『洋行之奇禍』 その20

last updated: 2013-01-23

其十九

命ありての物種とは能く人の言うことなるが人間にして命ほど大切なるものはなし、 命なき前於にて人間なる者なし、人間とは命ある或る動物に付けたる名称なれば命なき所に人間なきは自明の理なり、人間万事命ありて後に起ることなれば命の大切なることを説くは野暮の至りと云わざるべからず、 去りながら人間と生れたる上は嫌でも何んでも此大切なる命を失わねばならぬ、此大切なる命をば取られねばならぬ、 併し考えて見れば此れ程不都合なることはない、取ると決まった物なれば初めより与えざるに如かず、 何人も命を与えよと求むる者はない、求めざる者に向て之を与える、強いて之を与える、無理押しに押し付ける、押し付けられて已むを得ずして之を取る、一たび取れば此れ程大切なる物はない、 之を失う程憂辛き事はない、之を失わざらんが為めに力むるは当然の事である、 然るにも拘わらず之を失わしむ、之を取り上げる、強いて取り上げる、強奪する、而かも其強奪するや更に時と処とを論ぜず、 今日か明日か、十年の後か、五十年の後か、此処か彼処か、彼は之を知るとも我は之を知らず、之を略言すれば彼は求めざる者に向て強て之を取らしめ、 捨てざる者に向て強て之を捨てしむ、嗚呼造物主が人間を愚弄する実に甚だしと云わねばならぬ、 然るに人間は之に気付かない、己れの愚弄せらるることに気付かざるのみならず却て己れを愚弄する者を以て大恩人として之を崇拝す、而して其人間に智識の差あり賢愚の別ありと自称するに至ては人間は頗る滑稽なる動物ではないか、

此滑稽なる動物は更に滑稽を演じて我をして抱腹絶倒に堪えざらしむ、彼等は生命を失うことを嫌うや甚だし、死を恐るるや実に大なり、然れども彼等は死なねばならぬ、死を拒がんと試むるや久しと雖ども遂に之を拒ぐこと能わず、其拒ぐ能わざるを悟るに至ても尚お之を拒がんと力むるに至ては能く能く因果なる動物ではないか、 是に於てか釈迦なる者出て、基督なる者現われ、霊魂なる語を案出して霊魂の不死を説き、尚お進んでは極楽を説き天国を説いて此因果なる動物をして死の恐るるに足らざることを悟らしめんと企てた、 其言や素より荒唐無稽、何れも取るに足らざる謬説なりと雖ども、之を以て憐むべき此動物の死を恐るの念を和げんとしたる彼等の心中は大に諒とすべきものあり、 彼等自身は其謬説なることを知らざるにあらず、知りつつ其謬説を伝うるは彼は実に能く人間の弱点を観破せしが為めなり、 飢えたる者は食を択ばず病む者は薬の良否を問うに暇あらず、彼等は生命に飢えたる者に向って不死の食物を与え、生命の為めに病める者に向て不死の薬を投ぜり、 然れども其食物と称する物は一个の土塊と同じく、其薬と名づくる物は一片の草葉に均し、 素より飢を凌ぐに足らざれば又病を治むる能わずと雖ども、飢えたる者は直に取て之を食い病める者は直に取て之を服す、而して我は飢を凌げり我は病を治せりと一犬虚を伝えて万犬実を吠え、遂に此偽食、此偽薬は広き世界に蔓延するに至れり、然れども偽食は偽食たり、偽薬は偽薬たり、 土塊は幾度之を焼き直すと雖どもパンと為らず、草葉は幾度之を粉にするとも実丹と為らず、 而してパンにあらざれば之を食うと雖ども以て飢を凌ぐに足らず、実丹にあらざれば之を服すと雖ども以て病を治するに足らず、 見よや数多の生霊中之を食うて直に飢を凌ぎたる者一人ありや、之を呑んで直に病を治めたる者一人ありや、飢を凌ぎたりと思うは誤なり、病を治めたりと思うは誤なり、 彼等は之を食い之を呑むと雖ども依然として生命に飢え生命の為めに病めるにあらずや、而かも世界幾多の偽善者は之を施して飢者を救わんと欲し、幾多の偽医は之を与えて病者を治せんと試む、 而して彼等は遂にパンを製する能わず、遂に実丹を作る能わざるなり、

