「戦争と平和」
このテキストについて
『斎藤隆夫政治論集 ― 斎藤隆夫遺稿』の238ページから252ページに掲載されている、「戦争と平和」(1944-03執筆)を文字に起こしました。
本文
第1段落
世界は正に大戦乱の渦中に巻き込まれて居る。 東亜に於ては昭和十二年七月北支の一角盧溝橋より支那事変が突発したが、此の事件は帝国政府の現地解決、事件不拡大の方針に拘らずぐんぐんと急速度に拡大に拡大を重ねて底止する所なく、北支より中支、中支より南支に亙り我が軍の向う所は文字通り連戦連勝、敵蒋介石を追撃して之を遠き辺陬の重慶に退却せしめ、我が国領土の約二倍半に当るべき支那大陸の要地を占領して茲に新政権を樹立せしめ、之を以て支那全土を統治せしめんとするの大方針を確立したものの、新政権の実力は仲々以て斯かる大使命を達成するには余りに軟弱であると同時に、他方の蒋介石は依然として抗日戦線を撤回せざるのみならず却って最後の勝利を夢みて各地に蠢動を止めないから我が軍も亦彼に向って千戈を収むることも出来ず、之を大体の上より見れば、最近両三年来此の方面の戦争は殆ど膠著状態に陥って著しき発展が見られない。 斯くの如くにして支那事変を収拾することすら我が国に取りて非常なる難事であるに拘らず、之に加えて昭和十六年十二月、日本は更に一層難事である大東亜戦争を始めた。 言うまでもなく大東亜戦争は支那事変が原因であって、支那事変がなけれは大東亜戦争も起らない。 是は分り切ったることであるが、それ等のことは何でも構わない。 今更戦争の原因なぞを吟味した所で何の役に立つものでなく、起きたことは仕方がないが、併し之に依りて我が国は世界の強国を以て誇れる米英を相手に乾坤一擲の大戦場に突入したることは争われない。 幸いにして我が軍は各方面に機先を刺し、敵の防備全たからざるに乗じて驀進敢闘、僅かに半歳を出でずして東亜一帯に於ける敵国百年の基礎を破壊して以て彼等の勢力を根底より一掃し、我が本土に数倍する敵国の領土を完全に占領するに至ったが、是こそ世界戦史に未だ曾て類例を見ざる所であって、後世の歴史家は必ずや棒大の筆を揮うて我が軍の偉功を礼讃すると同時に米英の惨敗を痛罵するに相違ない。 併しそれは兎も角として戦争は固より是にて終結を告ぐるものではなくして、是から益々苛烈凄愴の死闘を繰返すに至るべきは疑うべくもない。
第2段落
それから次はヨーロッパ戦争である。 支那事変が始まった頃からヨーロッパに於ても漸次に戦雲が動き出した。 ―方はヒトラー、他方はチェンバレン、此の両者の間に盛んに国際放送が高調せられたが、議論の要点は帰する所正義争いである。 甲は正義は我が方にありと論ずれは、乙も亦正義は我が方にありと叫ぶ。 余は遠方より之を眺めて彼等のなすことを嗤って居た一人である。 今日の国際間に於て自分勝手の正義論が何の役に立つか。 正義と言えは悉く正義、不正義と言えば悉く不正義である。 正義も不正義も各々其の国の立場と理窟の立て方に依って如何様にも変って行くから左様な議論は百年繰返した所で結末の付くものではない。 戦争を始めんとするならば一日も早く戦備を整えて一日も早く蹶起した方に七分の勝目がある。 口舌の争を以て国際間題が解決出来るものと思い、戦備に油断して一日たりとも立ち遅れたるものに敗戦の憂目が降り懸って来ることは必然の運命である。 俄然ドイツは昭和十四年九月一日ポーランドに向って進撃を始めた。 イギリスは之を見て周章狼狽(注1)、越えて同月三日ドイツに向って宣戦を布告したものの、此の宣戦は少くとも独波戦争に関する限り寸分の効き目はない。 