誰が『尊王論』を書いたのか? その1

2013-01-23

1 『福沢諭吉の真実』の記述への意外な反響

拙著『福沢諭吉の真実』での『尊王論』への言及は次の2ヶ所である。第1の言及は、83頁5行目から12行目までである。

さらに、ややわき道にそれるが、井田メソッドに基づいて明治版所収論説の起筆者を判定したところ、明治版の段階ですでに社説記者が下書きを担当したものがあることが明らかとなった。それは八八年一〇月刊の『尊王論』である。なぜこの論説が福沢の真筆でないと考えられるかというと、それ以前の文章では使用が確認できない「臣民」が、本文第一行目で躊躇なく使われているからである。福沢はこうした場合「国民」か「国人」、または「人民」を用いる。さらに「天下万民」「日本人固有の性」という語彙から、クーデタ騒動の渦中に刊行されたこの『尊王論』の真の起草者は石河幹明であると判明した。福沢は石河の持ち込み原稿を添削し、自らの名前で出版したらしい。おそらく石河を懐柔するためであろう。

そして第2の言及は、152頁1行目から3行目までである。

福沢名義の天皇論には真筆の『帝室論』(八二・五)と、石河が起筆して福沢が手を入れた『尊王論』(八八・一〇)の二編があるが、いずれも国民統合のシンボルとしての天皇を尊重しつつ実際の政治は政府当局者が行うべきだ、という論調でまとめられている。

拙著で『尊王論』に触れているのはこの2ヶ所だけであるが、とくに物議を醸すとも何とも思っていなかったこの記述が意外な反響を呼んでしまったことに、正直言って戸惑いを覚えた。私としては、本を書くに当たって作成した判定表と照らし合わしてみて、<それは石河執筆と見なせる>、からそう書いたに過ぎないのだが、「はじめに」で触れた福沢にたいして批判的立場をとる人々は、そうは受け取らなかったようだ。つまり、<『尊王論』の執筆者が福沢ではない>、と述べることが、私の立論にとって好都合である、と解釈したわけである。

言わずもがなのことではあるが、私のように福沢を市民的自由主義者と見なす立場によっても、『尊王論』を書くこと自体は、何ら本来の主張を変更することにはならない。福沢が目指していたのは英国型立憲君主制であったのだから、君主と国民の関係をテーマとする著作が書かれるのはむしろ当然のことなのである。また、『尊王論』が署名著作として出版された以上、それが福沢の思想であることについて、私は完全に認めている。要するに福沢立案石河執筆のカテゴリーⅡだと言っているだけである。

さて、拙著の『尊王論』をめぐる記述について、最初に注目したのは米原謙であった。ネット上の書評であるが、その全文を引用する。

目下、話題の一書。何人かの人から批評を聞いて出張の飛行機のなかで読んだ。

主題は『福澤諭吉全集』(岩波書店)に収録された『時事新報』の論説に、福澤執筆ではない論文が多数収録されていることを論証すること。福澤門下の石河幹明が自己顕示と名誉欲から、意図的に自己の執筆したものを混入させたとされている。

『時事新報』に福澤執筆ではないものが含まれているのは、文体などから判断して間違いない事実だと思うが、本書では、下手な推理小説のように、善人と悪人が腑分けされている。本書の背景には、安川寿之輔『福澤諭吉のアジア認識』(高文研、2000年)にもとづく平山と安川の論争がある。安川は自著で『時事新報』論説などを中心に、福澤のアジア蔑視を徹底して糾弾した。平山の主張は、安川が論拠にした論説は福澤が執筆したものではないと批判することである。安川の本は、福澤の思想をアジア蔑視という道徳論に解消したもので、思想論としては取るに足りない。本書は安川の本と好一対で、比喩を使えば、真っ黒いカンバスを真っ白に塗り替えたもの。薄っぺらい福澤像を提出した点では、安川に劣らない。

福澤諭吉の著書には、「福澤諭吉立案、****筆記」と表紙に記されたものがたくさんある。たとえば『尊王論』は「福澤諭吉立案、石川半次郎筆記」である。平山は「クーデタ騒動の渦中(何のこと?)に刊行されたこの『尊王論』の真の起草者は石河幹明であると判明した」と述べているが、「臣民」という語を使っていることなどを根拠に、福澤の著作リストから都合の悪い書物を削除する(?)のではなく、たとえば『帝室論』(こちらは福澤諭吉立案、中上川彦次郎筆記)とどう違うかなど、もっと思想的レヴェルで議論をしないと、読むに足る福澤像は描けないだろう。〔2004.10.10〕

私としては、福沢の著作リストから都合の悪い書物を削除する気などまったくなかったのであるが、拙著が刊行された当初に強固に形作られてしまった予断が、こうした評価につながったと思う。

その予断については、まず第1に、版元の販売戦略が私の意を越えて石河幹明のイメージを悪くする方向性をもっていたことが、その形成に寄与していると考えられる。新書のような簡便な書物を購入しようとするとき、その判断の材料となるのは、まずはオビとカバー裏の説明文であろう。『福沢諭吉の真実』の場合、それは次のようなものだ。

  • 慶応義塾も福沢研究者も岩波書店も、
  • すべてが気づかなかった
  • 全集と伝記に仕掛けられた
  • 巧妙なトリック(オビ表)

現行の『福沢諭吉全集』は慶応義塾が編纂し、日本を代表する出版社岩波書店から刊行された。また、やはり岩波書店から出版された『福沢諭吉伝』も慶応義塾が企画したものである。つまり、両者とも福沢研究の基本的な資料として完璧なものと見える。現に福沢を評価するにしろ批判するにしろ、これらを用いない研究者は存在しない。

