福沢健全期『時事新報』社説における陸軍論
このテキストについて
平山氏の依頼により、2021年5月22日(土)に韓国釜山東義大学校を本部としてオンラインで開催された第42回韓国日本近代学会国際学術大会での口頭発表「福沢健全期『時事新報』社説における陸軍論」の発表要旨と音声をアップロードします。
発表要旨
本発表では福沢諭吉(1835~1901)が1898年9月に脳卒中を発症させる前までに、彼が主宰していた新聞『時事新報』に掲載された陸軍論を分析する。
(1)福沢健全期の『時事新報』での陸軍論社説は94編119日分ある。これは同期間(5338号分)の全社説中のおおよそ2.2%に相当する。海軍論社説が50編であったのに対して約2倍の頻度となるが、国民皆兵に関係するのは事実上陸軍だけなので、それは読者の関心に応じてのことかもしれない。
(2)論調の変化に即して7期に分けられる。各期の期間に差があるため1期当たりの編数に偏りがあるように見えるが、実際は、第Ⅰ・Ⅱ期(1882~84)で2年半13編36日分、第Ⅲ・Ⅳ期(1885~89)で4年16編17日分、第Ⅴ期(1890~93)3年14編15日分、第Ⅵ期(1894、95)1年半で36編36日分、第Ⅶ期(1896、97)1年半で15編15日分となり、第Ⅵ期(日清戦争期)のみ他の時期の約2倍の掲載頻度の外はほぼ平均している。
(3)ところが全集への採録状況を見ると、非常に大きな偏差がある。すなわち第Ⅰ期・24日分中20日分収録・収録率83.3%、第Ⅱ期・12日分中10日分・83.3%、第Ⅲ期・7日分中5日分・71.4%、第Ⅳ期・10日分中0日分・0%、第Ⅴ期・15日分中1日分・6.6%、第Ⅵ期・36日分中19日分・52.8%、第Ⅶ期・15日分中8日分・53.3%という結果である。
(4)中上川彦次郎主筆が辞職した1887年4月は第Ⅳ期の半ばにあたり、その後は第Ⅴ期半ばの1892年まで福沢は新聞に強く関与していた。ところが第Ⅳ・Ⅴ期を併せた8年間で、全集収録社説は「行軍遅速の研究」(18900402)1編1日分だけである。福沢が社説を主導していた日清戦争前約8年間の陸軍論を、石河は全集に入れていない。
(5)そのため、本論文冒頭に掲げた『福沢諭吉伝』の「朝鮮は着手の手段で其目標は支那であつた」を全集所収の社説から後づけることはできない。伝記でいわゆる帝国主義的野心を示す証拠として引照されている社説は朝鮮甲申政変後の1885年かまたは日清戦争開戦後の1894年に掲載されたものに限られる。
(6)第Ⅳ・Ⅴ期で全集非収録となっている陸軍論にあっても帝国主義的野心をうかがわせる社説は発見できていない。確かに『兵論』(1882)で陸軍の兵員不足を憂慮しているが、それは西欧の軍隊から日本本土を守るのに不十分であるという認識によるものだった。
(7)『時事新報』は1879年の改正徴兵令での免役規定撤廃を求めていたが、1883年の改正で免役規定が制限されると同時に私立学校差別の規定が盛り込まれるや、今度はそちらの廃止を求めた。1889年の改正によりその差別は解消されたものの、1883年の改正によって兵員充足が容易となったため、今度は兵員の削減を主張し始めた。日清戦争前の『時事新報』の論調は、本土防衛についてはほぼ目処がついたので、財政逼迫の状況にあって陸海軍とも規模を縮小するべき、というものだったのである。
(8)1894年7月の日清開戦後に『時事新報』が戦争を翼賛したのは事実だが、福沢個人が行ったのは報国会を窓口とする戦費調達のための募金活動だけである。現在問題となっている社説類に福沢が関与したかどうかは不明である。
(9)日清戦争後の陸軍論は、海軍論と同様大規模な軍拡を主唱するものだが、それらに福沢が関与していた証拠は発見できていない。