『回顧七十年』 その6

last updated: 2013-01-23

無念の内閣不信任案提出

大正五年十月四日、大隈内閣辞職し、即日寺内伯に大命降下し、越えて九日、寺内内閣が成立した。 大隈侯は辞表を奉呈すると同時に、後継内閣の首相として同志会総裁加藤子を推薦したれども、御嘉納に至らずして寺内伯に大命が降下したるがために、同志会は非常なる衝動を受けた。 殊に寺内内閣の閣僚中には一人の政党員なく、純然たる官僚内閣であったから、いわゆる憲政常道論より内閣反対の気勢が揚り、これを抑えることは出来ない有様となった。

この際に当りて十月十日、憲政会結党式が挙行せられ、加藤子を総裁に推し立てた。 憲政会は同志会を基礎とし、これに中正会および交友倶楽部の多数を合併して組織せられたるものであって、百九十七人の議員を有する絶対多数党となったから、この勢いをもって突撃すれば、寺内内閣は解散を断行する能わずして自ら瓦解すべしとの意見が強くなって来た。

しかし私はこれと全然所見を異にし、今日は進んで戦うべき時ではなく、しばらく隠忍して時機を待つべきである。 なぜならば絶対多数を擁して突進すれば、内閣は解散する能わずして自ら瓦解すべしと見るは全く誤れる観察であって、当時政府の方針と政界の情勢に照らせば、戦えば必ず解散せらるるに相違なく、解散後の総選挙に当っては、野党たる憲政会が大敗北を招くはこれまた過去の選挙に徴して余りにも明白である。 戦いの目的は勝つにあり、一時の感情に制せられて敗るることを知りて戦うは智者のなすところにあらざるのみならず、これによりてせっかく獲得したる絶対多数の勢力を失墜するは遺憾この上なきことであって、決して党を愛するの途ではない。 これがわれわれの意見であった。

しかれども由来このごとき冷静なる意見は政界の群集心理には迎えられない。 群集は全く盲目である。 進んで戦わんと欲する者は硬派として迎えられ、退いて守らんと欲する者は軟派として退けられ、進め進めで盲滅法に突進した末は、敵の破壊にあらずして味方の破壊が来る。 かくのごとくにして内閣弾劾の機運は日一日と昂上し、全国の各支部はこぞって内閣弾劾を決議して本部に迫って来たから、加藤総裁を初めとして党の幹部もこの大勢に押されて主戦派に傾いた。

無念の内閣不信任案提出この時に当りて国民党は憲政会の空気を見透して先鞭を付け、憲政会に向って両党提携して議会劈頭に内閣不信任案を提出することの交渉を始めた。 これは国民党一流の奸策である。 それは如何なるわけであるかというに、憲政会の主流はいずれも先年国民党を見棄てたる連中であるから、国民党より見れば憲政会は不倶戴天の敵である。 ことにかの感情強き犬養氏に至りては、憲政会を恨みこれを憎むの情は尋常一様ではない。 その憲政会が今や絶対多数となったのであるから、悶々の情は抑えることは出来ず、これを打ち壊すには内閣不信任案提出が最も良策である。 即ち内閣不信任案を提出すれば政府は必ず解散を断行するに相違ない。 解散後の総選挙に当りては憲政会は大敗北を招いて元の少数党となる。 これが彼らの作戦であって、この作戦は鏡に懸けて見るがごとくであるが、憲政会の幹部は自惚れと無策のためこの交渉を拒絶することが出来ず、最少数党たる国民党に引きずられて遂にこれに同意することになった。

私は代議士会においても痛論した、一体この不信任案ほど理屈の立たないものはない。 私は敢て官僚政治家の議論に左右される者ではないが、言うまでもなく国務大臣の任命は天皇の大権であって、この大権の発動によりて任命せられ組織せられたる内閣が、成立直後未だ政治の実際に入らざる時に当りて、ただその内閣が政党に基礎を有せない、即ちいわゆる政党内閣でないという一事をもって議会において内閣不信任案を提出するごときは、全く政権争奪の暴挙と見るの他なく、もとより世界各国の立憲政治にその類例を見ることは出来ぬ。 官僚政治家がこれをもって大権干犯なりと攻撃するのも一応の道理である。 元来立憲政治のもとに政党内閣が起こるか否かは、全く政界諸般の事情によりて定まるべき問題であって、議会の決議によって決せらるべき問題ではない。 政界の事情が政党内閣を迎えるようになれば政党内閣は自然に起こるべく、しからざる場合においては、議会において幾度決議をなすも政党内閣は起こるものではない。

