石河幹明入社前『時事新報』社説の起草者推定―明治一五年三月から明治一八年三月まで―

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国際関係比較文化研究第 13 巻第 1 号後 1-17 頁(2014 年 9 月)に掲載された「石河幹明入社前『時事新報』社説の起草者推定-明治 15 年 3 月から明治 18 年 3 月まで-」です。

本文

石河幹明入社前『時事新報』社説の起草者推定―明治一五年三月から明治一八年三月まで―

平山 洋(静岡県立大学)

一 本研究の目的と方法について

本報告は「福沢健全期『時事新報』社説起草者判定」(以下本研究)の一部として、明治三一年(一八九八)以降に『時事新報』主筆となる石河幹明が入社するまでに掲載された同紙社説の起草者を推定する試みである。

本研究の全体構想は、福沢諭吉が主宰していた新聞『時事新報』の社説の起草者を新たな方法を用いて判別したうえ、その中から福沢直筆の社説を選び出すことでジャーナリストとしての福沢の全体像を再構成することである。加えて判別の方法論の確立のために、まず福沢の署名著作の本文をデータベース化し、それらを基礎資料としつつ、無署名社説と語彙・文体の比較を行う。なお、『全集』非収録社説はテキスト化して、署名著作ともどもネット上のサイト「平山洋氏の仕事」(注1)で公開するものとする。

本研究の具体的な目的は、明治三一年九月の脳卒中の発作発症までの福沢健全期の全社説の起草者を判定して、現行版『福沢全集』の「時事新報論集」に適切な加除を施すことである。そのうち本報告が扱うのは明治一五年(一八八二)三月一日の創刊から明治一八年(一八八五)三月三一日までの九三〇号分で、石河はこの期間の社説を担当していないのが明らかであるのみならず、『福沢全集』(大正一四、一五年〔一九二五、二六〕刊行・以下大正版)および『続福沢全集』(昭和八、九年〔一九三三、三四〕刊行・以下昭和版)に収録する社説を選別するにあたって、石河自身の記憶や記録に依拠していないことが確実な社説群でもある。以下この期間に掲載された社説をまとめて前石河社説群と呼ぶことにする。

これら前石河社説群のうち、明治版『福沢全集』に署名著作として収録されているのは、『時事大勢論』(連載 1882040518820414)、『帝室論』(1882042618820511)、『兵論』(1882090918821018)、『徳育如何』(1882102118821025)、『学問之独立』(1883012018830205)、『全国徴兵論』(18830405188304071883010518840107)、『通俗外交論』(1884061118840617)の合計六〇日分、それに加えて大正版『福沢全集』「時事論集」に収録済みとなっているのは二二四編中五三編(一四〇日分)、さらに加えて昭和版『続福沢全集』「時事論集」に収録済みとなっているのは一二四六編中一六四編(二三五日分)である。明治版『全集』から昭和版『続全集』までに収録されている社説は合計四三五日分となる。

社説は掲載されていない号や、一号に二編掲載される場合があるので正確な数字ではないものの、創刊以来の全九三〇号から明治・大正・昭和版正続全集に収録済みの合計四三五日分を差し引いた残余、おおよそ四九五日分が、前石河社説群のうちで起草者推定をしなければならない社説ということになる。

もっとも、昭和版までの全集に未収録となっている四九五日分すべてについて判定が必要なわけではない。というのは、『続全集』の刊行から今日に至るまでの八○年間に、石河が『全集』に収録していないにもかかわらず後になって福沢の自筆草稿が発見された社説が二一日分(社説ではない「朝鮮政略備考」四日分を除く)あり、さらに、社説欄に掲載された論説には、福沢以外の署名入りの投稿や外国紙記事の翻訳と断り書きがあるものも含まれているからである。

報告者は平成二四年(二〇一二)九月から翌年三月にかけて『全集』未収録で無署名の全社説(連載の場合は原則初日のみ)を画像化して、「平山洋氏の仕事」にアップロードした。さらにネット上で情報処理の専門職を募集できる「日本校正者クラブ」に登録することで人員を確保し、順次それらをテキストファイル化している。このテキスト化作業の目的はコンピューターの検索機能を利用するためで、この処理によって、より効率的に福沢執筆社説を抽出できるはずである。

また、慶応義塾のホームページ中のエントリ「デジタルで読む福沢諭吉」(注2)では、福沢の署名著作のほぼすべてがテキスト化されていて、語彙検索も可能となっている。この企画により署名著作での語彙や言い回しを即座に調べられるようになった。井田メソッド(注3)を用いての無署名社説起草者推定作業を円滑に進めるための条件はそろったということができる。

二 井田メソッドの有効性と前石河社説群の起草者について

起草者推定にあたって問題となるのは井田メソッドの有効性についてであろう。その疑義についてはすでに安川寿之輔(注4)・都倉武之(注5)・杉田聡(注6)・山田博雄(注7)らによって表明されている。報告者もまたその限界を承知していて、「語彙と文体による井田の方法で高い確度をもつのは、カテゴリーⅠとカテゴリーⅣの区別だけである」 (注8)というのが、『福沢諭吉の真実』(注9)の原型執筆以来の一貫した立場である。福沢が書いたかどうかまでは分かる、というのが報告者の見立ててである。

