「『福沢諭吉朝鮮・中国・台湾論集』の逐条的註」 その7

last updated: 2015-03-13

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1 ・ 10  「あとがき」に関して

(30)397 頁 13 行目「あとがき(1)」

井田・平山の研究方法のずさんさ(特に後者の)については、「解説」でかなりページを使って批判したが、さらに言うべきことは多々ある。幸い「あとがき」を書く余白が得られたので一点だけ付け加えれば、例えば平山は、一八九八年九月に福沢が脳卒中で倒れて以降、『時事新報』紙上に公表された論説に福沢は一切関わっていない(同 146)、「大病後は失語症だった福沢が『福沢諭吉伝』では話をしている」(同 141)などと、多くの証言をまともな理由を示さないまま一蹴し、文字通り針小棒大なやり方で(しかも存在さえ確認できない典拠を持ち出すことで)上記のように結論づけているが、これらの、ほとんど臆断ーーむしろ肥大した妄想ーーにもとづく主張が、学問の下になされたという事実に、暗澹たる気持ちを抱かざるをない。

上条の註

1 .福沢の失語は、『福沢諭吉伝』にも明記されている

福沢が脳卒中の発作後、言葉を失ったことは以下の通り石河の『福沢諭吉伝』にも明記されている。

先生は病気の回復に従い四肢の運動は自由になり精神には何等の故障もなかった。ただ一時言葉や文字を忘れられたことは著しいもので、家人を呼ばるるにも其名が口に出ず、他人の名をいうときには、例えば松山棟庵のことを「坊主」(「医者坊主」という言葉から混同せられたのであろう)といい、朝吹英二のことを「元気のよい男」といい、又長沼事件を思い出されたのか頻りに「ナ、ナ」といわれるので、侍者が其意を察し「長沼事件のことですか」と問返すと、「そうだ」と頷かれたというような次第で、人名や地名をいい出さるることが最も困難であった。(第 4 巻 299 ~ 300 頁)

伝記にはこの後に、従来までの定説となっている、懸命のリハビリによって回復したかのような証言が記されていて、確たる証拠もなく話せるようになったのではないか、という印象が出来上がっている。上記引用部にある長沼事件とは、千葉県印旛郡長沼村の水騒動の調停に福沢が一役買った話で、上条で杉田が「存在さえ確認できない典拠」と書いているのは、その事件に関する鎌田栄吉塾長の講演のことと思われる。その部分を『福沢諭吉の真実』から引用する。

福沢がかかっていた失語症については、塾長の鎌田栄吉が一九一五年の講演の中で具体的に触れている。

明治三十二年官有土地下戻法の発布あり、時恰も先生は脳溢血症を発し失語症に罹りしも、猶長沼を忘れず手真似を以て家人、門生等に其意を通じつゝ、申請書を其筋に提出せしめ、又双方の委員を東京の交詢社に会し、門生をして誠意斡旋する所あらしめしかば、宝荒両村も翻然、主義を放棄し、当局も亦此円満なる解決に顧みて翌年三月二十九日長沼を長沼村に還付せり。(西川俊作・松崎欣一編『福沢諭吉論の百年』三一頁)

千葉県印旛郡長沼村支配の長沼は廃藩置県以後国に接収されていたのであったが、福沢は村民の要望を受けてその回復運動に取り組んでいたのであった。ここで引用したのは、問題解決後沼のほとりに建てられることになった記念碑の草案の一部を講演の中で鎌田が読み上げたものである。なお失語症のくだりは一九一八年に建立された記念碑の本文からは削除されているため、管見のかぎりこの引用文が福沢の失語症の症状に触れた唯一の文献となっている。

大病後の福沢が外界の諸事について正しく把握していたことは確かだが、自らの考えを正確に伝えるための言葉をもっていたかどうかとなるとはなはだ疑わしい。九九年夏頃の福沢は「手真似を以て家人、門生等に其意を通じ」るのが精一杯だったのではないか。最初の発作から亡くなるまでの二八ヶ月の間に慶応義塾関係の会合に出席した記録は多く残されているものの、同時期の福沢が語った言葉は存在しない。三田演説会に出席したといっても、そこで演説したわけではなく、ただ坐っていただけだったのである。(以上『福沢諭吉の真実』 139 ~ 140 頁)