この見やすき道理を無視して、単に内閣組織の形式を捉えて、頭から不信任案を叩き付けるに至りては、これを政党者流の政権争奪戦と見られても弁解の辞はない。 しかし政治界のことは、純粋の理屈通りにも行かない。 政戦は時に理屈を超越することもあるから、理屈はしばらく捨て措くも、戦いに歴々たる勝算あれば政党としては戦うべきであるが、前述せるがごとくこの戦いには全然勝算はない。 幹部に向って、一体解散後の総選挙に当りて現在百九十七名の議員がいく名になる見込みであるかと質せば、ある幹部は少なくとも百八十名を下ることはないと言い、選挙通をもって自ら任ずる他の幹部は、如何に悲観するも百七十名を欠くことはなく、第一党は疑いなしと断言する。 百九十七名の議員が百七十名に滅ずるならば、この一事をもってするもすでに敗戦である。 いわんや私の観るところによればいやしくも政府が意を決して解散を断行する以上は、選挙の結果は直ちに内閣の進退を制するから、あらゆる手段をもってわが党を圧迫するに相違なく、これを打算して考うれば、百七、八十名の当選は到底期待出来ないのみならず、百二十名の当選も困難なりと言えば、幹部はさような結果は夢にも想像することは出来ぬと強がっていた。

議員の多数は衷心私の意見に賛成であるが、結局解散を賭して戦うならば、この場合に軟論を吐いて軟派と見られては選挙に不利益であるから、沈黙するにかずと思うて堂々と非戦論を主張する者なく、少数の硬派が代議士会を圧倒して内閣弾劾は党議として決定するに至った。 政党の会議と議員の心理状態はおおむねかくのごときものであって、ある問題について一、二の硬論者が現われると、多数はこれに引きずられ付和雷同して党議となり、事後に至って悔いるも時すでに遅しである。

大正六年一月二十三日より議会は開会せられ、二十五日にいよいよ内閣不信任案が上程せられた。 国民党の犬養氏が提案の理由を述べ、政友会の元田氏が反対演説をなし、これに次いで寺内首相が演壇に立ちたる時は、解散の空気は議場に充満したらしく感ぜられたが、首相の演説が終り、わが党の尾崎氏が演壇に登らんとする刹那において解散の詔勅が下った。 万事休す。 内閣は解散をなす能わずして崩壊すべしとの予想はまず見事に裏切られた。 総選挙は四月二十日と定められた。 三度選挙界に戦わねばならぬ。

政府は二月十日より地方官会議を開き、まず寺内首相より議会解散の理由を説明した。 この説明は官僚的憲法政治論より内閣不信任案を攻撃し、議会解散のやむを得ざる理由に及んでいるが、相当の論拠がそなわっている。 しかし後藤内務大臣に至りては滔々とうとう数千言を費やしているが、その内容は氏一流の杜撰なる議論であって感心に価するものはない。

ただ前内閣を秕政ひせい百出と攻撃し、憲政会を不自然なる多数党と罵倒し、これを打壊すのが総選挙の目的なるがごとき語気を洩しているところは、闘志満々たる勇気を認むることが出来る。

総選挙の幕は切って落とされた。 政府はあらゆる準備を整えて官権と金力を濫用したことは隠れない事実であって、政府側の戦法としてはむしろ当然である。

四月二十日は到来した。 私の四十余日間の苦戦は終りを告げた。 開票の結果を見れば十一名の定員中第七位に当選している。 当選者は左のごとくである。

  • 土井権大
  • 下岡忠治
  • 川口木七郎
  • 中川幸太郎
  • 横田孝史
  • 広岡宇一郎
  • 斎藤隆夫
  • 小寺謙吉
  • 唐端清太郎
  • 正木昭蔵
  • 松本誠之

第一回は第十一位に当選し、第二回は第八位に上り、第三回は第七位に上り、一回ごとに当選順位が向上するのはいささか意を強うするものがある。

全国の開票の結果は、予想のごとく憲政会の大敗北で、即ち政友会百六十名(改選前百十一名〕憲政会百十九名(改選前百九十七名)国民党三十五名(改選前二十八名)、他の政派に属せざる者六十七名となった。

憲政会の百九十七名が百十九名に激減したことは余りにも大敗北であって、これを政府の干渉に帰する者もあったが、政府の干渉はもとより覚悟しておるべく、これを予知せざる者があるならば自らその不明を責むるより他はない、戦いの目的は勝つにあり、勝てば官軍負くれば賊。 負けて敗因を語るも時すでに遅く、弱者の泣き言として世間は相手にしない。 しかのみならず、ともに寺内内閣を弾劾したる国民党は、総選挙後において犬養氏が外交調査会の委員に任命せられたるを合図として、内閣擁護に急変した。 これまた予定の行動であるとともに、彼らは完全に憲政会打破の目的を達したから思い残すところなく、ひとり馬鹿を見たのは憲政会である。 ことにさきに代議士会において、内閣弾劾の急先鋒を気取りて硬論を唱え、拍手喝采せられた連中が、揃いも揃って将棋倒しに落選の憂目を見るに至りては、政戦の皮肉これに過ぐるものはない。

かくのごとくにして第二党たる政友会は第一党となりて、後日政権を握るの素地を作り、第一党たる憲政会は第二党に蹴落とされて、これより十年苦節を嘗めねはならぬことになった。 一度作戦を誤ればかくのごときものである。