福澤諭吉「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」と文明政治の 6 条件

2015-03-12

このテキストについて

静岡県立大学国際関係学部『国際関係・比較文化研究』第 2 巻第 2 号(2004 年 03 月)所収の平山洋「福澤諭吉「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」と文明政治の 6 条件」を転載します。

転載するにあたり、強調として利用されている<>を、<em></em>に置換しました。また、定義リストを用いたり、西暦を 4 桁にする等の処理もしました。

google 翻訳によって翻訳した韓国語の版を公開しています。

掲載文全文

1  「朝鮮滅亡論」とは何か

意外に知られていないのだが、福澤諭吉が書いたとされる無署名論説に、「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」(以下「朝鮮滅亡論」)という過激なタイトルのものがある。 名高い「脱亜論」の発表から 5 ヶ月後の 1885(明治 18)年 08 月 13 日に福澤が主宰していた新聞『時事新報』に掲載されたものの、隣国朝鮮へのあまりに礼を失した内容を含んでいたため、同紙は発禁の憂き目にあってしまったといういわくつきの社説である。

小論はその「朝鮮滅亡論」について、そこでの主張が福澤の侵略性を示すものなのか、それとももっと別の評価があり得るのかどうかについて検討する。 あくまで今から 118 年前の国際情勢を踏まえての議論であるが、読む人には遠い過去とは思えない部分があるかもしれない。 しかし、それは偶然にすぎない。

まずは現行の『福澤諭吉全集』第 10 巻に収められている「朝鮮滅亡論」の内容を紹介しよう。 冒頭はこうである。

「英人は既に巨文島を占領して海軍の根拠を作り、露人は穆仁徳(モーレンドルフ)と諜し合せて陸地より侵入するの用意を為し、朝鮮国独立の運命も旦夕に迫りたるものと云ふ可し。 扨この国がいよいよ滅亡するものとして考れば、国の王家たる李氏のためには誠に気の毒にして、又其直接の臣下たる貴族士族のためにも甚だ不利なりと雖ども、人民一般の利害如何を論ずるときは、滅亡こそ寧ろ其幸福を大にするの方便なりと云はざるを得ず」(379 頁)。

この冒頭で、イギリス軍が朝鮮の巨文島を占領したり、ロシアが政治顧問としてモーレンドルフを派遣したことは、本格的な侵略の下準備であるとの考えが示されている。

そこで朝鮮国の滅亡が人民の幸福となる理由について、作者は次のように続ける。 人間にとって最も大切なのは栄誉と生命と私有の 3 つであって、国家を立てて政府を設けるのはこれらを保護するためである。 他人の財産を盗んだり生命を奪った者が法によって処罰されるのは私有と生命を守るためである。 栄誉には内外 2 通りがある。 まず国内的には国民として同等の権利を有し、爵位身分などをよりどころとした他人への軽侮は禁止される。 また対外的には政府の当局者が自国の人民に対し、独立の国民としての体面を全うできるように尽くすことである。

こうすることで国民もその国を愛することができるのだが、実際には、

「今朝鮮の有様を見るに、王室無法、貴族跋扈、税法さへ紊乱の極に陥りて民に私有の権なく、啻に政府の法律不完全にして無辜を殺すのみならず、貴族士族の輩が私欲私怨を以て私に人を拘留し又は傷け又は殺すも、人民は之を訴るに由なし。 又その栄誉の一点に至ては上下の間、殆ど人種を殊にするが如くにして、苟も士族以上、直接に政府に縁ある者は無限の権威を恣にして、下民は上流の奴隷たるに過ぎず」(380 頁)

という悲惨な状況なのであった。

そうした朝鮮人民は、

「内に居て私有を護るを得ず、生命を安くするを得ず、又栄誉を全うするを得ず、即ち国民に対する政府の功徳は一も被らずして、却て政府に害せられ、尚その上にも外国に向て独立の 1 国民たる栄誉をも政府に於て保護するを得ず。 実に以て朝鮮国民として生々する甲斐もなきことなれば、露なり英なり、其来て国土を押領するがまゝに任せて、露英の人民たるこそ其幸福は大なる可し」(381 頁)

ということになるのである。

以上が「朝鮮滅亡論」の骨子である。 社説として発表されているため、400 字詰原稿用紙にして 5 枚半に満たない短い文章である。 この社説が発表された 1885 年の『時事新報』には、他にも、「朝鮮独立党の処刑」(02 月 23 日、26 日)や「脱亜論」(03 月 16 日)また「朝鮮国の始末も亦心配なる哉」(04 月 11 日)など、朝鮮を主題とした論説が多く掲載されている。

