石河幹明は福沢諭吉を「騙った」か―石河明子氏に答える―

last updated: 2019-07-31

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平山氏からの依頼により「石河幹明は福沢諭吉を「騙った」か―石河明子氏に答える―」を掲載します。

本文

はじめに

歴史的問題について扱っているつもりでも、今現在の事案とかかわっていて、結果思わぬ事態に遭遇することがある。平成一六年(2004)八月に刊行された『福沢諭吉の真実』(文春新書・以下『真実』)をめぐる事態がそれで、刊行後一五年を経過しているにもかかわらず、未だに物議をかもしていることに驚きを禁じ得ない。

ことの発端は今(令和元年六月)からちょうど三年前の平成二八年(2016)六月二九日に届いた一通の電子メールである。差出人は文藝春秋社の吉地真(きちじまこと)新書部長(当時)で、そこには、『福沢諭吉伝』の作者で大正版・昭和版正続『福沢全集』の編纂者である石河幹明の孫娘の明子という人物から、「なぜこのような本を発行されたのか」ということについての返答を求められている、とあった。私は石河明子という名前に聞き覚えがなく、また、先方が何を求めているのかについても皆目見当がつかなかった。

数回のメールのやりとりにより、先方は暗に『真実』の絶版を望んでいることが分かった。『真実』は石河幹明の遺族の目からすれば面白くない部分があるのは確かで、苦情も無理からぬところではある。というのも、例えば『真実』のカバー裏には、

日本の文明開化を先導した偉大な思想家福沢諭吉は、アジアを蔑視し中国大陸への侵略を肯定する文章をたくさん残している。それを理由に福沢を全否定しようとする動きも絶えない。確かに現在も刊行されている福沢の全集にはその種の文章が多数収録されている。しかし、それを書いたのは本当に福沢本人なのか。もし、誰かが福沢の作品ではないものを福沢の真筆と偽って全集にもぐりこませていたとしたら…。この巧妙な思想犯罪の犯人は一体誰なのか。

と、またオビ裏には、

現行の『福沢諭吉全集』は慶応義塾が編纂し、日本を代表する出版社岩波書店から刊行された。また、やはり岩波書店から出版された『福沢諭吉伝』も慶応義塾が企画したものである。つまり、両者とも福沢研究の基本的な資料として完璧なものと見える。現に福沢を評価するにしろ批判するにしろ、これらを用いない研究者は存在しない。しかし、この全集と伝記は本当に信用できるのだろうか。両方にかかわったある人物、現在ではその履歴さえほとんど忘れられている石河幹明という人物の中にひっそりと燃えていた暗い情念が、偽りの福沢諭吉像を造りだしていたとしたら……。

とあって、これらの文章を読むかぎり、私が石河幹明を思想犯罪の犯人としているようにも受け取れるからである(注1)。 ただ、具体的に本文中のどの部分が名誉棄損にあたるのか、私には思い当たるふしがなかった。

先方への返信の内容を詰めるために自宅近くの喫茶店で吉地部長と面会したのは七月一三日のことで、打ち合わせの結果、歴史的人物の評価については事実誤認でないかぎり名誉棄損は成立しないのではないかということになったが、一応、相手の心情を慮った丁寧な返信を出していただくことにした。吉地部長との面会後にも文春新書部と先方の間では幾度か書簡のやり取りがあったようだが、特段、進展がなかったので、私としてはそのまま問題は終結したものと考えていた。

ところがそうではなかったのである。石河明子著『祖父幹明と福澤諭吉/水戸っぽの頑固―未亡人、里からの聞書き』(以下『石河幹明伝』)なる書籍が平成三〇年(2018)九月に鎌倉市の「銀の鈴」社から刊行されていて、その本に『文春新書「福沢諭吉の真実」平山洋著における不審点』という冊子が付されているのを知ったのは平成時代が終わろうとしている本年四月のことであった。

本論考はこの石河幹明の初めての伝記がもつ意義を明らかにしたうえで、作者による『真実』の不審点への応答を行うことを目的とする。

1.作者が『石河幹明伝』の執筆を思い立つまで

福沢諭吉を研究するにあたって誰もが利用してきた全集の事実上の編纂者にして『福沢諭吉伝』の著者でもある石河幹明の伝記は、永らく待ち望まれてきた著作といってよい。私も『真実』の原型『時局的思想家福沢諭吉の誕生―伝記作家石河幹明の策略』(注2)を執筆していた平成一三年(2001)から平成一五年にかけて幹明の事績をできる限り調べようとしたのだが、一般的な近代日本人名辞典の記述以上のことは分からなかった。この度刊行された『石河幹明伝』は長年の謎を解き明かす著作として重要な位置を占めるものである。

先にも触れたように、その作者石河明子の名を、文春社からメールが来るまで私はまったく知らなかった。吉地部長の話では、先方が『真実』がけしからんとする理由の一つに、遺族への断りもなく出版したという点があったのだが、私はかねてより幹明の直孫である裕と連絡があったため、その苦情に奇異の念を覚えていた。吉地部長によれば明子は幹明の息子である明夫の娘とのことで、それならば確かに直孫である。手元にある平成三年度の藤沢三田会『会員名簿』によれば、石河明夫は昭和一一年(1936)経済学部卒業とあり、また私の知る石河裕は昭和三八年(1963)商学部卒業とある。両者の住所は神奈川県藤沢市鵠沼の極めて近い場所にあって、裕の父幹武は藤沢三田会の三代目の会長であることから、幹明は別荘としていた鵠沼の土地を分筆して相続させたようにも思われた。なお、明夫の娘であるという明子(以下作者)の名前はこの名簿には掲載されていない。

ネットで検索してみると、明夫には一冊だけ『手向けの花』(昭和一一年刊)という編著書がある。国会図書館のデジタル資料でその著作を呼び出したところ、昭和一〇年(1935)に他界した石河幹明・里夫妻の娘富士子の追悼文集で、弟である明夫が編纂したものであった。追悼文集には石河幹武も寄稿していて、そこには富士子は従兄妹にして義妹と記されていた。つまり石河幹武は幹明の兄の子で、裕の母が幹明の娘ということになる。それまで私は幹武を幹明の実子と思い込んでいたのだが、それは完全な誤りで、実際は女婿なのであった。それゆえ、『真実』刊行翌年の私の発言、