草稿が残存していない、したがって筆跡判定が不可能な無署名社説の起草者推定の有効性を測るのは難しいが、井田メソッドに否定的な立場をとっている杉田が、井田メソッドによって福沢が書いたものではないと判定した三編の文章(「修業立志編緒言」「忠孝論」「福沢全集緒言」)が、実際に福沢直筆ではなかったと証明されたことは、逆に井田メソッドの信憑性を高めることにはなったとは思う。(注10)

なお、井田メソッドに疑義を呈している人々は同時に現行版『全集』所収社説の採録の信憑性を支持してもいるのであるが、その立場が矛盾していることを指摘しておきたい。というのは、もし語彙と文体の特徴を抽出することで起草者の推定をする井田メソッドが不可能となると、前石河社説群の選別を石河はどのようにして行ったのかの説明がつかなくなってしまうのである。

入社前の石河は明治一八年三月までの社説が誰によって書かれていたかを知りうる立場になかった。そのため石河は前石河社説群の選別に際して井田メソッドに類似した方法をとっていたと考えられる。少なくとも前石河社説群については、事実上井田メソッドによって選別されている現行版『全集』の「時事新報論集」の信憑性を支持しながらその方法は認めないというのは、立場として矛盾しているわけである。

そこで前石河社説群の起草者については、「本紙發兌之趣旨」(18820301(注11))のほか西谷虎二(注12)や高橋義雄(注13)の証言がある。すなわち「本紙發兌之趣意」には、「其論説の如きは社員の筆硯に乏しからずと雖ども、特に福澤小幡両氏の立案を乞ひ、又其検閲を煩はすことなれば」(注14)とあって、論説の大部分は社員(記者)が執筆するが、その中には福沢や小幡篤次郎が立案して検閲を行うものもある、ということである。

創刊間もない時期の編集局の様子については、小間使い(ボーイ)をしていた西谷の以下の証言が参考になる。

時事新報はまだ日本橋に移らないで、当時は義塾の正門を入った右側の古い日本家であつた。(中略)編集局は八畳と六畳と二間続きの粗末な日本間だが、これは畳でも壁でも少し新しかつた。(中略)此二間をぶつ通して粗末な木造の机が障子側と壁側に並べてある。色の白い丈のすらりとした体に金縁の眼鏡黄八丈の着流しという服装で、一番上席に端然と坐つているのが元外務権大書記官中上川彦次郎君、これは明治十四年の政変に職を罷め時事新報の発起に付き社長兼主筆として侃諤の筆を揮われるのだと聞いていた。其次には色の黒い四角ばつた顔をして鼠縮緬の首巻をしていたのが森下岩楠君、また其次に顔の長い口髯を上に巻き上げて額の少し抜け上つた温和な紳士が坐つていた、これが須田辰次郎君、此三君と背中合せに障子の方に机を並べているのが波多野承五郎君、渡辺治君、高橋義雄君であつた。あとの三人は外国新聞の抄訳でもするらしかつた。其中でも波多野君は当時もう一廉の大家であつたらしいが、渡辺君と高橋君は塾を卒業したばかりで服装なども紺飛白の衣物は羽織というところで、新進の俊才らしくはあつたが、他の先生達よりはずっと後輩であつたらしい。以上の六人が奥の八畳を占領していた。(注15)

福沢は中上川・森下・須田ら上局三名については独立したジャーナリストとしての地位を認めていたのに対し、波多野・高橋・渡辺ら下局三名を社説作成補助員と位置づけていた。その役割については創刊二ヵ月後の五月に入社した高橋が、「当分は見習格で何か好問題を捉へて執筆し、福沢先生の閲覧を経て時事新報に掲載の光栄を担うべく、例に依つて渡辺と競争の位置に立つた」(注16)と書いている。その結果最初に掲載されたのは「米國の義聲天下に振ふ」(18830912)で、それは渡辺より「一足先」であったというのである。

以上をまとめるならば、前石河社説群の起草者は、福沢諭吉・小幡篤次郎・中上川彦次郎・森下岩楠・須田辰次郎を中心に、創刊一年半後の明治一六年九月に高橋義雄と渡辺治が加わったことになる。残る一人である波多野承五郎が執筆陣に加わった時期ははっきりしないが、署名論説「大院君李夏應を論ず」の掲載が明治一五年九月であるため、高橋・渡辺より約一年早い起用であったと思われる。

三 前石河社説群起草候補者の語彙と文体について―(一)福沢・小幡と編集局上局

前石河社説群を実際に起草していた福沢・中上川・小幡・森下・須田・波多野・高橋・渡辺の八名のうち、メインは福沢と中上川で、彼らに下書きを提供する役割を担っていたのが波多野・高橋・渡辺であった。これら五名の語彙と文体の特徴の抽出はすでに別のところ(注17)でしている。

まず福沢(創刊時四八歳)については、「みずから」を「身躬から」、「みなす」を「視做す」、「きぼう」を「冀望」とする表記がある。これらについては社説記者もそれぞれ、「自ら」、「見做す」、「希望」と書くことが多いため、区別のための大きな手がかりとなる。また、福沢は過去を意味する熟語として「在昔」を用いることが多い。さらにそれほど多く出てくるわけではないが、福沢独自の表現として、皇統が連綿と続くことを「一系万世」とする書き方がある。大日本帝国憲法が発布された明治二二年(一八八九)以降もその第一条にある「万世一系」という一般的表記を用いないところをみると、意図的であったようである。

