『洋行之奇禍』 その19

last updated: 2013-01-23

其十八

僕は生れ落ちてから斯様な苦痛に遇ったことはない、此は麻薬の影響もあろうが後で聞けば手術の際に医者が何物かを切ったら恐ろしき許りに出血したそうである、其や此やにて一時に身体に激動を来したに相違ない、 丸で夢の様な心地がする、併し夢でない、夢なれば苦痛を覚えない筈であるが其苦痛には迚も堪えられない、今しも地獄に投げ込まるるかと思わるる許り、去りとて少しも身動きすることは出来ない、 静に上向に横わりつつ烈しく寄せ来る大苦痛と戦わねばならぬ、看護婦は用事があれば枕下の鈴を鳴らせと言い残して出た限り入て来ない、 寝台の上に唯一人、眠を得ることの出来ないは無論の事、唯々苦痛の減ずるのと夜の明けるを俟つ位のことである、 此間に於ても僕は一片の心を失わなかった、―扨は失敗はしなかったな、医者は訳もない様に受合ったが此は仲々の事である、 此苦痛は何時に消ゆるであろうか、夜が明けたら楽になるであろうか、何うか大変な事に為らねば可いが、医者は一週間、遅くも二週間経てば退院が出来ると言った、如何なる事があっても此には決して間違はあるまい、

翌朝早々友人等が見舞に来た時は僕は前夜来の苦痛の為めに全く疲れ果てて眼を開くことも口を動かすことも出来なかったので彼等は非常に驚いたらしい、 併し誰しも此有様が長く続くとは思わなかった、治療後間もないことゆえに此は致し方もないが両三日の中には何んとか楽になるであろうと思て居た、 況んや斯る有様にて此から二年も三年も此病苦と戦わねばならぬことは夢にも思わなかった、若し斯る事が分って居たら僕は其時に死んだに相違ない、一寸先の事は分らぬゆえに今日は楽になるか明日は治るかと待ち焦れつつ身は已に長々しき病苦の旅途に上て居ることに気付かなかった

一日二日は過ぎた、三日四日は行いたなれども病苦は少しも減ぜないのみならず弥々益々激烈と為った、焚くが如き発熱の為めに時々氷の小塊を含まして貰うだけで其他の物は何に一つ口に入れることは出来ない、 眼を開けて居ることは出来ないが去りとて眠に落ちることは尚更出来ない、今夜こそはと思うて日の暮れるを待ち設けても夜になれば早く明かるくなれば可いのにと祈る許り、 午前と午後の二回に看護婦が来て護謨管を取り外して傷口を洗うが、其粗暴にして不熟練なること、彼等は全く病人の取扱方を弁えて居ないと思わる、医者は大抵毎日一度ずつ入り来るも其不親切なることは実に呆れるの外はない、彼は三分間も居たことはない、室内に入ったかと思うと直に出て行く、 此から僕は此病室に丁度五ヶ月居たる間に唯の一回たりとも傷口を見たこともない、全く粗暴なる看護婦等の為すが儘に任せて置いた為めに傷口より恐るべき害毒を注入せられた事は確かに他の病院に於て発見せられた、此事は特に此所に於て明記するの必要があると思う、 夫れから僕は病気の前途が気遣わしくてならないゆえに毎度之に付て問えども彼は一度として親切に答えたことはなかった、夫れでも僕は尚お一心不乱に彼を信用して居た、殊に彼が受合った「二週間」なる語は僕に取りては唯一の希望の綱であえった、 二週間の来るのが何れだけ待ち遠しかったであろうか、暗黒世界に迷いながらも僅に望む一導の光明は実に此日である、全力を挙げて病苦と戦いながらも此日だけは決して忘るる時はなかったが、 弥々此日の来た時に僕の病態は如何であったが、光明は立ろに消え失せた、希望の綱は断ち切られた、失望と落胆の為めに張り詰めた心も乱れる許りに弛んで来た、 暗黒世界は益々暗黒と為った、嗚呼是非もない尚お暫くは辛棒せねばなるまい、もう三日、三日は過ぎた、もう一週間経てば何んとか楽になるであろう、 一週間は過ぎた、医者はもう五日と言った、五日も過ぎた、もう一週間と言った、一週間も過ぎたが何んの何んの少しも快方に向わない、瞬時も容赦なき病苦に攻め立てられ、最早元気は全く尽き果てて身体は憔悴を極め見る影もなき憫れむべき有様となったが医者も看護婦も相変らず冷淡粗暴の取扱を為すの外には別に手当も施さない、 僕は横たわったまま一寸も身動はならないから何に一つ自分にて始末することは出来ない、唯茫然として夢心地の間に病苦と戦うのみである、

或る日何れだけ僕の顔が憔悴し変ったか見たくなったから、看護婦に皮鞄の中の鏡を取り出して呉れと頼んだが彼は之を聞き入れなかった、窃かに友人に頼んだら彼は何心なく之を取り出して呉れた、 僕は之を手に取りて顔を照すや瞬間に落した、―オー此は僕の顔ではない、兄の顔である、三年前に死んだ兄の顔である、彼が死際の顔にそっくり、 色は蒼白で、頬骨は突き出で、目は引込んで、唇は紫色で、髪は乱れて、粗髯は蓬々、オーオー何んたる恐ろしき容貌ぞや、