私は神奈川県藤沢市の出身で、同窓会は藤沢三田会に所属しています。じつはこの同窓会を組織した有力メンバーが、石河幹明のご子息で、三井銀行専務や日本航空副社長などを歴任された幹武さんでした。彼は三代目の藤沢三田会長で、ご子息は今でも私の家から数百メートルのところにお住まいです。ご先祖さまをあんな風に書いてしまって、本当に申し訳なく思っているのです。(『表現者』第三号(二〇〇五年一一月・イプシロン出版会)七〇頁)

にある「石河幹明のご子息」は「女婿」に訂正されねばならない。

ところでこの誤解に関して、文春社からのメールが届く半年ばかり前から、ウィキペディアの「石河幹明」の項目とアマゾンの『真実』のレビュー欄に変化が起きていることに私は気づいていた。まずウィキペディアについては、平成二七年(2015)一二月一六日付で息子の名前が幹武から明夫に修正されている。この修正は正しいわけだが、Kzha2015なる編集者は赤字となっていることから、未登録の参加者であることがわかる。また、アマゾンの『真実』ページに「信頼できない本」として星一つのレビューが載ったのは翌平成二八年三月二九日(すなわち最初のメールの三か月前)のことで、そこには、

信頼出来ない本です。著者は石河の遺族に連絡せず、遺族側の資料をすべて無視して書いていることが確認されています。著者は「石河の伝記となると皆目見当がつかない」と言い切っていますが、石河は入社前は尋常小学校校長、茨木県会議員であり、入社後は交詢社常議員長、徳川家評議員等の肩書を持ち、娘は諭吉の孫に嫁いでいます。また、「福沢は石河をつまらぬ男と思っていた」という事実も証拠もなく、この言葉は著者の創作です。著者は石河の経歴を未調査、あるいは削除した上で、妬み、嫉み、出世欲などと言う感情を勝手に想像し、自説に都合の良い犯人を創作しているのです。

また石河を悪人とする証拠として、脳梗塞発作後の諭吉は口もきけず字も書けなかったと言っていますが、発作後の1900年の正月に諭吉は「独立自尊迎新世紀」という書を何枚も書いており、諭吉の研究者なら知らぬはずがありません。著者は自己の説に固執するあまり、不利な証拠を無視し、憶測のみで石河を悪人であると主張しています。石河が諭吉の名を騙ったと言いながら、自身が諭吉の言葉をすりかえ、資料を無視しているのです。週刊誌のような汚い言葉使いも見苦しく感じます。初めから偏見を持ち、自説を正当化するために資料を取捨選択するのは研究者にあるまじき行為だと思うので、この本を信用できません。

とある。投稿者名には葛葉とあって、先にウィキペディアを編集したKzha2015と同一人であるのは明らかである。アマゾンのページをたどってみると、葛葉のウィッシュリストには果たして石河明子と本名が掲載されていた。このレビューは後に扱う『文春新書「福沢諭吉の真実」平山洋著における不審点』(以下『不審点』)の要約と言ってよく、作者がいつ頃『真実』を読んで幹明の伝記を書こうと思い立ったのかについての有力な手掛かりを与えてくれる。

そこで『不審点』の内容の検討とそれらへの反論は後に回すことにして、まずは『石河幹明伝』の内容と意義について述べることにする。

2.待ち望まれていた『石河幹明伝』の刊行

この伝記は定価が明記されているにもかかわらず私家版の扱いで、現在のところアマゾンでも入手できない。版元は神奈川県鎌倉市佐助一-一〇-二二の株式会社銀の鈴社である。同社ホームページでも売り切れとなっていることから、入手は困難である。ネットで調べたところ、大学図書館の所蔵は慶應義塾大学に二冊、公立図書館では水戸市立図書館に一冊、茨城県立中央図書館に二冊の配架を確認できたのみである。私も勤務校の図書館の協力を得てようやくそのうちの一冊を借りることができた。

書誌の詳細は、タイトル:『祖父幹明と福澤諭吉/水戸っぽの頑固―未亡人、里からの聞き書き』、著者:石河明子(一九四九年~)、出版社:銀の鈴社(鎌倉)、出版年月日:二〇一八年九月二五日、大きさ・容量等:全一五〇頁/図版一六頁/二〇cm+付録三一頁、付属資料: 三一頁/文春新書『福沢諭吉の真実』平山洋著における不審点、価格:二〇〇〇円、である。

また同社ホームページによれば、目次は、1水戸っぽの頑固/2生い立ちなど/3時事新報記者時代/4時事新報主筆時代~当時の生活・明治から大正の里の思い出話~/5時事新報退社と関東大震災「時事新報退社始末」/6『福沢諭吉伝』執筆/7晩年の幹明/8その他の話残された品/9悪人説への反論/10終わりに/あとがき/附石河家系図/協力/参考文献/パソコン資料、となっている。このうち9の内容が『不審点』として別冊化されているわけである。

その『不審点』の冒頭には、次のようにある。

祖父幹明の生涯「水戸っぽの頑固」を書くきっかけとなったのは、あまりに事実に反する記述の多いこの本が新書と言う一般の人の眼に触れる形で出版された事でした。

知人に知らされ、読んでみたのは、出版されてから数年も経った頃。

著者は遺族に何のことわりもなく、このような本を出版したのです。(『不審点』二頁)

先にも書いたように、私は作者の従兄にあたる裕とかねてより交流があったので、この記述は正しくない。作者の実家のすぐ隣に住んでいた裕には『真実』の出版を予告し、また刊行直後に寄贈もしている。結局作者は自分のところに挨拶がなかったのは不満だと言っているにすぎないのだが、それより不思議なのは、刊行直後にかなりな程度まで話題となった『真実』について、作者が知ったのがおそらく平成二七年(2015)になってから、という事実のほうである。一一年もの間、近しいはずの親戚からさえ『真実』の刊行を知らされることがなかったことになるのである。

時間の経過はさておき、ともかく『真実』を知ったことをきっかけにして『石河幹明伝』が書かれたことはまことに喜ばしいかぎりである。というのは、この伝記によって、今まで知りたいと考えていながらかなわなかった人間関係がはっきりしたからである。個人情報保護の観点から、近年では個人の戸籍の調査が著しく困難になっている。私は福澤諭吉協会会員として、また慶應義塾福沢研究センター客員所員として関連資料へのアクセスについては有利な立場にいるのだが、それでも両機関に提供され、かつ閲覧を許された資料しか見ることを許されていない。戸籍調べは事実上子孫にしかできないことで、直孫の手になる『石河幹明伝』の完成によりその困難が解消したことには大きな意義がある。

