「『福沢諭吉朝鮮・中国・台湾論集』の逐条的註」 その4

last updated: 2013-10-28

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1・7「第二章 朝鮮・中国論 ウ、日清戦争」に関して

(9)208頁12行目「日本臣民の覚悟(註)」(1894年8月28日掲載)

「攘夷論の盛んなる時代…同意したることなし」(社説本文からの引用・平山註) 本社説を福沢の手がほとんど入っていないと評する「学者」がいるが(井田35、平山97)、若い社説記者が、自らはほとんどあずかり知らぬ、幕末における福沢の攘夷論に対する内面的な姿勢まで、まるで見てきたように書けるなどということが、本当にありうると両者は思っているのだろうか(→本書解説340~341頁)。

上条の註

石河幹明は従兄弟を水戸攘夷派に殺されていた

本社説の起筆者として私が想定するのは、元水戸藩士の倅石河幹明である。幹明は維新時10歳で、幕末に自分を取り巻く状況を十分に理解できる年齢だった。徳川斉昭を藩主に擁立した石河徳五郎の直孫であるが、徳五郎の息子に明善(幹修)という有名な水戸学者がいた。この幹明の叔父は、桜田門外の変の後、開国政策をとる幕府を支持して、変の首謀者たち(攘夷派、天狗党ともいう)の追及を藩上層部に進言している。その後起こった攘夷派の反乱(天狗党の乱)は明善ら佐幕派の勝利に帰したが、その最中に明善は息子(幹明にとっての従兄弟)を攘夷派によって殺害されている。ところが明治維新によって攘夷派は復権、明善は捕らえられて明治元(1868)年に獄死した。

このような幹明の個人的経験にかんがみて、「攘夷論の盛んなる時代にも、我輩は、身を危うしてこれに同意したることなし」と述べるのは当然のことだし、さらには彼が福沢に仮託して本社説全体を執筆することも十分に可能だったと考える。

(10)209頁7行目「日本臣民の覚悟(註)」(1894年8月28日掲載)

「臣民」(本文からの引用・平山註) この言葉を福沢が使い始めたのは、『帝室論』(82年)である(⑤276、萌芽としては79年の『通俗国権論二編』においても使われている)。これは『時事新報』創刊間もない82年の4月から5月にかけて連載された社説であり、同年5月に直ちに出版されている。また、82年当時の最も包括的な対外論である11番「東洋の政略…」においては、「臣民」そのものはないが、『帝室論』で何度も用いられていた「臣子」(⑤261その他)が使われている。「日本国中の人は悉皆〔ことごとく〕天皇陛下の臣子にして云々」、「悉皆良民にして天皇陛下の臣子なれば」等(82年12月12日⑧441、当該部分未収録)。また「徳教之説」(83年11月)でも「臣民」が使われているし(⑨289)」、17番「ご親征の準備いかん」(85年1月)では「臣子」が(他に「君臣」も)使われていた(→126、128頁)。なお、社主福沢が率いる『時事新報』紙上ではしばしば「臣民」が見られる。93年9月12日以降、第一面に時事新報社による広告「今生皇帝御真影・皇后宮御真影」が五回掲載されるが、その本文中に「いやしくも帝国臣民たる者は謹んでこれを掲載して旦夕礼拝、至誠至敬の意を尽くし、無量の御誠徳を仰ぎ奉らんと希望に堪えざるなり」とある。94年7月、時事新報社は同社製「韓地夜営」なるものの販売広告を何度も掲載しているが、そこにも「帝国臣民は一枚を贖うて永く座右に保存し、忠勇の気象を養うべし」という文字が見える。時事新報社が発案した「表誠義金」(→214頁の同名の注)の広告では、94年8月以降、三ヶ月ほどの間、ほとんど毎号において(しかも非常にしばしば一面ないし二面において)、「全国の臣民……帝国の臣民……家に在るの臣民」に寄付を(「表誠義金募集」⑲805以下)、と呼びかけている。また福沢自身も、軍資集めのための「報告(ママ)会」結成時の演説で「下界臣子の微意云々」と論じている(「明治二七年〔94年〕八月軍資拠集相談会における演説」⑲719)。『時事新報』を子細めくれば、「臣民」「臣子」は無数に見つかるであろう。ところで井田進也・平山洋は福沢が「臣民」を使うはずがないと考え、本社説はもちろん福沢が署名入りで出版した『尊王論』(88年)まで、福沢とほとんど無関係(社説記者・石河幹明の起草)と主張したが(井田35・平山83)、これがいかにばかげているかは以上から明らかだろう。

上条の註

1.福沢自身による「臣民」の用例はわずかである

この註で杉田が示しているように、福沢自身による「臣民」の使用例は、ごくわずかである。杉田が無数に見つかると言っているのは新聞紙面上についてで、福沢自身の文中においてではない。杉田は福沢個人と法人時事新報社を意図的に同一視しているが、それは間違いである。新聞紙面は公的なものだから、明治22(1889)年に「大日本帝国憲法」が発布され、その中で国民が「臣民」とされて以降、公にはそのように表記することを義務づけられていた。