また、福沢は社説記者たちより送りがなを少なめに振る傾向がある。福沢が「尋れば」「直に」「然も」などとするのに対し、記者の起草文では「尋ぬれば」「直ぐに」「然かも」となっていることが多い。ただ、送りがなは熟語の表記とは異なり誰にでも多少のぶれはあるので、決め手にはなりにくい。さらに、福沢文では「あらんなれども」「然りと雖ども」「之を譬へば」「果たして然らば」などが多用されることで独自のリズムを醸し出している。その他福沢が使いがちな語彙として、通常なら三四人(さんよにん)と書くところを三五人とする場合の「三五」、「際限ある可らず」、「決して然らず」、「惑溺」などがあげられる。こうした特徴的な語彙をまとめて福沢語彙(注18)と呼ぶことにする。

この福沢の特徴と比較して、主筆として前石河社説群の多くを起草したと予想できる中上川(創刊時二八歳)について福沢と比較してみると、中上川の文体は全体に漢文の訓読調である。中津藩士とはいえ大坂で生まれ大坂で学んだ福沢はどのような文章にもいくらかの面白みを盛り込まずにはいられなかったのに対し、中津育ちの中上川は真面目な書き方しかできなかったようだ。内容の充実したよい文ではあり、論理展開が巧妙であるため退屈なわけでもないのだが、福沢にあるような思わず口ずさんでしまうような名調子といったものはない。

語彙についてはほとんどは現在でもしばしば使われている平易な熟語である。ただ、福沢は用いないものもあるので判別することは可能である。先にも述べたように、福沢が「冀望」という珍しい表記を使うのに、中上川はごく常識的に「希望」を用いる。また中上川は使っても福沢の文章には見られない熟語として「呑噬」「覆車」がある。また、福沢は「大日本帝國」「韓廷」「清廷」を用いないのに中上川はこだわりなく使う、ということがある。平易という点では福沢も中上川も同様なので、短い文章でさらりと書き流した文章では区別しにくい印象がある。

前石河社説群のうち大正版『全集』の「時事論集」に属する社説の起草者推定についてはすでに別のところ(注19)でしている。比較的福沢度の高いそれらについての起草者は福沢・中上川・波多野・高橋・渡辺の五名に限られていたが、本研究は昭和版の「時事論集」にも洩れた残余の社説を対象にしている。そのために本研究以前には検討の対象とはなっていなかった小幡・森下・須田の三名の語彙と文体を調べる必要が出てきた。基礎的な作業として紙面を調べてみたものの、この三名の署名論説はいくらも掲載されていなかった。

そこで彼らの語彙と文体の検証は後回しにすることにして、テキスト化した三三八日分の起草者推定を実施したところ、語彙の上から福沢・中上川・波多野・高橋・渡辺のいずれにも当てはまらない社説は、創刊六日後に掲載された「解惑」(18820308)以外に見つけ出すことはできなかった。もちろんこの事実をもってこの三名が社説欄を担当していなかったと断定することはできない。というのも報告者が確かめたのは今のところ大正版「時事論集」所収二二四編と前石河社説群中の『全集』未収録三三八日分だけで、昭和版「時事論集」所収一二四六編については未調査となっているからである。この中に彼らが起草した社説があるかもしれない。文体と語彙についての情報がそろっていないため井田メソッドによる選別は今のところできていない。これは今後の課題となろう。

四 前石河社説群起草候補者の語彙と文体について―(二)波多野・高橋・渡辺ら編集局下局

下書き担当者として編集局の下局を構成していた波多野・高橋・渡辺のうち、少し年長の波多野(創刊時二四歳)の文体は個性的である。というのは成長してから漢学を学んだために用語が不自然なのである。報告者が波多野語彙として指摘しうるのは、「異志」「雄図」「掣肘」「基礙」「沈淪」「窺窬」「卓立」「狂狷」「蝉脱」「琴柱」「繁劇」「単簡」などである。

福沢の波多野宛の書簡は一通も発見されていない。そのため両者の交流がどうだったのかは分からないが、明治一七年(一八八四)七月の外務省入省後にも、福沢は波多野に社説執筆を依頼していた。いずれも全集未収録となっている「士族の称を廢すべし」(18851009)と「開國雑居一日も遅疑すべからず」(18851022)には、波多野起筆を示す H.S.というイニシャルが付されている。さらにこの二編の一年前に掲載された、「清佛孰れか是耶非耶」(18840926)、「俎上の肉」(18840929)、「東隣の大統領」(18841018) 、「独逸が「キユバ」島を占領して其影響如何」(18841110)、「日本を知らざるの罪なり」(18850212)など対外関係を扱った無署名社説にも波多野語彙が検出されている。報告者の波多野語彙の選定に誤りがないとすれば、外務省職員となっていた波多野がそこで知り得た情報を社説に盛り込んだということになる。とはいえ現在のところ明確な答えを出すことはできない。

次いで福沢にとくに気に入られていた高橋(創刊時二〇歳)については、語彙は中上川よりさらに平易で文章が上手いという印象である。そのため高橋が下書きし福沢が手入れをした社説では福沢語彙だけが検出されることとなり、間違ってカテゴリーⅠ(福沢直筆)と判定されてしまう危険性が生じる。

