「名分を競えば殺戮となる」

last updated: 2014-05-28

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2014年3月の倫理学年報第63集18-28頁(日本倫理学会)に掲載された、「名分を競えば殺戮となる」です。

本文

前段-1 倫理学は生き方の指針を与えることができるのか

倫理学は生き方の指針を与えるが、それを強制してはならない

 本大会の共通課題は、「倫理学は生き方の指針を与えることができるのか」というものである。この課題は、実践哲学としての倫理学が、もし実践的であるとすれば、それはどのような意味においてであるか、また逆に、もし実践的でないとするならば、倫理学を名乗ることにどんな意味があるのか、そうしたことを問おうとしているように思われる。その問いに対する私の答えは、「できる、しかしそれを弟子に伝授しようとすれば殺戮となる」というものである。この答えは尋常ではない。いったい何の話なのか、と多くの人はいぶかしく思うことだろう。そこでまず、本発表前段の概略を示すことにする。

 倫理学とは善と悪という二つの概念を用いて人間の行動規範を探究する学問である。だから倫理学者は、善悪の区別を求めるべく、常に何らかの活動をし続けなければならない。知ろうとする活動そのものを生と呼ぶならば、倫理学は人の生き方に指針を与えるといってよい。つまり提題者に与えられた前段の第一問「倫理学は生き方の指針を与えることができるのか」に対する答えはイエスである。

 では続く第二問「教育の場において倫理学教師は学生に生き方の指針を与えることが可能か」についてはどうか。その答えもまたイエスだが、同時に実践してはならない悪なる行為であると私は信じる。その実例として私が想起しているのは、明治維新直前の元治元年(一八六四)に水戸藩内で勃発した、藩校弘道館出身者を中心とする書生党と、藩内郷校出身者を中心とする天狗党の抗争である。同じ時代を生きる同郷の青年たちが殺しあったのは、元はといえば、価値観と出自を異にする両校の教師が、教え子に自らが信じる「正しさ」を移植しようとしたことで引き起こされたのである。

「エシックス」と「倫理学」のもつニュアンスの差について

 こう答えたところで、その内容に入る前に、「エシックス」と「倫理学」に関する言葉の問題について指摘しておきたい。私は学部課程ではカントを初めとする西洋倫理学を、大学院では日本思想史を学んだためなのか、西洋語での「エシックス」と、漢語として表現される「倫理学」との間に、ある種のニュアンスの差があることに前から気づいていた。どのような差かといえば、西洋的な「エシックス」も漢字による「倫理学」も、ともに実践哲学であるという点では同じであるが、「エシックス」には、日々日常における行為の選択に善悪のけじめをつける、という意味がより強く含まれているのに対して、漢字による「倫理学」では、行為の選択というよりも、正しい政治的立場の選択、が含意されていることである。

 どちらの立場に近いところに立脚しているかは、人によりけりではあるが、配布された大会報告集の共通課題に関する四つの文章を読み比べるなら、おのおのの専門分野によって、そのニュアンスの差は見て取れるように思われる。すなわち実行委員長の高橋会員と私が日本思想を主たる研究対象とし、奥田・寺田両会員が西洋思想を研究対象としているが、同じ問題へのリアクションの差、という点から検討すると、高橋会員による、<倫理学における「生き方の指針」に関する問い>という言明に対して、奥田会員は、<社会における個人の「生き方」>の追究を想起し、私は<幕末水戸藩の天狗党の乱>を想起し、寺田会員は<哲学的対話を通じた共同の探求>を想起している。なぜこんなにも違うのか、とりわけ私のリアクションについては、と多くの人が感じることであろう。