僕が医者に対する信念は段々と薄らいで来た、何ぜなれば彼は頗る冷淡であるのみならず彼の言うことは少しも当らない、何んとかして一度名医の診察を受けたいが病院内に在て左様の事も出来ない、 幸にして友人等が紐育に一人の日本医者が居るから其を呼んだらどうであるかと勧めて呉れたから直に電報で呼び寄せて貰った、 彼は来たが未だ医学研究中の青書生で迚も碌な意見は述べることは出来ない、唯気休めの様な語を残して帰った、僕は最早何んとも施すべき術はない、唯々死の来るを俟つのみ、何んたる情けない境遇に変ったものであろう、

或る日新鮮の空気を呼吸させると言って骨と皮との病人をば車附の椅子に乗せて戸外の芝草の上に引き出したは可いが、日は照る、発熱は烈しい、咽は乾く、今しも気絶しそうになった、早く引き入れて欲いが傍には誰れ一人付いて居らない、 遂に夢中になって呻き出したら庭内を散歩せる患者の一人が之を聞き付けて院内に知らせたが夫れでも誰も来ない、大分暫くしてから漸く人が来て引き入れて呉れた、

翌日再び同じ事をやると告げたから僕は昨日の様な事は迚も堪えられないから暫く見合せて呉れと断った、すると是非引き出さなくてはならぬと言う、僕は拒む、彼等は聞き入れない、己れに蒲団を剥いで無理に僕が身体を運ばんとする、 実に乱暴極まる、僕は逆上する許りに憤激したなれども毫末も抵抗力はないから、突差の間に枕辺の時計を取て看護婦の面を的に投げ付けた、彼は避けた、時計は硝子窓を破って戸外に飛び出した、 一場の狂言は済んだが彼等は其後は僕の意に反して外出を強いなかった、

五月の初め頃に至て少しく飲食物が通ずる様になった、壮健の時には西洋料理は頗る口に適して友人等が日本料理の話をすると独り冷笑して居たが病気と為ると西洋料理は全く駄目(注1)、粥や梅干を渇望すること甚だし、 米はあるが米人は粥の煮方を知らない、時々友人等が来て煮て呉れた、紐育迄行て梅干を探して呉れたが見付からない遂には汽車にて往復十二日間も要する太平洋海岸のシアトル港迄梅干を注文したら二週間余も経た頃、ブリキの鑵詰が五箇届いた、或る時は友人が支那料理屋に行て醤油を買い来て之に檸檬レモンの汁を注ぎ又何処よりか蠣を買い来て蠣の三杯酢の様な物を作えて呉れた、或は薤や福神漬の様な物を取り寄せた、 其場色々と工夫を凝らして日本風の食物を作えて呉れたので僕は何れだけ助かったか知れない、外国に於て病気をやると第一番に困るものは飲食物である、

少しずつ元気を回復し始めたがまだ一歩も床を離るることは出来ない、長き護謨管は依然として横腹を離れないから寝返することもならず「床擦トコズレ」と云う物が腫れ出したが容易に治らない、 其痛みで何れだけ苦しんだか知れない、何にしろ二ヶ月余は一寸も床を離れないから差当り目前の願は何んとかして室内だけでも歩ける様になりたい、 或る夜人静まった頃独り床を匍い出でて寝台に縋り(注2)つつ足を運ばんと試みたが一足も進まない、翌晩再び試みたが矢張り汰目、三晩四晩と引続き試むる間に漸く寝台を一廻りすることが出来得る迄に為り、 五月の末には杖を頼りに狭き病室内を歩く位になったが、未だ仲々廊下に出ることすら出来ない、

僕が病気に為るや否や友人等は頻りに帰朝を勧告した、併し此病体にて帰朝などは思いも寄らぬことゆえ全快次第に(注3)先ず帰朝して暫く静養するが宜しからんとの趣旨であった、 夫れは誠に有り難い勧告なれども僕は未だ帰朝なぞの考は萌しもしない、 何んで帰朝なぞがなるものか、早く此病気を治して行く所迄は是非其行かねばならぬ、今頃帰朝する位なれば僕は此地に於て死んだ方が可い、 僕は友人の勧告を受くる毎に曖昧なる返事にて濁した、或る日にラッド博士が来て熱心に帰朝の勧告をせられたから僕も余義なく諾と答えたら、然らば此事をば神様に誓うと言て天に向て長き誓の語を発せられた、僕は相済まぬ次第ではあるが其時も心中には帰朝に同意して居なかった、

同胞友人等は僕が病気に付ては非常なる心配と尽力とをして呉れた、彼等は委員を設けて屡々会議を開き東西に奔走し、貴重なる勉学の時間を犠牲に供するも厭わなかった、 六月下旬委員の一人が此地を去るに臨み「病状日記」なるものを渡して記念の為めに永く保存し置き玉えと言ったが其一節に次の文句がある、

五月一日委員七名会して左の通り評議す

斎藤君の病態頗る危篤と認むるに依り速に左の方法を取る事、

  • 一、速に遺言を求むる事但し遺言は左の箇条に依る、
    • (イ)財産の事
    • (ロ)葬式の事
    • (ハ)遺族に関する事、
  • 二、遺髪は書留郵便にて実家に送る事、
  • 三、同君の荷物を片付け其目録を作る事、
  • 四、死去の時は直に友人を集め遺族への通知財産の始末等便宜処分する事、
  • 五、葬式は遺言に依て之を為す事、

其他何々

嗚呼彼等は全く僕に向て死を宣告した。

脚注

(1)
原文では「汰目」と表記されている。
(2)
原文では「搥り」と表記されている。
(3)
原文は、文字が掠れており、「一:」のように見える。