「『福沢諭吉朝鮮・中国・台湾論集』の逐条的註」 その1
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1 . 4「第一章 対外論一般」に関して
(1) 10 頁 4 行目「解題」
福沢といえば何より『学問のすすめ』が有名であり、それについで『文明論の概略』や『西洋事情』が取り上げられるのが普通である。そしてほとんどそれに尽きている。だが、生涯を通してみた時、福沢にとって圧倒的に重要なのは、『時事新報』に掲載された論説群であると私には思われる。特にその対外論は、後半生を通じて福沢が取り組んだ最大の課題であった。それに比べれば、『学問のすすめ』や『西洋事情』は影が薄いとさえ言えるだろう。『文明論の概略』で扱われた「文明」論は福沢における一貫した主題であるとも言えるが、その具体的な現れこそ福沢の対外論であり、特に朝鮮・中国論であった。
上条の註
福沢直筆の朝鮮・中国・台湾論は、ほとんどない
福沢諭吉の全集は、福沢自身が編纂した明治版『福沢全集』(1898 年)、弟子の石河幹明による大正版『福沢全集』(1925,6 年)、同じく石河による昭和版『続福沢全集』(1933,4 年)」さらに石河の弟子である富田正文による現行版『福沢全集』(1958 ~ 64)の 4 種類がある。杉田が「『時事新報』に掲載された論説群」と呼んでいる社説集は、大正版以降に増補された無署名の、つまり福沢自身は自分の作とは認めていない論説群のことである。
そうした現行版所収の約 1500 編のうち、福沢本人による草稿が発見されているのは 2010 年末現在 92 編である。その 92 編のうち対外論に属するのは 15 編程度であるから、「福沢が取り組んだ最大の課題」と杉田がいう福沢の対外論は、確実なものは、現行版全集所収社説総数の 1 %に過ぎないわけである。
(2) 23 頁 3 行目「2 脱亜論(註)」(1885 年 3 月 16 日掲載)
「処分すべきのみ」(本文からの引用・平山註) 「割亜」もしくは「征亜」と呼びうるこの主張は、壬午政変後の社説にすでに明瞭である。「わが日本国は、その食む者の列に加わりて文明国人とともに良餌を求めん……猟者となりて兎・鹿を狩る云々」(「外交論」83 年 10 月⑨ 195 ~ 196)。
上条の註
杉田の引用は不正確である
「脱亜論」末尾近くにある「処分すべきのみ」という表現に付せられたこの註は不適切である。当時「処分」には「処罰」の意味はなく、「処理」という一般的な意味しかなかった。そのため、この部分に「割亜」や「征亜」の主張を読みとることはできない。
また、「外交論」からの引用も恣意的である。……や云々を除いて正しく引用するなら、
前節に云える如く、世界各国の相対峙するは禽獣の相食まんとするの勢にして、食むものは文明の国人にして食まるるものは不文の国とあれば、わが日本国はその食む者の列に加わりて文明国人と共に良餌を求めんか、数十年来、遂に振わざる亜細亜の古国と伍を成し共に古風を守て文明国人に食まれんか、猟者となりて兎・鹿を狩るか、兎・鹿となりて猟者に狩らるるか、二者その一に決せざるべからず。
となっていて、読者に二者択一を迫っている部分なのである。「求めん」ではなく、「求めんか」という問いかけで、福沢の主張ではない。
(3) 31 頁 3 行目「4 一大英断を要す(本文・ 1)」(1892 年 7 月 19 日掲載)
かつて、これを聞く。明治の初年に大政一に帰して、奥羽・箱館の戦争もすでに平定し、諸藩の兵隊はいずれも東京に集まりたるに、この兵隊は互いに組織を異にするのみならず、その主義・思想も銘々に異にして、ややもすれば互いにあい争わんとするの勢いあり。その始末は、当局者の最も苦心したるところなるが、時の参議・木戸準一郎〔孝允〕氏はここに一策を案じ、「いやしくも政府の兵隊がかかるありさまにては、護国の用をなさざるのみか、あたかも三〇〇の敵国を一営の下に雑居せしむると同様にして、いかなる禍変も図るべからず。その変を予防せんとするには、兵隊の矛を外に向けてその思想を一に集むるのほかに、策あるべからず。外に向けるとあれば、その方向はとりあえず朝鮮なり。朝鮮、罪なしといえども、内の治安のためには換えがたし。ただ熟考すべきは外戦に要するの費用の一点なり」とて、当時、兵部の大輔なりし大村益次郎氏に相談せしに、大村もこれに賛成し、試みに計算するに、「その費用は一年三〇万円にして可なり。政府もし征韓費として年々三〇万円ずつを支出すれば、戦争は年々かならず三〇万円ずつを戦うべし」とて、内々その計画の折りがら、大勢一変して廃藩置県となり、ついで兵制改革の挙もありて、その計画は立ち消えとなりしかども、木戸がこの案を提出したるは、維新後怱々の〔あわただしい〕時にして、西郷翁等の征韓論に先だつこと数年前なりしという。
上条の註
「一大英断を要す」本文には初歩的間違いがある