 私の思うところそれは、日本を専門とする者が漢字の「倫理」が意味するところからこの問いに答えようとすると、無意識のうちに儒学における「倫理」を基準にしてしまうことによる。すなわち、儒学では、まず前提として「五倫五常」が説かれている。そのうち五倫とは、「父子の親」(父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない)、「君臣の義」(君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない)、「夫婦の別」(夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる)、「長幼の序」(年少者は年長者を敬い、したがわなければならない)、「朋友の信」(友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない)の五つである。ちなみに五常とは五倫を実現するための五つの徳性のことで、仁・義・礼・智・信、がそれらである。つまり、漢語で「倫理」というと、そこには必然的に「君臣の義」が含まれてしまうのであり、その出発点は、社会における個人のありかた、などというニュートラルなところにはない。

 その点の齟齬については、純粋に西洋の倫理学に立脚して、「水戸学などエシックスではない!」という立場も当然あり得るだろう。しかし、水戸学者たちは、当事者の意識としては、漢字による「倫理」を極めようとしたのであり、西洋倫理学を基準とする見方からはたとえばかげていようとも、本人たちは大まじめだったということは、忘れてはならないのである。

水戸学の伝統と天狗党の乱

 以下本題に入る。天狗党の乱といっても、多くの人にはイメージがわかないかもしれない。四年後の会津戦争は幾度も映画やテレビドラマとされているのに、天狗党の乱が取り上げられることが少ないのは、それが水戸藩内の身内の抗争にすぎず、戦死や処刑の犠牲者が多かった割には、以後の日本に何らの影響も及ぼすことがなかったからである。聞くところによれば、その乱でどちらの勢力に与したかについてのわだかまりは、茨城県民のうちで今なお完全には解消されてはいないという。同族相食む抗争という点ではスペイン内戦(一九三六~一九三九)やカンボジアのポルポト政権(一九七六~一九七九)と似ていて、終わったからといって隣人であることをやめるわけにもいかず、かつての敵と日常的に顔を合わせなければならないことが不愉快さを倍加させているのである。

 その根本原因は水戸藩の二代目藩主光圀が始めた『大日本史』編纂事業と、それに付随して展開された歴史学・倫理学・政治学の研究(これらを総じて水戸学と呼ぶ)が、藩士(場合によっては有志領民を含む)の間に歴史解釈上の対立を生んでしまったことにある。というのは、史書編纂の方法として名分論の立場をとっていたために、過去の歴史的事実のすべてについて倫理的な意味での「正しさ」と「間違い」の判定をしなければならず、その判定の結果が将来の行動を縛ることになったのである。

 儒学の延長上にある水戸学において、倫理的に正しいとは尊王の精神にかなっているということで、朋友の間柄として規範にしたがっているという意味ではない。そうなると、そもそも尊王ではない「正しさ」などないことになって、西洋的意味で倫理学を理解している人々にはいぶかしく感じられることであろう。そうだとしても、それが水戸学での「正しさ」の定義なのである。

 尊王であることが正しいという点では一致を見ることがあっても、何が尊王なのか、についての解釈は無限に存在しうる。そのため、史書の編纂にあたり歴史上の人物についてその行動の善悪を諮る議論が繰り返されることになった。後醍醐天皇に背いて征夷大将軍職に補任された足利尊氏は「悪」とされ、彼とその後継者たちが支えた北朝は偽朝と判定されたが、さりとて吉野に逃れた後醍醐天皇とその後継者たちによる南朝に、多くの心ある武将が集ったわけではない。水戸学の立場からは英雄とされる楠木正成は、建武三年(一三三六)の湊川の戦いに敗れて自害した。南北朝の統一は、明徳三年(一三九二)、皇統が北朝に一本化されることでなされた。こうした事実は「正しい」勢力が敗れることがあることを意味するのか、それとも決着は未だついていないと見るべきなのか。議論は永遠に続く。

