『洋行之奇禍』 その5

last updated: 2013-01-23

其四

父母の恩は山よりも高く海よりも深しとは二千五百年の昔、支那学者の口を借りて世に伝播せられたる語にして、今日に於ても儒教一派が親子間の道徳を説くに当りては必ず之を口にせざるものはない、 然れども今日の時世に於て此の如き単純なる語を以て両者の道徳を説明し得べしと思うは大なる誤ではないか、 山よりも高しとは何よりも高きことを意味し、海よりも深しとは何よりも深きことを意味するものなれば世には父母の恩よりも洪大なるものなしと云わねばならぬ、 果して然らば此洪大なる恩に報ゆるが為めには世間如何なる事をも犠牲に供せねばならぬことは論理上当然に推測し得らるべき結果である、 語を換えて之を言えば父母の恩は絶対無限のものなれば又絶対無限の方法を以て之に報いねばならぬ、 更に別語を以て之を言えば子たる者は父母に対して無限の債務を負うものなれば無限の方法を以て之を償却せねばならぬ、 去りながら己人思想の発達し、社会思想の発達し又国家思想の発達したる今日に於て此の如き道徳主義が其儘に行われざることは何人と雖ども容易に悟ることを得べし、 然らば此主義をば如何程までに変更せねばならぬか、之に向て如何なる調和を施さねばならぬか、是れ今日の道徳学者が一身を捧げて攻究せねばならぬ大問題である、然れども僕は元来不道徳学者を以て世に語らざると同時に又道徳学者を以て自ら誇るものにもあらざれば、 此の如き道徳問題を捉え来りて之と争を始むることは僕の好まざる処なるが、図らざりき恐るべき一の道徳問題は俄然として目前に現われ一刀両断の下に我を切断せよと迫れり、

七十六歳なる僕の父は尚お丈夫にてありし、去れども深山の老木すらも一朝風雨の為めに倒さるることあれば、況して広野に投出され吹け飛ぶ如きの弱き人間の老体は朝夕を計られざること言うを俟たず、 駿馬も老ゆれば駑馬に均しとかや、人間も老ゆれば万事駄目、唯々過去の失策を悔い未来の短きを考え弱き言を吐いて死の来るを俟つのみ、 壮年の時に勤めずんば老て悔ゆるとも何んぞ及ばんやとは実に此事である、 僕は元来老人は大嫌い、常に老人と交り彼等の談話を聴くことを欲せず、豈んや今日の日本老人なる者は何れも天保時代の遺物にして其多くは無学である、 僅に学び得たる者は支那蛮国より伝り来れる陳腐の学説なれば彼等の談話は取て以て今日の青年を益せざるのみならず却て甚だしき有害の結果を生ずることもある、 尚お又彼等の経験談に至ては憐れむべきも自家の小立身策にあらざれば多くは是れ文明士人の耳にするを厭う蛮行たるに過ぎず、 此の如き談話を聴て喜ぶ青年は自己の無能を曝露するものである、今日の青年は苟も此等老人の寝言を聴きて之を以て自己の理想とするが如きことあるべからず、 自ら工夫を凝らして新機軸を出し彼等に百倍する大経験を作らねばならぬ、若し強て老人の寝言を聴かんと欲する者あれば僕は汝に教ゆべし、汝は遠く遡ってはシーザーシセロ、歴山やハンバル、また近代に於てはワシントンナポレオンビスマークグラッドストン、此等耄碌翁の経験談でも聴くが可し、左すれば少し位は参考になることもあらんか、

