『回顧七十年』 その25

last updated: 2013-01-23

日中戦争勃発

選挙の結果は政府の大敗北、選挙界の実状を知らざる軍部官僚の政府は、初めてその誤算に気づいたであろうが、時すでに遅し。 それでも何とか口実を設けて辞職を回避せんと欲し、再解散とか挙国一致とか、時局の認識とか、種々の宣伝を試みたれども、大勢は到底せき止めることは出来ずして、遂に、五月三十日、総辞職を余儀なくせられた。

翌六月一日、組閣の大命が近衛公に降下した。 公は前年二・二六事件に因く岡田内閣辞職の直後に一度大命を拝せたれたるも、病躯の故をもってこれを拝辞せられた。 今回は再度の大命であるから直ちに組閣に着手せられたが、相変らず軍部の勢力に牽制せられて自由手腕を振うことができず、政民両党よりおのおの一名の閣僚を採用したれども、これも政党員たる資格をもってするにあらずして、全く個人の資格であると声明した。 ずいぶん政党を軽蔑した仕打ちであるから、いやしくも政党員である以上は、このごとき勧誘は一蹴すベきはずであるが、かえって歓喜叩頭しこれに迎合し、また政党自体も平然としてこれを承認するところに政党の卑屈と無気力が現われている。 世間が政党の堕落を嘲罵するのは当然である。

このごとくにして近衛内閣は何ら国民的性質を有せず、一種の私的内閣として成立したれども、時局の関係と公自身に対する国民的声望とによりて、ひとまず政局は安定することを得た。

十二年七月七日、北支の一角において盧溝橋事件が突発した。 当初政府は現地解決、事件不拡大の方針を立てていたが、この方針は直ちに裏切られて事件は日に月に拡大して停止するところなく、遂に日支間の大事件となり、ひいて東亜全局より世界的の大事件となるまでに進展した。

七月二十三日、選挙後の第七十一特別議会が召集せられ、八月七日終了し、続いて九月七日、第七十二臨時議会が召集せられたが、いずれも事変中の議会であるから、挙国一致の態度をもって全部政府案に協賛を与えた。

九月九日、私は家族一同とともに初めて新家屋に移転した。 顧みれば私が明治二十二年初めて東京に来てから本年は四十九年目である。 その間学生中および鳩山法律事務所に食客弁護士としていた間は別として、独立の生活に入ってから四度住宅を移転したれども、いずれも借家であって、自分の家屋を所有したることがない。 これは家庭として確かに、不安の一であるから、新家屋の建築は私自身および家族にとってはずいぶん長年月の熱望であったが、一つには経済上の理由、また一つには適当の宅地を見出すことが出来なかったために、年一年と延び延びになっていた。 ところが今回図らずも隣の原家において特に私のために便利の宅地を分譲せらるることになったから、これを買い受け、昨年九月ある建築家に請負わしめ、ここに新築に取り掛り、約一年の後完成した。宅地、家屋ともに私にとりてはやや身分不相当の物であるが、すでに出来た以上は仕方ない。 多年の借家住居から脱れて初めて自己所有の家屋に移転し、万事便利であるとともに、何となく落着いたような心地がする。