その最たる例が幹明と妻里の結婚のきっかけについてで、かねてより桜田門外の変の首謀者の一人である関鉄之助の姪である里が石河明善の甥である幹明と結婚したことについて釈然としないところがあった。というのは、明善は鉄之助が属する天狗党(反幕派)と対立していた諸政党(佐幕派)の一員で、桜田門外の変の後、幕府に協力して犯人の捕縛に協力するべきだという上申書を書いているほどなのである。家同士は旧幕時代には敵対派閥に属していたであろう二人がどのようにして回り逢ったのかについて、今までその真相を知る手立てはなかった。明かされてみれば要するに、里の父関恕は明治以後水戸の実業家になっていて、共通の知人である松木直己(後述)を介して知り合ったらしい、というただそれだけのことなのであった(シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』風のドラマを期待していた私としてはいささか拍子抜けではあるが)。

また、慶應義塾入学前の水戸時代の交友関係についてより詳しい情報が得られたのは収穫であった。後にも触れることだが、作者も指摘するように『真実』のこの部分の記述は簡略に過ぎるきらいがある。というのは、水戸時代が含まれる『真実』第一章、四百字詰原稿用紙にして約四五枚は、もともとは原型の第一章から第四章まで約二四〇枚分を五分の一程度にまで圧縮したものであるからである。明治一一年(1878)に福沢の弟子で元中津藩士の松木直己が水戸の師範学校に赴任し、そこに在籍していた渡辺治・高橋義雄・井坂直幹・石河幹明の四名が、卒業後は福沢が創刊する予定の新聞社への入社含みで慶應義塾に給費生として入学したのは明治一四年(1881)のことであった。『石河幹明伝』によれば松木の妻は明善の娘とのことで、幹明とは義理の従兄弟の関係となる。また、その松木の妹は明治二二年に井坂に嫁ぐことになるので、幹明とも姻戚関係があったことになる。こうした人間関係は従来までは知られていなかったことである。

私としては『石河幹明伝』の3「時事新報記者時代」と6「『福沢諭吉伝』執筆」が関心の中心となるのであるが、そこに事実関係についての新たな情報はなかった。ただ、各所に私との見解の相違が見られるので、それらについては後に触れることにする。作者として力を込めて書いたのは、おそらくは4「時事新報主筆時代~当時の生活・明治から大正の里の思い出話~」と5「時事新報退社と関東大震災『時事新報退社始末』」である。扱われている明治三二年(1899)から大正一二年(1923)までの四半世紀、すなわち四〇歳から六四歳までの期間は、ジャーナリスト石河幹明の絶頂期である。しかしながら福沢諭吉本人の思想研究に資する部分はほとんどない。あえていえば時事新報社史や日本ジャーナリズム史に貴重な材料を与えてくれるということにはなろう。

3.本文9「悪人説への反論」への応答

そこでいよいよ『真実』批判の中心に進むのであるが、それを私が唱えているのですか、と思わず問いたくなる。その石河幹明悪人説なるものの由来については、すでに別のところで書いた(注3)。 『真実』の刊行直後に毎日新聞の取材を受けた飯田泰三法政大学教授(当時)が、主に福澤諭吉協会の会員に宛てて発信したEメールの中で使われたのが最初である。手元に全文テキストファイルがあるので断定できるのだが、私は悪人という言葉を一度も使っていない。『真実』の主眼は、幹明は『福沢諭吉伝』執筆と『続全集』編纂にあたって「不誠実」な仕事をした、というに尽きる。そしてこの場合の「不誠実」とは幹明の人格に関することではなく、「故意」に福沢直筆社説を『続全集』非収録とする一方、自らの社説は採録することで『福沢諭吉伝』第三巻の記述を歪めた、ということである。これが私の主張なのであるから、幹明は悪人ではなくて善人だった、などという反論をするのはそもそも無意味なのである。

『石河幹明伝』の「悪人説への反論」と『不審点』の試みはとりたてて目新しいものではない。そもそも『真実』への批判の蓄積はすでに相当な厚みがある。一番大規模なのは安川寿之輔著『福沢諭吉の戦争論と天皇制論―新たな福沢美化論を批判する』(二〇〇六年七月・高文研刊)で、本文三七一頁中のほぼ二六〇頁分までが『真実』一冊の批判に充てられている。また杉田聡編著『福沢諭吉 朝鮮・中国・台湾論集―「国権拡張」「脱亜」の果て』(二〇一〇年一〇月・明石書店刊)の編者による「解説 福沢諭吉と朝鮮・中国・台湾」もまたほぼすべてが『真実』への批判となっている。この二冊については、私の『アジア独立論者福沢諭吉―脱亜論・朝鮮滅亡論・尊王論をめぐって』(二〇一二年七月・ミネルヴァ書房刊・以下『アジア独立論者』)の第Ⅲ部「ありがちな批判に答える」ですでに応答済みである。

単発の論文等への反論としては、米原謙が『真実』刊行直後(二〇〇四年一〇月)にネットに投じた書評に答えたのが「誰が『尊王論』を書いたのか」(前掲書第Ⅳ部第十四章・初出二〇〇七年三月)である。また、平石直昭「福沢諭吉と『時事新報』社説をめぐって」(注4) への反論が「石河幹明が信じられない三つの理由―『福沢諭吉全集』「時事新報論集」の信憑性について」(前掲書第Ⅳ部第十五章・初出二〇一一年三月)である。さらに、都倉武之「福沢諭吉における執筆名義の一考察―時事新報論説執筆者認定論への批判」 (注5)への応答は、拙論「石河幹明は不誠実な『仕事』をした―都倉武之論文への応答とその他のことども」 (注6)にある。

作者が本章「悪人説への反論」を書くにあたり主に参照したのは、巻末の参考文献にも掲げられている竹田行之の講演再録「ジャーナリスト福澤諭吉」 (注7)であると推測できるが、元は岩波書店の編集部長であった彼には『真実』の主張を何としても否定しなければならないという職務上の要請があった。というのは、彼は私が批判する幹明編の『続福沢全集』を基にして作られた現行版『福沢諭吉全集』の担当編集者でもあって、私の仕事を認めることは学士院賞を受賞した『福沢諭吉全集』の権威を傷つけてしまうからである(注8)

竹田は現行版全集の信憑性を高めるため、主に幹明より下の世代の人々の証言を用いて彼の人間性を保証しようとするが、福沢存命時の時事新報社で幹明と共に働いていた人の話でない以上無意味である。それは、遺族が家庭人としての幹明を讃えたところで、それが職務に忠実であったことの証拠とはならないのと同様である。そんなことをするような人には見えなかった、ということは世上でもしばしば聞かれる残念な事実なのである。