脳卒中の後遺症としての失語症は、機能的障害ではなく脳細胞の損壊による症状であるため、一定以上の回復は見込めない。もとより痴呆などではないので外的世界への認識は保たれていて、身振り手振りで簡単な意思疎通は可能である。筆記については、文章の形でまとまったメッセージを作ることはできない。

ただし、何かの手本を下敷きにすれば、それを書き写すことはできる。脳卒中の発作後にも短い手紙や書道作品が残されているため、文章も書けるようになったのでないかと期待してしまうが、それはかなりな希望的観測である。口が不自由なら、なおさら社説の原案メモのようなものが残されていなければならないはずだが、そうしたメモ類は一切残されていない。いわゆる大病後の 77 編が福沢によるどのような指示に基づいて書かれたのか、まったく不明なのである。

杉田は、失語症発症の証拠が足りないというが、決定的な証言をしているのが晩年の福沢に近侍していたほかならぬ慶應塾長だったということは重要である。肉親や弟子にとって、「晩年の福沢は失語症でなかった」と証言する動機はあるが、失語症ではなかったのに「失語症だった」と公言する動機などあろうはずもない。そうなると、数としては少ないとしても、この愛弟子による「失語症だった」という証言は信憑性が高いと見るべきなのである。

2 .大患以後の社説に、福沢は関与していないー『福沢諭吉の真実』より

それから、上条中の「例えば平山は、一八九八年九月に福沢が脳卒中で倒れて以降、『時事新報』紙上に公表された論説に福沢は一切関わっていない(同 146)」とある部分も、無根拠に述べているわけではない。そう解釈しなければおかしい理由もきちんと示している。以下で『福沢諭吉の真実』の当該部分を引用する。

脳卒中の発作以後に発表された論説の執筆者は全て石河

さらに加えて一九三三年の石河にとっては、この福沢の発作から死去までの期間はますます重要であった。福沢の全集の中に自らの論説をより多く入れる絶好の機会となるからである。

現行版『全集』に掲載されている大病後の論説は、発病五ヶ月後の九九年二月一五日に掲載された「差当り遊郭の始末を如何」から没後一〇ヶ月後の「平素の注意大切なり」(一九〇一・一一・二〇)まで七七篇ある。その中には大正版には収められていないにもかかわらず『福沢諭吉伝』では重要視されている「国の為めに戦死者に謝す」(一九〇〇・六・二一)が含まれている。北清事変での戦死者を悼む文章であるが、その引用の前に「先生は各国の連合艦隊が陸戦隊を以て太沽の砲台を占領したとき、日本兵が死傷を顧みず先登第一の功名を立てたといふことを聞いて非常に喜ばれ、著者をして左の一文を草せしめられた」(④七九一頁)とある。それは次の一節を含んでいる。

思ふに日清戦争は我国空前の一大外戦にして、連戦連勝、大に日本の威武を揚げ、世界に名声の嘖々たるを致したれども、支那兵の如き、恰も半死の病人にして、之と戦うて勝ちたりとて固より誇るに足らず。日本人の心に於ては本来対等の敵と認めず、実は豚狩の積りにて之を遇したる程の次第なれば、外国の評判に対しても密に汗顔の至りに堪へず。(現行版『全集』第一六巻六二一頁)

この社説も含め昭和版にはいずれも福沢の指示によって石河が起筆した旨が注記されているが、これは明白な虚偽である。発作後初めて筆を執ったのは姉の鐘宛の書簡(一八九九・八・三)であることは確実なので、九九年二月一五日から七月二七日にかけて掲載された二二編は、口も利けず字も書けなかった福沢から指示を受けて起筆されたことになるからである。

もちろんそんな馬鹿げたことがあり得るはずはない。要するにこれら七七編は、純粋に石河が書いた、福沢とは何の縁もゆかりもない諸論説であったのである。福沢は対戦国の兵士を豚呼ばわりしたことはなかったにもかかわらず、先の引用にあるような石河の差別的な言辞は、第二次世界大戦後半世紀以上を経た現在に至って、福沢の名をおとしめるのに大きな役割を果たしている。