見分けにくい両者ではあるが、それでも井田は福沢の表記法と高橋のそれとの違いを指摘している。例えば福沢が「視做す」「身躬から」を用いるのに対して高橋は「見做す」「躬から」という通常の表記で書く点等である。しかしその他の相違については、福沢は「尋れば」「直に」「然も」と送りがなを少な目にふるのに対し、高橋は「尋ぬれば」「直ぐに」「然かも」と今日に近い書き方をしているなど微妙なところである。

語彙によらない区別の方法も考慮する必要がある。福沢と高橋の文体がいかに似ているとはいえ、三〇歳近い年齢差を乗り越えられるはずもない。明治維新のとき五歳であった高橋と三三歳で経験した福沢とでは、文明開化以前の状況を自分自身で体験したか、伝聞によってしか知らないかの差がある。ましてや高橋では生まれる前の開国時の世相を書けるはずもない。ただし維新前の状況や留学途上の体験談が組み込まれているからといって、その文章全体が福沢の執筆であると即断はできない。というのもその部分だけを福沢が加筆した可能性があるからである。

下局の三人目は渡辺(創刊時一八歳)であるが、彼の特徴は一言で言えば古くさい文体である。漢熟語が難しいのは波多野だが、彼の場合は文章が理解しにくいわけではない。対して渡辺は「刃向かはんず有様なり」とか、「室内を歩きまはるか但しは文台の前に」とか、いちいち持って回った表現なのである。ここまでは全般的印象であるが、さらに確度を増す研究として、井田は渡辺の署名論説を素材として語彙・文体データを集めている。その結果を報告者なりに整理してみると、渡辺が「遑ま」「速か」「択ぶ」「倍々」「偖」「無し」「惹き」「盛ん」と表記するところを、福沢は「遑」「速」「撰ぶ」「益々」「扨」「なし」「引き」「盛」と書くことが多いという。

五 前石河社説群の起草者推定

語彙と文体による推定とはいえ、語彙についてはコンピュータの検索機能によって調べることができるものの、文体的特徴をデータ化して解析するのは難しい。図書館情報学の研究者である上田修一と安形輝が文体の特徴を数値化する方法を模索中(注20)であるが、実用化にはいたっていないとのことである。文体の特徴をも加味した推定は後の課題とすることにして、今回は主に使用語彙を検討することで起草者を探りたい。

起草者推定作業は、(一)起草者語彙の選定、(二)語彙使用社説の抽出、(三)推定起草者の判定の順に進行する。

まず(一)起草者語彙の選定については、井田の研究を参考にしつつ報告者が特徴的と見なした語彙を随時増補する。新たに特異な語彙が見つかればそれを検索することで、別の語彙との使用状況を確認できる。その語彙を起草者語彙と見なしてよいかどうかのあたりがつくわけである。

ついで(二)語彙使用社説の抽出として、例えば「冀望」「然りと雖ども」「視做す」等の福沢語彙が使われる社説を、前石河社説群中のテキスト化済み三三八日分を収めたフォルダ内検索によって選び出す。すると「冀望」は一四日分、「然りと雖ども」は四三日分、「視做す」は五日分(以上重複込み)で使用されていると分かる。とはいえ、これらの福沢語彙を含む社説全体を福沢が書いたと即断することはできない。というのも福沢語彙が使用されている部分だけを書き加えた可能性があるからで、こうした福沢が手を入れているが下書きは弟子が担当した社説を福沢直筆社説(カテゴリーⅠ)と区別するために、中上川語彙や波多野語彙でも同様の抽出作業をして、福沢語彙との重複使用が認められる社説を合作(カテゴリーⅡまたはⅢ)と見なすことにする。

例えば福沢の署名著作では使用例のない「韓廷」を中上川語彙とし、福沢語彙である「朝鮮政府」との重複使用を検索すると、一三日分の社説が抽出できる。これらは合作の可能性が高いわけである。同様に「清廷」(中上川語彙)と「支那政府」・「滿清政府」(ともに福沢語彙)について調べると、「清廷」(二五日分)・「支那政府」(七九日分)・「滿清政府」(一日分)という結果である。ちなみに「清廷」と「支那政府」の重複使用は一四日分で「滿清政府」との重複はない。この混用一四日分は合作と推定できるが、他の福沢語彙との重複が見られる場合があるため「清廷」のみ使用でも中上川単独とすることはできないし、逆に「支那政府」のみでもそれだけでは福沢単独社説と見なすことはできない。

最後に(三)推定起草者の判定であるが、(一)(二)が機械的に進めることができるのに対して、どうしても人間的要素が絡んでしまう。それがどういうことか(二)に立ち戻って記述しよう。

平成二五年八月一七日までの暫定的判定により、前石河社説群中テキスト化済み三三八日分は、(1)福沢語彙のみが検出できる社説一四六日分、(2)福沢語彙と非福沢語彙の両方が検出できる社説九三日分、(3)非福沢語彙のみ検出できる社説三七日分、(4)いずれの語彙も検出できない社説六二日分に区分できる。

前石河社説群全九三〇日分のうち明治版所収六〇日分、大正版所収一四〇日分、昭和版所収二三五日分、福沢直筆草稿発見済二一日分に加えてさらに福沢が全部書いた社説が三三八日分中一四六日分もあるというのは、いかにも多すぎる。こうなってしまったのは、中上川や高橋など平易な語彙を使う起草者との合作社説が福沢語彙のみが検出できる社説群に混入しているためと推測できる。福沢直筆を抽出するにはもう一工夫が必要なわけである。