作者は脳卒中後にも福沢が社説の立案をしていたことの証拠として、次のようなエピソードを紹介している。

脳梗塞で諭吉が倒れたのち、しばらくは筆談で、幹明が諭吉の意を汲んで社説を書き、発表するということが行われました。「諭吉の意を汲んで石河起草」、諭吉の言いたい事を幹明が自分の言葉で書いた、という事です。(一二六頁)

この記述はおそらく、『続全集』の「付記」の「先生は病後も私に筆記せしめられたものがある。即ち本篇中の「先生病後篇」と題する七十余篇がそれである」(昭和版第五巻七三七頁)に由来している。私は『真実』の原型を執筆していた平成一三年(2001)頃に、それなら病後社説の立案メモがどこかに残されているに違いない、と福沢関連のマイクロフィルムを調査し、また福沢センターに問い合わせたのでもあったが、ついに一つの紙片さえ見つけることができなかった。

また、3「時事新報記者時代」のこととして、新聞バックナンバーに○や×の印が付されたものがあることについて、「たとえ震える手で書かれた○、×であろうと、家族や部下にとっては、病人からの大事な意思表示でしょうし、まして、このように諭吉は筆を持ち、文章を綴ることが出来ているのです」(五〇頁)と、作者は印が福沢の手により病床で付けられたように記している。だがこれは『福沢諭吉伝』の執筆過程で幹明によってなされたものである。というのも、印が付された病後七七編には、福沢没後に発表された社説が含まれているからで、いかに福沢でも自らの死後に発表された社説をチェックすることなど不可能だからである。

作者がかくも病後に福沢が立案した事実にこだわるのは、おそらくは幹明が福沢を騙ったとする『真実』への反論として有効だと考えるからであろう。「はじめに」にも「最近は福澤諭吉ブームに乗じて「石河は諭吉の名を騙った」というひどい説も出て来ています」 (注9)(五頁)とあって、本章「悪人説への反論」は幹明による「騙り」ではないことを証明するべく書かれているのである。ところが作者には誤解がある。それがどのような意味においてかを説明する前に、まずは私が「騙り」をいかなる意味で使っているかについて確認してみよう。

『真実』における「騙り」の用例は次の二例である。まず第一は、中国人を蔑視してはならない、という社説「支那人親しむ可し」の原型となる講演を引用した直後の、

これが脳卒中の発作に倒れる半年前の福沢のまさに「肉声」なのであった。こうした発言が、本書で明らかにしてきた福沢の思想とは一致し、一方石河が福沢を騙って書いた多くの無署名論説とは整合しないことは、誰しもが同意できることではなかろうか。(『真実』一六五、一六六頁)

という部分である。福沢が関与した証拠がある社説にはアジア蔑視の侵略論は見られないのに、幹明起筆の社説には出現するのはおかしい、という文脈で使われている。

また第二は、安川寿之輔が批判するアジア蔑視の表現がどこに出てくるかを扱った部分で、

安川の例示する記述は昭和版『続全集』から抽出されていることが多いので、「アジアへの侮蔑・偏見・マイナス評価をたれ流した張本人」は福沢を騙った石河である、という私の主張は、ますます補強されるように思われる。『福沢諭吉のアジア認識』の資料篇は、どの論説が福沢のものでは「ない」かについての貴重な示唆を与えてくれる。(『真実』一六九頁)

と、私の言う「騙り」は、病後七七編ばかりでなく、『続全集』全体について言っているのである。それゆえ病後についていくら立案の証拠があるといっても、それは反論として無意味なのである。

私が「石河が福沢を騙っ」たと書いたのは、幹明が自分で書いた社説を何の断りもなく『続福沢全集』に収録したことによる。石河が福沢の代筆である旨の注記をした社説は大正版に一四編、昭和版に七七編ある。しかし問題は、それ以外にも多数の、おそらくは数百編にもおよぶ石河起筆社説が昭和版には収められているのに、そこに何の断りもないため、結果として福沢の社説として流通してしまっていることである。こうした事態を「騙り」という以外の表現であらわすのは難しい。

たとえ福沢本人が書いたのではないとしても、幹明執筆の社説が福沢と同じ立場であるなら許されるのではないか、という意見もあり得るかもしれない。ところが、福沢が確実に関与した証拠がある社説とそれ以外(その多くは幹明執筆と推定)とを比較した場合、そこには明確な立場の差が見られるのである。それを明かすのが『福沢諭吉のアジア認識』巻末の一覧表を用いて「安川が問題ありとする論説を、大正版『全集』に収録されているものと昭和版『続全集』に入っているものに区別して比較する」(『アジア独立論者』二一三頁)という方法で、結果は、

大正版「時事論集」所収社説で朝鮮を扱ったものはすべて独立支援に関するもので、朝鮮領有に触れている社説は一編も含まれていない。中国分割を提唱したものも、台湾割譲をテーマとしたものもない。安川が『アジア認識』資料篇で蔑視表現としていた「時事新報論集」分六六例(『福沢諭吉の真実』一七〇頁参照)にあたってみると、大正版所収社説としては次の四例が数えられる。(社説名省略)

現行版六六例の蔑視表現中、大正版が四例(ただし私の判定ではいずれも福沢執筆ではない)、昭和版が六二例というのは、収録全編数が大正版二二四編、昭和版が一二四六編という総数を勘案してみても、有意の差であろう。(『アジア独立論者』二一三、二一四頁)

というものであった。

アジア蔑視表現の出現率は大正版が一・八%であるのに対して昭和版は五・〇%と、約三倍の頻度になっている。また、大正版に収録されている時事新報社説由来の単行本にも安川から蔑視を指摘された用例はない。こうした差は、大正版の主たる起筆者が福沢であるのに、昭和版が石河であることに起因するとみなすしかない。第二次世界大戦後から現在まで連綿として続く左翼陣営の福沢批判は主として昭和版『続全集』所収社説を根拠にして唱えられているのであるが、それは石河が福沢を騙ったことによる風評被害といってよいのである。

4.別冊『文春新書「福沢諭吉の真実」平山洋著における不審点』への応答(一)

