『回顧七十年』 その16

last updated: 2013-01-23

兵庫県会で民政党大勝

県会議員選挙の期日が近づいて来た。 九月二十五日が選挙期日である。 わが兵庫県は二十余年来政友会が絶対多数を占め、民政党の勢いはなはだ振わず、中央政界においては時々旧憲政会または民政党が政局に当ることありといえども、県会の勢力関係は依然として変ることなく、しかも政友会は多数を擁して県の事業をわが物顔に振り回し、地方人民を誘惑し圧迫して、党勢拡張に努力したから、県下各郡の町村長をはじめとして資産階級はほとんど政友会に色付けられざる者はない。 これは政党としては不都合千万なるやり方であるが、地方人民の側より見れば無理もないことである。

地方人民は中央政治よりもむしろ地方行政に関心を持っている。 中央政治は国家全般に亘るから、国民に響く感じも何となく漠然たるものであるが、地方行政は地方人が日常目撃し接触する道路、橋梁、河川、学校その他各種の事業に及ぶから、人民の受くる利害関係は一層痛切なるものがある。 しかるにこれらの事業を利用し濫用して、政友会に入党すればこれを達成せしむべく、入党せざればこれを達成せしめないと脅迫するから背に腹は代えられず、町村の首脳者らは心ならずも続々として政友会に入党して、当時の形勢を作り出すに至ったのである。

元来県民一般が費用を負担する公共事業を横取りして一党一派の拡張を図るがごときは、公党のなすべきところにあらずしてまさしく強盗の所業である。 かくのごとくにして地方における党弊の浸潤実に驚くべく、この弊害を根本より打破せざる限りは、地方行政の刷新などは思いも寄らぬことである。 私はしばしはこのことを痛論して地方人民の覚醒を促したれどもほとんど効力はなく、時機の到来を待つより他に途はなかった。 しかるところが、いよいよ県会議員総選挙の期日が近づいた。

今回は前数回の選挙と異なり、中央には民政党内閣が存在している。 もとより議員選挙に当りて、かりそめにも官憲の援助をらんとするがごとき卑屈なる考えは毛頭持っていないが、これとともに従来の選挙のごとく、特に政友会の候補者を護して民政党の候補者を弾圧するがごとき不公平なる手段は断じて執らせないだけの確信はある。 同時に私は民政党支部長として、県下の選挙を統轄し指導する責任と権威を有している絶好の機会、この機会に乗じて政友会を打破せざれば、再びかくのごとき機会は到来しない。 私の面目にかけても政友会の多数を打破して見せる。 私は固き決心を抱いて八月帰県して、神戸オリエンタル・ホテルに本拠を構え、各郡の同志と会見して県下の情勢を集め、候補者を選定し、同志を激励し、応援演説をなすなど約三十日間に亘りて、昼夜を別たず奮闘を継続した。

しかれども多年築き上げたる政友会の地盤は容易に挫き難く、結果如何と心密かに不安のうちに二十五日の選挙期日を終り、翌日開票の結果を見れば、市部においては民政党十名、政友会六名、郡部においては民政党二十六名、政友会十八名、ここにおいて県会の形勢は全く一変して民政党は絶対多数となり、私が多年の宿望も完全に酬いられるに至った。 この政戦は私が政治生活において忘れ難き事件である。

十一月七日東京出発、私は妻を伴うて郷里但馬に赴いた。 妻は結婚後未だ一度も郷里へ行ったことはない。 今回が初めての墓参である。 翌日正午過ぎ城崎温泉町に下車し、西村屋に投宿したが、その夜、法制局長官武内作平氏死去の報を得て驚き、直ちに弔電を発した。 翌朝汽車に投じて二十分にして豊岡に下車し、自動車にて三里の外なる出石町に着くと、友人日下部君の宅に西村屋より電話がかかっているから来て下さいと言う。 電話口に出ると、若槻首相より、私を法制局長官に推薦するから承諾せられたいとの電報が着いたということであるから、取りあえず承諾の電報を発せしめ、それより生れ故郷中村に着くと、村の老若男女が多数村口まで出て、私ら両人を迎えている。 これを見た時は何となく嬉しかった。

生家に立ち寄り墓参をなし、氏神に詣り観音堂にて村の人々の質朴なる歓迎を受け、少年の頃通学したる福住小学校その他数か所の歓迎会にも臨みて豊岡に引っ返し、ここにても同志の歓迎会に出席し、夜に入りてから城崎に帰宿した。 この日は一生の思い出である。

十一日出発して、神戸を経て十二日に帰京した。