『回顧七十年』 その37

last updated: 2013-01-23

民主党、第三党に転落

議会のことは省いて、三月末までの出来事について述べておきたいことがある。

一つは一月末に内閣改造が行われ、内務、文部、商工、運輸、農林の各大臣が更迭した。

二は社会党との連立工作である。 時局の重大性に鑑み、吉田首相は幣原進歩党総裁と申合せて、社会党を引き入れて連立内閣を作らんと図り、片山社会党書記長との間に三党首会談が二回までも繰り返し行われたが、遂に不成功に終った。

三は昨年六、七月頃より労働争議が頻発して、当局を悩ますことすこぶる大なるものがあったが、この勢いが漸次に昂進して、遂には二月一日を期し、全国に亘りてゼネストを断行せんとするに至り、国内は極度の不安に襲われていたが、マッカーサー元帥はこの形勢を見て看過すべからざるものとなし、その前日に至り断乎として禁止命令を発したから、その企図は挫折して、国民は安堵の思いをなした。

四は二月七日、マッカーサー元帥は吉田首相に文書をもって議会終了後衆議院の解散を勧告したから、解散は既定の事実となった。

五は新政党樹立問題である。 保守戦線を統一するがために、自進両党を解党して一大政党を樹立するの必要は、私が昨年以来唱道し来りたることであるが、二月初めに至りややその情勢が現われたと見たから、この機会を捉えて俄然新党樹立を提唱し、まずはこれを最高幹部会にはかりたるに、幣原総裁は心中進まざるの色が見えたれども、大勢上反対することもできず、一同これに賛成したから、次いで代議士会に諮りたるに、これまた一人の反対なく全員こぞって賛成し、直ちに政党結成準備委員を設け、私を委員長となし、自由党およびその他の小会派に呼びかけることにした。 しかるところ、肝心の自由党は目前に選挙を控えて圧倒的第一党となるべき自信を有していたから、この問題は選挙後に譲ることとして、合同に応じない。 他の小会派も情勢を見て逡巡しているから、一気呵成に新党を樹立することは到底望まれない。 よって他日時機の到来を待つこととして、ひとまずこの運動は中止することになったが、三月末議会が終了し、選挙も近づくにおよんで、情勢急変し、芦田氏は単身自由党を脱し、他の小会派よりも二十四名の加入者を見たから、いよいよ三月三十一日、衆議院解散の当日進歩党を解党し、京橋公会堂において新たに民主党の結党式を挙行し、宣言、綱領、役員選挙を終り、私は役員一同を代表し簡単なる挨拶をなした。 代議士百四十五名、ここにおいて自由党を凌いで第一党となったが、近づく総選挙の結果はもとより予想できない。

役員氏名

最高委員斎藤隆夫
芦田均
一松定吉
河合良成
木村小左衛門
犬養健
楢橋渡
最高顧問幣原喜重郎
顧問田中万逸
林平馬
幹事長石黒武重
政務調査会長矢野庄太郎

三月三十一日、議会終了の当日、予定のごとく衆議院は解散せられ、四月二十五日が選挙期日に指定せられた。 私は諸般の準備を整えて四月八日出発、神戸に赴き二日間滞在の後但馬に入り、五日間に亘りて出石、豊岡、城崎、浜松、村岡、香住、八鹿、和田山、竹田、生野の演説会に臨み、十二日他の選挙区に赴き、田原、網干、相生、明石、加古川、尼ヶ崎、神戸市内五か所、芦屋、西宮の同志応援演説会に臨み、ここに選挙運動を終りて、二十五日出発、帰京の途に上った。

選挙の結果次のごとし。

兵庫県第五区

当選五二五〇三斎藤隆夫(民前)
当選三七六三八小島徹三(民前)
当選二七一九四佐々木盛雄(自新)

兵庫県

民主党一○
社会党
自由党
国民協同党

全国

社会党一四三
自由党一三一
民主党一二四
国民協同党三一
共産党
諸派二〇
無所属一三
合計四六六

選挙の結果は一般の予想を裏切りて、第一社会党、第二自由党、第三民主党となった。 民主党は選挙の真最中において、犬養、楢橋、石黒、地崎等の中堅が一斉に追放せられたから、意外の不結果を惹起し、第一党より第三党に墜落したのは遺憾であるが、これも仕方がない。 しかして三党いずれも議会の過半数を制するものはないから、今後の政局は連立内閣によりて担当するの他なく、国論の大勢もまたこの方向に進みつつあることは争われない。