学党の乱史跡探訪をご一緒することができ、親しくお話しする機 会を 得ました。東京大学法学部の坂本義和門下で高麗大学校名誉教授でもある氏は、 政治学者として、現実政治における中庸の重要性を強調していました。リベラリ ズムを 旨とする崔氏と私とは政治的な立場は異なるのですが、現実の場において、中庸 への 志向ともいうべき、何らかの歩み寄りへの努力が必要という点では意見を同じく している と感じました。

発表要旨

日本近代の思想家福沢諭吉(1835年~1901年)と朝鮮開化派の指導者朴泳孝(1861年~1939年)の交流についてはすでによく知られている。

1882年9月に修信大使として初来日した朴は早い時期から福沢の思想に心酔していた。帰国後の1883年2月に漢城府判尹、同年4月に広州府留守となった。1884年12月の甲申政変では金玉均とともに指導的役割を担ったが、失敗して日本に亡命した。潜伏期間中には福沢邸に滞在してその思想を学び、1888年2月に改革建白書を執筆した。

この改革建白書は開化派の改革構想として有名であり、その内容と福沢の思想との連関についてはすでに青木巧一による詳細な研究がある(『福沢諭吉のアジア』Ⅲ「福沢諭吉と朴泳孝」・2011年慶應大学出版会刊)。その要点とはすなわち、改革建白書の内容は福沢の『西洋事情』(1866年)・『学問のすすめ』(1872年)『文明論之概略』(1875年)での提言を朝鮮の実情に当てはめたものだということである。この建白書が実際に高宗に提出されたのかどうかは明らかではないが、発表者は、福沢の弟子としての朴が一種の卒業論文として福沢に提出した文書であると考える。というのは、この建白書が始めて知られたのは1894年7月中旬の日清戦争直前の時期であり、外務省の記録では外務次官林董が某氏から借覧したとあるからである。林の長女菊は福沢の次男捨次郎に嫁いでいて、両者は近しい親戚同士だった。福沢は朴による建白書を朝鮮の内政改革のための素案とするべく日本政府に提供したのではなかろうか。

朴は甲午改革の開始と時を同じくして帰国、12月に第2次金弘集内閣の内部大臣に就任して、建白書の内容の実現のため邁進したが失敗、翌年7月には再び亡命することになった。さらに12年後の日露戦争後には宮内府大臣となるも大臣暗殺陰謀の疑いで済州島に流罪となった。1910年の韓国併合後には侯爵(朝鮮貴族)となり、朝鮮貴族会会長(1911年)、朝鮮経済会会長(1919年)、朝鮮移民会会長(1919年)、東亜日報社初代社長(1920年)、朝鮮人産業大会会長(1921年)、朝鮮倶楽部の発起人(1921年)、京城紡績社初代社長、朝鮮殖産銀行理事、朝鮮総督府中枢院顧問(1921年)、東光会朝鮮支部初代会長(1922年)、貴族院議員(1932年)など、日本統治下の朝鮮における要職を歴任した。

この経歴を一瞥すると、併合後の朴泳孝は典型的な親日派であって、当初の朝鮮独立の志士としての気概を失ってしまったようにも見える。しかし発表者は、後半生における彼の活動が全く無意味だったとする見解には同意できない。確かに当初の志とは違って大韓帝国は独立を維持することはできなかったが、日本統治下の朝鮮においても、建白書の内容は幾分かは実現され、それによって朝鮮人各人の経済的独立は実現可能となっていたからである。

本発表では、朴泳孝の改革建白書における提言が日本統治下朝鮮でどこまで実現されたかを明らかにすることから、経済人福沢諭吉の弟子たる経済人朴泳孝の実像に迫りたい。

資料

第39回韓国日本近代学会国際学術発表大会

2019年05月18日・於韓国全羅北道全州市全北大学校

福沢諭吉と朴泳孝

静岡県立大学 平山 洋

① 日本近代の思想家福沢諭吉(1835年~1901年)と朝鮮開化派の指導者朴泳孝(1861年~1939年)の交流についてはすでによく知られている。

1882年9月朴修信大使として初来日、福沢に心酔。1883年2月漢城府判尹、同年4月広州府留守。1884年12月甲申政変に失敗して日本に亡命、一時福沢邸に寄宿。1888年2月改革建白書執筆。1894年7月日本外務省が入手。

