『洋行之奇禍』 その34

last updated: 2013-01-23

其三十三

伊予丸は出帆したか、此問に対する答は僕に取りては死活問題なりしが幸なる哉伊予丸は未だ出帆せず、併し明朝二時の出帆なるが故に遅くとも十二時迄に乗込まねばならぬと言う、 扨は危機一髪の間にてありし、取り逃しては一大事と、匇々用意を整え一輌の馬車を駆て急ぎ埠頭に趣けば遠い哉々哉々埠頭は遙か市街の外に在り、 夜は深々と更け亘り人馬の往来全く絶えて暗中咫尺を弁ぜざる所微かに一点の光明を認む、馬車を下り御者に案内せられて探り足にて桟橋を歩み其光明に近づけば是れぞ伊予丸が高く掲げたる燈明である、 ああ僕が唯一の目的たる船は此処に在るか、憐れなる病者を背負うて静に万里の波濤を飛び越えんとする大風は此処に在るか、此処は是れ異国の土地と雖ども此船は是れ郷国の船、 一たび片足を投ずれば身は已に郷国の境に在り、更に片足を入れるは我は全く郷国の者である、「左様なれば亜米利加さん、長く御世話に為りました、縁があったら復もや」と言いも果さず船中に跳び入れば送り来れる御者は「御安全に」の一言を残して去った、 僕はボーイに案内せられて船室に趣き其処に荷物を抛げ棄てて直に事務長室に趣き事務長に面会し病状を一言したる後航海中の手当を頼めば彼は「宜しゅう御座ります船医に左様申して上げますから此方に御出でなさい」と言いつつ僕を伴うて船医室に趣き船医に其由を告げて去った、船医は例に依って病歴を聞きたる後体温を計り脈を取り暫く小首を傾け居りしが繃帯を取り外ずして傷口を一見するや否や、

「可けません」

「可けませんとは」

「迚も航海は出来ません」

「夫は何故に」

「此病体にて此傷を以て迚も航海堪えられませんからお止めなさらくてはなりません」

僕は呆れて茫然たりしが直に気を取り直した

「何ぜに航海に堪えられませんか、僕自身にては堪えられると思います」

「貴方は左様に思われるかは知りませんが私は貴方の病状を能く診察したる後に於て自分の智識と経験とに基いて左様に断案を下すのであります、 迚も可けませんからお止めなさらなくてはなりません、私の方ではお連れ申すことは出来ません」

彼は断乎として言い放った、併しながら僕は一歩も退くことは出来ない、

「貴方が左様お考に相成なれば僕は貴方の御意見に付て何等の異議を申すことの出来ない地位に居ります、 併しながら僕は特に此船に乗らんが為めに百事を抛げ棄て非常なる危険を冒して漸く此処まで来たのであります、 今此船を去ったときには最早日本船に乗ることは出来ないものと思わなくてはなりません、去りとて此病体を以て外国船に乗ったときには何れ程の難儀(注1)に出遇うかは分りませんから是非共此船に乗て帰らなくてはなりません、 病院の医者は船中には船医が居るから気遣はなかろうが汽車中の手当が出来ないから迚も旅行に上ることは出来ないと警しめましたなれど僕は自分にて手当を為しつつ此所まで来ました、 而かも八日間も汽車中に居りましたけれども別に故障の生じたることを感じませんのみならず出立の時よりか聊か元気付きたることを覚ゆる様な次第でありまするから僕は十分航海に堪えると信じます」

「夫れは貴方が是非共帰ると云う決心を持て居らるるから其決心の為めに一時病気の力をば押えて居らるるのであります、併しながら病気は何時までも押え切れるものではありません、 遂には押える方が弱って病気の方が勝つこととなるのであります、少しく気が弛むと忽ち反動が来て恐るべき結果を生ずるものであります、 又貴方は汽車中に於て別に故障が生じなかったと仰つやりしまするけれども此病気を持ちながら八日間も汽車中に在て何等の故障が起らない訳はありません、 併し私は八日間の病状を知りませんから今此事に付て何んとも断言することは出来ませんが、兎に角今の病状にては迚も航海には堪えられないと思います、 殊に此頃は年中に於て尤も波の荒い時節でありまするから、此病体にてはドンドンと波に打たれたときには堪えらる訳がありません、 左様なる危険を冒しなさるよりか二三週間此地の病院に入てモー少し病気を治して然る後にお帰りになった方が貴方の為めには余程安全と思います、 一体病院の医者が出立が出来ないと言うのに貴方が出立なされたは随分向う見ずの遣り方であります、 要するにお止めなさらねば可けません、甚だお気の毒でありますが私の方ではお断り申します」