僕は老人の心細き陰気臭き泣言を聴くことは大嫌い、去りながら此度だけは嫌でも(注1)何でも忍んで之を聴かねばならぬ、僕が父は語り出した、

「自分は最早先が短いから汝が帰るまでは此世に居るか居らぬか当にはならぬけれども汝が一心に思い込んだ事なれば今になって止めなどは決して言わない、 思うだけの事をやって呉れたら自分は死んでも満足するが何を為すにも体が第一である、殊に他国に行けば気候も異るであろう、食物も変るであろう、又心を使うことも多いであろうから、 折角体を大切にして病気を出さないように一念を遂げて帰て呉れたら自分は墓場に居ても何れ丈け喜ぶか知れない、若し汝が帰った時に自分が生き長らえて居なかったなら直に墓場に会いに来て呉れよ、 最早死んだ時の用意に墓石を造り戒名を切り込みて墓場に据えてある、本当に兄があの様な始末をして死ななかったなら汝が遠方へ行くのであるから旅費だけでも出すのが当り前なれども今では夫れも出来ないのみならず、 却て汝を煩わして誠に済まないことであるが是れも因縁だと思うて勘弁して呉れよ、彼の地に行けば内の事は余り気に懸けぬように呉々も身体を大切にして無事で帰って呉れよ、 家内の者等は誰も神様に願を掛けるから汝も神信心をせねばならぬ、兄は神信心を為さなかったからあの様に若死した、何んでも人間は神様に願って丈夫にして貰わねばならぬ、 能く能く此事を忘れぬ様に毎日朝起きると直に神様を拝めよ、又船の中に在る間は金比羅様に願を掛けることを忘れてはならぬ、…………………」

血気高まる明治青年の頭に何んで此の如き語が打ち込まれようや、僕は茫然として他事を考えつつあった、

僕は更に進んで泣言を聴かねばならぬ、男の泣言は尚お忍ぶべし、女の泣言に至ては実に忍ぶべからず、 然れども僕は謹んで之を拝聴せねばならぬ、唯一婦人の泣言、此より外に僕は如何なる婦人の泣言と雖ども聴く耳を持たぬ、而して僕は唯に泣言を聴くのみならず僕自ら泣言を語るべしと迫られた、

七十二歳なる僕が母は両三年前より老病に懸り足腰が自由に動かず、僅に杖を頼りに室内を歩むが山々の骨折り、殊に近頃は非常に弱り果てて本年中の寿命は迚も受合は出来ぬとは医者も語れば家内、近隣の者等も語り聴かせ僕も左様に考えた、是に於てか四人の姉等は集り来り僕に向て大に泣言を語るべしと迫った、

「お前も知っての通りお母さんは最早可い年をして居なさる上にあの様に弱って居なさるから所詮お前が帰るまでお居でなさらぬことは分って居る、 左すれば此が本当に此世の暇乞いやから此度こそは能く能くお母さんの安心なさるように緩りと話をして上げてお呉れよ、無くなられた後でお前も心残りのないように、又お母さんも何事も諦めて安心して成仏(注2)なさるように、能く話して上げてお呉れよ、 後の事は私等が引受けて世話をするから少しも気に懸けなくとも宜しいけれども此事だけは別けてお前に頼むから忘れぬようにしてお呉れよ、 お母さんは寝ても覚めてもお前の事ばかり言って居なさるから、……………」

僕は諾と答えて直に母の病室に赴き(注3)しが病床に横われる彼の病顔を見るときは万感立ろに胸を塞いで迚も姉等より頼まれたることを語ることが出来ない、 僕は語るべく決心した、語るべき口を有つ、去れども語ることが出来ない、幾度か試みたれども遂に語る能わず他の談話に暫し時を過ごして其場を退いたが、何れの辺よりか僕を批難する声が聞えた、 汝臆病者―然り僕は実に臆病者である、自ら臆病者たることを白状せん、 而して僕は何が故に一朝にして斯る甚だしき臆病者となったか、僕は今之を問うを要せず速に之より回復せねばならぬ、勇気を鼓舞して臆病者の悪魔を追い払わねばならぬ、然らざれば僕は終生拭うべからざる汚名を被るのみならず道徳なるものは僕に向て罪人の宣告を下すならん、 僕は能く此道理を知る、然れども之を行う能わざるを如何せん、日は迫れり明日は此家を出立せねばならぬ、