「悪人説への反論」への応答はこれくらいにして、次に別冊『不審点』への応答に移ることにする。前節に掲げたような研究の蓄積のため、すでにたいていの問題点は出尽くしていて、『不審点』にある指摘にも回答済みのことが多い。今更感は否めないのであるが、作者が挙示している一〇項目の疑問点に応答するのは研究史の整理にも役立つと思われるので、重複をいとわずにすべての点について答えたい。

その一 時事新報に係わった他の方々に対しては詳しい記述があるのに対し、著者は幹明についてのみ、何も調べていない。

作者は『真実』四七頁の記述をとりあげて経歴の調査の不十分を指摘するのであるが、伝記や自伝が存在していなかった幹明のとりわけ水戸時代(一八八〇年まで)について調べることは容易ではない。『真実』を書くに際し石河明善との関係については吉田俊純筑波女子大教授に問い合わせて『水府纂系』の確認をしていただいた。ほかは高橋義雄の自伝『箒のあと』にある幹明関連の記述を利用したため、「拡充師範学校教員・常陸太田小学校第三代校長・水戸下市小学校第五代校長」という作者が指摘する経歴が脱落することになった。とはいえそれらはおおよそ二二歳までの職歴にすぎず、省略したとしても立論に大過はないと考えられる。

また、東京に移ってからの「茨城県会議員・千代田生命取締役・徳川家評議員・交詢社常議員長・慶應義塾理事および評議員」については、慶應の役員であったことは『真実』(八八頁)にも明記されている。その他の職についてはほぼ名誉職といってよく、明治一八年(1885)から大正一一年(1922)までの時事新報の社説記者および主筆と比較してあまりに軽い位置づけでしかない。結局『真実』の瑕疵としては、明善の没年を間違えていることだけが明確な間違いで、それも立論とは無関係なことなのである。

その二 時系列を正しく並べず誤った推測をしている。

作者は『真実』五〇頁に関し、「1887年4月に中上川が退社した時点で次の主筆となる可能性」を検討し、その時点では「主筆を狙うにはあまりに経験不足」であるとして、「筆者(平山)が未調査、あるいは隠匿している幹明の経歴を考慮すれば、時事新報時代の幹明についての、他の方々への妬み嫉みなどという氏の推測はまったく的外れと思われます」(『不審点』七頁)としている。

ここには誤解があって、私が問題にしていたのは明治二〇年(1887)四月の時点ではなく翌年一〇月の内紛のことである。作者が指摘している部分を『真実』から引用するなら、

この『時事新報』編集部の内紛は、中上川の後任ポストを巡っての争いであるように思われる。八七年四月に中上川が退社した時点で次の主筆となる可能性があったのは、いずれも水戸出身で慶応入学前から旧知の仲であった渡辺・高橋・石河の三名であった。このうち高橋は福沢からその才能を高く評価されていたが、中上川がたどったのと同じ留学から実業界へというルートにより魅力を感じていた。そして実際帰国して後は、山陽鉄道から三井に移っていた中上川に引っ張られ、そこの重鎮となっている。

その高橋が八七年七月に福沢を振り切って時事新報社を去ったことが、次の波乱の原因となったのであろう。それはすなわちそれまで主筆の目のなかった石河と渡辺にも可能性が生じたということである。渡辺のほうが入社は三年早いが、年齢は石河のほうが五歳上である。自己評価は他者評価より必ず高い。いずれもが自分こそ主筆になるべきだ、と考えたとしても不思議なことではない。(『真実』五〇頁)

となっていて、私は石河の入社年次の遅れを正しく認識したうえで立論している。

明治二一年(1888)に幹明は数えで二九歳になっており、二七歳で主筆に就任した中上川彦次郎よりすでに二歳年長である。主筆として若すぎることはない。また、作者は主に高橋への妬み嫉みという推測はまったく的外れと述べているが、重複在職期間は二年にすぎなくても、三歳年少の高橋の評価は幹明を圧倒していたことは『真実』その他にも書いたとおりである。そうした評価の差に直面してそこに何の個人的感情の波乱も予期しないほうが難しいのである。

なお、「一八八八年一〇月のクーデタ騒動」(『真実』四〇、四一、五〇、五一頁)については、それだけを扱った論文「誰が『尊王論』を書いたのか」(『アジア独立論者』第Ⅳ部第十四章・初出二〇〇七年三月)があるので、そちらを参照してほしい。このクーデタ騒動において、少なくとも福沢本人は石河らによる恫喝があったと認識していたし、一時は彼らの退社を迫ろうともしていた。第二次世界大戦後に発見された中上川宛ての書簡にあるこのような裏事情を石河は知らなかったかもしれないが、ジャーナリスト福沢諭吉の立ち位置にも関係することであるので、石河は正直にクーデタの事実を『福沢諭吉伝』に記載するべきだったと思う。

その三 著者が遺族を無視しているため、人間関係がわかっていない。

幹明・松木・井坂三名の姻戚関係について『石河幹明伝』から新たな知識を得たことはすでに書いた。それはそうなのだが、『真実』執筆時にそれを知っていたところで立論に大きく影響を与えたとは思われない。紙数に制約のある新書という形式においては、何でも盛り込めばよいというわけではないのである。

その四 幹明は主筆の座をねらっていたのか。

もちろん狙っていた。これは決して悪意あっての表現ではなく、ジャーナリストを志す者として当然の意気込みを述べたものである。その証拠もある。それは、クーデタのさなかに書かれた「ほんとふに社説が出来る様になれば、老生は快く之に譲渡す積」(一〇月二二日中上川宛書簡)という一節で、幹明と渡辺は社説の実権を譲るように福沢に迫っていたのである。ところが作者は「狙う」を何やらよくない志向ととらえたらしく、自身が思い抱く福沢と幹明の関係を次のように語る。

慶応義塾の学生からいきなり社会人になった三人と、幹明が異なるところは、幹明は商売には興味はなく、教育、政治の世界をその眼で見た上で、ジャーナリストとなるとはっきり決めていたところでしょう。

他の者が時事新報を足がかりに出世しようと出て行く中で、先に人生経験を積んだ幹明一人がずっと社に留まると言ったのなら。

社を辞して出世街道を進む野心のない、持ち上げる事も必要ない、記者一筋と決めた幹明を、諭吉はゆっくりと時間をかけて育てようとするのではないでしょうか。(『不審点』一三頁)