「其御忠告は御尤であります、僕は感謝いたします、併しながら僕は遺憾ながら折角の御忠告にも従うことは出来ません、 僕は唯漫然徒はないのではありません、従うことの出来ない理由があるのであります、最后の手術を受けてから最早四ヶ月以上になりますが局部は少しも癒えない点から考えますれば此から先二三週間此地の病院に居たとて今日の病状に少しの改良をも加えないことは容易に断言することが出来るのであります、 夫のみならず此儘にて日々手当を施す位なことでは三年経つも五年経つも少しも治らないことは自分ながら十分に分って居ります、 夫れ故に今日僕の尤も急務と思う事は一日も早く日本に帰りて更に別の手術を受くることであります、 去れば一日後るれば僕の為めには一日の損でありますから今は如何なる事情あるも猶予することは出来ません、危険は固より覚悟の上でありまするから是非共此船にて帰らなくてはなりません」

「貴方は実に冒険なる事を為そうとしなさりますが私は船医として一旦貴方の病状を診察した上は私の職務上断じて同意することは出来ません、貴方は専門家の意見を無視なさりますが夫れは貴方の為めに甚だ宜しくないことと信じます」

専門家の意見、此語が僕に気に合わない、僕は世に専門家なる看板を掲ぐる者が其専門の智識と技倆に乏しきことを呆れるの外はない、 専門家なる看板は世俗を欺く道具である、之に欺かるる者は世の盲者である、世には此盲者が多数を占めて居るから欺かれつつ自ら之に気付かない、斯く言う僕も又甚だしき盲者である、併しながら僕は長く盲者の境遇に甘んずることを欲せない、 盲者と為りて一生を送ることは僕の本意でないから盲者と気が付いたなれば一時も速に眼を開かねばならぬ、眼を開いて看板以外の実物を見なくてはならぬ、 而して一たび実物を見れば専門家なる看板は一種の偽物なることが分かる、嗚呼羊頭を掲げて狗肉を売るとは世の専門家を諷したる語ではないか、僕は無益と知りつつ最後の一言を発した、

「然らば貴方は何うしても可けないと仰っしゃるのでありますか」

「甚だ御気の毒な次第でありますが致し方はありません、私は貴方の御為めを思うて言うのでありまするから悪く思われて甚だ困ります」

「宜しく御座ります」

僕は直に船医室を出で再び事務長の室に入り込んだ、

「医者は僕が病体にては航海に堪えられないから止めよと言うのですが僕は今に至て中止することは迚も出来ないのです、(注2)何んとか一寸医者に聞て見ましょう」

彼は出でて数分間の後に帰り来た、

「今医者に聞きましたら貴方の御病気は全く重症であると云うことであります、病気に関することは総て医者の意見に任せることとなって居りますから私が其に反対の取計を為すことは出来兼ます、 甚だ御気の毒の次第ですが何うも致し方はありませんからお止めなさった方が宜しゅう御座りましょう」

僕は復もや彼と議論を始めねばならぬ、

「医者の意見も聞きました又僕が意見も述べて置きましたが結局僕は医者の意見に従うことは出来ない境遇に居りまするから是非共此船に乗て帰らなくてはなりません」

「併し医者があの様に言うのでありまするから貴方は専門家の意見に従いなさらなくては可けないと思います、 左様なる危険を冒しなさるよりか医者が言う通りに暫く此地に滞在して十分に病状を見定めた上にて外国船にでも乗て御帰りなされた方が貴方の為めには余程安全だと思います、 能く御考になって御止めなさらなくては可けません、私は医者の意見は至極尤もだと思ます」

「いや僕は十分に考えました、出立前に於ても出立後に於ても十分に考えた上にて決心した事でありますから最早此上考える余地はありません、 今日僕に於て最良と思う事は一日も早く帰って更に手術を受くることであります、医者は此地の病院に入れと申しましたが左様なる事は実際に於て出来ることではありません、 僕は此地には初めてでありますから一向に様子は分りません、 のみならず此煙臭き土地には一日も居ることは嫌であります、又入院したとて何等の効能なきことは医者にも述べて置きました、又今頃引返すと云うたとて馬車は帰てしまいました、 荷物は一切船中に運んでありますから引返さんとするも引返すことは出来ません、 兎に角医者は何んと言っても僕自身は乗て帰れると云う確信がありまするから是非共乗せて貰わなくてはなりません」

