『回顧七十年』 その26

last updated: 2013-01-23

目まいし、倒れる

十二月二十四日、第七十三議会が召集せられ、翌十三年一月二十二日より開会せられた。 真の戦時議会である。 前議会以来日支間の戦争は北支より南支に亘りてますます進展し、皇軍の向うところは敗れざるなく、昨年十二月十三日に至り遂に敵の首府たる南京は陥落したから、これによって蒋政権は没落して平和克服の曙光を認めることができるのではないかとの政府および国民の期待は全く裏切られて、蒋介石は戦いに敗れたるも、遠く漢口に退却して長期抗戦を豪語している。 かくなる上はわれもまたその覚悟を決めねばならぬ。 これがために四十八億五千万円の臨時軍事費をはじめとして、政府提案の大部分は直接間接時局に関係を有しているのみならず、この際政府と議会と衝突する理由もないから、大体において議会の形勢は平穏である。

ただこの議会においてもっとも重大なる問題として政府、議会および国民の関心を喚起したものは、国家総動員法案である。

本案の内容はここに述ぶべきものではないが、要するに国防の目的を達成するがために憲法上に保障せられたる臣民の権利、自由および財産に対してはなはだしき制限を加えんとするものであるから、憲法上および政治上より見て、実に容易ならざる問題であって、政民両党の内部においては、これに対して猛烈なる反対論が起こったのは無理のないことである。 私ほ昨年の粛軍演説以来議会においては、よほどの重大問題が現われざる限り、演壇に立たざる考えであったが、この法案は憲法上に重大なる関係があるのみならず、党内の空気も私を促して質問演説をなさしむる方向に傾いて来たから、私はこれに応ずべく相当の準備を整えた。

二月二十四日、本案が上程せられたが、この日私の演説を聴かんがために午前より傍聴席は超満員であると報告せられた。 近衛首相は病気の故をもって欠席したけれども、その他の閣僚は全部出席した。 広田外相が首相に代りて極めて簡単なる提案理由を述べ終るや、私は第一順位に質問演説をなすべく登壇し、約五十分にして降壇した。しかるところが私の質問に対して列席の各閣僚いずれも進んで答弁する者なく、広田外相が登壇し、法制局長官をして答弁せしむべしと述べたから議場は承知しない。 直ちに混乱状態に陥り、一時休憩することとなった。

三時間有余の後再開して塩野司法大臣が答弁の任に当ったが、もとより不完全なる答弁に過ぎない。 各新聞は私の演説のほとんど全部を掲載して問題を高調した。 委員会においては各方面より執拗なる質問攻撃が現われて案の運命逆賭げきとし難きものがあったが、最後に政府と交渉の結果、本法の運用に関する総動員審議会の委員に貴衆両院議員を過半数任命することを条件として、本案は無修正にて承認することに決定した。 ここにも政党の弱腰が遺憾なく曝露せられた。

三月一日、私は再び登壇した。 検察権行使に関する決議案提出の理由を説明せんがためである。 昭和九年七月、斎藤内閣を倒したるいわゆる帝人事件は、起訴以来三年八か月、公判廷においては実に二百六十余回の審理を重ねたる末、本年一月十六日、被告全部に対して無罪の判決が言い渡された。 本件の取調べに当って検察権の濫用実に驚くべく、断じて看過することは出来ぬ。 ここにおいて、私は自らこの決議案を発議し、政民両党の賛成をもってこれを提出するに至ったから、その提案理由の説明は私自らこれに当るの他はない。 この決議案もまた今期議会において重要案件の一つであった。

私は相当徹底的に立憲法治国における人権尊重の意義から、本事件における検察当局の不法行為、ひいて監督者たる司法大臣の責任を論じ、検察制度の改革と、人事行政の刷新を強調し、司法当局に一大警告を加え、約五十分にして降壇した。 続いて政友会の名川侃市氏が賛成演説をなし、本案は満場一致衆議院を通過した。 この決議案が司法当局に対して一大反省を促したことは争われない。

