徳富蘇峰の身代わりとしての福沢諭吉

last updated: 2018-12-28

このテキストについて

平山氏からの依頼により、2018年10月13日・14日に兵庫県神戸市神戸大学で開 催された日本思想史学会での発表「徳富蘇峰の身代わりとしての福沢諭吉」の発 表要旨と資料及び音声を、平山氏の了解のうえアップロー ドします。

なお、 「発表後苅部直東大法学部教授からの質問があり、質疑も大いに盛り上がりまし たが、 著作権の関係で割愛しないといけないのは残念です。なお、質疑の内容は 10月17日付安川寿之輔宛メールに載録されています。」とのコメントがあ りました。

発表要旨

福沢諭吉の思想が昭和六年(1931)勃発の満州事変以後の日本の国策に影響を与えたという主張は、安川寿之輔によってはじめて展開された。その骨子は、現行版全集の「時事新報論集」所収の社説と一九三〇年代の時局との類似性に基づいていたが、そもそも「時事新報論集」は、そう見えるように石河幹明によって編まれていたのである。

事実としては戦時期の代表的イデオローグは徳富蘇峰であった。『新日本の青年』(1887)で福沢批判者としてデビューした蘇峰は、「大東亜戦争」においても大日本言論報国会の会長として中心的言論人の地位を占めていた。その機関誌『言論報国』のモットーは「指導者の指導誌」というもので、言論人蘇峰による戦争指導が活動の目的だった。

昭和一九年(1944)三月、蘇峰は『言論報国』誌上で福沢を功利主義者・非愛国者として批判した。同年五月、慶應義塾長小泉信三は『三田新聞』紙上でその反論を公表したが、それは石河作の『福沢諭吉伝』(1932)と同編の『続福沢全集』(1933‐1934)に基づいていた。

戦後のGHQによる対応は日本の知識人の戦争責任に関して比較的甘いものであったが、大日本言論報国会だけは通常の文化統制団体とはみなされず、超国家主義・軍国主義の団体として解散を命じられた。また、その理事は公職追放令の対象とされ、蘇峰自身も一時はA級戦犯容疑者の通告をされている。

本発表は安川が描く「大東亜戦争」のイデオローグとしての福沢というのが、じつは蘇峰の幻影だったことを明らかにする。

資料

音声