「政府城の割拠」
昭和版『続福沢全集』第 5 巻所収の石河幹明執筆社説「政府城の割拠」(745頁)を公開しています。
詳細は、昭和版『続福沢全集』「附記」をご覧下さい。 体裁等については、昭和版『続福沢全集』第 5 巻からの書き起こしについてをご覧下さい。
本文
明治政府歴代の当局者等は顕位栄爵人臣の最上を極めて尊栄を世間に示し又その政権を維持する為めには如何なる手段をも憚からざる等漫に横風尊大を事としたるの結果識者の同情を失い人民の反感を買いながら人心を緩和し気風を調節するの工風に至りては何等の尽くす所なきのみならずますます世間より隔離孤立して政府城と名づくる一廓に割拠し廓外の人民は総て之を敵と見做し専ら廓内に於ける味方を結合して恰も籠城持久の計を為したる其事実は歴々窺い見るべきものあり
彼の爵位の如きも自から顕位栄爵を辱うしたるに止まらず広く之を政府部内の官吏に及ぼしたるは部内の人望を繋ぎ其結合を固くするの魂胆に出でたるものなりとの説あり
当時の事情より推測すれば強ち此辺の意味なきに非ざるが如きも推測談は止めにして実際の形に現れたる跡に就て見れば第一に教育の如きは人心気風を陶冶誘導するに最も有力なるものにして最も意を用うべきものなるに政府は等しく教育を授くる学校に官私の区別を厳格にし官立学校には一種の特典を与うる其反対に私立学校は之を虐待して其撲滅を謀りたることさえあり
然のみならず既に成業して同等の学力を有する学者に対しても官学出身の者は学位を得ること易くして私学の者は之に
此風は近来少しく改まりたるも官私区別の精神は尚お依然として存在せり
又彼の官吏任用令の如き情実夤縁を防ぐの趣意に出でたりと称すれども実際には官門の通過を窮屈にし官僚以外に入門を容さざるの精神は事情の明証する所なり
総て是れ政府城割拠の覚悟より割出したる政略にして政権は勿論、社会のあらゆる栄誉の地位は一切官人の与党に専有し人民は門外に排斥せられたりと云う
即ち世間に政府の一類を目し閥族もしくは官僚党の名を以てするは寧ろ当然にして之に対して果して弁解の辞あるや否や
栄誉は人生の最も貴重にして生命にも換うべからざる程のものなるに其栄誉は少数なる与党の一類に専有せられ官門甚だ窮屈にして青雲の志は到底達すべからず
民間人は恰も栄誉権利の一部を剥奪せられしに等し
人民が悉く皆官僚党ならんには天下は太平無事なるべしと雖も其太平無事は単に政府の城内に止まり城外満社会の人心は固より此有様に満足悦服すべきに非ず
閥族官僚に対する非難攻撃の声、国内到る処に噴噴たるは固より其所なりと云うべし
政府既に籠城主義と決す
城外皆敵の覚悟なきを得ず
是に於てか敵情視察の為めに探偵を派し細作を放て其報告を聞き之を材料として以て敵に臨むの方略を尽せざるべからず
即ち警察力を攻防共に利用せざるべからざる所以にして今日の新組織に成れる警察力を以てすることなれば水も洩らさぬ迄に行届きて万事に違算なかるべき道理なれども本来警察なるものは主として掏児盗賊等の鼠輩を取締るが為めの設備にして然も其使用する探偵細作の如き今尚お旧時の岡引流のもの多し
之をして政界偵察の任に当らしむ
果して目的を達すべきや否や
目的を達せざるは可なりと雖も彼等の報告は常に事の真を誤りて当局者の判断を迷わし疑心暗鬼風声鶴唳大失態を醸したる其最も顕著なる適例を挙ぐれば彼の保安条例の頓発なり
幾多の民間政客を一時に京城外に放逐したるは其輩の間に何か非常の大隠謀を発見して斯る猛断を敢てしたるものならんと思いきや単に探偵の報告に誤られて敵なきに矢を放ち的を見ずして発砲したるに過ぎざるは後の成行に明白にして当局者に一言の申開きもあるべからず
読者請う之を以て過去の事実と為す勿れ
籠城主義探偵政治の失策弊害かくの如く著大なるに拘わらず爾来今日に至るまでの政府当局者は相変らず此主義政略を踏襲して改めず国家大事の場合に際すれば挙国一致を云々して国民の忠愛心に訴え所謂苦しき時の神頼みを演じながら喉元過ぐれば忽ち本音を顕わして警察一偏以て一国の人心を制馭せんとするの考を懐くが如き多々ますます人心を失うの外なきのみ
日本国民は苟も国家の大事とあらんか政府の頼みなきも挙国一致を心掛けざるものなし
彼の日清日露戦争の時の如き国民一般が平生の恩讐官民の対立を忘れて一意専心国事に尽くしたることなれば政府の当局者に少しく経世の考あらんには旧来の態度を一転し国民と手を握りて社会の人心を緩和するの好機会なりしに嘗て其辺の考とてはなく一去一来再び政府の地位に立つも明治相伝の主義政略には何等の変化を見ず却て籠城主義探偵政略、社会の空気に一種の重味を覚え人をして恰も窒息するの感を催さしめ左なきだに睽離解体せる社会の人心にますます悪影響を与え遂に今回の如き不祥事を発生するの間隙を作るに至りたるは他年来政府の踏襲せる籠城主義、探偵主義こそ其一大原因たりと断定して我輩の敢て疑わざる所なり
(明治四十四年一月二十七日)