②改革建白書に関する先行研究:青木巧一『福沢諭吉のアジア』Ⅲ「福沢諭吉と朴泳孝」2011年慶應義塾大学出版会刊。

改革建白書の内容:福沢の『西洋事情』(1866年)『学問のすすめ』(1872年)『文明論之概略』(1875年)での提言を朝鮮の実情に当てはめたもの。

③朴泳孝改革建白書の骨子:

Ⅰ 国際情勢:ロシアや英国の勢力に囲まれたわが国は、民心を引き付けることで国力を充実させないと独立は維持できない

Ⅱ 法律を明確にして恣意的な裁判をしないようにする:文明政治の第1条件(福沢『西洋事情』)由来

  • 1 裁判官の独立の明確化
  • 2 残酷刑の廃止
  • 3 集団罰の廃止
  • 4 罪刑法定の原則
  • 5 拷問の禁止
  • 6 裁判の公開
  • 7 懲役刑の創設
  • 8 警察官2万人の雇用
  • 9 私刑の禁止
  • 10 上位身分が下位身分へ暴行することの禁止
  • 11 契約の明確化
  • 12 墓地の明確化

Ⅲ 経済政策の重要性について:文明政治の第5条件(福沢『西洋事情』)由来

  • 1 売官の禁止
  • 2 君主の給与を定める
  • 3 官吏の粛正
  • 4 戸籍の創設
  • 5 各戸を統制する法を作る
  • 6 地租改正
  • 7 度量衡の確定
  • 8 外国人への土地売買の禁止
  • 9 無業者への報酬の禁止
  • 10 税負担の軽減
  • 11 新農法の導入
  • 12 羊の飼育による産業育成
  • 13 畜産業の奨励
  • 14 工商業の育成
  • 15 漁業の奨励
  • 16 狩猟業の奨励
  • 17 山林の保護
  • 18 河川管理の徹底
  • 19 水利の管理
  • 20 道路橋梁の維持管理
  • 21 公共工事への民間参入の許可
  • 22 荒涼地の開拓
  • 23 鉱山開発の奨励
  • 24 金銀銅貨の鋳造
  • 25 私的貨幣改鋳の禁止
  • 26 恣意的改鋳の禁止
  • 27 銀行設立
  • 28 政府による利率制限
  • 29 郵便事業の再開
  • 30 港湾事業の再開
  • 31 商社設立・貿易の奨励
  • 32 運輸会社設立の奨励
  • 33 ソウルの外国人による市場の廃止
  • 34 街灯の設置
  • 35 夜間外出禁止の撤廃
  • 36 政府による物価統制の禁止
  • 37 買い占めの禁止
  • 38 朝鮮人参流通拡大による外貨獲得の奨励
  • 39 平安道と咸鏡道での林業拡大
  • 40 中国や日本の教師を雇用して商品の品質を向上させる
  • 41 宿泊施設・服飾店・食堂を盛んにする
  • 42 債務は債務者からのみ回収する
  • 43 売買規則を制定する
  • 44 納税の義務意識の涵養

Ⅳ 人民の健康増進策:文明政治の第6条件(福沢『西洋事情』)由来

  • 1 公立病院に良医を雇用する
  • 2 伝染病が蔓延しないようにする
  • 3 救貧院の創設
  • 4 孤児院の創設
  • 5 自殺自傷の禁止
  • 6 堕胎の禁止
  • 7 子孫の陰嚢除去の禁止
  • 8 夫による妻への暴行禁止
  • 9 家庭内暴力の禁止
  • 10 幼少結婚の禁止
  • 11 アヘン吸引の禁止
  • 12 疫病には近代医療で対応し占い師を用いない
  • 13 種痘の奨励
  • 14 糞尿の再利用
  • 15 市街地の区画整理
  • 16 防火設備の設置
  • 17 街路樹の植樹
  • 18 水道の設置
  • 19 公衆浴場の設置