ドイツは斯かる宣戦には一切頓着する所なく、破竹の勢いを以て瞬く間にポーランドを征服して之を独ソ両国間に分割し、更に軍を 転じてデンマークよりノールウエーよりオランダ、ベルギーに至るまで罪なき弱小国を蹂躙し、所謂電撃作戦を以てフランスに侵入し、翌年六月には早や既にフランスを降伏せしめて彼の有名なるブレンネル峠に於ける休戦条約まで締結するに至った。 イギリスは之を見て全く色を失ったようであるが、是も戦備を怠った覿面の報であると思えば何ものも咎むることは出来まい。 イギリスはどうするかと思うたが、ムソリニ―も此の形勢を見て傍観して居ては己れの地位を維持することが出来ないから後れながら同年六月ドイツ側に組して参戦するに至った。 斯くの如くにして当時ドイツの勢は予想外に強く、ヒトラーの鼻息は益々荒い。 而して国家危急の前には条約も何もあったものではないから到頭昭和十六年六月には彼の独ソ不可侵条約を一蹴し、ソ聯に向って不意討を食わしむるに至りて、ヨーロッパ戦争も愈々拡大して今日の形勢を作り、東西相呼応して枢軸側と反枢軸側に分れ、世界を挙げて戦乱の渦中に投じ、第二次世界戦争は今正に酣であるが、偖て此の戦争はどう落着するものであるか。 戦争は止むものであるか。 世界の平和は来るものであるか。 是が問題である。
第3段落
顧みれば今年は第一次世界大戦が始まってから三十一年目であり、終ってから二十七年目である。 第一次世界大戦は一九一四年六月に始まり一九一八年十一月に終りを告げた。 四年有半の間交戦国は国を挙げて戦ったが、勝敗の決は別として此の戦争に於て交戦列国は実際上何の利益を得たか。 敗戦国は言うに及ばず戦勝国と雖も人を殺し財を費やし有ゆるものは打ち毀され焼き払われて、残されたる国債は山の如く、国民は疲弊困憊のどん底に蹴落されて、得る所は失う所を償わない。 是に於て関係列国は始めて戦争の惨害と其の馬鹿らしさに気が付いたと言えばそれまでであるが、此の位なことは戦争の経験を嘗むるまでもなく、苟くも人間として常識を備うる者には予め分り切ったことであるが、仮令分って居たとするも戦争は時の勢いに制せられて絶対絶命已むに已まれぬ。 避くることの出来ないものであるから仕方がない。 併し出来得ることならば戦争を止めて平和の間に国家生活及び人間生活を続けて行きたい。 是が偽りなき人情であり人間の心の叫びであるから、苟くも国家を率いる政治家は茲に意を注いで、凡そ人間智力の限りを尽して以て戦争回避の方法を案出するのは彼等が之を外にしては世界人類の為め、之を内にしては国家人民に負う所の一大責任である。 第一次世界戦争の直後、パリに開かれたる講和会議に当り列国の使臣等が心の底に抱懐したる意見は期せずして是であったに相違ない。 即ち彼等は戦争の苦き経験に鑑み、何としても将来戦争を止めたい。 未来永久世界の舞台から戦争を一掃したい。 此の見地に立ちてあらん限りの脳漿を絞り尽して案出したるものが彼の国際聯盟である。 国際聯盟には世界各国殆ど残らず加盟して居る。 殊に我が日本は当時世界五大強国の一として又聯盟の幹部として之に加盟調印して居るのであるが、国際聯盟の目的は何であるか。 言うまでもなく戦争を止めることである。 即ち世界の舞台から戦争を一掃して未来永遠に世界の平和を確立する。 是が聯盟第一の目的である。 而して此の目的を達するが為め種々の規定を設け、機関を置いて多年に亙り相当の活動を続けて来たのであるが、然らば之に依りて戦争を止めることが出来たか。 世界の平和を維持することが出来たかと言うと出来ない。 断じて出来ない。 何故に出来ないか、出来ないのは当然である。
第4段落
