『回顧七十年』 その8

last updated: 2013-01-23

続けて二児を失う

大正七年一月二十六日より第四十議会が開かれたが、政府与党が多数を占むる議会であるから、憲政会は何ごともなすことは出来ぬ。 相変らず憲政常道論を根拠とする内閣不信任案を提出したが、討論も一向に振わずして否決せられ、議会は無事に終了した。

議会が終ると間もなく、家には終生忘るべからざる大不幸が起こった。 家には二女二男があって長女静江(八歳)、次女光子(七歳)、長男重夫(五歳)、次男高義(三歳)の四人はいずれも大体健康にて、静江は麹町区の雙葉小学校へ、光子は同校の幼稚園へ、重夫は京橋区の朝海幼稚園へ通っていたが、月初めの二日に静江、光子の両児は学校から帰ると突然発熱して病床に就いた。

早速掛り付けの医師を招いて診察せしめたが、別に心配することはないと言うた。 けれども熱は高く下痢は止まず何となく安心出来ない。妻は眠らず看護している。私は一応床に就いたけれども不安は去らない。 深更十二時過ぎに妻は私を呼び起こし、光子の様子が変って来たようであるからと告げたから、直ちに病室に入ると全く危険が迫っているらしく見ゆる。 直ちに医者に電話をかけても、深更のことであるから急には来てくれない。 それそれと言うているうちに光子の息は絶えてしまった。 遅れながら医者は来たけれども、最早施すべき術もなく、霊魂は逝いて帰らず。 夢ではないかと思えども夢でもない。 妻とともに落涙滂沱ぼうだとして止む時なく、天を仰いで茫然自失するのみである。

続いて医者は静江の容態を診察したが、これまた重態である。 この時初めて両児の病いは疫痢であることが分った。 私は迂闊であるが、疫痢という病名はこの時初めて聞いたのであるが、実に恐ろしい病いである。 早速静江を東京病院に送りて、私と妻は昼夜付き添うてあらん限りの手当を施し、彼女の回復を祈ったが、病勢は刻一刻と増進し、遂に六日午後一時にまたもや愛児と別れねばならぬことになった。

僅々きんきん四日の間に二人の愛児を失ったわれら夫婦の胸は裂けんばかりであった。 それのみならず俄然この悪疫は次男高義にも感染して、これより三、四週間、彼は生死の間に苦しんだが、幸いにしてこの児だけは一命を取り止めて、その後健在である。

四月二十三日、両児の遺骨を渋谷の祥雲寺墓地に埋葬した。 昨夜来の雨霏々ひひとして止まず、世間は晩春葉桜の頃であるのにもかかわらず、私の家庭は秋霜寂寥の感に打たれた。 人生愛児に別るるより悲しきはなし。

大正七年九月二十一日、寺内内閣辞職して、二十五日、原内閣が成立した。 政友会は大隈内閣の解散に遭うて大打撃を受け、総裁原敬氏は党内においても鼎の軽重を問われたが、彼の智謀は巧みに寺内内閣と結び、憲政会を打破して遂に今回政権を掌握し、政友会一党の内閣を組織するに至った。

これに反して憲政会は、一度寺内内閣に対して成算なき戦いを挑んで惨敗を招きし以来、ここに至りていよいよ窮地に陥った。

同年十二月二十五日、第四十一議会召集せられ、翌八年一月二十二日より本会議が開かれ、私は二十二日、党を代表して国民思想に関する質問演説をなした。 なお本議会における重大問題は選挙法の改正である。 政府は選挙法の根本的改正案を提出した。 その要旨は、従来の大選挙区を廃して小選挙区となし、納税資格十円を三円に切り下げんとするものである。 これに対して憲政会は、小選挙区に反対し、納税資格三円を二円となすの議を決し、私は本会および委員会において微力を傾倒したけれども、衆寡敵せずして政府原案は僅少の修正を加えて両院を通過し、法律となったが、この法律こそ次の選挙に当りて私を落選せしむる基であった。

同年三月七日、三女文子が生れた。

議会終了後間もなく、八年四月十二日出発、渡欧の途に上った。 五月二十日より四日間ベルギー、ブラッセルにおいて開かるる万国商事会議に列席するがためであって、一行は貴衆両院議員数名である。

横浜より伏見丸に搭乗し、二十六日シヤトルに上陸し、米大陸を横断して五月一日ニューヨークに着し、二日間滞在の後三日出発、十日ロンドンに着し、十日間滞在の後、十八日ブラッセル市に到着した。

四日間の会議後は、各方面の接待やら有名なイーブルの戦場巡視等に忙しく、二十六日出発パリに赴いた。 当時パリは欧州大戦後講和会議の真最中であって、列国の使臣はいうに及ばず、世界各方面よりの政治家、通信員ら多数入り込みて、市内は一層の緊張味を帯びていた。

六月二日にはサンゼルマン宮殿においてオーストリア大使に条約原案を渡す光景を見るべく、日本通信員らとともに汽車を捉えて同地に赴いたが、会議の立役者ウイルソン、ロイド・ジョージを初めとして、各国の大政治家の容貌風采だけでもの当り目撃することを得たるは、意外の仕合せであった。

パリには十二日間滞在し、六月七日再びロンドンに赴き、ここに一か月有余滞在し、七月十二日出発、熱田丸に搭乗して帰朝の途についた。

マルセーユよりは帝国全権西園寺公一行も同乗、紅海、地中海、印度洋を経て四十三日間の航海を続けて八月二十三日、無事神戸に上陸し、翌日帰京した。 四月十二日東京出発以来、百三十四日目である。