これら福沢語彙のみが検出できる一四六日分の社説一編に含まれる福沢語彙は、一語から六語まであった。そのうち五二日分については一語を含むのみで、そこに福沢直筆がないとは断言できないものの、別人の下書きへの加筆に福沢語彙が含まれていた可能性が高いであろう。逆に三語以上含まれている社説が四一日分、うち本人以外には書けない福沢の経験が語られている社説が「文明の進路を遮ることなかれ」(18830806)、「黑船打ち拂ひ」(18840910)、「支那帝國に禍するものは儒教主義なり」(18850318)の三日分、さらに新発見の書簡(注21)により直筆と判明した社説が「数學を以て和歌を製造す可し」(18840111)の一日分ある。このようにふるいにかけることで一四六日分を四二日分にまで絞ることができた。

六 前石河社説群中の推定福沢直筆社説

福沢の執筆が推測できる社説四二日分の題名と掲載日、そして含まれる福沢語彙を以下に示すことにする。

  1. 「國会開設の準備」(18820318)三五、頴敏、之を譬へば、成跡
  2. 「言論自由の説」(18820329) 駁撃、然りと雖ども、知る可らず
  3. 「陸軍食費改正」(18820330) 在昔、冀望、知る可らず
  4. 「立憲帝政党の組織を論ず」(18820408-1) 然りと雖ども、身躬から、冀望、成跡
  5. 「花房公使赴任」(18820420)然りと雖ども、冀望、知る可らず
  6. 「郡區長公撰一」(18820620)然りと雖ども、冀望、際限ある可らず、捷徑
  7. 「郡區長公撰二」(18820621)然りと雖ども、際限ある可らず、視做す、知る可らず
  8. 「郡區長公撰三」(18820622)然りと雖とも、之を譬へば、成跡、氣の毒、官民調和
  9. 「人和論」(18820817)繁多、落路、國事多端、官民調和
  10. 「朝鮮開國の先鞭者は誰そ」(18821214)談天彫龍、彷彿、支那政府、實學
  11. 「参議長を置くの風説」(18830110)譬へば、成跡、直段、知る可らず
  12. 「政談の危険は人に存して事に在らず」(18830228)之を譬へば、駁撃、繁多
  13. 「日本人民の政治の思想」(18830410)實學、盲目千人、目あき一人
  14. 「文明の交通法は必ずしも高尚ならず」(18830505)身躬ら、然りと雖も、成跡、捷徑、囂々、視做す
  15. 「清佛の談判如何」(18830706)輻輳、支那政府、恣にする、喙を容る
  16. 「江越鐵道敷設に就ての問題」(18830716)然りと雖も、頴敏、輻輳
  17. 「文明の進路を遮ることなかれ」(18830806)甲鐵、懈怠、氣の毒〔福沢の経験談〕
  18. 「伊藤參議の心中喜憂孰れか大なるや」(18830829)憂患、身躬ら、鬱散
  19. 「数學を以て和歌を製造す可し」(18840111)然りと雖も、〔福沢書簡により〕
  20. 「大に鐵道を布設するも商業顛滅の来る気遣ひなし」(18840303)然りと雖も、三五、譬へば、懶惰
  21. 「公債證書騰貴の辯」(18840404)三五年、然りと雖も、気の毒
  22. 「外國人に公債證書を所持せしめて安心あらば会社の株券を所持せしめても安心ならん」(18840419)三五、無妄、决して然らず
  23. 「日本教法の前途如何」(18840618)際限ある可らず、信向、氣の毒
  24. 「税法の未来を想像して今日を警しむ可し」(18840626)然りと雖とも、會釋に及はず、視做す
  25. 「餘り長きに過ぐることなかれ」(18840724)、氣の毒、閑を偸まん
  26. 「東洋國」(18840906)然りと雖とも、輻湊、在昔、支那政府
  27. 「黑船打ち拂ひ」(18840910)然りと雖とも、支那政府、大機關〔フランス公使ベレクルの逸話は『福翁自伝』に転用〕
  28. 「滿清政府を滅ぼすものは西洋日新の文明ならん」(18840916)滿清政府、然りと雖ども、成跡、在昔
  29. 「黴毒の蔓延を防止すべし」(18841014)然りと雖ども、在昔、視做す、
  30. 「外情を知らざるの弊害恐る可し」(18841020)、扨々、知る可らず、氣の毒、支那政府
  31. 「開國の準備遲々すべからず」(18841022)坐作、氣の毒、莫逆の朋友
  32. 「商機一刻價千金」(18841031)喙を容る、折節、緩巖
  33. 「其利を享る者に其費用を均分すべし」(18841117)然りと雖とも、三五、鄙見
  34. 「談判は有形の實物を以て結了すること緊要なり」(18850105)慥に、羸弱、冀望
  35. 「日本男兒は人に倚りて事を爲さず」(18850112)朝鮮政府、在昔、懶惰、喙を容る
  36. 「主戰非戰の別」(18850128)妄慢、榮辱、支那政府
  37. 「國權擴張は政府の基礎たり」(18850202)際限ある可らず、知る可らず、然りと雖ども、支那政府
  38. 「朝鮮に行く日本公使の人撰」(18850213)冀望、支那政府、喙を容れ、情誼
  39. 「未だ安心す可からす」(18850214)决して然らず、朝鮮政府、支那政府
  40. 「日清談判、英國の喜憂」(18850310)然りと雖とも、之を視れば、損毛、榮辱
  41. 「支那帝國に禍するものは儒教主義なり」(18850318)鼓腹、撃攘、繁多〔福沢の漢学修業〕
  42. 「朝鮮變亂の禍源」(18850331)成跡、放頓、入組