凡そ世界人類に関する有ゆる現象を考察するに当りて人類生存の背理を究めずして唯単に外部に現われたる一起 一伏を捉えて之を人工的に且つ機械的に統制し、以て人類の活動を左右せんとするが如き企てが全然失敗に終ることは過去幾百千年の歴史が明かに之を証明して居る。 言うまでもなく人類社会は生存競争の社会である。 已に生存競争の社会である以上は個人は個人と競争し民族は民族と競争し国家は国家と競争する。 然らざれば個人も民族も国家も生存を保つことが出来ずして滅亡するのであるから競争は人類社会保全の絶対必要の条件であると共に之を 向上進歩せしむるが為にも亦欠くべからざる要件である。 而して之を端的に言うならば戦争は全く生存競争の現われであって、生存競争を外にして戦争を説明すべき何ものもない。 即ち凡そ此の地球上に人類が発生し、遠き太古の野蛮蒙昧の時代を過ぎて或る程度の文明の域に進むに従って地球の一角を占領して国家を建設し、国家生活をなすに至りては其の国家生活の保全及び向上の必要よりして飽くまでも自由の発展を図らねはならぬが、自由の発展を図らんと欲せば他国と利害衝突が起り、利害の衝突する所に国際上の争いが起るのは自然の勢として防ぐことの出来ない帰結である。 而して個人間の争いは国家権力の作用に依りて之を解決することが出来るが、国家間の争いは之を解決する途はない。 世に国際法とか何とか、之を解決せんとする多少の何ものかが存するなれども是等は何れも其の目的を強行するに足るべき権力と実力の背景を欠くが為に有れども無きに等しきものであって、帰する所は国際間の争いを解決する途は唯一つ、それは何であるかと言えば即ち戦争である。 戦争を外にして国際紛争を解決する最後の途はない。 それ故に此の地球上に国家群の存在する限りは戦争は絶ゆる時はない。 或る歴史家の記述に依れば過去三十四世紀三千三百五十七年の間に於て三千百三十年は戦争の歴史であって残りの二百二十七年が平和の歴史である。 それ故に世界の歴史は戦争を以て充たされて居る。 世界の歴史から戦争を除いたならば残る何ものがあるかと言いたくなるが、それ程此の世界には戦争が絶えないのである。 併し考えて見るまでもなく凡そ此の世の中に於て戦争程惨酷なるものはない。 平時に於ては唯一人の人間が道路に行き倒れとなって居るのを見ても惻隠の情に堪えないものがあるが、戦争とならば一人や二人の生霊は物の数ではなくして何万、何十万、何百万の人間が砲煙弾雨の下に尊き生命を奪われるのみならず、其の他戦争に依りて惹起されるべき国家人民の損害は実に測り知るべからざるものがある。 夫れ故に遠き古より戦争を絶滅せんが為にどれ程努力を払われたか。 孔孟が仁義道徳を説き釈迦が殺生禁断を説き基督が慈善博愛を説きたることは言うに及ばず、其の他世界の志士仁人より政府政治家に至るまで戦争阻止に向って払いたる努力は、決して軽視すべからざるものあるが、それ等の努力が如何に報いられたるかは過去現在の事実が明かに之に答えて居るのである。 斯くの如くにして天が与えたる人間の生存欲は何物の力を以てするも之を奪い去ることは出来ず、生存欲のある所は現われて競争となり、生存競争が発して戦争となるのは已むに已まれぬ必然の勢いであって、今日に至るまで之を阻止するに足るべき何等の方法は発見せられない。 而して一度戦争とならば仁義道徳や慈善博愛の如きものは立ち所に吹き飛ばされて争う所のものは殺人であり恃む所のものは暴力である。 暴力の強き者が勝って弱き者が敗れる。 勝ちたるものは国を興し敗れたるものは国を滅ぼす。 古今東西其の軌を一にす(注2)、生存競争、優勝劣敗、適者生存の天則は戦争に依りて最も如実に現われると共に此の事実は何人と雖も否定することの出来ない人間界の真理である。 然るに世の偽善者等は奪うべからざる此の真理を解する能わずして戦争を以て天理に惇り正義を蹂躙する人間界の罪悪なりと妄断するが、其の言う所の天理とは如何なる天理であるか。 正義とは如何なる意味を有するものであるかと問わば恐らく答うることの出来る者は一人もないであろう。 