二月一五日までの発作後五ヶ月の空白期間がいかにももっともらしいが、それは石河の策略なのであった。次節では福沢大病後の七七編と、石河が昭和版にわざわざ掲載した大逆事件関連の論説一〇編を検討することで思想家としての石河幹明に迫りたい。(以上『福沢諭吉の真実』 145 ~ 146 頁)

脳卒中の発作回復期の福沢が残した筆跡は、リハビリのための手習いの反古にいたるまで、多くが今日まで伝わっている。しかし、その中に時事新報社説病後 77 編の草案は含まれていない。石河がそれらの意を授けられたとするなら、彼はそれらの草案を時事新報社に持ち帰り、参考にしつつ社説を起草し、その後廃棄したことになる。福沢が元気だった頃のメモ類さえ多く保存していた石河が最晩年の貴重な肉筆をそのように粗略に扱うものだろうか。

3 .日清戦争から福沢死去までの社説記者は『福沢諭吉伝』完成までに全滅ー『福沢諭吉の真実』より

福沢が病後 77 編に係わらなかった証拠など発見されるはずもないから、「福沢先生の意を受けた」という石河の証言をどこまでも信じる立場は、当然あり得る。とはいえ、石河以外に「福沢がそれらに関与した」と証言した者はいない、とは断言できる。それは次のような事情による。

石河と『時事新報』のその後

石河が伝記と全集の編纂をしていた一二年の間に、福沢存命中の『時事新報』を知る人々は次々鬼籍に入っていった。一九二七年一二月、もっとも若い社説記者であった堀江帰一慶大教授が六一歳で亡くなった。翌二八年四月に総編集を務めていた伊藤欽亮が七二歳で、二九年九月には波多野承五郎が七一歳で、また三〇年一二月には北川礼弼が六九歳で相次いで死去した。すなわち、日清戦争当時の時事新報社内をよく知る伊藤と北川の両人が世を去った直後に、『福沢諭吉伝』と『続福沢全集』は刊行されているのである。

石河がそれらの出版のタイミングを図っていた、と推測するのはいくら何でもうがちすぎかもしれない。とはいえ、伊藤と北川ならば伝記第三巻の記述が妥当であるかどうか、昭和版で選択されている社説や漫言が適正かどうかを判断することができたのである。逆にいえば、この二人が物故したことで、石河は伝記の記述と社説などの選択についてフリーハンドを獲得したのであった。一九三四年にこれら二つの編纂物の刊行が完結した時点で存命だったのは高橋義雄と菊池武徳だけとなっていたが、二人とも日清戦争時には退社していたため、伝記に戦時中の編集部をどのように描いたとしても、またどの社説や漫言を選んでもクレームのつく気遣いはなかった。

(『福沢諭吉の真実』 187 ~ 188 頁)

上記引用部では触れていないが、明治 29(1896)年 7 月以来父諭吉を継いで時事新報社社長だった福沢捨次郎もまた、大正 15(1926)11 月に死去している。つまり、日清戦争以後時事新報社説に係わった人は、石河を除いて、大正版全集の刊行から『福沢諭吉伝』(1932 年)と続全集(1933 、 4 年)の刊行の前までに全員死去していたのである。先にも述べたように、大正版全集「時事論集」の 224 編の社説のうち、14 編には個別に石河執筆の但し書きが付けられていた。

そうしなければならなかった理由は、大正末年の段階では存命だった福沢捨次郎・伊藤欽亮・北川礼弼・堀江帰一のいずれかがそれらが石河の執筆であると知っていたからにほかならない。一方昭和版続全集「時事論集」1246 編には、病後 77 編を除いて個々の社説には石河執筆の印はなく、「附記」で大部分は自分が執筆した、とちらりと触れているだけなのは、当時のことを知る者はいなくなったからということになる。

4 .病後 77 編に石河執筆と注記されている理由

そうなると、病後 77 編にわざわざ石河執筆と注記されているのは、続全集編纂の時点では未だ存命だった誰かが、但し書きなしでは不審と感じるに違いない、という予想があってのことと思われる。福沢の発作発症は明治 31(1898)年 9 月 26 日午後 2 時頃で、以後は自宅(現在の慶應大学三田構内)で療養し、11 月 14 日に初めて戸外に出ている。身体の回復は順調で、12 月 12 日には近所の芝紅葉館で開催された病気快復の会(65 歳誕生会も兼ねる)に出席している。