一〇代半ばの少年ならいざ知らず、三〇歳近い一人前の男に対して福沢がこのような感情を抱いていたとしたら、それはもう薄気味悪いというほかはない。また、逆に、そのような感情で扱われていると知ったなら、当人のプライドは相当に傷つけられることだろう。作者によるこのような解釈は、諭吉が脳卒中に倒れるまで幹明は主筆になれなかった、という事実(注10)から逆算して構成されているのである。クーデタ後にとられたのは、とりあえず外部からの主筆招請は見送りとしつつ、伊藤欣亮に総編集という大きな権限を与えて、福沢は伊藤を介して編集部を間接的に統制するという方法であった。石河幹明・菊地武徳・北川礼弼らが社説記者として日々の論説を作成していたが、諭吉の扱いは平等で、幹明がとくに優遇されていたという様子は見られないのである。

その五 諭吉の言わない言葉を創作している。

作者は『真実』一一七頁の「石河をつまらぬ男と評していた」という部分をとらえて、それは諭吉ではないとしている。アマゾンのレビューにも「『福沢は石河をつまらぬ男と思っていた』という事実も証拠もなく、この言葉は著者の創作です」とあって、作者としては相当こだわるところらしい。 

私が依拠していたのは、明治二一年(1888)八月二七日付中上川宛書簡で、

渡辺は先ず執筆に宜しけれども、文章に妙なくせありて正刪を要する事多し。石河はあまりつまらず、先づ翻訳位のものなり。老生の所見にて高橋が一番役に立候様に覚候得共、是れは商売がすきと申せば致し方なし。新聞社に居て文の拙なるは両国の角力に力のなきが如し。何は扨置き困り申候。(『真実』三〇頁)

と、「石河はあまりつまらず」とはっきり書かれていて、「つまらぬ男」そのものではないにせよ、ほぼ同じ表現であらわされている。この書簡を『不審点』(一六頁)もまた引用しているのであるが、そうなるとなぜ作者が「この言葉は著者の創作です」とまで言うのかが理解できない。私は同じ意味と考えて書いたのである。文章がつまらないとは、人間がつまらないのと同じことである。

5.別冊『文春新書「福沢諭吉の真実」平山洋著における不審点』への応答(二)

ここまでの疑問点はいずれも小さな指摘で、遺族でなければことさらに取り上げる意義を感じない諸点であると思われる。それに対して以下の指摘は過去にも問題となった重要な論点である。

その六 諭吉の病状を断定できる証拠はないのに、断定形で書いている。

『真実』一三七頁に始まる「晩年の福沢は失語症だった」の内容について、作者は強い疑義を呈している。私が「失語症と痴呆症を混同している」(『不審点』一八頁)のではないかというのである。管見ではこの指摘を最初にしたのは元岩波書店編集部長の竹田行之で、交詢社における講演において、私が『真実』の中で福沢があたかも痴呆症(認知症)にでもなったかのようなことを述べている。しかし、手元に『真実』の全文テキストファイルがあるので断言できるのだが、私は「痴呆症」という言葉も「認知症」という言葉も使っていない。その後遺症については、

外見が以前とさほど変わりない程にまで回復してきたとしても、脳卒中は脳の一部が壊死する病気である。知的な側面に全く影響が残らないなどということはあり得ない。福沢の場合、顕著な後遺症が言語を発する機能に現れたのだった。晩年の福沢は会話することができなくなっていたし、文章もほとんど書けなくなっていたのである。(『真実』一三九頁)

として、諭吉の症状を「言語を発する機能」に限定して述べているのである。

私自身が痴呆症になったなどと言っていないのだから、明治三四年(1901)の正月に堂々たる「独立自尊迎新世紀」の書をなしたことをもって反論とするのも無意味である。私が言いたいのは、失語症になっても書道はできるが、文章を書くのは困難だということである。そしてそうだとするなら、いったいどうやって社説を立案できたのか、そしてそれをいかにして石河に伝えたのか、という疑問が生じるのである。私は幹明が「国の為めに戦死者に謝す」(一九〇〇・六・二一)を含む七七編を昭和版『続全集』の「時事論集」に収録したことを指摘した後、

この社説も含め昭和版にはいずれも福沢の指示によって石河が起筆した旨が注記されているが、これは明白な虚偽である。発作後初めて筆を執ったのは姉の鐘宛の書簡(一八九九・八・三)であることは確実なので、九九年二月一五日から七月二七日にかけて掲載された二二編は、口も利けず字も書けなかった福沢から指示を受けて起筆されたことになるからである。

もちろんそんな馬鹿げたことがあり得るはずはない。要するにこれら七七編は、純粋に石河が書いた、福沢とは何の縁もゆかりもない諸論説であったのである。福沢は対戦国の兵士を豚呼ばわりしたことはなかったにもかかわらず、先の引用にあるような石河の差別的な言辞は、第二次世界大戦後半世紀以上を経た現在に至って、福沢の名をおとしめるのに大きな役割を果たしている。(『真実』一四六頁)

と述べている。脳卒中リハビリ中の福沢が本当に立案したとするなら、幹明に何らかの形でその要項を伝えなければならないはずである。ところが、福沢によるメモも、石河による聞書きも、何も残されていないのである。書道の書き損じは残存しているのに、肝心の立案社説についてはないというのは奇妙なことである。

その七 幹明の経歴をわからないと偽っている。

その七の指摘はその一と同じである。それについてはすでに答えたが、要するに偽ったわけではなく、必要がないことは語っていない、というただそれだけのことである。『真実』の関心事は、もっぱら、福沢が存命時の時事新報編集部で社説はどのように作成されていたか、そして慶應義塾評議員会からの委嘱により『福沢諭吉伝』が書かれる過程で、時事新報の社説がどのようにして選ばれたのか、ということであって、その他のことは付随的でしかない。

社説の選別について、作者は『石河幹明伝』の本文中で次のように述べている。

その中からどうやって諭吉本人が書いたものだけを抜き出すか。

幹明は時事新報創刊号から諭吉が亡くなるまでの六一八二号まで、新聞を一号ずつ読み返し、選び出した社説を書き手が書き写していって、纏めたのだそうです。

七十近くなってから、自身がつけていた覚書と記憶力だけを頼りに、三十数年も前に書かれた膨大な記事を整理する事になった幹明は、もう眼も悪くなっており、大変な大仕事だったと思われます。(一〇四頁)

後に学士院賞を受賞することになる現行版『福沢諭吉全集』の「時事新報論集」所収社説がこのような仕方で選ばれていたとは、今までその全集の権威を信じていた人々にとっては衝撃的な事実であろう。私としても幹明が自らの入社前に掲載された社説の執筆者をどうして思い出すことができたのか、そのメカニズムを知りたく思う。