先にも書いたように、直筆らしき社説はこれ以外にもある。起草者語彙の選定がより洗練され、さらに文体による判別方法が確立されれば、今後その精度を高めることは可能となろう。

七 推定福沢直筆社説の概観

前節に掲げた社説四二日分を一瞥して、大正版・昭和版・現行版と三度に及ぶ社説採録事業が実施されたにもかかわらず、福沢健全期全体の五分の一にも満たない創刊以来三年一ヶ月という短い期間に、すでにこれだけの推定直筆社説があるという事実を受け入れられない向きもあろう。とはいえ昭和版刊行以後八〇年の間に二一日分の直筆草稿が出てきているのだから、草稿が残らなかった直筆社説がさらに四〇日分以上あるとしても不思議ではないのである。

これら四二日分の社説について概説するなら、創刊当初の明治一五年(一八八二)三月から七月までは、前年の明治一四年一〇月に発せられた「国会開設の詔」を受けて、来たるべき議会政治についての提言を行っている。詔によって明治二二年の議会開催が確約されたが、国民はそれまで安閑としていてよいわけではなく、国家の主体としての自覚を高めないといけない、そうでないと維新前のような、ただ政府に牧せられる存在になってしまう、というのである。

その前提として必要なのは言論の自由でありまた自治の精神であるという主張が①②④⑥⑦⑧で展開されている。そのうち①は半月後に連載が開始された署名著作『時事大勢論』(連載 1882040518820414)の、②は五月から連載され、当局の圧力で刊行できなかった『藩閥寡人政府論』(連載 1882051718820617)の原型になっている。また④は議会政治を見越して当局の肝いりで作られた立憲帝政党を批判した社説で、昭和版所収の「立憲帝政党を論ず」(1882033118820402)の続編である。政党が皇室の名を騙ると天皇の政治責任を惹起しかねないという危機意識は、『帝室論』(連載 1882042618820511)を導いている。また⑥⑦⑧は、それまでの福沢の立場からはあるいは意外かもしれないが、選挙によって地方の首長を選ぶようにしても、その首長は中央政府に従属してしまう可能性が高いので、導入は時期尚早だという結論になっている。ではどうすればよいのか、という疑問に答えようとしたのが⑨で、その後の『時事新報』のモットーとなっている官民調和の必要を説くものである。

明治一五年七月に勃発した朝鮮壬午軍乱によって、明治七年に結ばれた江華島条約以来の日本の対朝鮮政策は無効になってしまった。文明の形だけを無理強いしても反発を招くだけだからまずはその精神の理解を得るところから、というのが福沢の考えで、⑩では朝鮮人に西洋実学の主義を移入するように努めるべきだ、という提言がなされている。それは当初は漢城に慶応義塾の分校を設ける試みとなったが、明治一六年春には頓挫して、代わりに多数の朝鮮人留学生の慶応義塾への受け入れへと変更された。

日本人の政治意識の低さが国会設置という国民への権力委譲の機会を無効にしかねないという危機意識によって、⑪⑫⑬⑰⑱では政治思想を深めることの重要性が説かれている。また⑭⑯⑳では、経済力を高めるために物資輸送の有力な手段である鉄道の敷設は無理をしても優先させなければならないことが書かれている。また⑮はベトナムをめぐる清国とフランスの対立が解説されていて、翌年の清仏戦争を予感させる社説である。

キリスト教の拡大に懸念を示していた福沢が、「宗教も亦西洋風に従わざるを得ず」(1884060618840607、昭和版所収)によって態度を豹変させたことはよく知られている。その理由は現行版『全集』の「時事新報論集」を掲載順に読んでも理解困難なのだが、未収録の㉓によって、その転換はフェアな競争は何よりも優先されるという考えに基づいていたことが明らかになった。経済活動における競争の重要性については福沢が幕末以来提唱してきたことだが、それを布教活動にまで拡大させたのである。キリスト教の浸透によって日本古来の信仰が滅びてしまうならば、それは歴史の必然にすぎず、そうなる危険性があるからといって布教の自由を認めないのはアンフェアだ、というのである。

さて、明治一七年は八月にとうとう清仏戦争が勃発、一二月には朝鮮で甲申政変が起こって日本外交にも多大の影響があった。㉖㉗㉘㉚㉛が前者に関わるもの、㉞から㊷までが後者に関係する社説である。ただしそこでの主張は穏健なもので、清仏戦争については局外中立を守るべきであり、また、甲申政変で清国軍により日本軍が損害を被ったからといって軽々に開戦してはならない、賠償請求に留めるべきだというのである。日本の軍事力の実力をよく承知していた福沢は、例えフランスへの加勢として参戦したとしても清国を屈服させるのは容易ではないと考えていたのである。それに、清国に利権を有していたイギリスがそちらを後押しするかもしれず、そうなったら継続中の不平等条約改正交渉も頓挫してしまう。国権の拡大は重要ではあるが、全てを失うリスクまで冒してしなければならない戦争ではないというのであった。

