「政党の解体と武士道の精神」

last updated: 2010-11-14

このテキストについて

『斎藤隆夫政治論集 ― 斎藤隆夫遺稿』83ページから93ページに掲載されている、「政党の解体と武士道の精神」(1941-06執筆)を文字に起こしました。

本文

第1段落

政党の解体に付ては既に論述して居る所があるが、之に関連して更に述べて置きたいことがある。 それは政党の解体と武士道の精神である。 想い起せば明治二十五、六年の頃、明治の大学者であり、大教育者であり、又一種の大哲学者である福沢諭吉先生が、痩せ我慢の説と題する一論文を公にせられたことがある。 是は世上の批評にも上り、殊に当時の国民新聞は反対の論文を掲載したのであるが、余は学生時代に之を一読して今日尚おそれが記憶に残って居る。 近頃再度福沢全集を繙いて見たが、なかなか面白い内容で、実に奇抜なる議論であるから、今茲に其の全文を掲載することは出来ないが、極めて大要を述ぶれば次の如きものである。

第2段落

凡そ人間が集まって国を組織して居る以上は、其の国の独立を維持するには、国民たる者は挙って最後まで国の 為に戦うだけの精神と気力がなくてはならぬ。 即ち戦いに臨みては、仮令勝算なき場合に当りても必死反抗、力のあらん限りを尽し、愈々窮極に迫り、刀折れ矢尽きて、万已むことを得ずして和を講ふか。 然らざれは死を決するか。 何れの途を取るとも国民として国に報いるの途は外にあるべき訳はない。 是が俗に言う所の痩せ我慢なれども、強弱相対して苟も弱者の地位にある者は此の痩せ我慢に依らないものはない。 而も此のことは啻に戦争の場合のみに限ったことではなく、平常の国際関係に於ても亦国内相互の競争に当りても、痩せ我慢の一事は決して忘るべからざるものである。 例へば欧州に於てオランダ、ベルギーの如き小弱国は独仏の強大国の間に介在して小政府を維持するよりも、大国に合併することが安楽であろうなれども、尚お其の独立を固持して動かないのは小国の痩せ我慢であって、此の痩せ我慢が国の栄誉を保って居る所以である。 又我が国の封建時代に、百万石の大藩に隣して一万石の大名あるも、大名は即ち大名であって毫も譲る所のなかったのは畢竟するに痩せ我慢の然らしむる所である。 又古来士風の実を言えば三河武士の右に出づるものはない。 即ち戦国時代、群雄割拠の時に当りて徳川の旗本に属し、能く自他の分を明かにして二念あることなく、利にも非にも唯徳川家の主公あるを知って死を顧りみず、如何なる悲運に際して辛苦艱難を嘗むるとも、曾て落胆することなく、徳川家の為め主公の為とあらば必敗必死を眼前に見ながら尚且つ勇進するの一事は、是が三河武士の特色であって、宗祖家康公が小臣より起りて四方を経営 し、遂に天下の大権を掌握したるは是れ痩せ我慢の賜ものである。 されば痩せ我慢は之を零少な一片の数理より論ずる時は殆ど児戯に等しきものと思わるるかも知れないが、世界国家観を作りて所謂国家なるものを目的に定めて之を保持せんとする者は、此の主義に依らないものはない。 我が封建時代に小藩が相互いに競争して士気を養いた るも、此の主義に依る。 又封建廃止せられて一等の大日本帝国となり、更に眼界を広くして文明世界に独立の体面を張らんとするのも、此の主義に依らねばならぬ。 故に人間社会の事物が今日の風にてあらん限りは、外面の体裁に分野の変遷あるとも、百千年の後に至るまで一寸の痩せ我慢は立国の大本であるから、之を重んじ愈々此の点を培養して、其の原素の発達を助くることが国家風教を保つが為に緊要なることである。

