『回顧七十年』 その15

last updated: 2013-01-23

浜口首相、撃たれる

民政党内閣成立して三日の後、七月五日、私は内務政務次官に任命せられ、生来初めて官職に就いた。 顧みれば十数年間一国の選良として立法権に参与し、政界においても漸次に地位を向上して一般に存在を認められ、議政壇上に起ちては国務大臣を眼下に睥睨して叱咤痛撃、大言壮語したる者が、今はその下に位する一政務官に甘んぜねばならぬ。 衷心忸怩たるものあれども、党内の事情を見ればやむを得ないから、しばらく辛抱せねばなるまい。

それでも選挙区の人々は、私が大変な出世でもしたかのごとくに思うて非常に喜んでくれた。 全国各地よりは続々として数百通の祝電が舞い込み、玄関も台所も祝物の山をなした。 官吏というものはこれほど有難がられるものかと不思議に思うたが、これから私の仕事も大分忙しくなり、毎日役所に出勤し、時々官邸や党本部へ赴き、いろいろの相談をなし、あるいは各種の委員会等に臨み、あるいは地方へ出張して関係事業を巡視し、その他百般の仕事は次から次へと押し寄せて絶ゆる時はない。 しかし頭を悩ますような困難なる問題も現われず、他人はどうか知らないが、私は極めて呑気にかつ愉快にその日を送っていた。

七月一日、神戸において兵庫県民政党支部大会が開かれ、私は支部長に推薦せられてこれを承諾した。 年来支部長は小寺謙吉氏であったが、数年前より支部内において小寺派、野田派と称する両派が互いに反目軋轢して紛擾絶ゆる時なく、これがために支部の活動にも支障を来たすことが少なくなかった。 昨年九月、本部において小寺氏が除名せられてから小寺派の勢力は失墜したれども、さりとて野田派の勢力が増すでもなく、野田氏に対する反感もよほど強かったから、氏を支部長に推すわけにも行かず、ここにおいて昨年十二月十六日の大会において、新参ではあるが、一年限りの約束にて田昌氏を推して一時を弥縫することになった。 今回はその改選の時である。

私は今回は野田氏を推さんと努めたが、総務中には一人としてこれに賛成する者もなく、結局私を推薦するに至った。 私はこれを固辞したれども他に代るべき人なく、大会まさに開かれんとする間際に至りて、未だ支部長の決定を見る能わざるがごとき有様となったから、もはや躊躇することもできずこれを承諾することに決めたが、爾来昭和十四年までちょうど十年間、支部長を勤めていた。

十二月二十三日、第五十七議会が召集せられ、翌五年一月二十一日、本会開会、国務大臣の施政方針演説に対する犬養氏の演説終了するや直ちに解散の詔勅が下り、二月二十日が選挙期日と定められた。 今回の総選挙に当りては私は政府与党である。 そのうえ内務高官の地位にある関係上、私自身の選挙は比較的楽であったから、県下の同志を応援することに全力を傾けたが、それにもかかわらず私は相変らず左のごとく第一位にて当選した。

二〇、四七八票 当選 斎藤隆夫(民政)
一七、二七五票 当選 田昌(民政)
一七、〇〇四票 当選 若宮貞夫(政友)
九、四八○票 落選 衣川退蔵(政友)

全国総選挙の結果は、民政党二百七十三名、政友会百七十余名にて、政府党の大勝となり、これによりて政府の基礎は鞏固となった。

昭和五年五月二十一日、第五十八特別議会召集せられ、民政党は選挙に勝ちて絶対多数党となりたるがために、議長、副議長以下各委員長を独占した。 政友会は選挙に破れて少数党となりたるがために、議員の頭数をもって与党に対抗する能わず、慣用手段の議事妨害をもってしはしは議場を紛擾に導きたるも、結局政党の品位を失墜したる他何ら目的を達すること能わず、無事に閉会を告ぐるに至った。 私は初めて政府委員となったが、政府案の説明や議員の質問に対する答弁のごときは極めて易々たることを感じた。