元来我々は常に正義正義と正義を高調する癖があるのみならず、国際正義と云うことも屡々耳にするのであるが、其の言う所の正義とは抑々何を標準として定むべきものであるが、凡そ此世の中に於て何人も承認せねばならぬ世界共通の正義なるものがあるであろうか。 曰く無し。 有るべき道理はない。 なぜならば苟くも我々人間が集まって共同生存の必要よりして国家を組織して国家生活をなす以上は、其の所属国家の利益を目的とする一切の行為は悉く正義であり、之に反する一切の行為は悉く不正義であらねばならぬ。 之を外にして正義と不正義を定むべき何等の標準はない。 随て甲国の正義は必ずしても乙国の正義ではないと同じく乙国の正義は必 ずしも甲国の正義ではない。 而して戦争は如何なる場合に於ても自国の利益を目的として起るものである以上は、凡ゆる戦争は一面より見れば悉く正義の戦争であると共に他面より見れば悉く不正義の戦争である。 戦争に対する理論は大要斯くの如きものであるに拘らず、此の見易き道理を解せずして戦争を始むる場合に当り、若くは戦争を始めたる後に於ても尚おも正義論を高調し、甚だしきに至りては自国の戦争のみが正義の戦争であって敵国の戦争は不正義の戦争であり最後の勝利は正義側に帰するのであるから自国の勝利は疑いなしと放送するに至りては戦争の本質を弁えざる浅薄皮相の謬見である。 由来戦争は此種の口舌論争に依って勝敗を決するものではなくて、戦争の勝敗を決するものは唯一つ、曰く力である。 一にも力、二にも力、三にも力であって、力を外にして勝敗を決する何ものもない。 第一次ヨーロッパ戦争に当りても随分正義論が盛んに鼓吹せられた。 英仏を主とする聯合国は正義は我が方にありと論じ、ドイツを主とする同盟側も亦正義は我が方にありと論じたが戦争の結果はどうであったか。 聯合側が勝って同盟側が敗れた。 是は正義が勝って不正義が敗れたのかと言えば決して左様ではない。 正義や不正義は何れにか飛び去って、帰する所は同盟側の力が尽き果てたから投げ出したのである。
第5段落
戦争に付ては尚お論ぜねはならぬことがある。 それは外でもない。 如何なる戦争に於ても戦争は侵略戦であって、侵略を外にして戦争のあるべき訳はない。 即ち一国が他国を侵略せんとし、他国は其の侵略を防止せんとする。 茲に戦争が起るのである。 仁義の戦争と云う言葉があるが、今日の我々は斯かる戦争を想像することは出来ない。 なぜなれは仁義とは一体何であるか。 仁義とは少くとも自らを犠牲として他を助くることを意味するものである。 身を殺して仁を為すことは個人道徳としては最上のものであるが、国家には斯かる道徳があるべき訳はない。 国家は慈善団体ではない。 戦争は慈善事業ではない。 自国の利益を犠牲として他国若くは他民族を救済すると言うが如きは断じて国家のなすべきことではない。 国家は権力団体であると共に利益団体であるから国家の進むべき途は徹頭徹尾自国の利益であらねばならぬ。 自国の利益を外にして国家の進むべき途のあるべき道理はない。 固より自国の利益と云うことは小なる目前の諸利益のみを指すのではなくして、其の国家の目的とする遠大の利益を指すものであることは無論であるから、其の目的に進まんとする道程に当りては、他国家若くは他民族の利益となるべき事実の現わるることあるも、それは目的ではなくして目的を達する手段に過ぎない。 例えば戦争に当りて敵国の領土を占領したる場合に於て、其の領土内の民族を解放して自治若くは独立の国家を建設させることあるも、是等は何れも自由の戦争目的を達する手段に供せらるべきものであって戦争目的其のものではないから、之を以て仁義の戦争と言うことは当らない。 従って之と反対に若し此等の民族を解放せず、却って之を弾圧することが必要とあれば此の途を執ることも決して不当ではない。 要は何れの途を執ることが戦争目的を達する上に於て得策であるか否やに依って決せらるべき問題であって、其の何れに帰するも之に依りて戦争の性質は何等の変化を受くべきものではない。