2  戦後左翼の福澤諭吉批判

第 2 次世界大戦後しばらくして高まった福澤の再評価に疑念を抱いたいわゆる左翼の研究者たちは、「脱亜論」「朝鮮滅亡論」を取り上げることで侵略的思想家としての福澤への批判を強めた。

もとより福澤がいわゆるブルジョア思想家であることは、立場の左右を問わず全ての研究者によって承認されている。 とはいえそれを越えてアジアへの侵略を唱導した思想家であったかどうかについては現在なおも意見は分かれたままである。

慶應義塾出身者と東京大学法学部の丸山真男とその門下生を主な構成メンバーとする擁護派は、新聞社説に見られる侵略肯定の言動は本心ではなく、福澤は市民的自由主義者の立場に止まると主張する。 いっぽう、遠山茂樹・服部之総など東京大学文学部やその他の大学の文・教育学部出身者を中心とする左翼の研究者は、主に『時事新報』論説を素材として、侵略的絶対主義者福澤を非難してやまない。 福澤は主張の幅の広い思想家だったとはいえ、この 2 つはとても相容れられないほど隔たった評価であるように思われる。

論者の考えるところでは、遠山・服部らによる否定的評価には 2 つの問題がある。 その第 1 は、彼らが福澤の侵略性を示す証拠としてあげている論説のほとんどが無署名のものであるということである。 つまり確実に福澤の論説なのかどうか判然としない部分があるのである。 また第 2 は、福澤の執筆かどうかさておくとしても、遠山や服部が批判する「脱亜論」「朝鮮滅亡論」の主張がそもそも朝鮮侵略を目的としていたのかどうか、ということである。

第 1 の点については後に扱うことにして、ここでは第 2 の点にかんし手短かに述べたい。 論者の調査によれば、「脱亜論」が初めて言及されたのは、遠山の論文「日清戦争と福澤諭吉」(1951 年)である。 その中心的部分は「朝鮮滅亡論」「脱亜論」を組み合わせることで成り立っている。 すなわち、遠山は「朝鮮滅亡論」「露英の人民たるこそ其幸福は大なる可し」を含む 1 節を引用したのち、次のように続けている。

強大文明国の植民地となることが、むしろ朝鮮人民の幸福ーこれは修辞の上の誇張の言ではなく、日本の朝鮮侵略を主張する論の前提となっている。 曰く、

「我国は隣国の開明を待て、共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて、特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。 ……我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」(「脱亜論」明治 18 年、続全集 2)

アジアの一員としてアジアの興隆に尽すのではなく、アジアを脱し、アジア隣邦を犠牲にすることによって西洋列強と伍する小型帝国主義となろうとする、日本のナショナリズムの悪しき伝統の中に、この類い稀な思想家も、「文明」の名においてとらえられていた。 (岩波書店刊『遠山茂樹著作集』第 5 巻、1992 年、32 ~ 33 頁)

ここで遠山は「脱亜論」を「朝鮮侵略を主張する論」として紹介しているのであるが、そこに明確な侵略の意図を見いだすのは困難であろう。 それというのも、ここには「西洋人が之に接するの風に従て処分す可き」とあるだけだからである。 遠山は20 世紀になって現に日本が朝鮮を支配下に置いたという歴史的事実から、4 半世紀前の福澤もそのような考えを抱いていた、と逆に読み込んでいるにすぎないのである。

また「朝鮮滅亡論」を虚心坦懐に読んでみても、タイトルはセンセーショナルとはいえ、読者が期待(?)するような、日本による朝鮮侵略への宣言文などではない。 朝鮮を植民地化すると想定されているのはロシアとイギリスであって、『時事新報』は朝鮮が独立を失うことへの憂慮を、その政府の堕落ぶりを批判することで顕わにしているだけである。

その他、遠山と服部が証拠としてあげている諸論説には、西洋諸国によるアジア侵略への警告が示されてはいるものの、日本による侵略の推進を声高に主張しているものはないようである。

3  伝記作家にして全集編纂者・石河幹明

福澤の侵略性を批判するときに遠山茂樹や服部之総が引用している諸論説には日本による朝鮮支配の企みなどまったくうかがうことができないのに、なぜ彼らは片言隻句をあげつらって福澤に侵略的思想家というレッテルを貼ろうとしたのであろうか。