『石河幹明伝』の記述からすでに予想がつくことであるが、社説の選別は実際にも出鱈目である。この事実は井田メソッドによらずとも証明が可能である。すなわちそれは現在までに発見されている福沢直筆草稿残存社説のうち何編が昭和版の「時事論集」に収録されているかを調べるという方法で、残っている一〇八編の直筆社説のうち実に過半数の五九編が選ばれていない(二〇一二年五月現在、『アジア独立論者』三六八頁)。石河が半数以上の福沢直筆社説を全集から落としているという事実から、石河の眼力に期待できる部分はないと言ってよいのである。

その八 著者はジャーナリストという職業を理解していない。

作者は『真実』の次の記述、

言論人としての石河は、伊藤欽亮が編集部を去った後、日露戦争から大逆事件にかけて絶頂期を迎えたが、それは彼の考えに優れたところがあったからでも、扇情的な名文句を操る文才があったからでもない。要するに、読者が信じたがっていることを、あたかも真実であるかのように語ったことによるのである。こうしたありかたを論者は時局迎合的略して時局的と呼ぶのである。(一五〇頁)

を捉えて次のように述べている。

福澤諭吉はジャーナリストである前に偉大な思想家であり、幹明はジャーナリスト一筋の人間です。この違いをまったく無視して同一の舞台で二人を対比しているのです。

後世に残す思想を本としてとどめるのではなく、移り変わっていく世界の情勢を迅速にわかり易く大衆に伝え、読み捨てられていくのが新聞の使命だったはずです。(『不審点』一四頁)

この引用部からもはっきりとわかるように、作者は、福沢自身が真のジャーナリストだったという事実を理解していない。というのも、後に福沢自身が編纂した明治版『福沢全集』(1898)収録の単行本、『時事大勢論』(明治一五(1882)年四月刊)から『実業論』(明治二六(1893)年五月刊)までの一八タイトル一五冊 (「国会の前途」・「国会難局の由来」・「治安小言」・「地租論」は合本)は、まずは社説欄に無署名で発表されている。福沢はもともとジャーナリスティックな問題関心から著述をしていたにすぎず、べつに残す思想と同時的な社説を区別して書いていたわけではないのである。

福沢が社説を統裁していたといっていい期間は、創刊から約一〇年であったと私は考えている。福沢は明治二五年の春に一か月間の関西旅行をしているが、東京から離れてそのような長期間分の社説を用意できるはずもない。総編集伊藤を中心に社説記者たちが協力して紙面を埋めていたのであろう。帰還後も以前同様の影響力を行使できたかどうか。社説からは「だんだん遠くなって」(『福翁自伝』)と福沢自身述べているように、はっきりした境界線を引くのは難しいものの、無署名で発表された『実業論』が単行本化された明治二六年五月をさほど下る時期ではないであろう。

その九 幹明の退社と関東大震災による社の衰退を書かないのは何故か。

作者は幹明の最期に触れた『真実』(一九〇頁)を取り上げて、「幹明の退社は七幹部九記者、計十六名の同時退社です。幹明の経歴について言及するなら明治二十一年の辞表騒ぎに勝るとも劣らぬ大事件ですが、著者は何故このことに触れないのでしょうか」(『不審点』二七頁)と述べている。私にはこの指摘は奇妙なことのように思われる。というのも、明治二一年のクーデタ騒動は福沢指導下の社説欄に関する事態であるのに対して、幹明らの退社は福沢没後二〇年以上も経過した後の事件であるからである。福沢の思想と無関係なことを書かないのは当然のことである。

その十 福沢伝執筆依頼の経緯について、筆者は調べているのか。

作者はまた、慶応義塾評議員会により石河に伝記の執筆が依頼されたという『真実』(八八頁)の記述について、「筆者はのちに慶応義塾塾長となられた小泉信三氏の名を一度も出していませんが、これは氏が中心となって動き出した企画ではなかったでしょうか」(『不審点』二八頁)との疑問を呈しているが、昭和八年(1933)に塾長に就任する小泉は大正一二年(1923)には三六歳の若手教授にすぎなかった。そのため伝記執筆依頼には関与していないが、九年後に完成する『福沢諭吉伝』(1932)とその後に編纂された『続福沢全集』(1933、34)の主要な庇護者であったのは事実である。小泉信三と石河幹明・富田正文師弟の蜜月とでもいうべき事態については、拙論「石河幹明は不誠実な「仕事」をした」を参照していただきたい。

さらに作者は、『真実』の次の記述を問題にする。

石河が伝記と全集の編纂をしていた一二年の間に、福沢存命中の『時事新報』を知る人々は次々鬼籍に入っていった。一九二七年一二月、もっとも若い社説記者であった堀江帰一慶大教授が六一歳で亡くなった。翌二八年四月に総編集を務めていた伊藤欽亮が七二歳で、二九年九月には波多野承五郎が七一歳で、また三〇年一二月には北川礼弼が六九歳で相次いで死去した。すなわち、日清戦争当時の時事新報社内をよく知る伊藤と北川の両人が世を去った直後に、『福沢諭吉伝』と『続福沢全集』は刊行されているのである。

石河がそれらの出版のタイミングを図っていた、と推測するのはいくら何でもうがちすぎかもしれない。とはいえ、伊藤と北川ならば伝記第三巻の記述が妥当であるかどうか、昭和版で選択されている社説や漫言が適正かどうかを判断することができたのである。逆にいえば、この二人が物故したことで、石河は伝記の記述と社説などの選択についてフリーハンドを獲得したのであった。(一八七、一八八頁)

作者は、「このように書くことは、たとえ示唆であっても、名誉棄損に当たる行為ではないでしょうか」(『不審点』二九頁)というのであるが、いったいどこで私が石河の名誉を棄損しているというのであろうか。ここで私は事実を述べているにすぎないのである。

おわりに

本論考の目的は『石河幹明伝』がもつ意義を明らかにし、さらに作者による『真実』の不審点への応答を行うことであった。

すでに書いたように、この石河幹明を扱った最初の伝記の持つ意義は大きい。とりわけ直孫である著者による戸籍関連の調査が行き届いていて、私がかねてより知りたいと考えていた幹明の親世代についての人間関係が一目瞭然となった。作者はこうした調査は第三者でも容易に可能と考えているようだが、実際はそうではなく、個人情報保護の壁が立ちはだかっているのである。また、私の問題関心からは離れるが、時事新報主筆時代のエピソードや退社の経緯についても興味深い。東京の家が戦災で全焼したため資料が残されていないことは作者の従兄の裕より伝聞していたが、その制約下での最善の試みであるとは思う。