郷校出身者と藩校出身者の反目

 水戸藩では『大日本史』の編纂を通して、歴史的事象についてその正邪がいちいち諮られるという風土が十八世紀末までにはできあがっていたところに、十九世紀に入ってからは常陸の長い海岸線の沖合に外国船が出没するようになり、対外的危機意識が醸成されることになった。その立役者が会沢正志斎(一七八二~一八六三)と藤田東湖(一八〇六~一八五五)である。尊王だけでなく攘夷が水戸学のテーマに加わったのである。

 会沢正志斎の「新論」(一八五七)は、「謹んで按ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日之嗣(あまつひつぎ)、世宸極を御し、終古易らず。固より大地の元首にして、万国の綱紀なり。誠によろしく宇大に照臨し、皇化の曁(およ)ぶ所、遠邇あることなし。しかるに今、西荒の蛮夷、脛足の賤を以て、四海に奔走し、諸国を蹂躪し、眇視跛履(びょうしはり)、敢へて上国を凌駕せんと欲す。何ぞそれ驕れるや」という書き出しとなっている。このようにして変質した、攘夷の政治的実践をも重視する水戸学を、歴史解釈を重視する十八世紀までの前期水戸学と区別して後期水戸学と呼ぶ。

 名目三十五万石とは言いながら、水戸藩は長らく生産者人口の減少と人材の枯渇に悩んでいた。文政十二年(一八二九)に藩主に就任した九代藩主斉昭(一八〇〇~一八六〇)は、農村重視と積極的な人材登用の政策をとることで領民と下級藩士の意欲を引きだそうとした。そうした政策の一つが、藩内各地域に郷校(寺子屋の上に位置する中等教育機関)を設置することだった。郷校で目覚ましい成績を収めれば郷士(在地の下級士族)から藩士(城中勤務者)への取り立てもあるという方針で、その経路で昇進した者は熱烈な斉昭崇拝者となった。後に桜田門外の変で大老井伊直弼(一八一五~一八六〇)の暗殺を実行した十名のうち、高橋多一郎と金子孫二郎は郷校開設に尽力した元郡奉行、関鉄之介・海後磋磯之介ら残余は郷校で教えを受けた下級藩士である。郷校の教育方針は知行合一といって、正しいと信じていることは行動に移さねばならない、というものだった。その出身者が躊躇なく大老暗殺というテロリズムを実行したのは、彼らが受けていた教育の成果だったのである。

 このようにして郷校は水戸藩の中堅以下の人材育成の場となったが、斉昭は別に高等教育機関も作っている。それが天保十二年(一八四一)設置の藩校弘道館である。水戸城内に建設されたその内実は近代的な意味での大学といってよかった。というのは、斉昭は幕末最大の尊王攘夷論者であるばかりでなく、西洋に抗するために洋学を導入した先駆者でもあって、天保時代(一八三〇年代)には蘭学者幡崎鼎(一八〇七~一八四二)に洋式帆船の模型や大砲を製造させている。斉昭は西洋軍事学に携わる人材育成の場として、弘道館内に洋学の研究所を設けている。ほかに医学所も付属していた弘道館は、儒学・和学・洋学・医学・武道を学べる総合大学だったのである。

 そこで学んでいたのは藩の実権を握っていた上士階層の子弟と、専門分野で特別な才能を見出された、家柄はやや劣るがとびきり優秀な下士や町人の子弟だった。攘夷への問題意識は郷校出身者と同じだったが、幕府という既存の権力を通してそれを実行するという点で、政治的立ち位置は穏健といえた。弘道館の教育方針は恭幕攘夷・知先行後で、先ずは水戸家出身の慶喜を将軍にして、その指導の下尊王も攘夷も実施すればよい、とおっとり構えていたのである。

前段-2 指針が与えられるとして、そうすべきか

桜田門外の変・天狗党の乱・弘道館戦争

 水戸学において、各人へ行動の指針ははっきりと与えられていた。それがどのような結果をもたらしたのかを以下で示すことで、前段の第二問「指針が与えられるとして、そうすべきか」の答えとしたい。