第6段落
繰返して言うが、如何なる場合に於ても戦争は侵略戦であって、侵略者と被侵略者との闘争が即ち戦争である。 而して既に前述せる如く人類社会は生存競争の社会であって、生存親争は人類生存の必要条件である以上は其の生存競争より必然的に結果する所の戦争も亦戦争より来る所の侵略も決して罪悪ではない。 侵略は罪悪でないのみならず有体に言うならば今日地球上に存在する所の国家それ自体が実は侵略の産物である。 古来国家の起源に付ては種々の学説もあるが、如何なる学説があるに拘らず帰する所国家の起源は侵略の外に出づるものはない。 即ち或る民族が地球上無人の土地を占領して新国家を建設することあれば土着の先民族を征服して新国家を建設することも あり或は又戦争其の他の強行手段に依りて国家の領土を拡張して大をなすこともあるが、其の何れを執るに拘らず其の行動は侵略其のものであって、侵略以外の何ものでもない。 既に現在の国家が侵略の産物である以上は其の侵略国家間に於て更に侵略戦争が起るのは毫も怪しむに足るものなく、(注3) 況んや之を以て罪悪と称するが如き道理が何処を叩いても出て来る訳はない。 斯くの如くにして戦争は正義に惇らず罪悪にあらざるのみならず、世に戦争なければ人類は向上進歩せずして遂に死滅する。 それ故に戦争は善にして決して悪ではない。 戦争に付ては更に進んで論ぜねばならぬことがある。 戦争は人類の生存欲に基づく国家発展欲の現われであって、人類の発展欲に限りがないと同じく国家の発展欲にも限りがないから、国家は其の力の及ぶ限りに於て前進すべく、前進せざる国家は後退し後退する国家は遂に衰亡するのである。 而して国家の前進するに当りては洋の東西や人種の異同なぞは毫も顧みる所ではなく、其の何れの方向たるを問わず比較的抵抗力の薄弱な所に向って侵入することは水の低きに着くが如く自然の勢いであるから如何ともすることが出来ないと共に、西洋人が東洋に侵入するのを責めることが出来ないと同時に東洋人が西洋に侵入するのも亦責めることは出来ぬ。 否此の地球上には東洋もなけれは西洋もない。 斯かる区別は人間が勝手に付けたる名称に過ぎないのであって、天上の高きより地球の表面を眺むれば地球は平等一様、東西南北の区別も何もなく、人間は其の何れの所にも活動すべき足と自由を与えられて居るから、之を彼れ此れと論難することは全く弱者の悲鳴である。 而して何人が如何なる理窟を付けようが此の世界は全く強者の世界である。 強者が弱者を支配し弱者が強者の前に屈服する。 優勝劣敗、適者生存の天則は全地球の表面に遍く横行潤歩することは近々数千年の歴史を見ても明かであるから、此の事実に基礎を置かざる戦争論や平和論は全く砂上の楼閣と均しく、倒れざらんと欲するも倒れざるを得ないのである。
第7段落
戦争は止まない。 何としても戦争は止まない。 止まないのは当然である。 神は戦争をなすべく人間を製造して居るから仕方がない。 それであるから是まで戦争を止めるが為に凡ゆる努力を払われたが何の効き目もない。 其の上戦争毎に戦争国民は屡々欺かれて来た。 曰く戦争を止めるが為の戦争である。 平和を得るが為の戦争である。 此の戦争が終りを告げたならば再び戦争は起らない―永遠の平和が得らるることは疑いない。 現に前ヨーロッパ戦争に当りても交戦列国は何れも此の戦争を以て人類最終の戦争なりと称し、出征の将兵及び国民を鼓舞したのであるが、是等の宣伝は何れも裏切られて全く自他偽瞞であることが暴露せられたではないか。 