「再び山田博雄氏の「研究文献案内」について」
このテキストについて
平山洋氏から2012年12月「再び山田博雄氏の「研究文献案内」について」に関するメールが届きました。平山氏の 承認のもと掲載します。
本文
以下は、2012年12月20日発行、福澤諭吉協会、福澤諭吉年鑑39、155~157 ページの山田博雄氏(中央大学兼任講師) による「研究文献案内――二〇一一年から二〇一二年へ――」の平山洋『アジア独立 論者福沢諭吉―脱亜論・朝鮮滅亡論・ 尊王論をめぐって』に関する部分の全体です。
以下で「研究文献案内」の当該部分を引用しますが、読むにあたっては、書誌情報以後最終段落までの記述は本書の内容とは無関 係である、ということに注意してください。
大半の記述は時事新報社説の真偽問題についての概説にすぎず、本書の内容と 関わるものではありません。
とりわけ、本書第15章「石河幹明が信じられない三つの理由」は、文中で引 用されている平石直昭「福澤諭吉と『時事 新報』社説をめぐって」の直接の反論であるにもかかわらず、そのことに全く 触れていないのは、著作紹介として公平な 立場とはいえないでしょう。
また、最終段落において本書が示唆しているのが「水掛け論」だというのな ら、それは読解不足です。というのは、私 が本書で示そうとしたのは、どこまでなら「水掛け論」にならないか、という 判断の基準であったからです。
なお、研究文献案内の掲載を許可してくださった福澤諭吉協会に 感謝します。
(以下引用)
◎平山 洋 アジア独立論者 福沢諭吉—脱亜論・朝鮮滅亡論・尊王論をめぐって—ミネルヴァ書房 2012年7月 A5判382頁(+索引ほか34頁)7350円 ISBN 978-4-623-06346-8
以下の四部から成る。第1部 福沢諭吉とナショナリズム/第2部 『時事新報』論説の作られ方/第3部 ありがちな批判に答える/第4部 独立自尊と文明政治/その他に、年度別の「時事新報」掲載論説数一覧/福沢諭吉直筆草稿残存社説一覧/大正版『福澤全集』「時事論集」所収論説・演説一覧/『時事新報』掲載文献索引/人名索引など。
十教年にわたる『時事新報』論説—『福沢諭吉全集』に収める「時事新報論集」—をめぐる論争は、帰着点がはっきりしてきたようである。すなわち、その「取り扱い」に注意を要するということ、また”執筆者探し”問題は解決の困難な課題ということである。大ざっぱに整理してみよう。
まずはじめに井田進也の問題提起があった(主たる論考は井田進也『歴史とテクスト』2001年、に収録)。無署名の『時事新報』社説について、福沢執筆のものと、福沢以外の記者執筆のものとを区別(選別)できるのではないか。できるのなら、すべきだろう(福沢以外の執筆者を特定し得る可能性の存在)。これは「中江兆民全集」編纂過程で編み出された執筆者「認定法」で、そのような方法は、おそらく誰も想像しなかった「画期的」なものだった。
しかしここには少なくとも二つの、そして両者不可分の本質的問題があった。一つは実際に執筆者を明確に選別・特定することが可能かどうか(技術の問題)、二つはそもそも執筆者特定の意味があるのかどうか(社説の意味の問題)。前者は、その作業の困難をいうものはあっても、その逆はない(竹田行之「「時事新報論集」について」本誌22号、平石直昭「福澤諭吉と『時事新報』社説をめぐって」本誌37号など)。その困難さは、今日いよいよ明瞭である。後者は、『時事新報』社説の—おそらく一般に新聞社説の、ともいい得るだろうが—意味に係わる。『時事新報』の社説を、いわば「福沢工房」での作成とする説(松崎欣一)や、『時事新報』を「福沢ゼミナール」とする考え方(西川俊作)である(『福澤手帖』101号)。この記事は福沢の「考え」、あの記事は他の記者の「考え」、あるいはどの程度に福沢の「考え」か等々の区別自体に、意味があるのかどうか。単に『時事新報』の「考え」で一括りにされてしかるべきではないか(「I」でなく「We」の「考え」という視点)。
要するに『時事新報』問題は、一、執筆者特定は、事実上きわめて困難。二、かりに福沢以外の記者と特定できたとしても、『時事新報』の記事と福沢の思想とは無関係(または記事掲載に関して福沢に責任無し)とは言い得ない。さらにいえば、三、記事の内容と福沢の「本心」とがちがう場合もあること(『福澤諭吉書簡集』第6巻、書簡番号1536など、および前掲小川原本参照)等々。
井田の問題提起以降、研究者たちが明らかにしてきたのは、つまるところ『全集』所収の「時事新報論集」のみによって、福沢個人の思想を正当かつ的確に論ずることは不可能に近い、ということであり、その「土俵」の中で論ずる限り、論者の立場の如何に関係なく、こと福沢個人の思想に関しては、明快で決定的な解釈を下すことが極めて難しい、ということである。『全集』所収の「時事新報論集」だけでは、判断材料として不十分すぎるのである。要は、「時事新報論集」と福沢の他の著作・言説との整合性・妥当性を検討し、言説以外の福沢の活動・行動を含めた、大きな文脈(政治・経済などの時代状況、しかもそれは時々刻々変化する)のなかに「時事新報論集」の(あるいはむしろ『全集』所収以外のすべての『時事新報』論説を含めて)各々の記事を置いて、「変通」する福沢の思想をかんがえていくほかあるまい(福沢の「議論の本位」を見分ける必要)。
そのような作業を通して、”両ながら”の福沢の真骨頂が理解されることになろう。さもないと、結局元の木阿弥、明治から今日に至るまで連綿として続く水掛け論、論者の立論に都合のいい言説の、こま切れの提示による一方的な断定に終わるしかない。そのことを本書は示唆している。