 弘道館出身者と郷校出身者は、朝幕関係に矛盾が生じるまでは、ある種の緊張をはらみながらもともに藩務に従事していたが、安政五年(一八五八)六月に井伊大老が日米修好通商条約を勅許の得られないまま締結したことで、書生党(弘道館出身者)と天狗党(郷校出身者)に分裂してしまった。すなわち条約締結の後、朝廷は水戸藩に戊午の密勅なるものを出して井伊大老の行動を批判したため、その勅に忠実であろうとした天狗党は、あくまで幕府に恭順していた書生党指導の藩庁へ公然と反抗し始めたのである。

 万延元年(一八六〇)三月に井伊大老が暗殺されて後は、水戸藩書生党政権は幕府の犯人追及に協力し、自藩の人々を次々処刑場に送った。こうして一度は書生党に押さえ込まれた格好となった天狗党ではあったが、元治元年(一八六四)に転機が訪れた。三月、藤田東湖の息子小四郎は、幕府に即時鎖港を要求するため筑波山に結集、将軍家茂と禁裏守衛総督慶喜が滞在していた京都へ進軍する動きを見せた。ただし、水戸領内での戦闘で足止めされた天狗党員約千名が京都に向かったのは禁門の変(七月)後の十一月で、藩内に留まった一部は、天狗党政権を樹立するため、書生党藩軍に攻撃を仕掛けたのである。

 戦闘は幕府軍に加勢された書生党の勝利に終わり、戦死を免れた天狗党員は脱走潜伏した少数を除いて家族もろとも死刑となった。そこには野口郷校館守(校長)の田中源蔵とその弟子たちも含まれている。

 この田中源蔵はなかなか興味深い人物である。彼は郷校で抜群の成績を挙げたため、とくに弘道館に進むことを許され、さらには幕府の最高学府である昌平校で学んでいる。大変なエリートだったわけだが、望んでいた弘道館の教授ポストに就くことはできず、郷校の校長になって後進の育成にあたっていたのである。相対的に恵まれない環境にいる人々が周辺部の学校に学んでまじめに何をなすべきかを考える、すると導かれる結論は、直接行動主義とも呼ばれるテロリズムによって自らに不利な形勢を一挙に逆転させるという方法しかなくなってしまう。こうした発想は百五十年前の水戸藩内だけで起こったことではなく、つい先年のアフガニスタンでタリバンが勢力を拡大する過程でも生じている。

 田中源蔵は明治維新後名誉回復され、彼ら一党は靖国神社に合祀もされた。また八十年ほど前には映画にもなっている。維新後名誉回復されたからそれでいいのか、ということはもちろんあるのであるが、浮かばれないのは書生党のほうである。というのも天狗党の乱における同派の敗北により書生党・天狗党の抗争は終結したかに見えたが、ことはそれで収まらなかったのである。慶喜の大政奉還後、慶應三年(一八六七)一二月九日の王政復古クーデターにより尊王攘夷派の名誉が回復されたため、今度は書生党が追討を受ける身となってしまい、明治元年(一八六八)十月の弘道館戦争では、書生党はそこに立てこもって抗戦するも敗退し、残党の多くは刑死したのであった。

 これら一連の内紛の犠牲者は、靖国神社に合祀されたことで人数が判明している天狗党員が一七八五名(内死刑が約五百名)、最終的に朝敵となった書生党員の死者は確定できないものの、ほぼ同数と思われる。合計すると藩の全人口の約一パーセント、武士階級に限定するなら一〇パーセント程度が戦死ないし処刑されたことになる。彼らの多くは有為の青年だった。このような曲折の末に明治維新を迎えた水戸藩には、もはや見るべき人材はいなくなってしまったのである。