一方作者が伝記を書く動機となった『真実』批判についてはどうかといえば、残念ながら弱いとしか言いようがない。そもそも『真実』は今から一五年も前の新書にすぎず、しかも原型の要約版であることはその「あとがき」にも明記してある。その後私は『福澤諭吉』(2008) (注11)・『諭吉の流儀』(2009) (注12)・『アジア独立論者福沢諭吉』(2012)(注13) ・『「福沢諭吉」とは誰か』(2017)(注14)と四冊の福沢関連著作を刊行している。とくに『アジア独立論者』には作者の『不審点』とも重複する安川らによる『真実』批判とその応答や、『真実』原型の削除部分も収録してある。研究とはその時点での最新情報を批判検証することでアップデートされるものなので、それらの著作を検討した上でなおも疑問のある点を『不審点』にまとめたならば意味があったのかもしれない。

本論考では委細を尽くして悪人説や不審点に応えたつもりであるが、作者としてはなおも納得がいかぬところもあろう。そこで、私の言う「石河が福沢を騙っ」たことを否定するためには、最低でも次の三点について説得的な説明が必要と思われる。

その第一は、幹明が福沢直筆社説残存一〇八編中五九編を『続全集』の「時事論集」に収録しなかったことについてである。この事実を私は幹明に判別能力がなかったためではなく故意に取捨したと推測するが、そうであるなら幹明は自覚的に福沢像を歪めたことになる。

また第二は、安川寿之輔がアジア蔑視として批判する用例が、大正版『全集』四例に対して昭和版『続全集』六二例と著しい差があることについてである。これは福沢直筆の論説を中心とする大正版と、幹明が書いた社説を多く収録している昭和版とではアジア諸国への視線に差があることを表している。

最後の第三は、本論考では扱わなかったことではあるが、幹明が福沢直筆の社説を故意に『続全集』から排除した事実についてである。すなわち、『時事新報』社説欄に連載後福沢名で単行本化された著作は全部で一八タイトル一五冊刊行され、そのうち連載に先立って発表された原型社説が一二タイトル発見できた。しかし石河によって『続全集』に収録されたのはそのうち「徳育余論」一タイトルにすぎず、原型社説の大部分は全集未収録とされているのである(『「福沢諭吉」とは誰か』第六章「福沢署名著作の原型について」参照)。石河が『続全集』編纂の過程で原紙に掲載された原型社説を見落とすなどとは考えられず、彼はそれらを福沢作と知っていながら全集に収録しなかったのである。

以上の三点から、幹明は福沢直筆の社説を重要視していなかったことの証明はなされた、と私は考える。なおも、幹明は福沢を尊敬してやまなかった、という解釈が可能であるならば、ぜひとも反論してほしい。

ところで本論考を書くにあたり調べなおして、『石河幹明伝』でも触れられていない新事実が明らかになった。最後にそのエピソードを紹介する。幹明が『続福沢全集』の編集を終えて、『福沢諭吉伝』の短縮版ともいうべき『福沢諭吉』を刊行したのは昭和一〇年(1835)のことである。その年の暮れの朝日新聞に、次のような小さな記事が掲載されている。

時事の新重役披露 時事新報社取締役並に監査役に就任した松岡正男、前田久吉、石河幹明、勝本鼎一四氏の就任披露会は四日午後五時半から各方面の名士七百余名が参会。丸之内東京会館に挙行された。各重役の挨拶あり。午後八時半散会した。(一二月五日付朝刊)

時事新報社は翌年一二月二五日に東京日日新聞と合同して消滅しているので、幹明は約一年間、福沢が創刊した時事新報の最後の役員だったことになる。朝日新聞の記事検索では、次に幹明の名前が掲載されるのは、昭和一八年(1943)七月二五日の八四歳での死亡を伝える二七日付の訃報記事となっている。(本文終)

注記: 本文中の旧漢字は原則として新漢字に改めた。また、敬称は省略した。

脚注

(1)
ただしカバー裏もオビ裏も私の文章ではなく、文藝春秋新書編集部が作成したものである。私は刊行までまったく知らなかった。本文中では「思想犯罪」はもとより「犯人」すら一回も使われていない。
(2)
『アジア独立論者』第Ⅱ部第五章から第九章「『時事新報』論説の作られ方」に収録。
(3)
『アジア独立論者』第Ⅳ部第十四章「誰が『尊王論』を書いたのか」参照。
(4)
『政治思想学会会報』第三〇号(二〇一〇年七月)掲載。
(5)
『武蔵野法学』五・六号(二〇一六年一二月・武蔵野大学刊)掲載。
(6)
『国際関係・比較文化研究』第一七巻第一号(二〇一八年九月・静岡県立大学刊)掲載。
(7)
『交詢雑誌』第四八二号(二〇〇五年三月・交詢社刊)掲載。
(8)
竹田行之(一九二七~二〇一五)とは福澤諭吉協会会員として『真実』出版以前からの知己である。『真実』の原型を執筆していた頃、私は大正版・昭和版「時事論集」それぞれに収められた社説の主張の違いに驚き、昭和版には石河幹明発案の社説(カテゴリーⅣ)が主として収録されているのではないかと尋ねた。竹田は私の発言を否定せず、「富田(正文)さんは気づいていたはずだ」と答えた。現行版の全集だけを見ても分かりにくいが、大正版と昭和版を個別にあたれば差は一目瞭然で、そう答えるのは当然のことである。竹田は『真実』刊行後は私への主たる批判者の一人となったが、それは元岩波書店編集部長という自らの立場を優先させたためと考えられる。
(9)
この記述には事実誤認がある。というのは、二一世紀の福沢諭吉ブームは『真実』によって始まったのであり、拙著はそれに乗じたものではないのである。
(10)
時事新報社のオーナーである諭吉は明治二九年(1896)夏に社長職を次男捨次郎に譲っていた。それまで社内の最有力者であった総編集伊藤欣亮が同年末に退社したため、事実上主筆不在の状態が明治31年九月の諭吉の脳卒中発症まで続いたが、諭吉はその間も幹明を主筆としなかった。幹明を主筆としたのは捨次郎社長だったのである。
(11)
二〇〇八年五月、ミネルヴァ書房刊。
(12)
二〇〇九年五月、PHP研究所刊。
(13)
二〇一二年七月、ミネルヴァ書房刊。
(14)
二〇一七年一一月、ミネルヴァ書房刊。