尤も如何なる戦争に当りても戦後の条約は平和維持を目的として作成されないものはないが、此の種の条約が平和維持に如何程の効力を発揮したかと言えば、殆ど見るべきものはない。 歴史以来戦後に締結せられたる条約は八千有余の多きに上って居ると言わるるが、是等の条約も余り長い年月を経過しない間に何れにか吹き飛ばされて影も形も見えなくなって居る。 条約と言い協約と言い関係列国は何れも自国の利益の為に之を取結ぶのであるから、自国の利益である間は之を遵守するが自国の不利益となる場合が来たならば遠慮なく之を破棄する。 凡そ国家の為すことは一切を挙げて徹頭徹尾自国本位である。 自国の利益の為に条約を締結し自国の利益の為に之を破棄する。 我に於て何かあらんやである。 今日の国際競争の間に立ちて此の位な事理を弁え此の位な度胸のない者には国家の大事を託することは出来ない。 それであるから国際間の条約なぞは毫も信頼することの出来るものではなく、甚だしきに至りては当事国の中には条約調印の瞬間から早くも破棄の機会を狙って居るものもある。 近頃或る国が同盟条約を裏切って敵陣に降伏したる事件が突発したが、関係国の中には頻りに之を攻撃して其の背信を責むる者も現われたが、然らば之を責むる其の国は是まで条約を破った例はないかと見れば決して左様ではない。 破るも破るも再三再四条約を破った条約違反 の前科者もある。 自国の条約違反は黙して語らず、他国の条約違反は口を極めて之を攻撃する。 国際間の議論などは当てになるものではない。 顧みれば今より百有余年前即ち一八三四年彼の一時欧州を蕩尽したるナポレオン敗戦の後を受けて関係列国がウィーン会議を開いて欧州百年の平和を目的とする条約を取結んだのであったが、之に依りても列強の関係は毫も改善せられず、其の後普仏戦争を始めとして数多の戦争を繰返して遂に第一次ヨーロッパ戦争を巻き起した。 第一次ヨーロッパ戦争後にも既に前述せる如く国際聯盟条約を締結して戦争回避を図ったが是も役に立たずして遂に今回の大戦となった。 或る者等は今回の戦争は全くヴエルサイユ条約がドイツに対して余りにも苛酷なる制裁を課したからドイツは之に耐えずして已むを得ず起ったのであると言うが、斯かる見方は全然誤りである。 条約が苛酷であろうが寛大であろうが斯かることには関係なく、ドイツは早晩起ち止らざるを得ない境遇に置かれてある。 強いて言うならば条約が苛酷であるが為にではなく寧ろ寛大に失したから起ち上ったのである。 苟くも戦勝国が戦敗国に向って条約を押しつけるからには戦敗国をして再び起つ能わざる程度のものでなければならぬ。 然るに思いを茲に及ばさずして中途半端に幾分にても再起の余裕を残し、所謂蛇の生殺しをなしたることがドイツ再起の原因であって其の責は敗戦国のドイツにあると言うよりも寧ろ戦勝国の英仏にあると同時に将来戦後問題を解決するに当る者は深く考うべきである。
第8段落
大体斯かる次第であって、条約も頼むに足らず。 戦争は止む時はない。 而して今回の大戦はいつまで続いて如何に落着するかは今日何人と雖も予言することは出来ない。 枢軸側が最後の勝利を確信すれば反枢軸側も亦最後の勝利を確信する。 それは固より当然の次第であって、苟くも戦争を始むる以上は最後の勝利を確信せずして起ち上ることの出来るものではない。 併し交戦国が双方共に勝利を得ると云う戦争のあるべき訳はないから或る時が来たならば何れか一方が勝利を得て他方は敗北を嘗めねばならぬが、其の勝利は徹底的の勝利であり真の敗北は徹底的の敗北であることは今から予言して少しも間違いはない。 それは此の戦争の性質が自ら然らしむるものである。 即ち此の戦争は世界七大強国中フランスとイタリーは既に落伍したが、残り五大強国が交戦国として国を挙げて戦って居る。 