2011年7月5日付都倉武之氏宛書簡

last updated: 2011-07-08

このテキストについて

以下の書簡は、平山氏の慶應義塾福沢研究センター専任講師都倉 武之氏宛の書簡です。 平山氏の依頼により、ここに掲載します。

本文

2011年7月5日

都倉 武之  様

拝 復

静岡は大変暑くなっています。益々ご活躍のご様子でうれしいです。この度は、青木功一著『福澤諭吉のアジア』(2011年6月30日・慶應義塾大学出版会刊・以下青木著作)の貴君執筆の解説「時事新報論説研究をめぐる諸問題」をお送りくださり、ありがとうございました。お礼が遅れてしまったのは、青木著作の全体を一読してから感想を述べようと思ったためで、貴君の解説を含め先週1週間をかけて全部を読み終えました。

正直に言うと、青木については、今年になって甲申政変について調べ始めるまで、まったく知りませんでした。今回その主要な論文を読んで、もっと早くに知っていれば、拙著『福澤諭吉-文明の政治には六つの要訣あり』(2008年5月・ミネルヴァ書房刊)中の朝鮮独立党関係の記述も、もう少し深められたのに、と残念に思っています。私の福澤研究の師匠は、ご承知のように、小泉仰先生(倫理学)と故西川俊作先生(経済学)のお二人ですが、数10年にわたる交流の中で、青木功一の名前を一度もお聞きしたことはありません。膨大な先行研究の内から、今まで単著のなかった青木の論文を自力で見つけだすのは容易なことではないでしょう。

私が青木の名前を知ったのは、金玉均の遺徳を偲ぶために設立された古筠会の会報『古筠』について調査していたおり、「「金玉均伝原稿」と雑誌「古筠」-その探索及び「甲申日録」の否定について」(1981年3月・朝鮮史研究会編『朝鮮史研究論文集』第18集)に接したことによってでした。労を惜しまないその調査魂に感服してもっと読みたいと考えていたところ、まったく偶然に今回の遺稿集出版に遭遇したわけです。

青木の諸論文については、現在執筆中の論文「福沢諭吉は朝鮮甲申政変の黒幕か?」の中で触れることがありましょう。貴君からは独立の論文として解説「時事新報論説研究をめぐる諸問題」が送られてきているわけですから、この手紙ではその感想を述べるのが当然の礼儀というもので、以下ではその解説について書きます。

本解説は青木著作の447頁から473頁にいたる全体で400字詰原稿用紙70枚にも及ぼうかという大作です。副題には「青木説からの展望1」とあります。節立ては、「一 はじめに」「二 時事新報論説とは」「三『昭和全集』の資料的限界」「四『時事新報』の「本色」をめぐって」「四(ママ)東アジア政治論を例として」「五(ママ)むすび」の六節構成になっています。

わたしとしてはそのうち第二節と第三節については、一つの点を除いておおよそ同意できます。不同意なのは、貴君が時事新報論説を類別するにあたり、『福沢諭吉の真実』(2004年8月・文芸春秋刊)で採用した四類型ではなく、三類型をとっている点です(453頁)。すなわち、福澤がまったく関与していない、私の区分ではカテゴリーⅣの論説を想定していないわけで、その根拠は、「福澤は長期旅行などの際も周到に準備をして出掛け、旅先でも郵送や使者によって校閲の労を執っていたとされるため、脳溢血で倒れる一八九八年九月まで、福澤が目を通さなかったことはほとんどないといわれている」(453頁)にあると考えられます。社説掲載にあたっては、最低でも福澤の事前検閲があったのだから、まったく無関係の社説は存在しない、ということと理解できます。しかし、この石河幹明著『福澤諭吉伝』第3巻256頁に由来する記述については、相当に怪しい点があります。簡単に言えば、石河以外は毎日の社説を事前に検閲する福澤の姿など目撃していない、ということです。

中上川彦次郎主筆兼社長の後を受けて総編集となった伊藤欽亮の遺稿集『伊藤欽亮論集』(1930年3月・ダイヤモンド社刊)の下巻巻末は、1887年から1895年までの間伊藤の下にいて編集部に詰めていた記者たちの思い出話集になっています。そこには、社説は福澤と社説記者たちが輪番で担当していた、とあります(柳荘太郎の証言・附録79頁)。また、「福澤先生は自分の新聞であるから毎朝隅から隅まで目を通し、文字の末まで見落されない。そして社に出て来ては紙面の評論をされる」(同81頁)ともあって、福澤が社説のほとんど全部に目を通したというのは、掲載前ではなく、掲載後のことなのではないか、という印象がもたれます。