僕は独り離家に在て何事をか為しつつありしが何んぞ測らん母は下女に助けられて此処に入り来れり、彼は座するや否や一言をも語らずして直に泣き伏した、 僕は何事をか口走らんと欲せしが俄然臆病の悪魔は再び現われて僕が胸を塞ぎ僕が口を閉じ僕を遮りて一言をも語ること能わざらしめた、 暫くして彼は少しく頭を上げて涙を拭いながら語り出した、

「お前は此度遠方へ行て三年も四年も帰らないと云うことじゃが夫れならばモー此が此世の分れじゃと思えば私は悲しくてならんよ、 本当に兄はあの様に若死してしまって男の子と云えばモーお前一人じゃ、 どの道此家に居る身ではないけれども東京に居ると思えば気強いが、モー日本にも居られなくなってしまうかと思えば私は心細くてならん、 内はお前の知ての通りの始末で仕事をする者は一人もない、此から五人の孫を大きくして片付けるまでは嫁も何んなに骨が折れるか知れない、 皆の者が杖柱と頼む者はお前一人じゃからお前が弱りでもした時には此家は潰れてしまわねばならん、 何んでも体を大切にして帰って来て内の事は後々でも見てやってお呉れよ私が一生の頼みじゃから、 私は此年まで生きて居たら何時に死んでも残り惜いことはないけれども唯家の事、が気になってならぬから何分に頼むよ、 又お前も帰ったら直に嫁を貰うが可いよ、嫁でなければ本当に身の世話をして呉れる者はない、 家の始末も他人に任かせて置いたら可くないからな、 又余り気を使うて病気を出さないようにしてお呉れよ、遠方に行ったら何更気を付けなければ病気になりでもしたときは夫れこと蚊も仕方がないようになるから、 呉れ呉れも体を大切にしてお呉れよ……………」

「宜しゅうございます、決して其お言葉忘れません、又貴方は家の事なぞは少しも心配なさらなくても宜しいです、 何んでも心を気楽に持て長が生きをするようにして下さいな、何に三年や四年に直に済みますよ」

辛ろうして之を言い終りしときに姉等が来たから他の話にて其場を過ごせしが之が抑も一生の大恨事、一年の後天涯の辺、彼が訃言を耳にせしときに僕は如何程に後悔したであろうか、 嗚呼あの時にモー少し気を落ち付けて懇ろに母の心を慰めて置けば可かりしにと、

其の夜床に就くが否や直に容易ならざる一の問題が現われて猛烈に僕を襲撃した、 僕が恐ろしき道徳上の問題と云いしは実に此事である、僕は之を追い払うが為めに夜もすがら眠らんと欲して眠ること能わざりし、嗚呼母よ、天地に代りなき一人の母よ、彼は何れ程に僕を愛して呉れたであろうか、 僕は六人の小供中の一番の季子である、季子は尤も多量に親の愛を奪うとは真実である、父は時々には左様にできあいすると阿呆になるぞと言いしも母は之を聞き入れなんだ、 僕が小学校に通った時分は毎日僕が帰るを待ち受けて何物かを呉れた、 或る時は僕が寝言に饅頭が欲しいと言ったとて翌朝起きたら十丁もある町から買い来れる饅頭を呉れた、僕はそんなら毎晩寝言を言おうと笑ったことがあった、 十三歳の時僕が京都の或る学校に向て出立した時に彼は村外れ迄送り来て涙を流しつつ僕が影の見えなくなるまで立て居た、 京都に在る間は使さえあれば何物かを送て呉れないことはなかった、僕が十五歳の時に無断にて脱走して三ヶ月許り京坂地方に流浪せし時に彼は何れ程に心配したであろうか、 父は何に何処かに生きて居るであろうよと言いしも彼は毎朝氏神様へ参りて僕が身に悪事災難の起らないように願を掛けて居たと云うことである、 僕は東京に出てから七年の間は帰らなかったが其間に彼は何れ程僕に付て気苦労を為したであろうか、 弁護士と為った翌年に初めて帰省した時には僕は彼が年取って顔も容も全く以前より変れるを見て大に驚いた、 夫れより二三回帰省する度毎に僕は彼が衰弱の早なることを憂えたが遂に今日の有様となった、 僕は今此母をば、最早寿命は半年か一年かの間に迫れる此母をば後に残して万里の天涯に影形を隠すのである、 唯一の目的の為めに、僕自身に求めたる唯一の目的の為めに慈愛深き此母と真の生き別れ死に別れをしなくてはならない、 道徳は僕に向て何んと云うであろうか、