其の上に世界六十有余の独立国中僅かに雙指を属するに足らざる中立国を除くの外は交戦国の何れかに対して或は宣戦を布告し或は国交を断絶して参戦の実を挙げて居るが、斯かる複雑にして且つ世界的大規模の戦争が中途半端にて干戈を収むることの出来る訳はないから、所謂生きるか死ぬるか、食うか食われるか、国力の限りを尽して底の底まで戦い抜くことは容易に想像し得べきことである。 そこで戦後の世界はどうなるか。 戦勝国が如何にして戦後の世界を改造せんとするか。 既に前述せる如く此の世界に於て永久に戦争を止めることは実際不可能のことであり随て永久の平和は望み得られないとするならば、せめては百年の平和にても続けて行きたいと思うことは戦後に於ける世界人類の熱望であると共に此の熱望に応うることは戦勝国が世界人類に対して負う所の重大責任であらねばならぬが、今日の交戦国に其の用意があるかないか。 我々は之を聴かんと欲するものである。 枢軸国は世界的新秩序建設を標榜(注4)して居るが其の言う所の新秩序とは如何なる内容を有するものであるか夫れが分らない。 縦し何かの内容を有するものとするも、之を以て世界永遠の平和は愚か五十年、百年の平和を維持するの確信があるか。 今日の新秩序は明日は旧秩序となる。 更に旧秩序を破壊して新秩序を建設せんとする戦争が起らないと何人が保障するか。 我々の疑念は茲に存するのである。 次に反枢軸国に何の用意があるか。 或は最後の勝利を前提として枢軸国を徹底的に撃滅して悉く武装解除せしめて以て再起不能に陥らしむるか。 余は今斯かる事態が現わるるか否かは予想できないが、仮に一歩譲って斯かる事態を見るに至りたりとするも単に此の一事を以て広き世界の平和を 維持することが出来るとも思われない。 茲に於て我々が考えねばならぬことは戦後に於ける世界の改造である。 世界改造なる言葉は従来世界の政治家等が絶えず慣用し来れるものであるが、併し之を如何に改造せんとするかに付て未だ曾て聴くべき意見に接せない。 それは世界改造の方法が頗る多岐多様に亙りて統一を欠くことも其の原因の一に数えねばならぬ。 即ち之を領土問題に置くものもあれば人種の問題に置くものもあり、経済問題に置くものもあれば軍備問題に置くものもあり、其の他世界各国間に播る(注5)諸般の問題を取り来りて是が解決を試みんとするものもあって固より是等は将来の世界改造に当りて看過(注6)すべからざる大問題であるに相違ないが、併し戦争の世界改造には斯かる諸問題を超越して更に一層大なる問題のあることを忘れてはならない。 それは何であるか。 言うまでもなく世界平和に関する問題である。 即ち如何にして世界平和を確立すべきか。 茲に重点を置かねばならぬ。 而して此の目的に到達するに当りて先ず第一に考えねばならぬことは現在の国家競争である。 今日世界に現存する六十余の国家間に何等の有機的組織なく、各国家を挙げて平等の基礎に立たしめ且つ独立主権を行使して国際間の自由競争を為すが儘に放任して果して世界の平和を維持することが出来るかと言えばそれは出来ない。 出来ないのみならず過去現在戦争の原因は主として茲にあるのであるから能う限り戦争を阻止して長く世界平和を維持せんと欲するならば先ず以て此の根本に向って手を下さねばならぬが其の方法は二つより外に出でない。 即ち第一は世界の各国家を解体して之を打って一丸となし以て新たに世界的国家を建設することであるが斯くの如きは現在の世界情勢に照らして夢想だも及ばないことであるから措いて問わず、第二の方法として最も可能性のあるものは世界各国を網羅する国家聯合である。 国家聯合にも程々の方法がある。 前大戦後の国際聯盟も其の一種には相違ないが、国際聯盟は其の目的を達成するに当り極めて必要なる或るものを欠いて居た。 それは何であるかと言うならば聯盟を統率(注7)する中心勢力と其の勢力に伴う武力である。 