『回顧七十年』 その22

last updated: 2013-01-23

二・二六事件起こる

昭和十年十二月二十四日、第六十八議会召集せられ、翌十一年一月二十一日、本会議が開かれたが、解散は必至の勢いとなった。 首相、外相、蔵相の演説終り、三時十二分解散の詔勅下り、二月二十日が選挙期日と定められた。

今回の選挙は民政党にとりては雪辱戦である。 前回の選挙は犬養内閣のもとに行われ、政友会は三百余名の大多数を獲得し、民政党は百四十余名の小数に墜落した。 その後民政党よりは国民同盟へ走る者あり、政友会には岡田内閣成立によりて三、四十名の脱党者が現われたから、解散当時の議員数は政友会二百六十余名、民政党百三十余名であった。 また候補者の数も政友会は三百三十七名、民政党は二百九十六名であった。 民政党は四十名ばかり負けていたから、民政党の第一党は望み薄かった。

私は二十四日神戸へ赴き、立候補届を済ませて、即夜帰途に上り、三十一日夜行で出発し、二月一日豊岡に着いたが、未曽有の大雪にて自動車通ぜず、ようやく人力車にて竹井族館に入った。

同志と選挙準備を協議し、古川与一氏を選挙事務長に定め、言論戦は十日より開始することとなし、翌二日午後徒歩にて停車場に赴き、神戸へ向って出発した。 数日間ホテルに滞在して県下の形勢を視察し、五日より同志の応援に赴き、十日但馬に入りたるが、何分にも降雪止まず積雪深くして、自動車の通ずるところは朝来郡と養父郡の半分ばかりに過ぎず、他の三郡には自動車の通ずる道はない。 それでも十八日までに三十六回の演説をなして、十九日氷上郡へ赴き、植村候補のために数か所の演説に出席し、これにて選挙運動は終りを告げ、翌日神戸に赴き、戦塵を洗うてようやく安息した。

翌二十一日開票の結果を見れば、県下十名の公認候補ことごとく当選した。 即ち民政十名、政友七名、国同一名、無産一名であった。 ことに私が最高点を獲得したのは、前回の成績と対照し実に意外であって、その得票数は左のごとくである。

二三、二三六票 当選 斎藤隆夫(民政) 一八、五五四票 当選 若宮貞夫(政友) 一二、〇二三票 当選 植村嘉三郎(民政) 九、一四九票 落選 畑七右衛門(昭和)

全国の当選数は民政二百五名、政友百七十四名、昭和会二十名、社会大衆党十八名、国民同盟十五名、その他諸派中立を合せて三十余名、合計四百六十六名であって、民政党は意想外にも第一党となった。 選挙の結果は実に分らぬものである。

選挙は終り、与党が勝利を占めて内閣の基礎は安定したと思うて、岡田首相らは盛んに祝盃を挙げていたようであるが何ぞ知らん、その二十六日の早朝帝都には前古未曽有の一大不祥事件が爆発して全国民を驚倒せしめた。 それは何ごとであるか、時世に憤慨したと自称する二十余名の陸軍青年将校が、千数百名の下士卒を率いて重臣顕官等を襲撃して即死または重傷を負わしめ、恐るべき反乱事件を起こしたことである。

その事件の詳細は他の文書に譲るの他はないが、これがために翌日岡田内閣は総辞職をなし、西園寺公は老躯を提げて上京して陛下の御下問に奉答した。 まず近衛公に組閣の大命降下したれども、公はこれを拝辞し、次に広田外相に大命降下したから、氏は即日大体閣僚の銓衡せんこうを終りたれども、軍部よりの故障に遭うて頓挫し、数日間の紆余曲折を経て、二月九日、政民両党より二名ずつの閣僚を入れ、その他軍部、官僚を合したる形式的挙国一致の新内閣が成立するに至った。

広田内閣は反乱事件の後を承け、時代の要求に迫られて庶政一新と国策の遂行を声明して起ったが、どの程度までこれが実現せらるるかは将来の疑問である。

四月二十八日、上野精養軒にてわが党大会に代るべき連合会が開かれ、私は久しぶりに総務に選定せられた。