倫理の押し付けは普遍的問題である

 幕末の水戸藩が膨大な犠牲者を生んでしまったそもそもの原因は、元はといえば郷校・藩校の教師たちが、それぞれに自らが正しいと考える主義を声高に主張し、教え子たちを直接行動に駆り立てたためである。内輪同士の抗争で、これほど大量の犠牲者を出した藩はほかにはない。というのも、長州藩(一八六二)・土佐藩(一八六四)・薩摩藩(一八六五)で起きた藩論交代は、上層部のごく一部の抗争にとどまっていて、一般の藩士・領民にまで対立の災禍は及ばなかったからである。水戸藩だけは、なまじ藩内各層の自由な討論を許してきたために、いったん上層部の対立が深まれば、それが全体に波及するという深刻な事態となったのである。

 今となって考え直すならば、弘道館であれ郷校であれ、教師たちは自らが「正しい」と信じることを、あくまで個人の見解として表明するに留めておけばよかった。その場合天狗党は組織化されることはなく、葛藤は他藩と同様個別的な事態で済んだだろう。より穏健な落としどころを探ることができたなら、弘道館出身者と郷校出身者は、再び共通の目的のために協力することさえ可能だったのである。

 水戸藩天狗党の消滅後、長州藩では正義党が藩論を統一できたのは、そのメンバーが私塾である松下村塾出身の伊藤博文・山県有朋・品川弥二郎・吉田稔麿といった下士・足軽階層出身者ばかりでなく、藩校明倫館に学んだ上士階層である高杉晋作・桂小五郎・井上馨らもいて、彼らがその出自を生かして藩の上層部を動かしたことによる。それは水戸藩が、最初に尊王攘夷のスローガンを掲げて幕末の政局に躍り出たにもかかわらず、その優位性を生かせぬまま内紛によって自滅してしまったのと、鮮やかな対照をなしている。

 以上、「教育の場において倫理学教師は学生に生き方の指針を与えることが可能か」の具体例として天狗党の乱以後の水戸藩内戦争を実例としてあげたが、この問題は日本の前近代に起こった一回限りのことではない。国家主義であれマルクス主義であれ、この「正しさ」をめぐっての抗争が結局は多くの悲劇を生んでしまったことを忘れてはならないのである。

後段 倫理学は、大学教育において、いかなる役割を果たし得るのか

大学における「倫理学」の位置づけは適正

 では、前段の問い「倫理学は生き方の指針を与えることができるのか」への答えが以上のようなものだとして、後段の問い「倫理学は大学教育において、いかなる役割を果たしえるのか」について考えを進めたい。この点についてはすでに予想されていよう。簡単にいえば、妙な義務感をもって自らが学んでいる学問分野、すなわち倫理学の役割について世間様にアピールなんてするもんじゃない、ということである。

 カリキュラム上、哲学または倫理学の必修化は必要と考えるが、それ以上に何かしなければならない、とは思わない。必修化が実現されるだけでも、平成三年(一九九一)のカリキュラム自由化以前の状況に戻るわけだから、専任教員のポストの増加に結びつくかどうかは未知数でも、非常勤のコマ数は増大するはずである。大学教育において、倫理学が果たす役割は、その程度であってかまわないと思う。

 もっと大きな役割を果たすべきだ、という考えもあるかもしれない。しかし大学という制度全体から見て、私の見るところ、倫理学の置かれている状況は、大きくもまた小さくもない、ちょうどいい大きさである。倫理学者は、医師でも、カウンセラーでも、宗教者でもないのだから、それぞれの分野の専門家が担っている役割を奪う必要はないのである。

 大学生というからには対象者の年齢は十八歳以上である。いまさら正しい道徳意識を身につける、という歳でもあるまい。悪党はとっくの昔に悪党になっているはずで、性根を正すことなど、しょせん無理なことである。鉄は熱いうちに打て、ということわざもある。つまり、大学で倫理教育をより充実させたところで、正しい人間を作るなどという実用的見地からの効果など、まったく望めないのである。