紙幅に限りがあるため結論を先に述べてしまうならば、論者は、福澤の伝記作家でありかつ全集編纂者であった弟子の石河幹明が、侵略的思想家としての福澤像を喧伝したことが、戦後左翼の福澤批判に影響を与えているのだと推測する。 順を追って説明しよう。

福澤の全集はそもそも 1898(明治 31)年に自らの手によって企画されている。 この『福澤全集』全 5 巻(時事新報社刊・明治版)は、現行版第 6 巻の『実業論』(1893 年)までに相当している。 『福澤先生浮世談』(98 年)や『福翁自伝』(99 年)などそれ以後の出版物や、『時事新報』掲載の無署名論説、さらに書簡は収録されていない。 この明治版は約 4 半世紀の間命脈を保ったが、重要と思われる著作のいくつかが抜けている不便さがあった。

石河は、1885(明治 18)年 4 月から 1922(大正 11)年まで『時事新報』編集部に所属していた新報社の生き字引のような人物であった。 福澤のことを最もよく知る面授の弟子として、慶應義塾は、主筆を退いた翌年の 23 年に、石河へ『福澤諭吉伝』の編纂を依頼した。 この伝記は 1931(昭和 6)年に全 4 巻の大著として完成されることになるが、そればかりではなく、彼は、25(大正 14)年から翌年にかけて刊行された『福澤全集』全 10 巻(国民図書刊・大正版)と 33(昭和 8)年から翌年の『続福澤全集』全 7 巻(岩波書店刊・昭和版)の編纂にも携わっていたのである。

石河は大正版を明治版の復刊と称していたが、大正版は明治版にはない「時事論集」3 巻を含んでいる。 そこには『時事新報』の社説 224 編が収められているが、これら無署名の文章を紙面から選んだのは石河自身であった。 また昭和版は「時事論集」5 巻と「書簡」2 巻に分けられるが、こちらの「時事論集」に入っている 1246 編の社説を選択したのも石河であった。 「朝鮮独立党の処刑」「脱亜論」「朝鮮滅亡論」などが福澤の論説と見なされるようになったのはじつに 1933 年のことであったのである。

現在広く読まれている 1958(昭和 33)年から 64 年刊行の『福澤諭吉全集』全 21 巻(岩波書店刊・現行版)は、石河の弟子の富田正文と土橋俊一の編となっているため忘れられがちであるが、石河編纂の正続『全集』を合わせてさらに遺漏を増補したものである。 現行版編纂にあたって落とされた無署名論説は 1 編もない。 要するに、石河は最も詳細な福澤伝の作者であり、さらに現行『全集』の実質的な編纂者でもあるのである。

さて、石河の『福澤諭吉伝』は、大正版「時事論集」所収の無署名論説を駆使して、それまでの独立自尊の自由主義者にして拝金宗の総帥としての福澤像を排している。 そして、東洋政略について早くからはっきりとした見通しをもち、朝鮮侵略を手始めについには清国の打倒を企む先見の明に富んだ戦略的思想家として福澤を描いている。 それは満州事変進行中の騒然たる政情にあって、まさに時局適合的な福澤像であった。

遠山は論文「日清戦争と福澤諭吉」の参考文献に『福澤諭吉伝』をあげていないが、その論の展開は、伝記第 35 編「日清戦争」とまったく同じである。 つまり遠山は、福澤は侵略的思想家だから素晴らしいと評価した石河の伝記の結論だけを逆転させて、だから怪しからんと非難していたのであった。

ここまでの記述だけでも、問題の所在はすでに明らかであろう。 石河は『時事新報』の紙面から無署名論説を選び、それらに基づいて『福澤諭吉伝』を執筆したのであった。 その伝記が発表されるまで、福澤にアジア侵略を積極的に提唱した思想家というイメージはまったくなかった。 署名著作にそうした内容を含むものがないのだからそれは当然である。

石河が選択した無署名論説が確実に福澤のものであるなら、『福澤諭吉伝』は知られざる福澤の真の姿、すなわち侵略的思想家としてのそれ、を描き出した貴重な著作ということになろう。 しかしもし石河の選び方に疑問の余地があるなら、その伝記の信憑性は損なわれることになるのである。

現行版の「時事新報論集」は、第 8 巻から第 16 巻までの 9 巻である。 とはいえ 1860(万延 1)年から 99(明治 32)年までの 39 年間に書かれた署名著作が 6 巻半(第 7 巻の後半は草稿)であるのに対して、1882(明治 15)年から 1901 年までの 19 年間に発表された無署名論説が 9 巻あるというのは、奇妙なことである。 無署名論説が署名著作の約 2.5 倍のペースで量産されていたことを意味しているからである。