十一月十四日、寝耳に水の大事件が突発した。 この日午前九時過ぎ私が出勤せんとする際、本省の唐沢秘書官より電話がかかった。 電話に耳を当つれば、ただ今東京駅頭において浜口首相が一兇漢のため狙撃せられ、弾丸は肺部から脚部を貫通したれども、生命には別条なしとのことである、右急ぎ報告すと。

私の驚きは言うにおよばず、直ちに登省して首相の所在を問い、続いて東京駅に赴けば、駅の内外は警官が厳重なる非常線を張り、駅長室に入れば各大臣および党の幹部はすでに集り、首相は別室において数名の医師が輸血と仮手当を施しつつあれども、負傷の程度も容体も判明せず、悲観楽観、前途予測すべからざる有様である。

しばらくすると本省より事務官来り、岡山県の大演習に出張中の安達内相が帰京するから、私に内相代理として同地へ急行せられたいと告ぐ。 直ちに帰宅し用意を整え、午後一時出発、翌朝午前一時岡山に下車、それより三日間、大元帥陛下に扈従こじゅうして大演習を参観し、二十一日帰京した。

首相は大学病院に入院せられ、経過良好なりとのことなれども、何となく不安に堪えない。 幣原外相が臨時首相代理に任命せられた。

十二月二十四日、第五十九議会が召集せられ、翌六年一月二十二日より幣原臨時首相のもとに本会議が開かれた。 政友会は政府反対、政権争奪のためにますます議事妨害をなし、ことに予算委員会において、幣原首相の言辞を捉え、数日間に亘りて乱暴狼籍を極め、神聖なるべき議場を全く修羅場と化せしめたる野蛮的行動に至りては、断じて許すべからず。 後日政党不信任の声天下に漲り、その極、犬養総理を非命に仆れしめたるは、ここにその源を発することは疑うべからざることであって、春秋の筆法をもって言えば、犬養総理を殺害したる者は少壮軍人にあらずして、むしろ政友会自身なりと言うも弁解の辞はあるまい。

第五十九議会は未曽有の擾乱を極め、遺憾なく議会の醜態を暴露したが、結局は落ちつく所に落ちついて無事に閉会するに至った。 しかるところがここに最も痛心すべきは、浜口首相の容態である。 昨年十二月十四日遭難後、帝大病院において名医の手術を受けられ、及ぶ限りの看護によりて漸次快方に向われ、一旦退院して首相官邸に帰り静養せらることとなった時は、全国の党員は言うにおよばず、一般国民もやや安堵の思いをなさしたが、この時病根はなお深く未だ芟除さんじょされてはおらなかった。 議会開会中意地悪き政友会の強要に病気を押し、弱り果てたる身をもって登院せられたる有様は、これを目撃したる者の忘るべからざる断腸の思いであったが、議会閉会するや間もなく、第二の手術を受くべく再び帝大病院に入院せらるるに至りては、これを筆にするさえ涙の種である。 四月の初めに至っては手術後の経過は思わしからず、いよいよ意を決して総理大臣および民政党総裁を辞せられることとなったから、四月十日浜口内閣は総辞職をなした。 一方民政党は四月十三日、緊急大会に代るべき議員および評議員の連合会を開いて若槻氏を総裁に選挙し、翌日新総裁に大命降下してここに第二次若槻内閣が成立し、陣容を新たにするがために政務官全部を更迭し、私も就任後一年十か月にして官職を去ることになった。

昭和六年八月二十六日、浜口前総裁は遂に逝去せられた。 昨年十一月十四日東京駅頭の遭難以来ここに十か月、名医は智力と経験の限りを尽したのであろう。 家族の人々は寝食を忘れて看護に努めたであろう。 全国いく百万の党員は言うにおよばず、国民一般も全快を待ち受けた。 私のごときも及ばずながらこの有為なる政治家をして、再び政界に起たしむべく心密かに神に祈っていたが、天命は如何ともすることは出来ぬ。 兇刃実に懼るべく、憎むべし。

二十九日、日比谷公園にて党葬が行われたが、故人を慕うの情全国に漲り、会葬者は二十万を越え、未曽有の盛葬であった。