今期議会を通して政民両党は相提携して同一歩調をとりたれども、政府に対する態度は極めて軟弱にして、大体政府案を鵜呑みにするの他、如何なる問題に対しても政府を強圧するがごとき威力を発揮することは出来ない。 幹部は政府に迎合し、党員は幹部に盲従す。 このごとくにして政党はますます威信を失墜するに至った。 私は中心政党員たるを恥ずれども、さりとて私自身もこの状態を打破して政党の革新を断行するの力がない。 碌々として長き政党生活を終らねばならぬのかと思えば、実に情けない次第である。

議会は一日延長せられて三月二十六日終了を告げた。 これから用事はない。 自由に読書し研究し、かつ遊ぶことが出来る。

四月十七日、本部において大会に代るべき連合会を開き、新役員を選定す。 私は俵、桜内、小川、太田、大麻の諸氏とともに常任顧問に選定せられた。 これから毎週一回総務会に出席せねばなるまい。

七月二十八日、私の身上に意外の出来事が起こった。 この日早朝便所に行かんとして急に離床したることが禍いのもと、数歩のうち無意識に足がよろめいて柱の角に頭を打ちつけると同時に卒倒した。 驚いて脳溢血ではないかと思い、瞑目してみたが、精神は確かである。 頭部の傷は軽微のものであるが、卒倒の際腰を捻挫して起つことができず、ようやく這いながら元の床上に横たわった。直ちに滝沢接骨士を呼び応急の手当をなし、午後、竹内外科医を招き、夜は前田病院長を招きて診察せしめたが、骨には何の故障はなく別に心配することはなけれども、全治には相当の日時を要するとのことである。

上向きに横たわりておれば痛みを感ぜざれども動くことはできず、ただ静かに横臥するのみである。実に困ったことが起こった。

三十日、名倉病院長の来診を求めたが、大体同様の意見である。 それから約一か月間は床上に横たわるまま起つことはできぬ。 八月末頃に至り、ようやく杖に寄りて歩行を試みんとすれどもなかなか困難である。 毎日起きたり横たわりたり、ただぶらぶらとしてなすこともない。

九月七日、湯河原に赴き、天野星別館に止宿したが、温泉も環境も意に適するから一週間も滞在して保養すれは全治すると思いしに、腰部の回復は遅々として進まない。

十三日、帰宅して時々外出し、その頃首相官邸に開かれたる衆議院議員選挙改正委員会にも出席して、ずいぶん議論をなしたが、心身ともに未だ常態には復しない。 二十五日友人が来訪したから久しぶりに午後より夜に亘りて好きな囲碁に耽りたるが、それが脳に障りたるのか、翌日応接間にて来客と談話中急に眩暈がして倒れた。 かようなことは生来初めてである。 直ちに回復したれども、心身何となく疲労を感ずる。

その後両三日にしてまたもや病床に横たわらねばならぬことになった。 今度は脳の工合がはなはだ悪い。 内科の斎藤医学士、神経専門の佐多博士、帝大の坂口博士の来診を求めた。 十月中は全く病床にあり、十一月に入りてから帝大に赴き、呉博士の診察を求めた。 レントゲンにて腰部を診察せられたが、何らの異状はない。 脳の悪いのは神経衰弱の軽いのであるから三週間ばかりも静養すれば全治するならんと言われた。 その後両三回、紫外線治療所にも行った。 腰も脳もなかなか全治しない、しかし病床に横たわっているほどのこともないから時々外出して本部や倶楽部にも行った。 選挙法委員会にも出席してずいぶん頑張った。

十二月六日、一人湯河原に赴き静養せんと思いしが気分勝れず、疲労回復の兆なく、独居不安に堪えないから翌日帰宅した。 容態は別に悪くもならないが、さりとて余りよくもならない。 そのうちに歳の暮に近づき、二十四日、第七十四議会が召集せられた。

二十八日、例年のごとく家族を連れて熱海に赴き、富士屋に止宿した。

昭和十三年もいよいよ終りを告げる。 思えば本年の下半は、私に取りては実に不幸なる経過であった。