Ⅴ 軍事力の増強:19世紀末朝鮮の国内的問題(日本では1840年代に提起)

  • 1 士官学校の設置
  • 2 軍事予算の適正化
  • 3 軍の統制を確立する
  • 4 軍法を制定する
  • 5 募兵方法・就役年限の改定
  • 6 海軍の再興
  • 7 兵器の維持管理強化
  • 8 常備軍の設置
  • 9 咸鏡・平安両道から募兵し清国の進出に備える
  • 10 軍人遺族慰撫金の制定と慰霊施設の設置

Ⅵ 教育政策による民度の向上:文明政治の第1、第4条件(福沢『西洋事情』)由来

  • 1 小中学校の設置
  • 2 壮年学校の設置
  • 3 国史国語国文教育の義務化
  • 4 外国人教師による法律・財政・政治・医術・究理等の教育
  • 5 活字の鋳造・製紙・印刷技術の導入により書籍を量産する
  • 6 博物館の設置
  • 7 演説の奨励
  • 8 外国語教育の奨励による交流の拡大
  • 9 新聞発刊の奨励
  • 10 信仰の自由の確立

Ⅶ 政治の公正化による官民の調和:文明政治の第2条件(福沢『西洋事情』)由来

  • 1 国王による親裁の制限と主務大臣制の確立
  • 2 有能な宰相の登用
  • 3 王族の尊厳神聖化
  • 4 各部職掌の厳正化
  • 5 高級官僚による統治
  • 6 地方自治体の合併拡大
  • 7 勲功は爵位と財貨で行い官位で行わない
  • 8 外国人に官位を与えない
  • 9 官吏の服喪期間の縮小
  • 10 四色間での通婚の許可
  • 11 地方官・裁判官の任用は人望によるようにする
  • 12 地方議会の設置
  • 13 清国・ロシア・米国・日本との友好関係を重視し、英・独・仏などとも交流する
  • 14 外交は信頼を基礎として条約は必ず守るようにする
  • 15 外交に関して主権の毀損がないようにする

Ⅷ 人民に自由を与えて民力を向上させる:19世紀末朝鮮の国内的問題

  • 1 蓄妾の禁止・寡婦再婚の許可
  • 2 身分間の婚姻の自由と身分によらない昇進の実現
  • 3 輿の禁止と馬車等使用の奨励

④朴泳孝改革建白書と福沢諭吉の思想との類似性:とくにⅢとⅥに福沢の著作(『西洋事情』『学問のすすめ』『文明論之概略』)との著しい類似が見られる。その他の項目についても福沢著作に同様の指摘がある。

朴亡命前に『時事小言』(1881年)が出版されているが、その影響は限定的に見える。当時の朝鮮の現状は『西洋事情』『学問のすすめ』『文明論之概略』の段階に至っていないと判断したのか。

⑤実業人としての朴泳孝:韓国併合(1910年)当時、朴は済州島に流刑されていた。併合後は朝鮮総督府中枢院副議長となり朝鮮人として最有力者となる。併合により建白書のⅤとⅦはまったく不可能となったが、ⅢとⅥについてはその実現を図るべく実業人としての活動は続けられた。

朝鮮経済会会長(1919年)、京城紡績社初代社長(1919年)、朝鮮殖産銀行理事(1919年)、東亜日報社初代社長(1920年)、朝鮮人産業大会会長(1921年)、朝鮮倶楽部の発起人(1921年)として民族資本の増強に貢献した。朴泳孝の活躍は、後継者というべき金性洙の活動(高麗大学校設立)とも合わせれば、日本統治下朝鮮における福沢諭吉の再来といってよいものである。

音声ファイル