『回顧七十年』 その32

last updated: 2013-01-23

翼賛政治会結成される

今回の選挙に当り、東条内閣は戦争遂行の目的を達せんがために、議会をして無条件に政府に追随せしめ、かりそめにも議会において戦争の遂行に支障となるべき一切の言論動作を封鎖せんとする固き決心を包蔵していたから、その前提として、二月二十三日、臨時閣議を開いて選挙対策を決定した。

これに続いて阿部大将他三十二名の人々が、政府の意を受けて、翼賛政治体制協議会なるものを組織し、これを推薦母体として、全国に亘りて四百六十六名、即ち議員総数の候補者を選定し、これを推薦候補老、別名政府党候補者として選挙場裡に立たしめた。 しかるに他方においては六百十三名の非推薦候補者(注1)が現われて、合計一千七十九名の候補者が選挙競争を開始することになったが、この場合に臨みて政府は如何なる態度をとったかというに、予想のごとく政府は、一方においては警察権その他官憲を濫用し、または各府県知事、翼賛会、翼賛壮年団、在郷軍人団その他あらゆる団体を動員して、極力推薦候補者を援助せしむると同時に、他方においては非推薦候補者に対して、はなはだしき干渉圧迫を加えて、全く選挙運動の自由を奪い、選挙界の秩序を攪乱したるは、わが立憲史上に曽て類例なき暴挙であって、この一事をもって見るも、東条内閣およびこれにくみしたる政治家らの罪悪は、永くわが立憲史上に拭うべからざる汚点を残すものである。

かくのごとくにして政府は推薦候補者をことごとく当選せしめんと企図したるにかかわらず、その結果を見れば、推薦候補の当選者は三百八十一名にして、非推薦候補の当選者は八十五名となった。 もしこの現状をもって議会に臨めば、議会は推薦議員と非推薦議員と左右に分れて、国論の分裂を見るに至るから、東条首相、阿部大将はこれを憂慮し、選挙直後に相はかって、「すでに選挙が終りたる以上は、推薦、非推薦の区別は払拭し、選挙中のことは水に流し、両者一体となりて政府に協力してもらいたい」と宣言するに至った。

これはずいぶんん虫の好い話であって、非推薦組は心中解けざるものがあったが、当時の事情やむを得ざるものとして、これに反抗するものもなく、かくして五月二十日、議員のほとんど全部を発起人として、翼賛政治会なる政治結社を創立し、阿部大将を総裁となした。 私は元より発起人には加わらなかったが、友人らがしきりに入会を勧めるから、入会はしたものの、かかる独立性なき政府盲従の政治団体には少しも興味を有しないから、会員としては何らの活動をもなさなかった。

五月二十五日、第八十特別議会召集せらる。

六月十七日神戸に赴き、市会議員選挙応援演説会に臨んだが、当時の警察官吏は上官の命令を受け、私の演説を阻止するがために、十回の演説に五回の中止を命じた。 私は三十余年来の政治生涯において、演説の中止を命ぜられたるは、今回が初めてであった。 もって当時の官憲が、如何に私の言論に対して神経過敏に陥っていたかが明らかである。

十二月二十四日、第八十一議会が召集せられ、翌年三月二十六日、閉院式が挙行せられた。

六月十五日、第八十二臨時議会召集せらる。

十二月十五日、第八十三臨時議会召集せらる。

十一月十五日、大東亜会議開かれ、東亜の弱体諸国代表者が集まって大東亜宣言なるものを発表したが、かかる弱国が何を宣言しようが、世界的には何らの反響をも起こさない。 東条首相は得意の絶頂に達したように見えたが、私は心中これを笑うて、一詩を作った。

宣言己発莫偸安
勁敵依然戦益難
鉄血能摧連合策
古来盟約幾何残

宣言は発表したが、敵は強くして、戦いはますます困難となる。 戦争は力の争いである。 力の強いものが勝って弱いものが敗ける。 如何に紙上の宣言を重ねたところで、力が足りねば役に立たぬ。 古来幾多の盟約が結ばれたが、いずれも鉄血によって破られ、今日残っているものが何ほどあるか考えてみるがよい。

十二月二十四日、第八十四議会召集せらる。

十二月二十七日、院議をもって、私は議員二十五年勤続を表彰せられ、久しぶりに登壇して、簡単なる謝辞を述べた。 一詩を作った。

欲完憲政志難成
回首多年蝸角争
今日顕彰何面目
願鞭老骨送余生

憲法政治を完成せんがために骨を折ってみたが、事は志と違い、なかなか目的は達せられない。 顧みれば多年の間、全く蝸牛角上かぎゅうかくじょうの争いをやっていた。 しかるに今日院議をもって議員勤続二十五年の表彰を受けて、まことに面目ない次第であるが、せめては老体に鞭うって、最後の奉公をなしたいものである、という趣旨である。