第3段落

然るに茲に遺憾なることは、我が日本国に於て王政維新の際、不幸にも此の痩せ我慢の大義の軽視せられたるこ とである。 即ち徳川家の末路に当り、家臣の一部が早くも大事の去るを覚り、敵に向って抵抗を試みず、只管和を講うて家を解きたるは日本の経済に於て一時の利益ありたりとするも、数百千年養い得たる我が日本武士の美風を損ひたるの不利は決して少しとは言えない。 彼の講和論者の勝安房輩は、幕府の武士は同じからずと言い、薩長の兵法、又同じからずと言い、社会の安寧は害すべからずと言い、主公の身上危うしと言い、或は兄弟墻に鬩ぐの傾向は策にあらずなどと、百方口実を設けて和議を説き、戦を交えずして遂に江戸城を引渡したるは実に不可思議千万なる事柄である。 蓋し勝氏輩の見る所は、内乱を以て無上の災害とし無益の浪費と見、味方に勝算なき限りは速かに和し、速かに事を治むるに如かずとの数理的信念に基づきたるものに相違ないが、さりとて予め必敗を期し、其の未だ予め実際に敗れざるに先んじて自らの大権を放棄し、只管和を請わんが為に努めたることは、之に依りて内乱の為に人を殺し財を費すの禍を防ぎたりとするも、立国の大本たる痩せ我慢の士風を傷つけたるの責は決して免れることは出来ない。 或は王政維新の成敗は国内兄弟の争いであるから、東西相敵したりと雖も其の実は敵にして敵にあらず。 兎に角幕府が最後の死力を張らずして其の勢力を解きたるは、時勢に応じたる良策なりと言う者あれども、是等は一場の遁辞口実たるに過ぎない。 国内のことにても朋友間のことにても既に事端を発する以上は、敵は即ち敵である。 然るに今其の敵に対するは無益なり、無法なり、国家の損失なり等と専ら無事平和を希ふが如きことがあるならば、一朝敵国外患の来るに当りて能く其の士気を奮起せしむることが出来るか。 内に痩せ我慢なき者は外に対しても亦然らざるを得ない。 之を筆にするも不祥なることであるが、万一にも我が日本が外敵に遭うて彼我の情勢を見図り、戦わずして自ら解散するが如きことがあるならば之を何と言うか。 固より幕府解散の始末は国内のことには相違ないが、自ら其の一例を作りたるものと言うべきである。

第4段落

さりながら勝氏も亦人間である。即ち当時幕府内部の物論を排して旗本の士の蹶起を鎮め、一身を犠牲にして徳川幕府を説き、以て王政維新を容易ならしめ、是が為に人命、財産を安全ならしめるため其の功績は決して没すべきものではないが、唯怪しむべきことは氏が其の後に至り維新の朝廷に立ち、先の敵人等と肩を並べて名利の地位に就きたることである。 何と弁解するとも当時勝氏の取りたる行動は日本武士道の許すべからざる一時の○○に相違ないから、自ら其の責任を負うて断然政府の寵遇を辞し、官爵を棄て、単身起って其の跡を隠すこそ世教(注1)万分の一を維持する所以であるに拘らず、事茲に出でずして恰も国家の功臣を以て傲然自ら在るが如きは、世界立国の常道に愬えて実に恥づべき行為であると共に、社会風教の為に深く悲しむべきことである。