道徳を論ずることは僕の本領にあらざれども此問題を決するが為めには是非其道徳の事を考えねばならぬ、 然る処が僕は多年法律界に身を投じ法律の空気に感染せられたる一人である、由来法律なるものは頗る冷酷である法律の力は人情を無視することもある、道徳を蹴飛ばすこともある、 国家と云い社会と名づくる怪物の為めに作られたる法律の前には己人間の人情や道徳は煙の如くに散り霧の如くに消え失せることは吾々が常に目撃することである、 冷酷なる空気に感染せらるる者は其冷酷を忘るるに至るは自然の法則に依て免れざる処、尚お水中の魚は水の冷かなるを知らず北極の熊は雪中の寒きを覚えざると同じとである、 然るに道徳は如何、道徳は冷にあらずして温である、酷にあらずして寛である、温と寛とは道徳の持前にして冷と酷とは道徳の禁ずる処である、 多年道徳の禁ずる冷酷界に身を置ける者一朝にして道徳界に現われ出でて仕事を為し能うか、 能うと能わざるとを問うの暇はない、是非其仕事を為さなくてはならぬ、此問題を解決せねばならぬ、 一刀両断の下に之を切り捨てねばならぬ、若し之を切り捨つること能わざれば彼は腐女の如く何処までも付き纏うて甚だしく僕が自由を妨ぐるならん、 僕が一生を不愉快の裡に葬るならん、去れば僕は一層の勇気を鼓舞して曲っても何んでも是非其之を切り捨てねばならぬ、

昔から日本の道徳は儒教主義の上に立てられてある、素より儒教の外に日本民族特生の道徳もある、儒教より来れる道徳もある、又基督教より来れる道徳もある、 去れども儒教派の道徳は日本の道徳界に於ては尤も勢力あるものなることは道徳学者と雖ども異存なきことと思う、殊に親子間の道徳を口にする者は直に孔夫子の言を引き出すは道徳学者の常態である僕の如きも田舎に在る時は漢学者、悪く云えば腐儒の為めに孔孟の言句を其儘に注入せられて其儘に丸呑して居たが、 一たび東京に出て他の学問を為し、世の中の有様が知れるに従て、其丸呑をば吐き出さねばならぬこととなった、 仮令吐き出さずとも之を噛み砕かざれば僕が進歩発達に甚だしき妨げあることに気付いた、 孔孟の言句は決して悪くない、僕と雖ども其内には万古不易の真理あることを認むるものである、去れども又一方に於ては到底陳腐にして取るに足らざる言句がある、 少くとも新日本の青年が取て以て金科玉条と為す能わざるのみならず、却て有害の結果を惹起すが如き言句も亦無いではない、 夫れは其筈ならん、孔孟如何に賢人なりしと雖ども二千五百年も昔の人である、其人の述べたる言句が二千五百年後の今日に於て、而かも場所も異なり時世も異なる此国に於て、其儘に通用する能わざるは不思議とするに足らない、 然るを孔孟の言句とさえあれば一も二もなく真理なりと思い、千万年の後までも其光を失わざるものの如く信ずる者は所謂腐儒の徒である、