では、福沢自身としてはどうか、といえば、「臣民」という言葉はもちろん知っていたが、確認できる限り『文明論之概略 』(1875年)以降、ごく例外的にやむを得ず使用したほかは、依然として「国民」「国人」「人民」を使い続けていたのである。つまり、杉田が調べ上げたように、起筆者が社説記者と推定できる怪しげな社説を含めても、これだけしかない、のである。

2.日清戦争中の福沢に「臣民」の用例なし

念のため明治27(1894)年から翌年にかけての日清戦争期の確実に福沢の執筆と分かっている原稿残存社説・書簡・署名入り意見広告および演説での臣民・臣子と国民・国人の使用例を挙げてみる。

この両年の原稿残存社説は10編である。「衆議院又々解散」(94年6月3日)では国民2回、人民3回。「計画の密ならんよりも着手の迅速を願ふ」(6月6日)、「国立銀行」(6月22日)には使用例なし。「兵力を用るの必要」(7月4日)、人民2回、平民1回。「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」(7月5日)では、国人3回、国民1回。「改革の着手は猶予す可らず」(7月6日)では、国人3回、人民1回。「朝鮮の改革に因循す可らず」(9月7日)では、国人4回、国民1回。「財政の急用」(11月14日)では、国人2回、人民4回。「長崎造船所」(95年4月6日)には使用例なし。「勤倹は中人以上の事に非ず」では国民1回、人民1回。10編全体でいうと、国民5回、国人12回、人民11回、平民1回、そして臣民には1回の使用例もない。

明治27、28両年に書かれた書簡は『福澤諭吉書簡集』(岩波書店)によれば、一八一三番から二〇〇五番までの193通である。国民・人民の用例としては、開戦直後の7月30日に、三井や岩崎、渋沢らと連名で国内の有力者に出した手紙に「我々国民の義務として、軍資拠集の手配り肝要の事」(一八五四番)、また8月8日の梅田才三郎宛書簡には「国民一般、都て私を忘れて国に報するの時」(一八五七番)、8月9日の曾木円治宛「国民の分として黙視する場合に無之」(一八五八番)、8月26日の戸田春三他宛「唯国民の誠意誠心を表するのみ」(一八六五番)、9月8日の静浦字志下村若者中宛「国民軍の催しもある可し」(一八六八番)、10月5日の鏑木誠宛「四千万之人民ハ四千万之骨肉ニ異ならず」(一八八一番)、明治28年1月17日の山口広江宛「国民が真実赤裸ニなるまで」(一九〇七番)が全部であるようだ。ほかに、戦場の軍人を忠臣に例えた、「一命をさへ棄る忠臣」(一八九六番)が、明治27年12月14日(赤穂浪士討ち入りの日付)の長姉小田部礼宛書簡にある。つまり193通中に臣民の用例は1回もない。

草稿は残っていないものの、署名入りで掲載された「私金義捐について」(94年8月14日)は、本論集にも収録されている。国民5回、国人(英国人などは除く)1回、そして、「英国の臣民」の用例が1回ある。日本人については、「ただ日本国民なるがゆえに」とか、「われわれ日本国民が外に対して」とか、「今回の義捐は国民の本分・義務」とか、分脈上臣民が使われていてもおかしくないところでさえ、一貫して国民が使われている。福沢は本当に臣民という言葉が嫌いだったようである。

さて、演説はこの両年に12回記録されている。時事新報に掲載されているのはそのうち5回である。明治28年3月24日の演説は、4月7日の社説欄に「国民の体格、配偶の選択」として掲載されていて、国人2回、国民1回、8月1日の「明治二十七年八月軍資拠集相談会に於ける演説」は8月3日に掲載されていて、国民5回、人民2回、臣子1回である。上条で「軍資集めのための「報告(ママ)会」結成時の演説で「下界臣子の微意云々」と論じている」というのは、この臣子唯一の用例であるわけだが、10編の原稿残存社説、193通の書簡、5回の演説筆記のうちで、たったこれしかない、というのは奇妙な感じがする。あるいは紳士のつもりでの発言だったのかもしれない。

以上をまとめれば、戦時中の福沢のものとはっきり分かっている社説10編・書簡193通・意見広告1回・演説筆記5回において、臣民は英国臣民として1回だけ、臣子も1回だけしか使われていない。これで福沢は臣民という言葉を意図して使わないようにしていた、という事実は確認できたわけである。

作中で臣民が重要な意味を帯びて使われている「日本臣民の覚悟」が石河の起草であることは証明できたと思う。『福沢諭吉伝』で石河は「日本臣民の覚悟」を重要な論説と位置づけているが、福沢本人は一度もこの社説に言及していない。なお、上条中で触れられている『尊王論』については、「誰が『尊王論』を書いたのか?」を参照していただきたい。