病後 77 編の最初のものは、明治 32(1899)年 2 月 15 日掲載の「差当り遊郭の始末を如何」であるが、同年 8 月 3 日までは何も書けなかったのは確実なので、福沢が自ら立案したとは到底信じることができない。これは石河が福沢邸を見舞った日付と関係があるのではないか。というのも、翌 2 月 16 日が、発作前の前年 7 月 1 日以来半年以上もの長期連載を続けていた『福翁自伝』の最終日に当たっていて、その挨拶のため三田まで出向いた可能性が高いからである。

発作前の福沢は健康だったので、できる限り自宅ではなく南鍋町の交詢社まで出社して、そこで来客と応対していた。時事新報社は交詢社と隣接して建てられており、福沢は交詢社から新聞社にすぐに移動することができた。続全集所収の社説について執筆指導を受けたと石河が主張できたのはそのせいである。しかし病後の福沢は基本的に自宅で療養をしていたため、石河は見舞いに行った日にしか社説案を授けられないことになる。しかも続全集編纂時に時事新報関係者はすでに死に絶えていたが、諭吉病床時に三田の自宅にいた骨肉は長男一太郎初めまだ多数が存命であった。そうした人々の記憶にも配慮しつつ採録されたのが、病後 77 編だったと思われる。

5 .病後 77 編を福沢立案としなければならなかった理由

このように、福沢が病後にも社説に係わった可能性は、限りなく低い。にもかかわらず石河がこのように大量の自身の社説を続全集に入れたのは、自分の文章を多く残したかった、ということもあるだろうが、それ以上にその中に、『福沢諭吉伝』の立論のために欠かすことのできない社説が含まれていたから、と私は推測する。それは、明治 33(1900)年の北清事変で戦死した日本軍人を讃えた「国の為めに戦死者に謝す」(1900 年 6 月 21 日掲載)である。この社説は、「旅順虐殺無稽の流言」と同様、まず『福沢諭吉伝』で重要な社説として紹介され、次いで続全集に収録されたものである。内容は清国兵を豚呼ばわりしたひどい代物で、安川寿之輔も『福沢諭吉のアジア認識』(2000 年 12 月・高文研刊)で本社説をアジア蔑視・対外強硬策を表すものとして批判している(同書 243 頁)。福沢の思想ではなく、石河のそれとしてなら、私もまったく同感である。

石河がこの社説をどうしても残したかったのは、それが北清事変当時それが喝采をもって迎えられたという記憶があったのと、満州事変直後の戦時局にあって再び『福沢諭吉伝』で紹介すれば、満州事変で「国の為めに戦死者に謝す」と読者に理解されることで、自らの福沢伝の世評がより一層高まるという目論見があってのことと思われる。第 2 次世界大戦によって価値観が一変したため、今日ではそれはちょうど逆に作用しているわけだが、当時の石河はそう思ったはずである。

ここで不審なのは、杉田が本論集にこの「国の為めに戦死者に謝す」を収めていないことである。石河執筆と明記されている点で資格は「旅順虐殺無稽の流言」と同等で、北清事変という新たな状況に際して書かれているのだから、内容上の重複はないのである。もとより、時事新報社説はどれも福沢の思想だ、という杉田の立場からは、たとえ石河執筆であろうとも、この社説を採録する妨げとはならないはずである。

なぜ「国の為めに戦死者に謝す」は、杉田聡編『福沢諭吉 朝鮮・中国・台湾論集』に収められていないのか?それは、杉田は口では「時事新報のどの社説でも福沢の思想の体現である」と主張しながら、内心では「石河と福沢では考えに違いがあるのではないか」と疑っているためである。つまり、杉田は、本論集の社説選択にあたって、半ば私の主張に賛同していることになる。