第5段落

次は榎本武揚氏であるが、氏は勝氏とは全く意見を異にし、飽くまで徳川勢を助けんとして軍艦数隻を率いて函館に脱走し、官軍に抗して奮戦なしたれども、遂に力尽きて降参したものである。 当時徳川勢は全線既に瓦解して戦うに勝算なきは既に明白であったれども、所謂武士道の意気地、即ち痩せ我慢の意気地から必敗を期しながら最後の戦を試みたることは、日本魂の風教上より論じて之を勝氏の行動に比すれば、日を同じくして語るべきものではない。 然るに戦い敗れて敵の軍門に降り、捕われて東京に護送せられ、罪を許されたる後に明治政府に仕えて累進して特派公使に任ぜられ、遂に大臣にまで昇進して青雲の志を達したりと思うに至りては、全く武士の意気地を投げ棄てたるものにして、死を賭して苦戦し、氏の為に戦死したる者は地下に在りて如何なる思いをなして居るか。 我が国古来の習慣に従えば、凡そ此の種の人は遁世出家して、死者の菩提を弔うの例もあれども、今の世間の 風潮にて出家、落飾も不似合とあらば、須く其の身を社会の暗所に隠し、其の生活を質素にし、一切万事控へ目にして世間の耳目に触れざるの覚悟こそ必要である。 要するに維新の際、脱走の一挙に失敗したる氏は、仮令禄爵捨てざるとも、最早政治上には再生すべからざるものと観念して唯一身を謹み、一は以て戦死者の霊を弔い、又一は何事に限らず首領たる者は責を明かにすることが肝要であって、此のことは独り此一身の為のみではなく、国家百年の計にして、士風の上より見て実に看過すべからざることである。

第6段落

以上は福沢先生の痩せ我慢の説の大要であるが、更に之を要約すれば左の五点に帰するであろう。

(1)
国の内外を問わず、苟も敵に対しては勝敗を度外に置きて飽くまで戦うべきである。
(2)
戦い戦って力尽きたる時に及びて初めて降伏するか、或は自決するかの途を選ぶべきである。
(3)
初めより勝敗を打算し、戦わずして敵に降伏するは亡国精神である。
(4)
戦ひ敗れたる後に於ては、首領たる者は世間より引退して自己の責任を明かにすべきである。
(5)
如何なる場合に於ても敵の恩恵に依りて立身出世を図るべからず。

以上が痩せ我慢の要点であり、日本武士道でもあり又立国の根本精神である。

第7段落

福沢先生の痩せ我慢の説を読み、此の精神を基として彼の政党解消に当れる首領等の行動と責任を糺して見たい と思う。 言うまでもなく、我が国の政党は政友、民政共に其の起源と系統に溯れば六十年の歴史を有し、此の間外に対しては日清、日露の両戦役を初めとして、今回の支那事変に至るまで幾多の国家的難局に遭遇し、又内に於ては政治界に数知れぬ変遷もあったなれども、自ら以て国民代表の大任を有し、政治上に団結して国政の運用と立憲政治の発達に向って多大の貢献をなしたることは蔽うことが出来ない。 固より政党も人間の集りであって、凡そ人 間のなすことに完全無欠のものはない。今日の宗教、教育界に於てすら其の短所や欠点を指摘せよと言うならば、それは数限りもなく見出さるるのである。 況んや国家権勢を対象として政治界に活動する政党に非難、攻撃を受くべき弊害の起ることは、啻独り我が国の政党に限られたることではなく、世界何れの国の政党と雖も免れざる所であって、又是が人間界の痛手とも言うべきものである。 併し凡そ世の中の事物は、唯其の一面のみを見て全体を批判すべきものではない。 何事によらず必ず長所もあれば又短所もあるのであるから、成べく其の短所を矯正して長所を伸張することに努むべきである。 是が人間として、又国民として世に処し国に報ゆる所以である。 殊に苟くも立憲政治を行ふ以上は、政党は必然的に起るべきものであるのみなららず、健全なる政党が起らねば立憲政治は決して円満に運用せらるべきものではない。 而して此のことは、常時と非常時とを問わない。 常時には政党が必要であるが、非常時に当りては政党の必要がないのみならず、寧ろ却って有害であると言うが如き議論はどこを叩いても出て来る訳はない。 之を過去数十年の歴史に徴するも、戦時其の他の非常時に当りては、我が国の政党が国民を代表して政府と協力し、所謂挙国一致の実を以て国難の打開に貢献したることは、何人と雖も争うことは出来ない。 此のことは正に厳然たる事実であって、政党が国難打開の妨害となりたるが如き事実は断じて之を見出すことが出来ない。 然るに輓近政党内閣が樹立せられ、政党の威力が発揮せらるると同時に、其の弊害も亦国民の前に暴露せらるるに及んで、政党に対する非難、攻撃の声が漸次に高唱せらるるに至った。 是は固より改革目体に非難攻撃に値する欠点があるに相違ないが、併し其の原因はそればかりではなく、他にも数うべきものがある。 それは何であるかと言えば、第一は外来思想の影響である。 即ちナチズム及びファシズムの影響がそれである。 我が国民が外来思想の影響を受くることは今に始まったことではなく、第一次ヨーロッパ戦の後に彼のデモクラシーの思想が流入すれば、誰彼の別なく之に陶酔して、デモクラシーを語らざる者は政治家でないが如くに言われた。 それが今度は其の反動としてナチズムやファシズムの思想が輸入せられ、一部の連中は之に捉われて政党攻撃から議会否認までにも盲信するに至った。 彼等の中にはドイツ、イタリアを旅行してヒトラーやムソリーニの頭でも見れば大変なる手柄をなしたるが如くに吹聴する。 其の不見識なること実に驚くに堪えたるものである。―