今日の世界を動かすものは仁義道徳の叫びでもなければ自由平等の掛声でもない。 世界を動かすものは徹頭徹尾力であって力即ち武力である。 武力の背景なき聯盟は全く烏合の衆であって、之に向って有機的の活動は望まれない。 国際聯盟実敗の原因は茲にある。 聯盟条約に依れば国家間に国交断絶に至る恐れある紛争発生する時は聯盟が之を裁定し其の裁定に従わざる国に対しては経済上の制裁を加え尚お足らざる時は武力制裁を以て最後の解決をなすべきことを規定すれども此の規定は全く紙上の空文に止まって之を強行すべき武力の準備が欠けて居るから、之を初めに於てはエチオピア征伐に当りてイタリーに破られ、次には満洲事件に当りて日本に破られ、其の次は軍備拡張に当りてドイツに破らるるも手を拱して為す所なく、聯盟の無力は遺憾なく暴露せられて世界軽侮の的となった。 戦後に来るべき国家聯合は斯くの如きものであってはならぬ。 国家聯合の組織に当りては先ず第一に聯合機関を如何に構成するか。 如何にして聯合意思を作成し如何にして其の意思を強行するか等雑多の問題が湧いて出るに相違ないが、それ等の問題は姑く措いて論ぜず、其の骨子となるものは聯合国家を統率(注8)する中心勢力の確立であって、此の中心勢力が結局聯合組織の基礎的要件であるから之が確立せられざる限りは国家聯合も亦国際聯盟と同じく有機的活動力を発揮して其の目的を達成することの出来ないのは必然である。 而して其の中心勢力となるべきものは如何なる国家であるかと言えば世界最強の極めて少数国家であらねばならぬ。 此等の少数国家が中心となりて軍備を充実し、其の他の諸国に対しては国内の治安維持に必要なる限度の外には一切の軍備を撤廃せしめ以て聯合意思に服従せざる国家に対しては直ちに武力を行使して之を弾圧するに足るべき用意を完備すべきである。 斯くの如くにして聯合組織を完成し、然る後に於て聯合国家間の平和を維持し、共存共栄の実を挙ぐるが為に領土問題も人種問題も経済問題も其の他世界禍乱の原因となるべき有ゆる問題を検討して其の解決を図るべく、是が即ち戦後に来るべき世界改造の要旨であって、今日の世界の現状に照らして将来戦争の再発を防止し百年平和の基礎を確立するの途は之を措いて他に求むるものはない。
第9段落
茲に於て問題となるのは国家聯合の中心勢力となって之を統率(注9)する国家は如何なる国家であるかと云うことであるが、それは言うまでもなく今回の戦争に最後の勝利を獲得したる国家を措いて他に求むるものはない。 既に前述せる如く今回の戦争は読んで字の如く所謂世界戦争であって、世界各国殆ど残らず之に参加し而も其の中の五大強国が国力を賭して実戦に当って居るから、此の戦争の勝利者は疑いもなく世界の最強国であると共に、此等強国の力を以てするにあらざれは此の大事業を完成することの出来ないのは論を要せない。 随て枢軸側が勝利を得れば日独両国が之に当り、反枢軸側が勝利を得れば米英ソ三国が之に当るべく、同時に此の大任に当ることは戦勝国の権利であると共に将来世界各国に対して負う所の一大義務であることを忘れてはならぬ。 而して此の見地に立って戦争の前途を考うれば戦争は愈々益々凄愴苛烈の度を加うるに至るべきは無論のこと、戦争の結果は極めて徹底的なものたるべく、戦勝国は戦敗国を追撃して啻に城下の盟をなさしむるのみならず、更に進んで軍備撤廃を断行するにあらざれば此の大事業に着手することは出来ないことを覚悟すべきである。 若し戦勝国が想いを茲に及ぼさずして長期戦争に疲れ果てて最後の勇気と努力を欠き、相変らず姑息弥縫の戦後対策を繰返すが如きことがあるならば遠からずして戦争の再発は期して待つべく、百年の平和は愚か五十年の平和すら断じて望まれないことを故に予言するものである。