「極端苛烈の気風」

last updated: 2013-08-05

昭和版『続福沢全集』第 5 巻所収の石河幹明執筆社説「極端苛烈の気風」(750頁)を公開しています。

詳細は、昭和版『続福沢全集』「附記」をご覧下さい。 体裁等については、昭和版『続福沢全集』第 5 巻からの書き起こしについてをご覧下さい。

本文

政府の為めに弁ずるもの或は曰く当局者は決して世道人心の維持を等閑に付したるものに非ず

国民の倫理教育に古人の嘉言善行を引証して忠愛の精神を鼓舞奨励し又実際には義勇、事に斃れたる志士の輩には時代の遠近に拘らず之を追賞したるが如き

何れも世道人心を維持するの趣意に出でたるものなり

当局者が多年来意を用いたる所にして今後も又大に力を尽くさざるべからずと云うものあらんか

然り其尽力熱心の盛なるは慥に認むる所にして事実に相違なしと雖も我輩は当局者の奨励する所の主義が兎角極端に偏し易くして寧ろ苛烈なる気風を惹起すの弊あるを恐るるものなり

否な既に其弊害を実験したるものなり

今の当局者なども定めて記憶することならん

明治十五六年の頃時の政府は民間に政論の甚だ盛なるを見て容易ならざる事態と為し斯くの如きは畢竟文明の新主義、西洋思想の流行せる結果なれば国民の教育上よりして其気風を一変せしめざるべからずとて遂に儒教主義を復活し官公立の学校には漢学者を聘して漢儒流の道徳倫理を講ぜしめ忠勇義烈の精神を大に鼓舞激奨したるのみならず更に帝政党と名づくる一種の政党を組織せしめ又同主義の新聞紙をも発行せしめて以て天下の民論新思想を圧服撲滅せんと企てたり

其狂気じみたる発作操熱は我輩の唯驚きたる所なれども其結果は如何と云うに民間の政論は之が為めに毫も鎮静せざるのみか寧ろ反動の気焔を高めてますます政局の困難を加えたるに過ぎず一時の狂熱は固より永く継続すべきにあらず

帝政党は何時しか没落して影を留めず又儒教主義の熱も次第に冷却したれども儒育の効果、果して空しからず

極端苛烈なる気風を少年子弟の間に醸成して其気風容易に衰えず

種々の方面に其余弊を現わし政府も寧ろ之に苦しむに至りしは実際の事実にして因果応報の偶然ならざるを見るべし

本来忠勇義烈は人生に大切なる心掛なりと雖も精神一遍、漫りに之を鼓舞奨励するときは人の気風をして苛烈に趨らしむるの弊なきを得ず

彼の嘉言善行と称するものの如き忠臣は難に死し孝子は節に殉ずる等人事の変に処する極端の例にして以て居家処世日常の教に適せざるもの多し

人の気風を苛烈ならしむる所以なり

当局者に於ても亦自から省みて其弊の警しむべきものあるを悟りたるか

爾来学校の徳育には教育勅語を本として忠君愛国の旨を教え忠勇義烈の極端のみを云々することは余程注意するに至りしと云うも其実際を見れば勅語の奉読講演はかたの如く行わるるも動もすれば形式に流れ日常の居家処世訓として其旨を実行するには或は行届かざる所なきや如何、

又彼の御真影を学校に安置するが如き之を拝して敬愛の念を増さしむるの趣意なるべしと雖も其御真影の為めに或は不敬事件を生じ或は失火の場合に之を取出さんとして死傷し甚だしきは力及ばずして焼失せしめたる為めに非難攻撃を蒙り自殺したるものさえ出したるなど忠愛の本旨は実際に徹底せずして尚お極端苛烈なる気風の行わるるを見る

此際に当局者が熱心一偏、飽くまでも忠愛の精神を鼓舞奨励すべしとて大に尽力することもあらんか儒教復活の例の如く其目的は達せずして却て其余弊を見るに至るべきのみ

又人心奨励の為めに志士を追賞するが如きは固より美事なりと雖も此事に関しては我輩甚だ了解に苦しむものなきに非ず

従来贈位の恩典に与り又靖国神社に合祀せられたるものは維新前、徳川時代に王事に斃れたる所謂勤王の志士に多し

志士固より志士にして其精神は嘉すべしと雖も経世経国の見地よりすれば其行為は明に国憲を犯したる秩序紊乱の大罪にして其罪毫も赦すべからざるものあり

徳川政府は朝廷の敵なり之を倒さんとして力を致したるものは即ち勤王の志士なりと云わんかなれども其朝敵の名を得たるは鳥羽伏見事件の後に在り

其以前に於ける徳川政府は一国の主権を有したるものなり

或は主権を有するの辞穏ならずとあれば朝廷の御委任を受けて一国を統治したるものなり

即ち紛れもなき日本国の政府にして其政府の大法は取りも直さず国憲と目すべきものなるに政府顛覆の目的を以て白日青天公然、政府の大臣を虐殺し捕われて国の大法に問われたるものの如き国憲紊乱の大罪を犯したる罪人に非ずして何ぞや

然るに今代の政府に至り其志の王事に存したるの故を以て之に位を贈り神に祭られたりと云う勤王の志を以て徳川政府転覆の陰謀を企て之に死したるものは即ち今代の忠臣なりと云わんか

試に思え政府は一代の政府にして日本国は万世不易の日本国なり

若も前代の政府の世に国憲を犯したる罪人を後代の政府が忠臣として之を賞するが如きことあらんか

一国の秩序は何に依て維持すべきや

近く喩えば同じ明治政府の中にて前政府の時の罪人を現政府にて賞するときは如何、徳川政府も明治政府も等しく日本国の政府にして国家千年の眼より見れば同一政府と云うも差支なきに恰も政府の更迭の為めに国憲紊乱の罪人が一変忠臣となるが如き其人心に及ぼす影響は如何なるべきや

苟も経世の考あるものならんには其影響の容易ならざるものあるを知るに難からざるべし

若しも当局者が是等の手段を以て大に世道人心の維持に心を用いたりなど心得ることあらば我輩は其心得の甚だ浅墓なるに驚くのみ

(明治四十四年一月二十九日)