仏教迷信家は釈迦の経文とさえあれば反古紙でも有り難がって戴く、基督教心酔者は聖書に現わるる事は荒唐無稽の妄説(注4)でも全智全能なる神の意思なりと途方途轍もなき寝言を唸る、偏狭哲学者はソクラテスプラトーの書物は宇宙の真理を以て充たされたるものの如く考えて居るが、 何れも取るに足らざる儒学者にあらざれば迷信家の甚だしきものである、僕は今他の事を言うの暇はないが、親子間の道徳に関する儒教派の教理は往々にして天地の道理に背き人類の幸福を無視するものである、彼等は権力服従の関係を持って親子間に行わるる道徳の基礎と為せることは一たび儒教派の道徳を覗きたる者は何人も容易に合点するならん、 儒教派の道徳は親は子に対して絶対的の権利を有し、子は親に対して絶対的服従の義務あることを教ゆるものである、 権力服従の関係は奴隷の関係である、道徳界に於ては子は親に対して奴隷と為らざるべからずとは儒教道徳の根元であるが、今日の吾々が低頭平身(注5)して此の如き道徳教の前に服従することが出来ようが、僕は断じて出来ないのである、 僕は人類の一人として、社会の一員として、国家の一分子として、親に対しても誰に対しても道徳上の奴隷と為ることは出来ない、 僕は人間である、人間は生存発達しなくてはならぬ、人間が生存発達するは僕の権利であると共に又義務である、僕が此権利を行い此義務を果すに於て親であろうが誰であろうが天下何者と雖ども之を妨ぐることは出来ない、 僕が今洋行するに僕が目的を達するに最良なる手段である、僕が生存発達に欠くべからざる方法である、 僕は之が為めに母を殺すものでなければ彼が生命を縮めるものでもない、僕が洋行せずとも天命が尽くれば彼は逝かねばならぬ、 母の天命と僕の洋行、此間に何等の関係はない、唯関係あるは彼が淋しがると云うだけのことである、 去れども僕は終始彼の傍に居ることの出来る身分ではない、已に此家を出てから十三年にもなる、 唯僕は洋行の為めに万一の時に彼が臨終を慰めることは出来ざるも僕は彼を一人荒野の真中に棄てて去るものでもない父もある、娶もある、五人の孫もある、四人の姉等も一里か二里の内に住んで居る、 親戚も沢山ある、彼が病を看護し、彼が臨終に立会う者は有り余る程にあるから僕は別に心に懸けるには及ばない、道徳上の批難を受くべき理由は更に無い、此位な感情に制せられて多年の目的を挫折することあらば夫れこそ道徳上の罪人である、 人類、社会、国家を土台として建設せられたる進歩したる道徳からは大罪人として目せられなくてはならない、 孔夫子は「親在ます時は遠く遊ばず」と云って居る、僕は今遠くも遠くも万里の雲涯に遊ぶのであるから覿面(注6)に此法則に違背するものである、 孔夫子は僕に向って汝は道徳上の罪人なり、汝は親不幸者なりと宣言するに相違ないが、僕は此の如き宣言を恐れる者ではない、 此の如き宣言は千百来ると雖ども一笑を以て之を吹き飛ばさん、可し可し僕が行は仰で天に愧じず伏して地に愧じず、僕は道徳上の権利を行い義務を果さんが為めに洋行するのである、

斯様に論結したるときは鶏鳴一声を報じ僕は覚えず眠に落った、

翌日早朝僕は出立した、母は姉に援けられて玄関まで出た「そんなら此が…………身体が大切じゃぜ」

「心配して下さるな、貴方も切角御大切に……………」

僕はちょっと後を振り向かんと思えども振り向くことが出来なかった、父や姉等と共に村外れまで歩み、其処にて車に乗るや否や、車夫は掛声を出して田圃道を走り出したが忽ちにして桑畑の中に包まれた、旭日未だ山上に登らず、草木露を含んで涼気の爽然たるを覚ゆ、

脚注

(1)
原文では「嫌ても」と表記されている。
(2)
原文では「生仏」と表記されている。
(3)
原文では「趣き」と表記されている。
(4)
原文では「忘説」と表記されている。
(5)
原文では「低頭平心」と表記されている。Yahoo!辞書 - ていとうへいしん【低頭平身】
(6)
原文では「適面」と表記されている。