第8段落

次に第二は、昭和六年の満洲事件が因となりて我が国の対外情勢が一変し、所謂非常時代に入ったが、右翼とか右翼とか又は推進力とか称せられる人々には、此の非常時を乗切るには独裁専制でなければならぬ。 議会や政党は邪魔物であるとして政党解消論を唱えたり、又密に其の運動を使嗾する者も現われて来た。 それから第三には政民両党に属せざる二、三の小団体があったが、是等の団体に属する議員は選挙区の関係や、従来の行掛りや、其の他種々の個人的事情に依りて既成政党には入ることも出来ず、又入党せんとするも既成政党は是等の人々を歓迎せないから已むを得ずして小団体を組織し、議会の一隅に其の存在を保って居るものの、常に政民両党に圧迫せられて頭が上らない。 そこでありと凡ゆる方法を以て既成政党を攻撃し、あわよくば既成政党を解消せしめて一大新党を作り、同等の立場を以て政党人となりたい。 是が多年彼等の希望であったのである。 固より原因は以上三種類のものばかりではなく、他にも種々複雑なるものもあろうが、兎に角是等諸般の情勢が国民心理に反映して政党に対する国民の関心が益々薄らいで行く。 是が政治界の大勢であったのである。 然るに此の時に当りて政党は何をなしつつあったか。 之を戦争に譬えて言うならば、敵は既に砲門を開いて政党に向って進撃を開始して居るのであるから、政党にして苟くも国家国民に対して負う所の大使命と大責任を自覚して居るならば奮然起って一挙之を撃退せねばならぬ。 而して此の戦争は決して福沢先生の言う所の痩せ我慢の類ではない。 即ち勝敗を眼中に置かざる戦争でもなければ敗戦を覚悟の戦争でもない。 戦えば必ず大勝利を獲得することは疑いなき戦争である。 それは何故であるか。 帝国憲法は日本臣民に向って結社の自由を許して居る。 此の自由は何ものの力を以てするも剥奪することは出来ない。 政党は此の難攻不落の城壁を有し、其の背後には政民両党共に三百余万の党員を控え、更に其の背後には国民も亦之を監視して居る。 凡そ政治上に於て是れ程強い力はなく、政党は実に此の強い力を握って居る。 尚其の上に此の戦争は前記幕末維新の戦争の如く、戦えば江戸を焦土と化し、多数の人命、財産を損する如きものではなく、是とは全然反対に、憲法上に与えられたる全国民の自由擁護を目的とする堂々たる戦争である。 福沢先生は痩せ我慢説を述べて、仮令戦いに敗るるとも江戸を焦土と化し人命、財産を損するとも、それ等のことは何れも一時的の損失である。 戦わずして敵に屈服するが如きは立国の根本を危くする永久の損失であるとまでに極論せられて居る。 然るに此の政治上の戦いに当りて政民両党は何をなしたか。 戦えば必ず勝つ。 而も其の目的は国民の自由を擁護すべき堂々たる聖戦であるに拘らず、敢然起って戦うの意気なく、却って降伏に後れざらんことを惧れて六十年の歴史を放ち、国民の失望を無視して我れ先きにと政党の解消を急ぐに至りては、世界文明国に其の類例を見ざる醜態の極である。 彼等は口を開けば時局を云々する―即ち今日は前古未曾有の一大国難に直面して居る。