以上が前石河社説群に含まれる推定福沢直筆社説の概観であるが、今後本研究が進展するにつれて抽出の精度が高まり、さらに多くの福沢の逸文が発見されることになろう。

付記

本報告は日本学術振興会平成二五年度科学研究費補助金(研究種目:挑戦的萌芽研究、課題番号:25580020)、課題名「福沢健全期『時事新報』社説起草者判定」の一部である。

〔『近代日本研究』第三〇巻「研究ノート」・四〇〇字詰換算五〇枚・平成二五年一〇月二九日再提出〕

脚注

(1)
URL   https://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/
(2)
URL   http://project.lib.keio.ac.jp/dg_kul/fukuzawa_tbl.php  なお本サイトを学術研究に利用することには慎重であるべきとの見解もあり得るが、こと語彙の抽出を目的とする限りは一定の目安にはなるというのが報告者の立場である。
(3)

『時事新報』論説のじっさいの起筆者を推定する試みを提唱した井田進也の方法である。井田は中江兆民の無署名論説の判定での方法を福沢のものにも応用し、井田メソッドとでも言うべきものを確立した。関係論文は『歴史とテクスト―西鶴から諭吉まで』(平成一三年一二月・光芒社刊)で読むことができる。

そこで井田メソッドとはおおよそ以下のような方法である。まず(1)『時事新報』に無署名論説を書いた可能性のある社説記者の署名入りの文章を集め、その人ならではの語彙や表現、さらに文体の特徴をよりだす。ついで(2)無署名の社説と特徴を比較することでもともとの起筆者を推定する。さらに(3)福沢の書きぐせと一致する部分を探して福沢の添削の程度をみる。最後に(4)福沢の関与の度合いに応じて A から E までの五段階評価をおこなう、というものである。

そのランキングの基準はおおむね以下の通りである。

A 全面的に福沢の語彙データと一致し、表記および文体の特徴や言い回しに福沢とかけ離れた部分がないもの。福沢自身が起筆しそのまま掲載された文章と考えられる。

B 全面的に福沢の語彙データと一致するものの、表記および言い回しに福沢とは異なる点が見られるもの。演説筆記は速記者の表記の特徴がでてしまうし、口述筆記で成された論説も同様のことがいえよう。

C 大部分は福沢と一致するものの一部異なる語彙も用いられ、福沢が使わない表記や言い回しが現れるもの。

D 一部分は福沢と一致するものの語彙に不自然なところがあり、福沢が用いない表記や言い回しが現れるもの。

E 福沢の語彙データと全面的に一致せず、表記及び言い回しが不自然なもの。記者の単独起筆で添削も加えられていない文章である。

(4)
『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(平成一八年七月・高文研刊)Ⅰ「平山洋『福沢諭吉の真実』の作為と虚偽」(六八~一一八頁)、Ⅱ「井田進也『歴史とテクスト』の杜撰と欠陥」(一二〇~二〇九頁)、Ⅲ「日清戦争期の福沢諭吉―平山洋による「井田メソッド」の欠陥の拡大再生産」(二一二~三二四頁)。
(5)
「福沢諭吉の朝鮮問題―「文明主義」と「義侠心」をめぐって」、寺崎修編『福沢諭吉の思想と近代化構想』(平成二〇年一月・慶応義塾大学出版会刊)所収(第三章)。
(6)
『福沢諭吉 朝鮮・中国・台湾論集―「国権拡張」「脱亜」の果て』(平成二二年一〇月・明石書店刊)、解説「福沢諭吉と朝鮮・中国・台湾」(三二四~三八三頁)。
(7)
「研究文献案内―二〇〇七年から二〇〇八年へ―」『福沢諭吉年鑑』三五(平成二〇年一二月・福沢諭吉協会刊)一九七・一九八頁。「研究文献案内―二〇一一年から二〇一二年へ―」『福沢諭吉年鑑』三九(平成二四年一二月)一五五~一五七頁。
(8)

『アジア独立論者福沢諭吉―脱亜論・朝鮮滅亡論・尊王論をめぐって』(平成二四年七月・ミネルヴァ書房刊)一二〇頁。

ここで報告者が無署名論説を区分する場合に用いるカテゴリーとは、

Ⅰ福沢がすべてを執筆した「福沢真筆」

Ⅱ福沢が立案して社説記者が下書きをし、さらに福沢の検閲を経た「福沢立案記者起稿」

Ⅲ記者の持ち込み原稿を福沢が添削を施した「記者立案福沢添削」

Ⅳ全面的に記者が執筆して福沢はまったく関与していない「記者執筆」

の四つのことである。

なお社説のカテゴリー分類については、竹田行之による以下の先駆的研究がある。「〔解題2〕「時事新報論集」について」『福沢諭吉年鑑』二二(平成七年一二月)二五~二八頁。

