『回顧七十年』 その4

last updated: 2013-01-23

衆議院議員に初当選

健康が回復してから明治三十八年の秋、芝区巴町に住居を構えて、再び弁護士を開業した。 四十三年四月十三日に結婚し、翌四十四年二月三日長女静江が生れた。 この数年間は業務の他に別に記載することはないが、ただただこの間においても時機を見て衆議院議員に乗り出す準備は怠らなかった。

明治四十五年三月、第二十八議会は無事に終了して、五月十五日、西園寺内閣のもとに総選挙が行われることになったから、いよいよ郷里但馬を根拠地とし国民党の候補者として出馬することに決心したが、何分にも初めて選挙界に乗り出すのであるから、いよいよ候補者として公認されるまでには言うに言われぬ面倒や不快なこともあった。 しかしこれは独り自分のみではなく、何人なんぴとが候補者になろうがいろいろの面倒は起こるものである。

当時は大選挙区で競争区域は但馬五郡のみではなく、兵庫県全体に亘って投票獲得に奔走せねばならぬ。 ことに但馬内においては、朝来郡より丸尾光春君が立候補したからずいぶん競争が激しくなった。

また当時は今日のごとく普通選挙ではなく、直接国税七円以上の納税者のみが選挙人であったから、選挙人の数は少ない。 したがって演説会と有志訪問に忙殺せられた。 自動車はなく、人力車に乗って約二か月半の間、但馬五郡は言うに及ばず、但馬外の播州、丹波方面にまたがって昼夜奔走、有志を訪問し、演説をなし、あらゆる選挙運動に駆け回った。 但馬の同志は正直にかつ熱心に応援してくれたから、但馬五郡の得票は予想外に多かったが、一歩但馬を踏み出すとなかなか人が悪い。 前代議士、県会議員、その他土地の有力者とみらるる誰々に相当の運動費を渡して投票を約しておいても、選挙が済んで蓋を開けて見ると、予想の十分の一にも足らなかった。 この時から選挙界の有様は、これまで考えていたこととは大分違うことに気がついた。 当選か落選か、絶えず不安に打たれていたが、開票の結果を見ると定員十一名中の最後で、際どいところではあったが、幸いにして当選者の列に加わり、初めて年来の宿望を達した。 当選者は左のごとくである。

  • 柴原鹿之助
  • 肥塚竜
  • 丸尾光春
  • 伊藤英一
  • 改野耕三
  • 高鍋篤郎
  • 横田孝史
  • 小寺謙吉
  • 安藤新太郎
  • 平野亀之助
  • 斎藤隆夫

同年七月三十日、明治天皇崩御あらせられ、世は大正年代に入った。

大正元年十月六日、次女光子が生れた。

この年十二月に入りてから、西園寺内閣は師団増設問題が原因となりて五日総辞職をなした。 後継内閣に関する御下問に対して、元老らは種々協議の末、時の内大臣兼侍従長たる桂公を推薦し、十七日特に優諚を賜り大命降下し、二十一日桂内閣が成立したが、これより憲政擁護、閥族打破の大運動が起こり、政界は騒然たる有様となった。

翌二年一月十九日の国民党大会は憲政擁護運動に対する硬軟両派の争いにて混乱を極め、これが大分裂の前兆であった。 翌二十日、桂首相は新党樹立を発表し、その翌日、国民党の大石正己、河野広中、島田三郎、武富時敏、箕浦勝人の五領袖がまず脱党し、これが端緒となりてぞくぞく脱党者が現われ、国民党はほとんど土崩瓦解の運命に立ち至ったから、われわれ兵庫県選出の代議士も進退を決めねばならぬことになった。

当時兵庫県出身の同党代議士は九名であったが、世間の空気や選挙区の事情等によりて一致の歩調を取ることが出来ず、その中の肥塚竜、小寺謙吉、大森与三次、横田孝史、柴崎鹿之助と私の六名は、かくなる以上は国民党の将来には到底望みを期することが出来ないから、断然脱党して桂公の新政党組織に参加することに決し、二月四日脱党届を差し出した。 国民党所属議員九十余名のうち、脱党者は過半の五十余名に上り、他に中央倶楽部及び無所属議員を合せて九十余名の新団体を組織して、議会に臨むことになった。

憲政擁護運動はますます猛烈となり、衆議院の大多数は桂内閣反対である。 政府は三度議会を停会してこの勢いを挫かんと試みたけれども、目的を達することができず、万策尽きて遂に二月十一日総辞職をなし、同月二十日山本内閣が成立した。

第三十議会終了後、私は選挙区に帰りて各郡有志を訪問し、脱党の事情を述べて諒解を求めることに努めた。 続いて六月下旬より島田三郎、久保寿一の両氏を連れて報告演説に回ったが、憲政擁護運動の余焔は地方においてもなかなか消え失せず、われわれ脱党組は変節漢の汚名を浴せ掛けられて、時々弥次や妨害に遭うこともあったが、私は心中期するところあり、遠からずしてわれわれが先見の明を誇る時の来ることを確信していた。

九月三日より三日間オランダのへ-グにおいて万国議員会議が開かれ、私ら数名の議員はこの会議に列するがため、衆議院より派遣されることになった。 内地の不愉快な政界をしばらく離れるには絶好の機会である。

七月十二日東京を出発し、一路シベリア鉄道を経由してロシアに赴き、それよりドイツ、オーストリー、ハンガリー、イタリー、スエーデン、フランスを巡回してオランダに達し、会議を終りてロンドンに赴き、九月二十一日出発、再びシベリア鉄道を経て北京に赴き、京城に下車し、十月十七日に東京に帰着した。 今回の旅行は往復わずかに四か月有余に過ぎなかったが、初めてのヨーロッパ旅行であったから限界を広くして、大いに得るところがあったと思う。