『回顧七十年』 その31

last updated: 2013-01-23

妨害を乗り準えて議席回復

十二月八日、米英両国に対する宣戦の大詔渙発せられ、太平洋戦争の幕が切って落とされた。 国家の前途実に容易ならざるものがある。

昭和十六年もまた不愉快の間に過ぎ去りて、十七年を迎うるに至った。

四月三十日にはいよいよ総選挙が行わるべく、二年有余の間言語に絶する忍苦に耐えてその日の来るを待ち設けていた。

今回の選挙は私にとりては全く政治上の死活問題であり、同時に一昨年の議会事件に対する復讐戦であるから、何としても勝たねばならぬ。 もし万が一にも敗るるがごときことあらば、私は心身ともに没落すべく、しかして私の没落は全く私の家族一同の没落なるのみならず、年来私を後援したる多数同志の没落であるから、これを思えば私の責任は極めて重大である。 しかるに諸般の情勢を窺えば事ははなはだ容易ならざるものがある。

即ち第一に、一昨年の議会事件以来、予備軍人、大政翼賛会員その他各方面の人々が但馬の要地に入り来り、時局講演に名を借りて、直接間接に私の選挙妨害をなせし者が少なくない。 日く英米依存、自由主義者、曰く反軍思想、反戦思想、この種の言論を乱発して私の行動を批難し、私に対する但馬人の反感を醸成し、もって来るべき選挙を私の不利に導かんと企てたることは蔽うべからざる事実であるが、この種の謀略が選挙の実際に如何なる結果を現わすかは容易に予測することができぬ。

第二に、今回の選挙に当りて政府、軍部および翼賛会方面においては何としても私を落選せしめんと策謀したることは争われない。 これは単なる想像でなくして数多の事実と証拠がある。 しかしてこれらの策謀が選挙に当りて如何に具体化して現わるるかは、これまた予測することができぬ。

第三に、今回の選挙に当りては但馬より新たに一人の推薦候補者が現われたが、この供補者に対してはその筋の命令により大政翼賛会、翼賛壮年団は言うに及ばず、在郷軍人、警防団その他各種の地方団体に至るまで、極力これを援助すべく大勢を作り上げたのみならず、その推薦候補者および運動員らは官権の擁護を背景として傍若無人の運動をなすから、これが私に及ぼす影響は容易ならざるものがある。

第四に選挙前における一般の風評によれば、今回の選挙に当りては政府、軍部方面より私および運動員に対して大弾圧を加え、事によれば抑留処分までなすかも知れないということであるから、これを恐れて寄り付く者が少なくなる。

第五にはこれらの情勢を知り、またはその筋の示唆を受けたる有力者より私に対して立候補を断念すべく勧告し来れる者も少なくない。

事情かくのごときものであるから、選挙の結果は決して楽観できないのみならず、むしろ悲観すべきものがある。 しかし私はこの場合に臨みて、楽観も悲観も考うる余地はない。 如何なる障碍来るとも断じて退くことはできぬ。 背水の陣を張り、死を賭しても進むの一途あるのみである。

四月三日、いよいよ選挙区に赴く。 選挙が終るまで帰京せざるべし、勝って帰るか敗けて帰るか予測の限りではなく、陣中如何なる事変が起こるか知れないから、一通の文書をひそかに机の抽斗に入れておいた。 これでまず安心、大阪、神戸に立寄り、五日豊岡下車、直ちに竹井旅館に入る。

意外のことあり、東京より送り届けたる八万数千枚の印刷物が、内務省の命令により全部差押えらる。 不法干渉の魔手現わる。 警察署に交渉するも効なし。 翌日神戸に赴き、直ちに県庁に出頭し、警察部長、高等課長に面会して事情を質せば、本省の命令であるから取消すことは不可能なりという。

夜行にて七日朝帰京、直ちに内務省に出頭し、続いて情報部に赴き検閲課長に面会し、彼が有害なりとして指摘する印刷物文面を削除訂正したる後、印刷会社に赴き、再印刷を托してヤッと安心したれども、選挙運動途上における一大蹉跌である。

東京に留ること二日間にして、九日夜行にて出発、十日豊岡に着す。

情況容易ならず、木崎推薦候補の運動猛烈にして、全く傍若無人の振舞い、若宮派も大苦戦の様子である。 翌十一日より演説会を開始し、これより二十九日に至るまで十九日間、言論戦を継続す。 最後の二十九日、但馬を引上げて丹波水上郡に赴き、成松、和田、柏原の演説会に臨む。 いずれも聴衆満堂予想外の盛会であって、これにて選挙戦終る。 幸いにして健康に異状なくやや疲労を覚ゆるのみ。

三十日神戸に赴き、オリエンタル・ホテルに投じ、戦塵を払い、来訪者と選挙談を交え、明日開票の結果を待つ。

五月一日、いよいよ本日は開票日である。 情報しきりに来る。 午後四時頃に至り大勢決す。 最高点疑いなし、六時頃に至り全部判明す、左のごとし。

当選 一九、七五三 斎藤隆夫 (非推薦)
一二、二六八 佐々井一晃 (非推薦)
一二、〇六六 木崎為之 (推薦)
落選 一一、二九〇 若宮貞夫 (非推薦)

多数の来訪者と歓談し、夜行に投じ、二日朝帰京す。 二年間の忍苦酬いられ、陰雲散じて天地明朗の感あり。 断じて行えば鬼神も避く、身を捨ててこそ浮ぶ瀬もあり。 今回私の選挙は全国民注目の焦点であったが、ここに至りて第七十五議会の私に対する処分は国民の判決によりて根抵より覆えされ、衆議院の無能と非立憲とを暴露すると同時に、私の政治生涯にとりてそれは永く忘るべからざる記念塔である。