この不自然さについて、石河は、現行版では削除されてしまっている昭和版の「附記」において、

「(明治)二十四五(1891、2)年頃からは自ら草せらるゝ重要なる説の他は主として私に起稿を命ぜられ、其晩年に及んでは殆ど全く私の起稿といつてもよいほどであつた」(第 5 巻 737 頁)

と白状している。 ようするに現行版「時事新報論集」所収の論説には、石河が執筆したものが多数含まれているのである。

4「脱亜論」と「朝鮮滅亡論」を書いたのは誰か

無署名論説の選択はひとえに石河の記憶と勘にのみ依拠している。 しかも石河が虚偽の発言をしていた可能性を考慮に入れる必要がある。 石河が福澤とは無関係に自分の意見として書いた論説を全集に収め、それに基づいて伝記を執筆していた場合さえありうるのである。 そうであるとすると、小論の課題である「朝鮮滅亡論」「脱亜論」を書いたのはいったい誰であったのか、という問題が生ずる。

福澤の関与のあり方を基準とするなら、『時事新報』の社説は次の 4 つのカテゴリーに分類できる。 すなわち、

福澤がすべてを執筆した「福澤真筆」
福澤が立案して社説記者(論説委員)が下書きをし、さらに福澤の検閲を経た「福澤立案記者起稿」
記者の持ち込み原稿に福澤が添削を施した「記者立案福澤添削」
全面的に記者が執筆して福澤はまったく関与していない「記者執筆」

の 4 つである。 これらのうちⅢおよびⅣに属する論説が福澤の思想とはみなせないことは言うまでもない。

福澤存命中に『時事新報』は約 6000 号発行されているため、現行版の「時事新報論集」に収められた約 1500 編の論説は全体のおおよそ 4 分の 1 である。 カテゴリーⅠの福澤真筆だけだとするとそれはいかにも多すぎるが、そのほか、主筆の中上川彦次郎や石河など若手の社説記者が下書きを担当したカテゴリーⅡが含まれているとするならば、その膨大な分量も必ずしも不自然とはいえないわけである。

論者の調査によれば、「脱亜論」「朝鮮滅亡論」が発表された 1885(明治 18)年に社説を書いていたのは、福澤のほか、中上川主筆と社説記者の高橋義雄と渡辺治の計 4 名であった。 中上川は福澤の甥で創刊から 5 年間主筆を務めた後、三井に移ってそこの重鎮となった。 高橋と渡辺は創刊直後の 82 年 5 月から『時事新報』に参加した若手記者で、福澤から授けられたアイディアを文章化するのがその役目だった。 高橋は 87 年 7 月に退社して後に三井銀行の重役となり、渡辺は 90 年 7 月の第 1 回選挙に出馬、当選して代議士となった。

先にも書いたように、「時事新報論集」に収められている論説を選んだのは石河である。 しかし 85 年 3 月の「脱亜論」発表時に石河は未だ入社しておらず、また同年 8 月の「朝鮮滅亡論」掲載時にも社説担当ではなかった。 石河が社説記者となるのは高橋が退社した 87 年 7 月のことである。 そうであるとすると、これら 2 編が昭和版『続全集』に収められた理由は、少なくとも福澤がそれらを執筆するのを石河が直接見ていたからではない、ということになる。 このことからも明らかなように、石河の選択は当てにはならない。 そこでほかに客観的指標が必要になってくるのである。

これまで不可能だと思われてきた無署名論説の真偽判定に一定の基準を示したのは、比較文学者の井田進也である。 井田は『中江兆民全集』の編纂にあたって編み出した無署名論説の執筆者推定の方法を、現行『福澤諭吉全集』の「時事新報論集」に応用したのであった(光芒社刊『歴史とテクスト』 2001 年)。 井田の方法を簡潔に説明するなら、まず社説を書いた可能性のある人々の署名論説を集め、各々の特徴的な語彙や表現をよりだし、ついで当該社説と照合することで起筆者を推定する、というものである。

ここでは細かい問題には触れられないのであるが、福澤文ならではの特徴をごく大まかに指摘してみるなら、例えば、福澤的語彙として、「みずから」を「身躬から」、「みなす」を「視做す」、「きぼう」を「冀望」とする表記がある。 これらについては社説記者もそれぞれ、「自ら」、「見做す」、「希望」と書くことが多いため、区別のための大きな手がかりとなる。 また、福澤は過去を意味する熟語として「在昔」を用いることが多い。