(9)
平成一六年八月、文芸春秋社刊。
(10)
『アジア独立論者福沢諭吉』の第一一章「『時事新報』の論調は、対アジア強硬論一辺倒か」の6「杉田聡は井田メソッドの達人である」および7「杉田の石河へ抱く盲目的愛は、安川のそれよりもなお深い」(二七三~二八二頁)を参照のこと。
(11)
掲載日をアラビア数字八桁で示す。同日に二編あるときは、-1、-2 を付記して区別する。本報告では社説の題名とそこで使われている語彙のみ旧字体とする。
(12)
石河幹明著『福沢諭吉伝』(昭和七年四月・岩波書店刊)第三巻二三八頁。
(13)
『箒のあと』(昭和一一年七月・秋豊園刊)上巻七一頁。
(14)
現行版『全集』第八巻七頁。
(15)
石河著『福沢諭吉伝』第三巻二三八~二三九頁。
(16)
『箒のあと』上巻七一頁。
(17)
『アジア独立論者福沢諭吉』第七章。
(18)

本報告が福沢語彙として抽出している語彙は以下の通りである(本報告登場順・カッコ内は署名著作における出現回数)。

身躬から(41)、視做す(9)、冀望(22)、在昔(64)、一系万世(2)、然りと雖ども(220)、之を譬へば(13)、果たして然らば(27)、三五(10)、落路(4)、際限ある可らず(2)、決して然らず(83)、會釋に及はず(3)、惑溺(31)、朝鮮政府(1)、支那政府(7)、滿清政府(3)、頴敏(9)、直段(27)、成跡(58)、駁撃(3)、知る可らず(10)、捷徑(1)、氣の毒(99)、官民調和(5)、甲鐵(6)、懈怠(1)、憂患(6)、鬱散(4)、繁多(60)、國事多端(7)、談天彫龍(1)、彷彿(14)、實學(19)、盲目千人(4)、目あき千人(1)、囂々(5)、輻輳(6)、恣にする(15)、喙を容る(31)、懶惰(33)、無妄(8)、信向(14)、閑を偸まん(1)、大機關(6)、扨々(12)、坐作(5)、莫逆の朋友(6)、折節(23)、鄙見(10)、慥に(40)、羸弱(1)、妄慢(6)、榮辱(31)、情誼(3)、損毛(4)、緩巖(2)、鼓腹(4)、撃攘(2)、放頓(8)、入組(16)

これらが福沢語彙であるためには、①署名著作に使用例が存在すること、②福沢を除く起草者が使用していないこと、の二つの条件を満たす必要がある。①については既述のように確認済みであるが、②を確かめるのは容易ではない。というのは、福沢を除く起草者の署名著作(以下非福沢著作)を網羅的に調査するのは不可能であるため、その起草者がその語彙を「使っていなかった」ことは証明できないからである。とはいえ、できるだけのことをするという方針から、非福沢著作として、『中上川彦次郎伝記資料』所収の伝中上川著作、波多野承五郎著『高山彦九郎』(明治二六年)、高橋義雄著『拝金宗』(明治二〇年)、渡辺治著『警世私言』(明治二三年)に上記の語彙が出現するかどうかを調査した。現在のところ報告者が福沢語彙として抽出した用語は発見できていない。

さらに福沢語彙の妥当性を測るため、前石河社説群中の直筆草稿残存社説(二一日分)での当該語彙の検出状況を以下に示す。

「立憲帝政党を論ず」(18820401)輻輳、在昔、之を譬へば

「懸直論を恐る」(18820814)扨

「大院君の政略」(18820815)視做す

「出兵の要」(18820818)冀望

「朝鮮の事に關して新聞紙を論ず」(18820819)然りと雖ども、冀望、鄙見

「兵を用るは強大にして速なるを貴ぶ」(18820826)三五

「尚自省せざる者あり」(18821206)駁撃

「漢學の主義其無效なるを知らざる乎」(18830308)繁多、視做す

「不虞に備豫するの大義忘る可らず」(18830618)之を譬へば

「商人に告るの文」(18831016)〔非検出〕

「私立學校廢す可らず」(18840207 ・ 1884208)扨、冀望、在昔

「佛法の運命如何」(1884022618840227)成跡、扨

「不景気に狼狽する勿れ」(18840401)之を譬へば、慥に、然りと雖ども

「海外に日本品賣弘の説」(18840418)直段

「兵役遁れしむ可らず」(18840730)冀望

「人民一般に世界万國の思想を養うこと緊要なり」(18840805)成跡、然りと雖ども

「佛清事件臆測論」(1884082718840828)然りと雖ども、三五

「支那の談判は速ならん事を祈る」(18850120)榮辱、扨、際限ある可らず

(19)
「大正版『福沢全集』「時事論集」所収論説・演説一覧」『アジア独立論者福沢諭吉』後一六~二九頁。
(20)
「『時事新報』初期の社説の著者推定」『三田図書館・情報学会研究大会発表論文集二〇〇七年度』五七~六〇頁。また安形輝「圧縮プログラムを応用した著者推定」『 Library and Information Science 』五四号(平成一七年三月・三田図書館情報学会刊)一~一八頁。
(21)
「明治一六年一二月二六日付安永義章宛書簡」(書簡番号二五一八)『福沢諭吉書簡集』第九巻(平成一五年一月・岩波書店刊)二六〇頁。本書簡には、福沢は三日前から工部大学校卒業生である安永から聞いた和歌に関する話をもとに起草していて、それは明治一七年一月の社説欄に掲載される予定である、とある。この記述により「数學を以て和歌を製造す可し(前日の続)」(18840112)も直筆となるが、テキストファイル化していないため一覧には入っていない。