「上流の泉源濁る」

last updated: 2013-08-05

昭和版『続福沢全集』第 5 巻所収の石河幹明執筆社説「上流の泉源濁る」(753頁)を公開しています。

詳細は、昭和版『続福沢全集』「附記」をご覧下さい。 体裁等については、昭和版『続福沢全集』第 5 巻からの書き起こしについてをご覧下さい。

本文

明治政府当局者の不養生不始末は啻に其施政上に見るべきのみならず一身の品行上に於ては更に甚だしきものあり

是れ又社会の人心風教に悪影響を及ぼしたること如何許りなるや知るべからず

維新の元勲と云わるる先輩の如きは万死の危険を冒して兵馬剣戟修羅の巷に出沒し一身は無きものと覚悟して国事に奔走したるものなれば固より家庭団欒の余裕あるべからず

豪放磊落慷慨淋漓酔うては美人の膝に枕し醒めては天下の権を握るなど放歌して到る処の花柳に戯れ鬱を慰し興を買いたる其習癖、性を成し散々に身を持崩したるは当時の境遇に於て無理もなき次第なり

我輩は強て遡って之を咎めずと雖も天下既に平に帰して社会の秩序常に復し且つ一身の地位も次第に進みて国家の元勲を以て目せらるるに至りし上は上下に対して自から慎まざるべからざるに尚お依然として当年の狂態を改めず文明守成万目環視の間に其身分をも顧みず言語道断の放埒を演じて坊間(注1)にまでも醜名を伝えたるは唯当人限りの恥辱として相済む可らず

顕位栄爵を荷うて皇室にも近侍し又万衆の上に位する其人々の行状が公私に拘わらず一般の人心に影響すること少なからざるは今更ら言を俟たず

彼等が其私行の修まらざる為めに世間の軽侮を招き其品格を傷け人望を損じたるは自業自得として致方なきも之が為めに一般の人心に悪影響を及ぼし社会の風儀紊乱の一原因を成したるは争うべからざる事実にして我輩の平生苦々しく思いたる所なり

維新騒乱の世を距ること年既に久しく所謂文物章典も備わりて文明智徳の光を発すべき時代に及び独り社会の風儀に汚醜恥ずべきの欠点甚だ少なからざる其源を尋ぬれば主として社会の上流に位するものの不心得に帰せざるを得ず

其責軽からずと云うべし今や其人々は既に老い去りて或は既に此世に亡きものありと雖も其相続人たる爾後の当局者たるものは此点に注意して社会の頽風を救うに多少は自から戒しむる所あるべき筈なるに彼等も亦文明守成の世に顕栄の地位を占めながら創業頽雑の間に習癖性を成したる先輩の尤に倣うて敢て悛めざるのみならず中途より権勢に攀縋よじすがりて地位を得たる後輩までも之を善きことに心得、相率いて不品行を恣にし或は一生倫理の基たる一夫一婦の大義を侮蔑するものあり

或は婚姻の正式を踏まずして身許の明ならざる婦人を妻とするものあり

之が為めに家庭の紊乱を醸して醜声を世間に放ち顕門の子弟中より無頼漢を出して大に面目を損じたるが如きは自から招くの因果にして他人の関知せざる所なりと雖も社会の上流に位する顕栄輩の所行は自ら世間万目の注視する所にして善悪共に人心に影響を及ぼさざるを得ず

其輩の斯る乱行は如何にして悪影響なきを得べけんや

我社会の風儀が外国人などに対して毎度赤面せざるを得ざる事柄多く又近来青年男女の堕落云々を耳にするが如きも其由て来る所を尋ぬれば当局者として其責を頒たざるべからず

深く反省して大に憚るべきものなり

然るに爰に笑うべきは彼等が其身を省みもせで臆面もなく徳教の事など云々するの一事なり

本来道徳の教えは耳より入らずして目より入るものなり

何程有難き経文にても腥坊主をして之を説かしむれば所謂百日の説法に終ると一般、今の当局者などが徳教に関して千百の訓示訓令を発するも之を聞くものが一たび眼を転じて其発令の本人たる当局者の素行を視るときは興味索然、愛憎あいそ姑憎こそも尽き果てざるを得ず

寧ろ徳教其物の効力を軽からしむるに過ぎず一種の滑稽と云うべきのみ

或は曰く政府の当局者は政治家なり

政治上の責任は固より辞すべからずと雖も社会風教の事は政治家の関する所に非ずとの説もあらんか

果して然らば徳教徳育の問題の如きは断じて之に容喙することを止め単に政治の職人を以て自から居り其一身は下司下郎の鄙陋(注2)を極むるも可なりと覚悟するも差支なきに似たれども抑も一国の政治は其関係する所甚だ広大にして之が当局者たるものは自から徳義上の責任もなかるべからず

況や其身を顕栄にして社会の上流に位するに於てをや

古来東洋諸国は儒教流毒の結果、兎角一身の私行を軽視するの風を成したれども我封建時代の如き士大夫間の気風は頗る厳粛なるものありき

況して西洋の文明国に至ては紳士の品行に最も重きを置き若しも政府の当局者などに我国の如き醜態を敢てするものあらば其人は啻に其地位を失うに止まらず生涯社会の表面に立つこと能わざるの常なり

我政府の当局者にして果して世界の大勢に応じて国運の発展を期するの志あらんには自から省みる所なかるべからず

彼の無政府主義者の如きは国民の信念道徳を無視して敢て狂暴を逞うせんとしたるものなり

上流社会の品行紊乱の結果、国民の道徳城に罅隙を生ずるときは社会の人心は睽離解体潰乱奔逸して何の到らざる所かあらん

当局者たるものは其責任の甚だ軽からざるを悟り速かに猛省して先ず自から一身を慎しむべきものなり

(明治四十四年一月三十一日)

脚注

(1)
坊間 とは - コトバンク
(2)
鄙陋 とは - コトバンク。原文では「卑陋」と表記されている。