その他井田が指摘する福澤の語彙と文体の特徴を手がかりとして、「脱亜論」「朝鮮滅亡論」の執筆者を推定してみると、いずれも福澤真筆(カテゴリーⅠ)と見なしてよいようである。 状況証拠としては、福澤の書簡で「脱亜論」に触れたものはないものの、「朝鮮滅亡論」については、発禁のためそのまま没となった続編の「朝鮮の滅亡は其国の大勢に於て免る可らず」(2 日分)の自筆草稿が残されている。

そうであるとすると、それらに朝鮮侵略を企んでいた決定的証拠は見いだせないとはいえ、「朝鮮滅亡論」にあるように、福澤は文明の名における他国への進出を最終的には肯定していたということになる。

5  批判と蔑視の違いについて

そこで福澤の侵略性について考える前に、1970 年代以降の研究において強調されるようになった、アジア蔑視者としての福澤像について先に検討したい。 近年の批判の論点は、その侵略性よりもむしろ、福澤には当時にあってさえ許されないほどのアジア蔑視観があったとするところに移ってきているからである。

福澤が「朝鮮独立党の処刑」「脱亜論」さらに「朝鮮滅亡論」で清国や朝鮮を批判しているのは事実である。 しかしそれは福澤にアジア蔑視観があったということを必ずしも意味しない。 なぜなら批判と蔑視(差別意識)はまったく違うことがらだからである。

この 2 つははっきり区別しなければならない。 すなわち批判とは、誰もが同意可能な基準をあらかじめ定め、その基準からの逸脱を具体的に指摘することで相手の不当性を明らかにするあり方のことである。 いっぽう蔑視とは、もともと何らの基準をもたぬまま、相手をより劣った存在とみなすことである。 批判者たちが福澤のアジア蔑視の証拠としてあげるのは、例えば「脱亜論」にある、

「支那朝鮮の士人が惑溺深くして科学の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本も亦陰陽 5 行の国かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がために掩はれ、朝鮮国に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計れば枚挙に遑あらず」(第 10 巻 240 頁)

といった表現である。

確かにこれだけを読めば、福澤にはひどい民族偏見があった、と即断されてしまうのも無理からぬところである。 しかし「脱亜論」は前年の 1884(明治 17)年 12 月に独立党が起こしたクーデタ、甲申政変後の朝鮮情勢を踏まえて書かれたものだった。 福澤は慶應義塾から人材を派遣して金玉均ら朝鮮独立党を熱心に支援していたのである。 そして甲申政変が失敗してしばらく経った、「脱亜論」掲載の 3 週間ほど前の 85 年 2 月 26 日に「朝鮮独立党の処刑」(後編・カテゴリーⅠ)が掲載されている。

その社説で福澤は、縁座制によって処刑された独立党員の家族の姓名を記したのち、

「壮大の男子を殺すは尚忍ぶ可しとするも、心身柔弱なる婦人女子と白髪半死の老翁老婆を刑場に引出し、東西の分ちもなき小児の首に縄を掛けて之を絞め殺すとは、果して如何なる心ぞや」(225 頁)

と続け、

「我輩は此国(朝鮮)を目して野蛮と評せんよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と云はんと欲する者なり。 而して此地獄国の当局者は誰ぞと尋るに、事大党政府の官吏にして、其後見の実力を有する者は則ち支那人なり」

と書いている。

すなわち、「脱亜論」中の「支那人が卑屈にして恥を知らざれば」とか「朝鮮国に人を刑するの惨酷なるあれば」という清国・朝鮮批判は一般的な差別意識に根ざすものではなく、この甲申政変の過酷な事後処理に限定されていたのである。 こうした状況的な表現を除いてしまえば、その主題は、半開の国々は西洋文明を取り入れて近代化するべきだ、という『文明論之概略』(1875 年)の主張と少しも変わるところがないのである。

さらに注意しなければならないのは、福澤が外国を批判する場合に、その対象となっているのは政府や支配層だけであって、一般民衆は含まれていないということである。 福澤の論説では支配層を意味する「支那人」、「朝鮮人」とそれぞれの国の「人民」とは明確に区別されている。 彼の理解では、政府を構成している「人(士)」が「人民」を統治しているのであるから、残虐な政治の責任はすべて支配層が負わなければならないのである。 したがって「脱亜論」「朝鮮滅亡論」での不穏当な表現を民族差別の観点から解釈するのは誤りなのである。