これは、国内の不調和を解消する方法としての朝鮮政略を正当化するための導入部として置かれたエピソードであるが、「一大英断を要す」がもし福沢の真筆であるとすると、不自然な点がある。大村と福沢は、安政元(1854)年 9 月頃に長崎で知り合って以来、大村が襲撃される明治 2(1869)年 9 月(死去 11 月)まで 15 年の間親交があった。明治維新直後の慶應 4(1868)年 5 月には、福沢は大村から新政府への参加を招聘されているほどである。
このように福沢と大村は相当に親しかったのに、この部分には初歩的な間違いがある。すなわち、大村が兵部大輔だったのは、明治 2 年 7 月から亡くなる 11 月までの 5 ヶ月間であるのに対し、木戸孝允が参議だったのは、明治 3 年 6 月から断続的に 10 年までだから、木戸参議と大村兵部大輔の会話というのはそもそもありえない、ということである。このように、「かつて、これを聞く」について、聞いたのが福沢本人だとすると違和感があるのだが、本社説の起筆者と推測できる石河が福沢から聞いたということなら、合点がいく。
(4) 31 頁 18 行目「4 一大英断を要す(本文・ 2)」(1892 年 7 月 19 日掲載)
そもそも内の人心を一致せしむるために外に対して事端を開くは、政治家の時に行うところの政略にして、西洋諸国にその例あるのみならず、現に明治七年〔 74 年〕の台湾征討のごときは、すなわちこの意味の政略にほかならずして、しかもその目的を達したるものと言うべし。目下、内国の政治社会は前述のごとくにして、このままに一任してとうてい救治の目的なき以上は、たとい戦端を開かざるまでも、社会一般の耳目を外に転じて、内の人心を一致せしむるのほかに、策あるべからず。我輩はあえて奇言を放って、人を驚かさんとするにあらず。目下の政略として、対外策のやむをえざるを信ずるものなり。あるいは人心を外に転ぜしむるの方便としては、南洋諸島に植民地を開くの策もなきにあらず。その策あえて不可なるにあらざれども、植民の事業はあまりに尋常の計画にして、一時に人心を転じて内の紛争を忘れしむるの効果少なかるべきがゆえに、我輩はやはり木戸氏のひそみにならうて、朝鮮政略を主張せざるをえず。
上条の註
1 .福沢が木戸の「ひそみにならう」のは奇妙である
福沢諭吉と木戸孝允の年齢差は 1 歳にすぎない。通常「ひそみにならう」というのは、自分よりもはるかに上位の人の仕草を真似る、ということではなかろうか。福沢は薩摩に拾ってもらったことで名誉回復を果たした長州系の藩閥政治家を自分より格下と見なしていたので、その点からいって変な表現である。
また、前条(3)の末尾にある西郷翁という表記についても、福沢と西郷隆盛の年齢差が 7 歳ということから、私には不自然に感じられる。福沢は西郷を尊敬していて、大西郷と呼ぶのが普通であったこともある。また、西南戦争についても、親戚で慶應義塾出身の増田宋太郎が中津隊を率いて参戦、戦後政府軍によって死刑に処されたこともあって、ただの騒乱とは捉えていなかった。福沢にとって西南戦争は、アメリカ合衆国の南北戦争に相当するもので、その南軍にあたる西郷軍の道義的な劣位を意味するものでもなかったのである。その観点からいうと、本社説中の「西南の暴動」や「西郷の騒動」という呼び方にも違和感を覚える。
2 .「一大英断を要す」発表時、福沢は神奈川県国府津にいた
それはさておき、「一大英断を要す」のこの部分は、重大な問題をはらんでいる。それはすなわち、それまで福沢が言っていたことと明確に異なることが書かれていることである。杉田も本社説の註(37 頁 19 行目)に、それまでの福沢が、政府寄りの建前論を前面に出していたのに、ここでは本音をあからさまに述べている、と書いている。
実際、明治 7 年当時の台湾出兵についての代表的論説「アジア諸国との和戦はわが栄辱に関するなきの説」と真逆のことが主張されていて、本社説が本物ならば、人間はここまで変わるものなのか、という印象の社説である。これでこの主張が後年の福沢において貫徹されるなら、要するに福沢は変わった、というただそれだけのことになるのだが、実際は、本社説の後にも「アジア諸国との和戦…」と同じ非侵略論を唱えた真筆社説「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」を発表しているのである。
この社説は、「東洋の政略…」と同じく大正版全集に初めて収録され、石河の『福沢諭吉伝』で重要な位置を占めている論説である。そして福沢自身による言及がまったくない点でも「東洋の政略…」と同じである。この社説が掲載された明治 25(1892)年 7 月頃の福沢の動向については、「(京都から山陽地方旅行から)帰京後の六月中旬からは二二歳の次女ふさが肋膜炎となったためその看病を一月余りもし、さらにふさの転地療養もかねて七月下旬から八月下旬まで神奈川県国府津の保養施設松濤園で休養していた」(『福沢諭吉の真実』99頁)のであった。