『回顧七十年』 その37
民主党、第三党に転落
議会のことは省いて、三月末までの出来事について述べておきたいことがある。
一つは一月末に内閣改造が行われ、内務、文部、商工、運輸、農林の各大臣が更迭した。
二は社会党との連立工作である。 時局の重大性に鑑み、吉田首相は幣原進歩党総裁と申合せて、社会党を引き入れて連立内閣を作らんと図り、片山社会党書記長との間に三党首会談が二回までも繰り返し行われたが、遂に不成功に終った。
三は昨年六、七月頃より労働争議が頻発して、当局を悩ますことすこぶる大なるものがあったが、この勢いが漸次に昂進して、遂には二月一日を期し、全国に亘りてゼネストを断行せんとするに至り、国内は極度の不安に襲われていたが、マッカーサー元帥はこの形勢を見て看過すべからざるものとなし、その前日に至り断乎として禁止命令を発したから、その企図は挫折して、国民は安堵の思いをなした。
四は二月七日、マッカーサー元帥は吉田首相に文書をもって議会終了後衆議院の解散を勧告したから、解散は既定の事実となった。
五は新政党樹立問題である。
保守戦線を統一するがために、自進両党を解党して一大政党を樹立するの必要は、私が昨年以来唱道し来りたることであるが、二月初めに至りややその情勢が現われたと見たから、この機会を捉えて俄然新党樹立を提唱し、まずはこれを最高幹部会に
役員氏名
最高委員 斎藤隆夫 芦田均 一松定吉 河合良成 木村小左衛門 犬養健 楢橋渡 最高顧問 幣原喜重郎 顧問 田中万逸 林平馬 幹事長 石黒武重 政務調査会長 矢野庄太郎
三月三十一日、議会終了の当日、予定のごとく衆議院は解散せられ、四月二十五日が選挙期日に指定せられた。 私は諸般の準備を整えて四月八日出発、神戸に赴き二日間滞在の後但馬に入り、五日間に亘りて出石、豊岡、城崎、浜松、村岡、香住、八鹿、和田山、竹田、生野の演説会に臨み、十二日他の選挙区に赴き、田原、網干、相生、明石、加古川、尼ヶ崎、神戸市内五か所、芦屋、西宮の同志応援演説会に臨み、ここに選挙運動を終りて、二十五日出発、帰京の途に上った。
選挙の結果次のごとし。
兵庫県第五区
当選 | 五二五〇三 | 斎藤隆夫 | (民前) |
---|---|---|---|
当選 | 三七六三八 | 小島徹三 | (民前) |
当選 | 二七一九四 | 佐々木盛雄 | (自新) |
兵庫県
民主党 | 一○ |
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社会党 | 五 |
自由党 | 二 |
国民協同党 | 一 |
全国
社会党 | 一四三 |
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自由党 | 一三一 |
民主党 | 一二四 |
国民協同党 | 三一 |
共産党 | 四 |
諸派 | 二〇 |
無所属 | 一三 |
合計 | 四六六 |
選挙の結果は一般の予想を裏切りて、第一社会党、第二自由党、第三民主党となった。 民主党は選挙の真最中において、犬養、楢橋、石黒、地崎等の中堅が一斉に追放せられたから、意外の不結果を惹起し、第一党より第三党に墜落したのは遺憾であるが、これも仕方がない。 しかして三党いずれも議会の過半数を制するものはないから、今後の政局は連立内閣によりて担当するの他なく、国論の大勢もまたこの方向に進みつつあることは争われない。