『洋行之奇禍』 その28

last updated: 2013-01-23

其二十七

暫く四方山の話を為し暑中に於ける三氏の経歴苦談を聞かされたる後に乙者は徐ろに口を開いた、

「今日吾々三人の者が来たのは他の事ではないが、両三日前にグレース病院から一寸僕に来て呉れと云うことであったから行った所が、監督者の言うには不在中に君が退院したから何事をも言わなかったが、 其時分に彼の病院に於ても此病院に於て為したると同じき手術を施す積りであったが、君が退院したから其を為すことが出来なくなったは甚だ遺憾の次第である、 実は彼が来て直接に此事を君に話すのであるが君は病中であるから僕から話して呉れと言う依頼であったから此事をば君に伝え、 又一つには君はまだ或る物を払って居ないから其れを貰って来て呉れと言うことであった、此は彼の監督者が君に宛てたる手紙であるが中に何事か書いてあるであろう、

と言て一通の書面を渡したから開封して見たら簡単なる請求書であった、僕は彼の言を聞き此書面を見てフト怪んだ、此は頗る変である、 第一に病院の者等は乙者の名も知らねば宿所も知る筈がない、 従て彼に向て手紙でも使でも遣ることが出来る訳がない、 第二には仮りに彼の宿所姓名を知るとした所で何か用事があるなれば病院の方から彼を訪うが当然ではないか、 何等の関係なき彼に向て一寸此方に来て呉れなぞとは何んぼ彼の監督者でも左様な事は為さないであろう、 又第三には仮りに手紙又は使が来たにしろ彼が夫れに応じて直に出かけて行くとは余り卑屈ではないか、 又第四には僕は退院するときに副監督者に向て監督者と種々談ずることあれども一切病気の全快まで俟つと言い残してあるから今時此病中に於て斯様なる事をば言い出す訳がない、 殊にあの時に僕に対して不都合千万なる振舞を為した者が今に至て此病院に於て為したと同じ手術を施す積りであったなぞとは如何に鉄面皮なる奴と雖も言う訳がない、 又第五には一切此等の事実があったにしろ乙者は彼の病院が僕に加えたる不都合も幾らは知り、又僕が性行も知て居る筈であるから一応僕が意見を聞きたる後にあらざれば左様なる使を為すことは出来ないと言て断り直に僕が所に来て其事を話す筈ではないか、 然るに夫れを為さずして彼の監督者の言を其儘有り難く遵奉し、病中の僕に向て犬の使に出て来るとは頗る不思議である、 夫れのみならず今日彼等三名の言動は甚だ怪むべき廉があるのみならず、平生彼等の性行は一般の認むる通りである、 彼や是やを対照すれば此元老等は何にか小刀細工の従事を企てて居るに相違ないとは瞬時に僕が胸に浮びたなれども、何分にも突然の事にて確かなる証拠がないから此場合には一番彼等を玩弄するに如かずと思った、

「そうか、夫れは実に御苦労だ、大に謝する、して君は何つ病院に行ったかね」

「一昨日」

「そうか、こうつと今日は十八日なれば一昨日は十六日、此手紙の日附は十日とあるが此は先方で誤まったであろう、どうだい彼の監督者は何んな顔をして居るかい、君は以前から彼とは懇意の間柄かね」

「何に僕は少しも彼を知らない、一昨日初めて合ったのだ」

「併し君は知らなくとも彼は能く君を知て居るよ、君の住所までも突き止めて居るよ、長い間君は彼に見込まれて居たのだ、彼は俗に云う鰒の片思いをやって居たのだ、何にか好き機会が有れかしと待て居た所が、運命を掴む者の前に来る、 幸に此事を思い付いたから之を掛橋として平生の志望を遂げんとするのだ、左もなくては名も知らぬ君に向て手紙か使か何にかは知らないが出せる訳はない、 君は夫れに気付かないとは余り迂闊じゃないか、ハハア俗海の外に超然たる哲学者は違ったものだね」

「何にそうではない、僕が所に使が来たのではない、甲君の所に来たのだ」

「はアそうか、夫れを君は簡単に略して言ったのだね、僕は贅言よりか略言の方が余程好きだし甲君は彼を知って居るのかい」

「僕も知らない、唯僕が内のトランブル婆から聞いたに過ぎない」

「トランブル婆は何うして彼を知て居るだろう」

「夫れは斯う云う訳だ、彼の病院に一人の老医が居るだろう、其名は何んと云ったか一寸忘れた、其老医が時々若婆の病気を見舞に来るから夫れで知る様になったのだ」

「そうか、何んだか関係が大分長くて距離が遠くて一寸分らない様だね、そうすると斯う云う訳だね、監督者は老医を知る、老医は老婆を知る、老婆は甲君を知る、而して甲君は乙君と友人の間柄と云う訳だな」

「そうだ其通りだ」

「夫れで乙君が病院から使を受けて行ったと云うことは一体何う云うことになるのかい余り簡単すぎて了解に苦むが今少し説明の労を与えることは出来ないものかね」

三人の元老は瞬時顔を見合せて目の会議を開いた、嗚呼憫れなる元老等よ、汝等は狐狸を真似んと欲して之を真似ること能わず、其門に入らざるに早くも已に化の皮を剥ぎ取らるるにあらずや、 多年鍛えし東京弁護士の腕を以て汝等の正体を現わし首引き抜くは安けれども生かして還すは後世の為めと思い語歩を転じて再び口を開いた、

