「上下親愛」

last updated: 2013-08-05

昭和版『続福沢全集』第 5 巻所収の石河幹明執筆社説「上下親愛」(758頁)を公開しています。

詳細は、昭和版『続福沢全集』「附記」をご覧下さい。 体裁等については、昭和版『続福沢全集』第 5 巻からの書き起こしについてをご覧下さい。

本文

政治上の争論に就き政府の当局者が詔勅を奏請して恰も皇室の御裁断を仰ぎ奉り或は自家(注1)の進退動止に関し動もすれば陛下の御信任を云々するが如きは断じて皇室の尊厳神聖を維持する所以の道に非ず

深く慎むべき所なるは勿論、皇室の恩徳をしてますます天下に遍からしめ臣民一般は啻に其御威徳を仰ぐに止まらず中心より敬愛の情を輸して皇室に親しみ奉ること恰も赤子の父母に於けるが如くにして上下親愛、君臣和合、和気靄々の裡に万年不変の春を楽むの風を成さしむるの心掛は当局者の常に忘るべからざる所のものなり

我皇室の恩徳の人心に入ること甚だ深きは今更ら申す迄もなき次第なれども殊に明治天皇陛下の御治世は実に前古無比の聖代にして随いて皇徳の発揚せられたることも亦前古無比と云わざるを得ず

一般臣民の等しく感激し奉る所なりと雖もますます其恩徳の及ぶ所を深くし臣民をしてますます皇室に親しみ奉るの情を厚うせしむるの点に就ては特に宮廷近く奉仕する当局者の注意を望まざるべからざるものあり

第一に陛下が御謙徳に富ませられ平生御質素を心掛けさせらるる事は毎度の詔勅にても拝承する所なれども彼の明治二十七八年の役に広島の大本営に大纛を進められ行在所に於て日夜、軍国の機務を視させ給いたる時の事を承るに陛下の御用に充てられたるは御座所と御寝室との二間のみにして然も其間は甚だ狭く尋常人に於ても殆ど堪え難き程のものなるに陛下には戦争中の場合とは申しながら其御窮屈御不便を聊かも物とし給わず

屡々軍議に夜を徹せられたるのみならず曾て庭園に御運動を試みさせられたることもなく戦役を終るまで凡そ一年有余を過ごさせられたりと云う

我輩は当時窃に此事を伝承し感極りて涙を催したるものにして之に由て見るも平生御質素の程を窺い奉るべし

一般臣民にして其御有様を見聞せんには我輩と感を同うすること勿論なれども唯九重雲深くして世間に之を知るもの少なきのみか或は宮内官吏の邸宅等の頗る広大なるものあるを目撃し恐れ多くも之より想像して我宮城の御有様は如何に宏壮華麗なるべきやとて恰も写真絵図等にある有名なる外国の宮殿の如くに思うものあらしむるが如き決して聖徳を一般に感孚せしむる所以の道に非ざるべし

又地方行幸などの折に成るべく人民の迷惑と為らざるよう御心を用いさせ給うは毎度の事にして殊に行幸の鹵簿(注2)の如きも普通の場合には簡単を旨とせられ封建時代に於ける将軍の御成もしくは大名の行列を見たる父老の如き之を拝して其勿体なさに驚くものありと云う

誠意の在る所は誠に分明なりと雖も実際行幸行啓等の場合に通路の取締方頗る厳重を極め御通行前より長時間に渉りて往来を禁じ都下の大道に交通遮断の実を見るが如き其次第を知らずして通り掛りたるものは何事が出来したるやと驚くことあり

殊に地方行幸の場合などは其取締一層厳しくして拝観の人民は叱咤駆逐せられ為めに却って挙措を失うもの多し

此種の取締は警察の任務にして宮内官吏の命ずる所に非ざるやも知るべからずと雖も現に之を目撃しながら之を注意せざるは如何、普通人民が親しく龍顔を拝し奉るは斯る機会に限ることなるに斯くの如き不注意は臣民をして皇室に親しみ奉らしむる所以に非ざるなり

右等は誠に些細なる事柄に似たれども我輩の機微は成るべく臣民をして皇室に親しましめ臣民は皇室の赤子として皇室は臣民の父母としてますます上下親愛君臣和合の相を呈し靄々たる和気の中に日本全国を包まんとするの精神に出づるものにして此点より見れば従来の慣行にして改むるべきものもあらん

或は更に新例を開くべきものもあらん

要するに皇室と臣民とを接近せしむるの注意工夫(注3)は之を宮内省の当局者に望まざるを得ず

固より普通の人が直に皇室に近づき奉るべきに非ずと雖も学識技芸の著しきものか又は徳望経歴の大なる者は其身分に拘わらず時に宮中に召されて謁見を賜うが如き自から一般臣民に恩徳を仰がしむる所以にして当局者の注意次第にて其辺の工風は尚お多々あるべし

今日の実際に皇室に接近するの光栄を有するものは有爵有位なる官辺の人々に限らるるの例にして普通の人民は殆ど其光栄を辱うするの機会なしと云う

斯る慣行にして若しも一般の人心に皇室は政府官吏の専ら戴く所にして我々平民は唯々遠く外より拝し奉るに過ぎずとの念を催さしむるが如きは決して皇室の恩徳を天下に遍からしむる所以に非ず

我輩の言微なりと雖も其意は切なるものあり

敢て当局者の注意を望む所なり

(明治四十四年二月二日)

脚注

(1)
自家 とは - コトバンク
(2)
鹵簿 とは - コトバンク
(3)
原文では「工風」と表記されている。