 倫理学が実用的見地から効果が見込めないから無意味だ、という批判には次のように答えればよい。すなわち、倫理学が学問であるかぎり、それは分析的・批判的なものであって、何か正しい倫理を提示するものではない、その役割は、それぞれの個人が自分の責任で導き出すところにある、と。私自身の考えは水戸学者とは違うのである。

 役に立たない学問分野は、倫理学の他にも数多くあることを忘れてはならない。たとえば、天文学についてのこんな話はどうだろうか。すなわち、「百万光年の彼方から、『今異星人の攻撃を受けているので助けてほしい』という連絡が入る。地球上の天文学者は、『分かった、すぐに助けに行く』と返信する。しかし考えてみると、その救難信号が発せられたのは百万年前、そして地球からの応答が届くのは百万年後となる。一回の交信が往復する間もなく、両文明とも滅びているに違いない。天文学とはそれほどのものなのに、果たして学ぶ意味はあるのか」と。このたとえ話への私自身の答えは、「もちろん意味はある、なぜならそれは真理を探究する営みだから」というものである。それに倫理学には天文学の研究ほどにお金は必要ない。この点は、天文学に対する倫理学の優位性の一つとなる。

二つの映画をめぐって―『ブレードランナー』と『アルカディア』

 さて私の提題の前半部は、およそ百五十年前の水戸藩で繰り広げられた倫理論争とその顛末、つまりは内戦についてであった。今度は目を転じて未来の世界について考えたい。倫理なき世界に倫理学はどんな意味を持つのかということについて、である。そのために二つの映画を紹介したい。

 一つ目は、あまりに有名な映画『ブレードランナー』(一九八二)である。この映画に登場する高性能アンドロイド・ネクサスⅥ型レプリカントは二〇一〇年代に製造されたことになっているので、ちょうど今頃どこかで造られていることになる。それは生物学的には人間と同じなため、VKテストという心理判定テストでのみ区別が可能という設定である。そしてその判定は一連の質問に対する被験者の答えと瞳孔の反応を測定することで下されるのであるが、相当に曖昧なのである。

 映画の初めのほうに、アンドロイドと人間を区別する技術を有するブレードランナーのデッカードが、自分がアンドロイドだとは知らないレプリカントのレイチェルを検査する場面がある。

デッカード 「今から一連の質問をする。出来るだけ早く頭に浮かんだことを答えてくれ」
レイチェル(無言でうなずく)
デッカード 「誕生日に牛革の財布をもらう」
レイチェル 「受け取らない。それを贈った人を警察に突き出すわ」
デッカード 「少年が蝶々のコレクションと毒薬の瓶を見せる」
レイチェル 「医者に連れていく」
デッカード 「テレビを観てるとき、君の腕に突然スズメバチがとまる」
レイチェル 「殺すわ」
デッカード 「雑誌の中に女性のヌード写真のページがあった」
レイチェル 「これはレプリカントじゃなくてレスビアンのテストなの?」
デッカード 「質問に答えて」
デッカード 「その写真を見て君の夫は寝室の壁に貼りたいと言った」
レイチェル 「貼らせないわ」
デッカード 「どうして?」
レイチェル 「私がいるからよ」
デッカード 「最後の質問だ。君は昔の映画を観ている。パーティーの場面で客達が食べ      ているのは、オードブルの生ガキの次はメイン料理の茹でた犬だ」
レイチェル(無反応)

 私事になるが、今を去る三十一年前の九月、慶應義塾大学一年の夏休みにこの映画を見た。そして休み明けに、本年九月に亡くなった小松光彦先生の基礎ゼミで、「人間とアンドロイドを区別する根拠はどこにあるのか」という問題について議論した記憶がある。あれから三十一年もの時間が経過したとはとても信じられない。思うに人生自体が長い夏休みのようなものなのかもしれない。始まったと思ったら、もう終わろうとしている。そしてその間、いつ勉強したのかまったく思い出せない、という点において。