6  文明政治の 6 条件は、国家主権に優先する

先に論者は、批判とは同意可能な基準からの逸脱を具体的に指摘することで相手の不当性を明らかにすることである、と定義した。 そこで福澤が批判をなすにあたって出発点とした、誰もが同意可能な基準とは何かといえば、それは文明は遅速はあれ世界のどこでも同じ道筋をたどって発展するということであった。

ではそもそも文明とはどのようなものなのだろうか。 『文明論之概略』では、文明とは智徳の進歩のことであると簡潔に定義されているが、それだけでは十分な説明とはいえない。 そこで福澤はより具体的な内容を含んだ文明政治の 6 条件とでもいうべきものを設定して、そこから自らの批判を展開するのである。

その文明政治の 6 条件とは、

個人の自由を尊重して法律は国民を束縛しないようにすること
信教の自由を保証すること
科学技術の発展を促進すること
学校教育を充実させること
適正な法律による安定した政治によって産業を育成すること
国民の福祉向上につねに心がけること

の 6 つである(現行版第 1 巻 290 ~ 291 頁)。 「朝鮮滅亡論」で提示されていた生命の安全と国民の栄誉の維持はそのうちの①に、私有の保護は⑤に含まれている。

これらの 6 条件は『西洋事情』初編(1866 年)で初めて提示されたのち、『学問のすゝめ』(72 ~ 76 年)と『文明論之概略』で詳しく論じられている。 また、その後の単行本もこれらの条件とまったく無関係のものはほとんどなく、多くの場合それぞれの条件をより掘り下げた内容を含んでいる。 たとえば、①については『通俗民権論』(1878 年)や『時事小言』(1881 年)、以下

『福翁百話』(1897 年)
『民情一新』(1879 年)
『学問之独立』(1883 年)
『通俗国権論』(1878 年)
『実業論』(1893 年)
『分権論』(1877 年)

といった具合である。

時事問題に関して何らかの批判をおこなう場合、福澤の手元には常にこの 6 つの条件が書かれたチェックリストがあった、といってよい。 その基準は批判の対象が日本政府であっても、西欧諸国やアジアの諸国であろうとも不変であった。

このようにして見ると「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」という題名は大いなる皮肉といわなければならない。 その視点はまさに「人民」の立場から、支配層たる「朝鮮人」による政治は文明の名に値しない、と主張したものだからである。

そもそも福澤は、国民が自らの理想に基づいてその時代にもっとも適した政府を組織するなら、いかなる政権交替も国体の変更ではなく、むしろ好ましい改革であるとしていた。 そして逆に外国人による支配は国体の失われた亡国の悲劇であると常に唱えていた。

また福澤は、国民国家として独立しかつ自国民の生活水準の向上に勉める国を尊重し、そうはしない国を軽くみる。 そればかりでなく文明政治の 6 条件の実現を阻害する政権は打倒されるべきでさえあった。 彼の外国評価はその政府が自国民の文明化にどれほど心をくだき、また同時に心身を国に捧げる報国の士がどれほどいるかということによって決定されているのである。 金玉均ら朝鮮の独立党を積極的に支援したのも、彼らが真の報国心をもつ有為の人材であり、いっぽう李氏朝鮮王国は変革されるべき君主専制国家であると見なしたからに他ならない。

ただそれまで想定されていなかった事態が朝鮮において現実となりつつあったことが、1885 年夏の時点での根本的問題なのであった。 甲申政変の成功による朝鮮維新の夢が潰え去り、事大党主導の政府は文明政治の実現を拒んでいる。 そうした時期にあって、福澤は、「朝鮮人」による政府の支配を受けるよりもむしろイギリスやロシアといった文明国の植民地にされるほうが当の「人民」にとって幸福な場合がある、と評さざるをえなくなったのである。

これはある場合には侵略が正当化できる、ということを意味するものではない。 文明政治を自らの手で行おうとしない不当な政権を他国が打倒したとしても、それがただちに非難されるべき侵略行為となるわけではない、ということなのである。 近くはカンボジアのポルポト派政権を倒したヴェトナム軍の行動などがこれににあてはまろう。

ようするに「朝鮮滅亡論」での主張は福澤の侵略性を示すのではなく、文明の政治は国家主権に優先する、ということを本意としていたのである。 その確信があってこそ、「朝鮮滅亡論」の末尾で福澤は、

「我輩は朝鮮の滅亡、其期遠からざるを察して、一応は政府のために之を弔し、顧みて其国民の為には之を賀せんと欲する者なり」(382 頁)

と述べたのであった。