『回顧七十年』 その19

last updated: 2013-01-23

五・一五事件起こる

昭和七年三月十八日第六十一(特別)議会召集せられ、二十二日本会開かる。 私はこの日党を代表して臣節問題につき質問演説をなすことに決定している。

去る一月八日、聖上陛下が観兵式より御還幸の途中、警視庁前において一朝鮮人、鹵簿ろぼに爆弾を投じ、犬養首相以下恐懼辞表を奉呈せしが、翌日優諚降下して直ちに留任に決す。 大正十二年、第二次山本内閣は虎ノ門事件に関し総辞職をなし、優諚を拝したれども、その責任の重大なるに鑑み、遂にこれを決行せり。 今回のことこれを黙過すべからず、その責任を糾弾するは在野党の任務である。 しかれども事皇室に関する事件であるから、質問演説をなすに当りても、一言一句細心の注意を払わねばならぬ。 もし誤って問題を惹起すがごときことあらば、私一人の責任であるのみならず、実に党の責任であるから、私はこの決心をもってあらかじめ相当の準備をなした。

首相、外相、蔵相、陸海相の演説に続いて二、三の質問演説あり、私は午後六時登壇、約五十分の演説を終りて降壇したる時は、同僚より大成功なりとの讃辞を呈せられ、私もまた決して不成功にあらずと思った。 続いて犬養首相登壇したるが、何故か千軍万馬の間を往来したる老政治家として、しかも一国の宰相たる地位に似合わしからざる口吻と狼狽の態度をもって、支離滅裂の答弁をなしたるは、私をして深く失望せしめた。

五月十五日、帝都に一大事件が突発した。二十余名の陸海軍青年軍人が数隊に分れ、その主力は午後五時過ぎ首相官邸に闖入して犬養首相を狙撃し、他は警視庁、日本銀行、政友会本部を襲うてピストルを発射し爆弾を投じ、首相は午後十一時過ぎ遂に絶命せられた。

この報一度飛電するや国内は震駭し、政界は大動揺を来し、内閣は総辞職をなし、政友会は鈴木喜三郎氏を新総裁に推挙し、西園寺公は上京して重臣を招き、政局収拾につき慎重なる協議を遂げられたる末、二十二日子爵斎藤実氏に大命降下して、二十六日斎藤内閣成立し、男爵山本達雄氏が内務大臣に就任せられた。

越えて二十八日、私が日本倶楽部において囲碁に耽っていると、八木、一宮両君来り、山本内相の意を受けて私に内務次官就任の承諾を求められた。 私は意外なるに驚いた。 私は今さら内務省に再度の勤めをなそうとは夢にも思わないから、折角のご好意なれどこれをお断りすると同時に、私の意中の人を推薦したが、両氏はなかなか聞き入れない。 よって急遽若槻総裁を訪問してその諒解を求めたる後、遂にこれを承諾することに決めた。

六月一日より第六十二(臨時)議会開かれ、十四日無事に閉会し、さらに八月二十四日第六十三(臨時)譲会開かれ、九月四日無事に閉会し、十二月二十四日第六十四議会召集せられ、翌八年一月二十二日より本会議が開かれた。 私は政府委員として毎日登院し、政務官本来の任務に当った。 別に困難なるものはない。 ただ一つ政府提出選挙法改正案については、審議未了の方針をもって愚劣なる質問が継続せられたが、私もまた今期議会においてはその不成立を予想していたから、説明答弁ともに毫も屈することなく、かえって彼らを逆襲して彼らの自尊心に打撃を加えたることは、むしろ痛快であった。 三月二十五日議会は無事に閉会した。