『回顧七十年』 その11

last updated: 2013-01-23

議席を回復

大正十二年十二月二十七日、山本内閣は虎ノ門事件の責を負うて辞職し、翌十三年一月七日、清浦内閣が成立した。 同内閣はいわゆる貴族院内閣である。 政友会はこの内閣を援助するや否やについて賛否両論に分れ、遂に分裂して過半数の脱党者は別に政友本党を組織して政府援助に向い、憲政会は政友会および革新倶楽部とともに三派連合して憲政擁護運動を起こしたが、一月三十一日衆議院は突如として解散せられ、五月十日が選挙期日と定められた。 待ちに待ちたる時は到来した。

私は今回の選挙においては是非とも当選せねばならぬ、もし万が一にも落選するがごときことあらば、私の政治的生命は終焉を告ぐるの他はない。 前回は同志に対する情誼のために南但の選挙区を去って北但に赴いたが、その同志は当選後憲政会を脱して中立議員の団体に加入したから、もはや義理はない。今回は南但に帰らねばならぬ。

南但の青年党は熱烈なる意気をもって私を迎え、私を援助することに決定した。 しかれど選挙区内の形勢を見れば決して楽観は出来ぬ。 なぜならば、政友会は多年中央の政権を握り、県会に絶対多数の勢力を擁し、あらゆる地方問題を振りかざして郡民を誘惑し、圧迫し来ったから、いわゆる泣く子と地頭にはかなわず、選挙区内の町村長、町村会議員を初めとして上流階級の大部分は挙って政友会に入党し、憲政会の名乗りを揚ぐる者はほとんど見出すことは出来ぬ。

いわんや当時はなお制限選挙の時代であって、無産階級は選挙権を有せず、資産階級を向うに回して戦うことの困難なることは論をまたない。 しかして政友会分裂後、兵庫県の政友会は挙って政友本党に走り、南但には同郡出身の元代議士森本駿氏を与党候補者に推し立てて、私と一騎打ちをなさしめることになった。

かかる形勢であるから表面上より見れば、私の当選は覚束おぼつかないものであるが、しかし元気溌溂たる青年党は、昼夜を別たずそれこそ必死となって応援してくれた。 私もまた渾身の勢力を傾倒して戦ったから、選挙界の空気は漸次有利に回転し、開票の結果は総数五千八百七十二票のうち私の得票は三千五百二十票、相手の得票は二千三百五十二票、即ち一千百六十八票の多数をもって見事に当選した。 万歳万歳の声は山河に轟いた。 前後いく度かの選挙中この時ほど緊張したる選挙はない。

全国総選挙の結果は、政府党の敗北、在野三派の大勝利となり、その中にも、憲政会が第一党となったから、六月七日清浦内閣は辞職、九日憲政会総裁加藤高明氏に大命降下し、十一日加藤首相のもとに憲政、政友、革新のいわゆる三派連合内閣が成立した。 憲政会の十年苦節は、ここに至りて初めてむくいられたわけである。

同年十月二十四日、四男義政が生れた。