第9段落

此の国難を突破するには所謂挙国一致の力を結合して当らねばならぬ、国内に於て互いに派閥を設けて兄弟墻に鬩ぐが如きは、決して時局に対する所以ではないから、此の見地に立ちて考うれば、政党の解消は実に已むを得 ざる時代の要求であるなどと唱えて居る者も見受けらるるが、是等は要するに世上に対して己れの無能、無力を覆はんとする一種の照れ隠しに過ぎない。 国難突破に国民の総力結合を必要とすることは言うまでもないのであるが、是と政党の解消と何の関係があるか。 若し政党の存在が苟且にも国難に当りて挙国一致の実を破り国運の進展を阻碍するが如き事実が見受けらるるなれば政党の解消も亦已むを得ないことであるが、過去数十年の史上に於て斯かる事実は断じて見出すことは出来ないのである。 それのみならず政党の存在こそ却って挙国一致の実を挙げたることは過去の歴史が最も明かに証明して居るのである。 即ち常時に於ては国家内外の政策に付て政府と反対の立場にあった政党も、一朝戦争其の他の国難に当りては、各党各派は従来の行掛りと感情を放ち、歩調を正して自ら進んで政府に協力し、以て国策の遂行を援助したることは争うべからざる事実であると同時に、此の態勢が内は全国民に対し、外は世界列国に対し、如何に力強き影響を与えたるかは、政党解消後の今日、真の団結カなく、闘争心なく、其の上政治的意識の弛緩したる彼等が雑然として議場に集まり、魂の抜けたる決議案朗読に形式的挙国一致を装うものと日を同じうして語るべきものではない。 固より政党は国民代表の大任を負うて政治界に現わるるものであって、決して政府の附属物ではない。 政府と離れて、国家本位の独立意思を有せねばならぬことは無論であるから、此の意思を強行するに当りては常時と非常時とを問わず政府と争わねばならぬ場合の起るのは当然である。 殊に事変其の他の非常時に当りては、政府の国策は言うに及ばず、其の一挙一動は直ちに国家の運命に至大の関係を有するものであるから、政党は絶えず政府を監督し鞭撻して、以て国事に違算なからしむることに努力せねばならぬ。 是が即ち政党の本領であるから、此の本領を放擲し、名を非常時に藉りて無条件に政府に盲従し、之を以て挙国一致の実を挙げ得たりと自称するに至りては、自ら欺き人を欺き―国民に裏切るの罪是より大なるものはない。 元来政党は政治界に於ける戦争団体である。 固より党利党略の為に戦うのではない。 一切万事を挙げて国家本位に闘争を継続する所に政党の生命があるのであって、此の意識を喪失したる時は政党は、魂の抜けたる形骸と化するのである。 然るに前年の五・一五事件以来我が国の政党は、此の大切なる闘争意識を喪失し、唯々権力に畏怖し勢力に迎合する無能無気力の集団に堕落したが、此の堕勢は年と共に益々昂進して停止する所なく、恰も颱風一過して朽木の倒るると等しく、意味なき新体制の空名に触れて形骸共に消え失せるに至ったのである。