しかし、この全集と伝記は本当に信用できるのだろうか。両方にかかわったある人物、現在ではその履歴さえほとんど忘れられている石河幹明という人物の中にひっそりと燃えていた暗い情念が、偽りの福沢諭吉像を造りだしていたとしたら……。 (オビ裏)

日本の文明開化を先導した偉大な思想家福沢諭吉は、アジアを蔑視し中国大陸への侵略を肯定する文章をたくさん残している。それを理由に福沢を全否定しようとする動きも絶えない。確かに現在も刊行されている福沢の全集にはその種の文章が多数収録されている。しかし、それを書いたのは本当に福沢本人なのか。もし、誰かが福沢の作品ではないものを福沢の真筆と偽って全集にもぐりこませていたとしたら…。この巧妙な思想犯罪の犯人は一体誰なのか。 (カバー裏)

これらの文章を書いたのは私ではない。文藝春秋社新書編集部である。私自身刊行までまったく知らなかった。しかも、全文のテキストファイルで検索したのではっきりと言えるのだが、「トリック」も「情念」も「思想犯罪」も「犯人」も、私の本の中で1度も使われてはいない語彙なのである。井田メソッドによって、<これらの文章が平山によるものではない>、ということは証明できる、と思う。

米原へ予断を与えた第2の要素として、『福沢諭吉の真実』の刊行直前に毎日新聞社の取材を受けた飯田泰三が、日本政治思想・日本思想史の研究者30数名に宛てて発信したメールの果たした役割も大きかった、と個人的には推測している。

そのメールは、版元のセンセーショナルな商業主義を批判しつつ、そのことがかえって私の立論の信憑性を弱めていることを指摘し、さらに私の主張に一定の評価を与えながらも、最終的に石河「悪玉」説へと議論を集中させてしまったことが惜しまれる、としている。

拙著において私は「悪人」も「悪玉」も使っていない。これらの語彙はオビにもカバー裏にも出てこない。私は、全集編纂や伝記執筆にあたって石河は不誠実な仕事をした、と言っているだけである。ところが、このメールが、米原謙や竹田行之などのプロに向けられたものであったため、店頭に並ぶ前から、拙著のテーマは石河悪玉説である、という予断が多くの研究者に共有されることになった。

実際のところ、内容からいって石河悪玉説に相当する部分は、全5章のうち、第3章「検証・石河幹明は誠実な仕事をしたのか」の第5節「石河は何を基準として「時事論集」への採否を決めたのか」と、第4章「一九三二年の福沢諭吉」全体、および「おわりに」の一部の、合わせて80頁程度(本文230頁中)であって、書中にそればかりが書いてあるわけではないのである。

その他の部分は、無署名論説の作られ方を石河以外の関係者の証言によって構成したり、『福沢全集』へのそれらの採録はいかになされたかを調べたり、また「脱亜論」が有名になる過程を検証したりしたもので、とくに石河を扱っているわけではない。作者としてはこちらの方の調査の報告に力点を置いていたので、刊行後それらのことにあまり触れていただけなかったことにフラストレーションを覚えたものだ。

いったんイメージが固定化すると、その枠から逃れることは難しいようで、学会の懇親会などで、拙著が話題とされたときに、私が井田メソッドに基づいて無署名論説を選別し、その中の侵略的絶対主義的なものを石河に帰することで福沢の名誉回復を図った、という評価がくだされていることを知って驚いた。

そうなると私の著述の目的は、まず最初に福沢の名誉回復にあったことになってしまう。私は、確実な論説に基づくかぎり福沢は市民的自由主義者とみなされる、と言っているだけであって、それ以上でも以下でもない。もちろんこの場合の確実な論説の中に、問題なく『尊王論』は含まれているのである。

福沢の名誉回復のために『尊王論』を著作リストから削除しようとしている、ということをより強調することで、私の立論全般の信憑性に疑いを生じさせようとしているのが、安川寿之輔著『福沢諭吉の戦争論と天皇制論-新たな福沢美化論を批判する』(高文研刊・2006年07月)である。『福沢諭吉の真実』は新書版本文230頁であるが、この著作ではA5版本文370頁のうちじつに260頁ほどが拙著ただ1冊への批判にあてられている。そのうち『尊王論』の筆者認定については、17頁から19頁までと、102頁から118頁までが扱っているのであるが、19頁の最終段落に、安川が考えている私の企みともいうべきものが要約されているので、引用したい。

とりあえず、平山の『尊王論』認定の場合に即して説明しよう。平山は『尊王論』の「真の起筆者」が石河幹明であると認定することによって、「文章の拙な」弟子、石河の書いた「臣民」意識まるだしのお粗末な代作『尊王論』を、福沢先生は、あろうことか自分の名前で出版し、それを豪華上製本にまで仕立てて「人の上の人」に献上したり、さらには生前にその弟子の著作を、明治版『福沢全集』に自ら収載した(現代なら、それだけで職や地位を失墜する)破廉恥漢そのものであると、認定・主張していることになるのである。こういう行為を、日本では典型的な「贔屓の引き倒し」という(第Ⅰ章3)

『尊王論』はもともと福沢「立案」の著作として刊行されている。下書きが社説記者によるものだとしても、そのことには何らの問題もないのである。私の見解が「贔屓の引き倒し」などではないことは、『尊王論』出版までの経緯を述べた本稿後半部の記述によって、はっきりするであろう。

前置きはこれくらいにして、以下では、2において、『尊王論』の内容を紹介し、続く3ではその下書きを石河幹明が担当したことを証明する。さらに4と5では、1888年10月のクーデタ騒動の顛末を記す。そして6では、なぜこの『尊王論』が刊行されるにいたったかについて推測する。