 話を元に戻して、未来の倫理なき世界について考えたい。この映画の中で、人間とレプリカントを区別するためのVKテストの問いは、被験者の神経を逆なでする内容が含まれているだけで、道徳的な善悪について訊ねるわけではない。また、レプリカントを追い詰める人間であるはずのブレードランナーは、一見して道徳心に欠けた存在として描かれていて、女性レプリカントを背後から射殺するのにも躊躇しない。対するレプリカントのほうがより人間的であるように描かれているのが、この映画の見所の一つとなっている。私は、人間が心を失いアンドロイドが心を獲得するというのが、この映画のテーマであると考える。

 こうした世界において倫理学者の存在価値はどこにあるか。そのことについて私の見解を述べる前に、もう一つの映画を紹介したい。それはまったく知られていない、『アルカディア』(一九八八)という短編映画である。

 その設定は次のようなものだ。物語は近未来の荒廃した街、親子関係さえ緊張したものになっている。朝、息子を起こしにいくのも母親は完全武装をしている。下手をすれば機嫌を損ねた息子に撃ち殺されてしまうかもしれないからだ。ピリピリした、父・母・子、三人の朝食を済ませた息子が向かったのは、荒廃した街にあるゲームセンターである。この息子(ギャビン)が始めたのは「シューティングゲーム」に似た、でも全然逆のゲームである。それは、いかに引き金を引かずに我慢できるか、というゲームなのだ。このゲームをかりに、「ノットシューティングゲーム」と呼ぶことにしよう。このゲーム機の画面には、挨拶する人、郵便局の受付係、警察官などなど、だんだんレベルが上がっていくにつれ、こちらを苛立たせるようなことを言ってくる。それに対して、なんとか引き金を引かずにギャビンは最高得点をたたき出す。

 わずか十二分の作品で、ついに普通の道徳的対応を身につけた息子のギャビンを母親が迎えに来て、道徳心を獲得した息子の様子に混乱した母親が発砲するところで唐突に終わる作品であるが、ともかく皮肉たっぷりの映画である。

倫理なき世界になってはじめて倫理学は光を放つ

 さて、倫理なき世界にあって、倫理学者は果たしてどんな役割を果たすことができるか。勘の鋭い人なら、もう気づかれたことであろう。要するに、倫理なき世界になってはじめて、倫理学者はその専門性を発揮できるようになるのである。すなわち、『ブレードランナー』では、誰が人間で、誰がレプリカントであるかを判定するテストの設問者として、また『アルカディア』では、ノットシューティングゲームのデザイナーとして、たいへん値打ちのある仕事をする機会が与えられるはずなのである。

 ぜんたいに世間から尊敬されることがまれな大学教員の世界でも、倫理学者はとくに尊敬されることが少ないように感ぜられる。その理由ははっきりしている。何が善で、何が悪かについて考えている割には、本人が正しい人生を生きているようには見えない、まずはその点にウサンクササがついてまわる、ということである。それに、倫理的な課題の解決というのは、精緻な推論とか天才的な発想などから導かれるものではなく、なんとも常識的な「落としどころ」に着地しがちなので、「これだけやってそれだけか」という素朴な感想が抱かれがちなのである。法律や医学については専門家が存在するのに倫理自体の専門家はいない。倫理的課題については、だれもが平等な地点から自分の意見を述べることができる。となれば、専門家としての倫理学者というのは、かなり怪しげな存在で、「本当は倫理学説の専門家なんじゃないの」となるわけだ。

 しかし倫理なき世界がくれば、そうした疑念が払拭されるのは明らかであろう。そのときこそ倫理学者は、他の誰も知らない倫理という概念自体の専門家となり、VKテストやノットシューティングゲームの製作者として、尊敬を受ける存在となるのである。これぞ家元の特権と言うことができよう。とどのつまりは、私たちは生まれてくるのが早すぎた、ということなのである。