人間は何故に死を恐るるや、彼等は生を楽む故なり、然れども彼等が楽む生なるものは彼等が求めて得たるものにあらず、 彼等は之を得るが為めに一文の価を払いたるにあらず、彼等は労せずして之を取り、無償にて之を貰い受けたるなり、 去れば手渡せらるると同時に之を取り返さるるとも別に何等の損得なきにあらずや、 如かのみならず一日生くれば一日の得、二日生くれば二日の得、此点より見れば一日二日の生存者と雖ども与主に向て大に感謝せねばならぬ、 然らば前に造物主をば大恩人として崇拝する者を笑いしは誤ならんか、否な否な、誤の如くにして誤にあらず、小児に笛を見せざれば彼は之を取らんとせず、 然るに彼等に之を見せ之を与え彼は之を吹き鳴らして喜ぶ途端に之を取り返すは小児を愛する者にあらず、 然れども之を取り返されて泣く者は三歳の童子なれば別に怪むに足らざれども白髪の老人なるを見るときは笑わざらんと欲するも得べからず、 要するに之を与えて而して後に之を取り返す者は非なり、取り返されて泣く者は尚お非なり、

或日一人の基督教者来たれり、彼は僕が無宗教者なることを知る、僕は屡々彼と宗教に関する議論を交えたることありしも彼の議論は到底僕をして基督教徒たらしむるの値なきのみならず却て基督教理の奉ずるに足らざることを悟らしめた、僕が眼より見れば彼は真理の何たるを解せざる迷信者の甚だしき者である、 然れども彼は常に語って曰く、人間は平常無事の時には宗教心は起らざるものにても一朝困難なる場合に遭遇するときは何人も宗教心の起らぬ者はない、君と雖ども将来に於て此経験を得るの時は必ず来るべしと、 彼が僕を試験せんとする時は直に来た、是れに優る試金石はないから彼は来て僕を試みた、

「如何です、長き間の御煩いにて嘸御難気でしょう、何か宗教心が起りましたか」

「いや何も起りません」

「併し何か宗教上の御考が起ったでしょう」

「何も別に新しき考は起りません」

彼の言う如く人間は一朝困難なる場合に、遭遇する時は宗教心を起して過去の罪業を悔い、生れ変った如き善人と為る者がある、 又死後の恐ろしきを悟りて神や仏に対して信仰の念を起す者がある、是れ何れも迷心より生ずる者なれども利ありて害なきことなれば決して之を防ぐべきことにはあらず、 去れども苟も道理の一端を弁えたる(注1)ものは如何なる場合に遭うとも決して此の如き念慮の起るべきものにあらず、 人間病に遭えば頼むべき者は数多あり、医者もあり、薬もあり、衛生上の注意もあり、精神上の作用もあり、其他苟も病気の回復に付て必要なる事物は悉く病者の頼むべきものなれども之を外にして頼むべきものは一もなし、 此頼むべきものを頼んで而して後に回復せざる時は何をか思わん、所謂運命なる者は到来しないのである、 如何に泣くとも騒ぐとも之を拒ぐの途はなし、苟も一たび生れ落ちた以上は何人も遭遇せざる可らざる宇宙の原則である、 千万年の昔から人間は此原則に支配せられた又今後千万年の間に於ても此原則には唯一の例外の生ぜざることは何人と雖ども断言し得べし、 然るに人間以外に神なるものありて此原則を勝手に変更し、又は人間の病気に関渉して其死活問題を左右すると云うが如きことは苟も道理の一端を弁えたる者は何人と雖ども之を認むることは出来ない、 人間生きるは生理上生きるの理由あり、死するは生理上死するの理由あり、人間の生死は生理上の問題にして毫も神なる者と関係を有せず、 されば仮令病人なりとも神なる者に依頼するの念慮の生ずる余地がない、 是に於てか直に宗教家は問うならん、然らば汝は死後を如何にせんとするやと、我は之に答えて言わん、死後の事は死者の関する所にあらず、否な関せんと欲するも関する能わざるなりと、 子孫の為めに計り国家の為めに計るは生者の為す事にして死者の為す事にあらず、若し夫れ宗教家の口にする霊魂なるものの意義に至ては種々ありと雖ども一として取るに足るものなし、 去れども此二文字を取り除くときは総ての宗教は全く空虚と為りて潰れざるを得ざれば茲に之を詳論するは無益である、 昔孔夫子は或者の問に答えて吾れ人に事うる能わず何くんぞ鬼神に事えんと言い、又吾れ生を知らず何くんぞ死を知らんと言いしが、 今日滔々たる天下の宗教家は人に事うる能わずして鬼神に事えんと欲し、 生を知らずして死を論ずるのである、否な彼等は能く人に事え能く鬼神に事え、生を知り死を知り、何も蚊も知らざることなく、孔夫子に百倍せるの大学者である。

脚注

(1)
原文では「弁べたる」と表記されている。