「何にそんな事は何んでも宜しい、別に説明を求むるに及ばない、併し甲君トランブル婆は近頃何うして居るかい、大分暫く会わないが未だ生きて居るかね、彼の老婆の身体には何所に生きる分子が在るのか分らぬ様だが、あれで死なずに居るとは人間も仲々強いものじゃないか、相変らず八釜敷言て居るだろう」

「彼は大に怒って居るよ、彼の老医が君の事に付て彼に目を丸くして怒り付けたそうだ、夫れが為めに彼も亦君に付て大に怒って居る」

「夫れは何の事だろうか、僕に関して彼の老医が少しも怒る事はない筈だが、怒るなれば僕の方が大に怒ってやらなくてはならぬ事がある、 彼は何か大に誤解を為して居るだろう、夫れにしても老婆に向て突き当るとは方角違いじゃないか、 老婆と僕とは何等の関係はない、全く道路の人である、して見れば怒る者も馬鹿怒られて怒る者も亦馬鹿、馬鹿と馬鹿、耄碌の耄碌との鉢合じゃないか、一体世の中の人間には夫れだけ道理の解らない者が多いだろうかねー、 併しそんな事は一切打ちやって置て(注1)君等は何れ使の返事に病院に行くだろうから其時に監督者に会ったら斯う言て呉れないか、僕は直接に彼に会て聊か談ずる事があるけれども今は此の通りの病中であるから何事も病気全快の時まで俟つ積りである、 併し彼の方で何か急ぐ事情があるなれば自身で僕が処に来れば僕は会て話をしてやると伝えて呉れ玉え、 僕は非常に神経が過敏に為って居て長談を為すと適面に故障を生ずるけれども致し方はない、 速に結末を着けてやろう、少しも事柄の真相を弁えずして誤解せらるることがあると大に迷惑するから」

「君は彼に対して何にか談ずる事があるのかい」

「何に別に談ずると云う程もないが唯一言で済むのだ」

「夫れなれば僕等が行った序に話そうか」

「いや夫れには及ばん、君等に左様な用事を頼んでは甚だ失敬だから」

「併し出す物は出したが可いではないか、余り長くなると先方でも迷惑するから」

「僕は出す物を持たないのだ」

「そんな事を言っても誰も本当に思う者はないよ、又無いからと云って夫れで済む訳はなかろう」

「済んでも済まなくとも無い物は無いのだから仕様がない、無から有を出すことは理学の原則が許さないじゃないか、併し僕が云う「物」とは銭や品物ではないよ、「義務」と名の付く物だから左様に心得て居て呉れ玉え」

「義務とは何の事だい、何ぜに君には義務がないのか」

「そう、義務と云う事かね、日本語で解からなくては英語で云えばオブリゲーション、仏蘭西語ではオブリガッション、拉丁語ではオブリガチヲ、梵語では何んと云うか丙君が能く知りて居るだろう、 世の中に於て銭でも品物でも何んでも蚊でも人に渡さねばならぬのは此義務と名の付く厄介物を背負うて居るからである、 此物を負うときは一文無しの乞食でも百万円の銭を出さねばならん、此物を負わぬときは千万円の金持でも銭一文出さなくとも宜しい、僕は幸にして斯んな厄介物を負うて居ないから何物をも出すに及ばないよ、病院こそ僕に対して大分重い物を負うて居る筈だ」

「君の言うことは少しも解らない、君は何故に義務を負わないか其訳を聞こう」

「左様、解からないのが当然で解からうのが変則だ、君等に於て其訳を知りたくば今から経済学も哲学も宗教も一切止めて直ぐに其足にて日本に帰って十年の間食わず飲まずに法律を研究し玉え、君等の顔に霜の降った時分には稍々其訳が解かり始めた時である、僕は其時まで訳を説くことは延ばそう、無益の弁論は病中に於ては殊に避けねばならぬから」

「積らない事を為すと日本人の体面に関するから左様な理屈を言うことは止めて僕等が意見に従い玉え」

「左様、実に同感である、僕は日本人の体面を維持せんとするだけにて夫れより外には更に他の目的は有たない、併し日本人の体面と云う事は君等の思うて居るのとは少しばかり意味が違うかも知れない、 君等のは屈従、僕のは平等、何に少しの違いだ、里ほどにすれば千里か二千里、白髪三千丈と云う支那流の筆法を以て言うも三万里か四万里位なものだ、また僕に向て理屈を言うことを止めと言ったとて迚も夫れに応ぜらるる訳はない、 理屈を研究するのが僕の終生の目的だもの、学問の目的は理屈を研究して之を応用するに在りだ、此目的を取り除いたら学問は全く蝉の抜殻と為るではないか、 学無文盲にして目に一丁字無き者なれば兎も角も少しは横文字の端でも噛った君等に於て理屈を嫌うなぞとは以ての外の事である、 君等は左様なる考を持って居るから十年も十五年も此地に居らなくてはならぬのだ、此から考を持ち直して確かりやって早く学校道楽を止め玉え」

日は西山に傾いた、看護婦は窓から首を出して繃帯の取換が始まるから帰れと呼んで手招を為した、是に於て僕は「夫れでは甚だ失敬だけれども今日は此で別れよう、先方にはどうか僕が言った通りに伝えて呉れ玉え」と言って杖に倚りつつ内に入った、彼等も帰ったが何故にか其後一回も顔を見せなかったけれども執念深くも外に在て色々と悪戯を為した。

脚注

(1)
うちやる【打ち遣る】の意味 国語辞典 - goo辞書