「夫れは貴方一人ではありません、此迄にも左様に公言して乗った者で途中に於て死んだ者は数多あります、現に昨日も一人左様に申して此船に乗りましたが船は未だ出帆せない内に今朝の八時に死にました、 漸くに最前其手続を済ましたばかりであります、僅かなる事の為めに貴重なる生命を失う様な事があっては取返が付かないではありませんか、 左様な危険を冒してまでもお帰りなさらなくてはならない必要もないでしょう、左様な無理を為さるよりか医者の言に従て暫く此地に滞在して十分に安全の見込が立った上にて御乗船なさった方が貴方の為めではありませんか、 夫れでも貴方が是非共乗て帰ると言わるるならば伝染病者ではありませんから強て拒むことも致し兼ますが私は事務長の職務として貴方に御忠告を為さねばならんのであります、能く御考の上にて御止めなさらなくては可けません」

彼も医者も僕の眼より見れば全く根拠なき架空の言語を弄して居る、彼等は間違ったる土台の上に立て或る事を語って居るから其土台が倒るると同時に彼等の言語も亦倒れざるを得ない、 航海不能又は非常なる危険、此土台が確かなるものなれば彼等の言語も亦確かであるが此土台が不確であれば彼等の千言万語は全く無用の贅言である、 而して此土台が確であるか不確であるかは一体誰が判断するであろうか、彼等は専門家と称する一枚の証文を以て其確かなることを証明せんとす、 否な之を以て十分に証明し得たりと確信し其確信を以て僕をば圧伏せんと企て居るのである、 然る処が僕は其証文をば信用しない、偽造の証文なりと争うものではないが此重要なる土台の確かなることをば十分に証明するだけの値ある証文とは信じない、 而して僕は唯慢に之を信じないではない、已往の経験に徴し現在の情態に照らして之を信ずべからざる理由を有して居るのである、 語を換えて之を言えば僕も亦一枚の反対証文を有して居るのであるが彼等は僕が彼等の証文を信じないよりは尚一層僕が証文をば信じない、 是に於てか証文と証文との相撲が始まらざるを得ないが勝負を見分る行司が居ないから結局無用の相撲である、 骨折り損の疲れ儲けと為りて百日争うも詮なきこと、是に於て僕は好まぬことではあるが最早此場に於ては手強き法律上の武器を以て彼等を圧倒するより外に途なしと決心した、 僕は已に乗船切符を所持して此処に在り、僕が乗船切符を所持するは僕に乗船の権利あることを証明するものである、 此権利は国家が作りたる法律の力を以て保護せらるるものであるから何人と雖ども之に抵抗することは出来ない、 之に抵抗する者は法律上の罪人である、事務長であろうが医者であろうが僕が乗船の権利に向て異議を申し出づることは出来ないのである、

其内に同港に在る郵船会社の代理長が来た、彼は米人である、事務長は彼と相談したるも彼も亦一向に要点を得たる返事を為さない、最早出帆時刻は近づいた、無益の議論に時を費やすことは出来ないから僕は最後の鉄案を出した、

「然らば貴方は何うしても乗船をお許しなさらないですか」

「貴方が強て乗ると仰しゃれば其を拒むことも出来ませんが」

「然らば僕は乗船致します、船医の手当を受くることが出来ないなれば僕は自分にて手当を致します、手当の道具は一切用意して居りますから、又万一の場合には正規の手続に依て処分して下されば宜しいのであります、 危険は固より覚悟の上でありますから何事が起るも決して遺憾には思いません、兎に角此船に乗て帰ります」

僕は断乎として言い放って僕が如何なる返事を為すかと待ち受けた、彼は聊か当惑した様であったが「夫れなれば今一度相談しまするから暫く御待ち下され」と言て代理長と共に船医室に趣き三人会議を開いて十数分の後に帰り来り「然らば今一度医者に会って下さい」と言ったから僕は再び船医室に趣けば医者は左の如くに告げた、

「実は貴方の病状が汽車中にて如何なる変動を受けて居るか分りませんから最前あの様に申しましたが貴方は一切の危険を冒しても是非に帰ると仰しゃるそうですから此方に於ても致し方はありませんからお連れ申しましょう、 然る上には航海中に於ては能うだけ十分の手当を尽しましょうが固より病院の如くに道具も整うて居りませんから其点は予め御心得置を願いたい」

「左様ですか夫れでは何分に宜しく願います」

僕は直に船室に帰り寝台の上に横わった。

脚注

(1)
原文では「難義」と表記されている。
(2)
原文では読点が表記されていない。