第10段落

政党解消の経路は世間周知のことであるから、是れ以上述ぶるの必要はないが、唯一つ述べて置かねばならぬことは政党解消に関する責任の所在である。 何と言うとも政党の解消は我が国政治界に於ける極めて重大なる事件である。 六十年の歴史と、全国に亙って六百有余万の党員を有する政民両党が、仮令時代の波に動かされたとは云ふものの、一時に解消して影も形も消え失せたことに付て何れの所にも其の責任を負う者がないと云うことは世間に通用せざる議論である。 併し余は此の時に当って、政党を解消に導きたる外部の勢力に付て、彼れ此れと言を費さんとするものではない。 仮令外部に於て如何なる反対勢力が起ろうとも、能く党内を粛清し陣容を整頓し、党員の士気を鼓舞して堂々と之に対抗するならば、仮令政界に如何なる波瀾が起ろうとも、政党解消と云うが如き事態の現わるべきことは断じて起るべき筈はない。 然るに天下の形勢は年一年と政党に向って不利に傾きつつあるに拘らず、此の大勢に気付かず、或は気付きたりとするも此の大勢を挽回するに足るべき何等の努力をも払うことなく、依然として長夜の夢を貪りつつ、其の最後に至りて戦意全く喪失し戦わずして自ら崩壊するに至りたる、其の責任は何ものが負うべきものであるか。 言わずして政党の首領たる其の人々が全責任を負わねばならぬことは、論を要せざることである。 之を武力戦に見るも、苟くも大将たる者が全軍を率い、戦わずして敵陣に降伏したる場合、如何なる運命に遭遇するかは言うまでもないことである。 然るに政治上の戦いに於て斯かる大失態を演じ(注2)たる当時の首領等は、果して自己の責任を痛感して居るのであるか。 福沢先生の説に従えば、斯かる場合に当りては苟くも政党の首領たる者は須く責任を負うて政治界より引退し、社会の裏に一世を過すべきであるが、彼等の行動は果してそれに副うて居るかどうか。 更に福沢先生は勝、榎本の両氏が其の後明治政府に仕えて栄位栄爵を受け、一世を富貴の中に過したることを以て武士道の精神を蹂躙するものであるとまでに非難して居るが、此の点に関する政党首領等の行動はどうであるか。 其の後彼等のなす所を見れば、彼等は全然自己の責任を悟らず、依然として政界の表面に止まり、剰さえ政党撃滅の指導者たる反対勢力に阿諛迎合して一身の安全と栄達を図らんとして居ることは世間周知の通りである。 事茲に至りては最早や政治家としての主義もなければ節操もない。 政治家とは称せらるるものは其の実真の政治家にはあらずして全く巧利主義、現実主義、打算主義を逐う(注3)て風のまにまに浮動する一種の素町人たるに過ぎない。 斯くの如き似而非なる政治家を戴く政党が彼の非立憲なる勢力から迫害せられ、愚弄せられ、侮辱せられて遂に崩壊の運命を見るに至るは理の当然であって、毫も怪しむに足らない。 今や我が国は前古未曾有の困難に直面し、此の困難と戦うが為に内には日本精神が強調せられて居る。 日本精神とは如何なる精神であるか。 日本精神一名武士道の精神である。 武士道の精神は正義の為には飽くまでも戦う精神であり、人間としての恥を知るの精神である。 戦いの途を知らず、恥を知らざる者等が政治家の看板を掲げて天下に臨む。 政党の振わざるは当然である。 想うに政党は一時解消したれども、憲法政治は必然的に政党を要求する。 新政党は起らねばならぬ。 而して新たに生るる政党は、其の種類の如何なるものを問わず内に武士道の精神を備えねばならぬ。 戦うこと、恥を知ること、恥を知ることは即ち責任を解することである。 此の二つの心的要素を備うるものでなければ如何に多数の頭顱(注4)を集むるとも其の集団は糞土の墻と択ぶ所はない。苟くも政治に志す者は深く自ら反省し過去の失態を繰返さざらんことを警告する。

脚注

(1)
原文では「清教」と表記されている。
(2)
原文では「演したる」と表記されている。
(3)
原文では「遂う」と表記されている。
(4)
Yahoo!辞書 - とう‐ろ【頭顱】