2018年9月27日 安川氏あてメール

last updated: 2018-10-18

このテキストについて

平山氏より安川氏に次のようなメールを送信したとの連絡がありまし た。平山氏の依頼により掲載します

本文

安川 寿之輔 様

ようやく暑さも鎮まってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。

来る10月13日・14日に神戸大学で開催される日本思想史学会で発表をしますので、ご案内いたします。

題目は「徳富蘇峰の身代わりとしての福沢諭吉」というもので、14日の午前10時半から、農学部B棟204教室で行われる予定です。その要旨は以下の通りです。

福沢諭吉の思想が昭和六年(1931)勃発の満州事変以後の日本の国策に影響を与えたという主張は、安川寿之輔によってはじめて展開された。その骨子は、現行版全集の「時事新報論集」所収の社説と一九三〇年代の時局との類似性に基づいていたが、そもそも「時事新報論集」は、そう見えるように石河幹明によって編まれていたのである。

事実としては戦時期の代表的イデオローグは徳富蘇峰であった。『新日本の青年』(1887)で福沢批判者としてデビューした蘇峰は、「大東亜戦争」においても大日本言論報国会の会長として中心的言論人の地位を占めていた。

その機関誌『言論報国』のモットーは「指導者の指導誌」というもので、言論人蘇峰による戦争指導が活動の目的だった。

昭和一九年(1944)三月、蘇峰は『言論報国』誌上で福沢を功利主義者・非愛国者として批判した。同年五月、慶應義塾長小泉信三は『三田新聞』紙上でその反論を公表したが、それは石河作の『福沢諭吉伝』(1932)と同編の『続福沢全集』(1933‐1934)に基づいていた。

戦後のGHQによる対応は日本の知識人の戦争責任に関して比較的甘いものであったが、大日本言論報国会だけは通常の文化統制団体とはみなされず、超国家主義・軍国主義の団体として解散を命じられた。また、その理事は公職追放令の対象とされ、蘇峰自身も一時はA級戦犯容疑者の通告をされている。

本発表は安川が描く「大東亜戦争」のイデオローグとしての福沢というのが、じつは蘇峰の幻影だったことを明らかにする。(以上発表要旨)

非会員でも参加は可能ですので、ご足労いただければ幸いです。また、その他大会の情報は http://jarsa.jp/event/a06/pref28/8032/ にあります。

時節柄お体にお気をつけください。

平山 洋