新聞の命は速報性ですから、福澤の許可がなければ製版に回せない、などという不文律があったとしたら、生きのいい紙面を作ることなどは不可能です。伊藤の論集に掲載されている思い出話を総合して記述するなら、新聞印刷までの日々の流れは次のようなものでした。すなわち、伊藤ら新聞社の幹部は昼頃出社し、夕方までその日に入ってくるニュースの様子をうかがい、その後の編集会議で方針を決定、割付をして紙面を完成させてから階下の組み版印刷部に回してゲラ刷りを出し、校正を終えて本刷りを開始する、と、オンライン化される前の、つい20年前までの新聞社の様子そのもので、一連の制作の過程に、福澤が直接関与できたことは多くなかったようです。

もちろん福澤はオーナーでしたから、向こう数日間に掲載予定の社説原稿を検閲することもあったでしょう。しかし当日事態がどうなっているかは誰にも予見できないわけですから、政治状況の変化や突発的事件の発生によって、予定されていた社説が掲載差し止めとなり、編集部にいた記者によって急遽社説が書かれることも、稀ではなかったと推測できます。こうした社説の差し替えは、総編集以下編集会議に出席していた幹部の合意によってなされていたと考えられます。

このように日々の新聞制作の実態を、石河以外の人々の証言に基づいて描いてみると、カテゴリーⅣ(福澤無関与)の社説は相当数あった、そうでなければおかしい、というのは明らかなことでしょう。福澤像を否定的に描きたい(らしい)安川寿之輔氏らはもとより、福澤を全体として肯定的に評価している人々(竹田行之・川崎勝・平石直昭そして貴君(以上年齢順)など)まで、カテゴリーⅣ社説を想定しないことによって、時事新報論説は全体として福澤の思想の内にある、とお考えのようです。しかしそれでは、日清戦争後の新聞の論調と、同時期の福澤の署名著作やカテゴリーⅠ(福澤真筆)社説との内容上の齟齬の説明がつかなくなる、ということを、私は『福沢諭吉の真実』(177頁)で指摘して以降、何度も機会あるごとに表明しているのですが、どなたも答えて下さいません。石河証言の虚偽を認めさえすれば、すべてがすっきりと理解できると思うのですが。

第四節「『時事新報』の「本色」をめぐって」については、福澤の思想研究の一環というよりは、ジャーナリズム史の範疇に属する問題であると感じました。ある新聞が、終刊にあたって、自ら(法人としての新聞)の一貫性について主張するのは当然のことです。しかし、事実として一貫していたかについては、社説がどう述べているかによらず、実際の紙面を別の客観的指標で判定してみなければ分からないことです。私はあくまで、法人時事新報と個人福澤諭吉は区別できる、という立場で、その点貴君と私は立場を異にすると考えております。

第四節(ママ)「東アジア政治論を例として」は、最新の資料発掘を基にした、大変示唆に富んだセクションになっています。また、「この問題意識(マクロな視点からの福澤の意図を再構築すること・平山補註)から福澤の思想を検討しようとするならば、もはや全集に収録された社説ではなく、『時事新報』の全体を見回すことが不可欠なのである」(469~470頁)との見解にも大賛成です。とりわけ私は、全集に収録されていない4500編程度の社説中には、石河以外の社説記者が執筆を担当したカテゴリーⅡの福澤立案社説ばかりか、カテゴリーⅠに属する福澤真筆社説も残存しているという立場なので、まさに我が意を得たり、の感があります。

解説の感想はこれくらいにして、最後に、同封の拙論「石河幹明が信じられない3つの理由-『福澤諭吉全集』「時事新報論集」の信憑性について」は、『政治思想学会会報』第30号(2010年7月刊行)掲載の平石直昭氏の評論「福澤諭吉と『時事新報』社説をめぐって」中での私の考えへの誤解を解くために書いたものです。平石論説は、その後福澤諭吉協会の『福澤諭吉年鑑』37号(2010年12月刊)に再録され、貴君も解説で引用しているものです。拙論も年鑑に載せていただきたいと思ってお願いしたのですが、すでに今年末刊行予定の38号向けの原稿は揃っているとのことで、断られてしまいました。ご一読のうえ、ご高評いただければ幸いです。

これから益々暑くなって行くことでしょう。節電の夏となりそうですが、お体にお気をつけください。

敬 具