七月十八日、サイパン島陥落の日、東条内閣総辞職をなし、二十二日小磯内閣成立す。

九月六日、第八十五臨時議会召集せらる。

十二月二十四日、第八十六議会召集せらる。

昭和十九年も終りを告げた。 顧みれば十五年三月七日除名処分を受けてから、二年二か月は院外にあり、残りの二年八か月は院内にありたれども、戦争の真最中であって、国内は戦争一色に染められ、政治上の言論、文章その他一切の活動はことごとく封鎖せられ、議会は全くその機能を失って、事実上政府の隷属横関と化し、政府提出案は一字一句の修正も加えず、全部鵜呑みにして二、三週間に議案全部を議了するがごとき始末であるから、私もこの大勢を見て、しばらく政治上の活動を思い止まるの他はない。 ここにおいて、うちにあっては努めて内外古今の書籍に親しみ、あるいは筆を執りて時局に関する忌憚なき意見を記述して、これを後世に残すこととなし、また午後はたいてい日本倶楽部におもむきて、囲碁や談論に日を暮すことをもって常例としていた。

しかるに戦争は漸次に悪化し、大本営はしきりにわが軍の捷報を公表すれども、事実は全くこれに反し、敵は急速力をもってわが本土に向って近づきつつあることは蔽うことができず、遂に七月十八日、サイパン島は陥落し、六月頃から敵の爆撃機が初めて北九州に現われて以来、続々として内地に侵入するにおよび、勝敗の大勢はすでに決定し、戦局の前途には毫末の光明をも認むることはできない形勢となった。

昭和二十年は国民不安のうちに迎えられたが、本年こそはわが日本にとりて、一大顛落の起こるべき年である。 空襲警報は日夜を分たずしきりに発せられ、東京市内の各所には続々として空爆による火災が起こって、炎々天に漲るばかり。 人心は兢々きょうきょうとして今明日の運命も測り知ることができぬ。 私の家族もいずれか安全の地に疎開させたい。

せめては家財、衣類等なりとも遠隔の地に送りたいと思えども、とても実行できず、ただただ運を天に委するの他なき有様であった。

三月三十日、翼賛政治会を解散して大日本政治会を創立し、南大将を総裁となした。

四月三日、但馬に赴き、十日着京、品川駅に降りんとするの際、誤って腰部を捻坐し、辛うじて帰宅したれども、床中に横たわりたるまま一か月有余に亘りて起つ能わず、その間、東京市内は空襲によりて過半が焼土と化し、わが家の運命も最早朝夕を測られざることになった。

五月二十九日早朝、空襲警報あり。 家族らは避難の用意に奔走しつつあったが、私は独り杖にすがりながら塀外に出で、大樹の下に立っていた。 俄然轟々たる音響を耳にするや否や、焼夷弾が雨のごとく降ったと思う瞬間に、周囲一帯は火の海と化した。 いずれにのがれんかと思いつつ走り、垣を越えて大道に飛び出たものの、ここも降り落ちたる焼夷弾が転々として燃えつつありてはなはだ危険ではあるが、この間にやや安全なる場所を見つけてしばらく立っていたが、見れば品川方面から御殿山、高輪南町に亘りて猛火の勢い凄まじく、わが家もその中に包まれて盛んに燃えつつあるが、近づくこともできない。家族らはどうしたかと心配に堪えなかったが、幸いにして無難であった。

数時間の後に鎮火した。焼跡に行ってみれば、家も家財もことごとく灰になっている。 わずかに防空壕内の衣服道具類のみは助かったから、やや愁眉を開いた。 これから落ちつく所もない。 幸いにしてコンクリート建築の隣家が難を逃れたから、二階の一室を借り受けて、家族一同一先ずこの所に落ちついたものの、東京都内に転宅する所はない。 やむを得ず一時郷里に帰るべく決心したが、鉄道は大混雑にて、なかなか荷物を輸送することは困難である。 しかし何としても準備を整えて、一日も早く出発せねばならず、これがためにどれだけ面倒なことに出会ったか分らない。

脚注

(1)
民生書院版・中公文庫版ともに「被推薦候補者」ですが誤字だと思います。