(31)398 頁 3 行目「あとがき(2)」

こうした擬似学問を、福沢の専門家・日本思想史の研究者がまともに取り上げないのは、ある意味で当然であろうが(唯一の例外は安川寿之輔『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』)、しかしそうやって擬似学問を放置すると、それがいつの間にかマスコミの話題となり、論壇に浸透し、結局世間に流布してしまうことを、私は恐れる。その危険をいみじくも示したのが、評論家・佐高信の『福沢諭吉伝説』だが、管見ではこの擬似学問の影響は、他にも目立たぬ形で及んでいる。福沢専門家はもちろん日本思想史の研究者は、井田および平山の説を、そしてそれに対する私の批判を虚心に検討するよう、強く望む。井田・平山が行ったのは擬似学問であっても、それ自体、学問的な検討の対象としなければならない。学問は真理の探究を通じて歴史・社会に奉仕するべきだが、擬似学問を放置すれば歴史は偽造され、社会は再び誤った道を歩ませられるであろう。

上条の註

1 .研究者の多くが『福沢諭吉の真実』に触れているー伊藤之雄・井上章一・谷沢永一の場合

私の研究を、「福沢の専門家・日本思想史の研究者がまともに取り上げない」というのは明白な虚偽である。刊行直後には、伊藤之雄京都大学法学部教授の書評「『福沢諭吉の真実』の迫力」(『本の話』 2004 年 9 月号・文藝春秋社)が出されているし、日本経済新聞 10 月 28 日号では井上章一国際日本文化研究センター教授による「目利きが選ぶ今週の 3 冊」の一冊に選ばれている。また、『 Vioce!』 11 月号には谷沢永一関西大学名誉教授の「偽装」が発表されている。いずれもが『福沢諭吉の真実』を高く評価している。

なお私としては評者の肩書きなどどうでもよいと思っていて、同時期に高評してくださった小高賢塩田潮宮崎哲弥原田泰東谷暁らが何かの点で「教授」たちより劣るとは考えていないが、そうした価値観に捉われている杉田への反論であるため、以下ではアカデミズムの世界での反応に限るものとする。

まず、伊藤之雄の「『福沢諭吉の真実』の迫力」であるが、結論部を引用する。(全文は、http://www.bunshun.co.jp/yonda/yukichi/yukichi.htm にある)。

いずれにしても、石河は福沢の真筆でない自らの論説や自らの考えに近い他の記者の論説を全集に挿入し、それらをも根拠とし、また『福翁自伝』を曲解して、石河の考えに近づけた福沢像を伝記として完成させた。そのことは、満州事変後の時勢に適い、「福沢ルネサンス」ともいうべき福沢ブームを呼び起こした。

本書を読んで、私には石河のこの行動は、福沢の正統な後継者として自らを権威付けるのみならず、青壮年期に福沢に十分認められなかった石河の福沢に対する密かな復讐のようにも思えた。この石河の策略に対し、彼の手になる『全集』や『伝記』に不安を感じつつも、富田正文・丸山真男・遠山茂樹らはそれぞれの立場上の理由で、本格的な検討を加えなかったと、平山氏は推定した。また最後に、「現行版『福沢諭吉全集』の「時事新報論集」をこのまま放置しておくことは許されぬことであろう」と本書を結んだ。これは、きわめて重い提言である。(『本の話』 2004 年 9 月号 53 頁)

井上章一の短評は、「全集編纂のポリティクス抽出」と題されている。

福沢諭吉には、こんな考えがあった。その証拠に、こういう文章を書いている。うそだと思ったら、『福沢諭吉全集』の某巻某頁を見てみろよ。たしかに、福沢はそう書いているから。でも、全集には、まったくちがう考えをしめす文章もおさめられている。べつの某巻某頁だ。こちらは、どうあつかえばいいのか。

福沢諭吉ひとりにかぎったことではない。ある思想家を研究し、検討しあう時は、たいていそんなやりとりがおこる。全集へ収録された文章が、思想家の考えてきたきたことどもを、判断する材料になっている。

しかし、その全集に不備があったらどうなるのか。思想家当人の書いたものが、しばしば削除されている。書いてもいない言論が、真筆としてのせられていた。そんな場合は、どうしたらいいのか。こまったことに『福沢諭吉全集』も、そういうあやまりをおかしている。

では、なぜそんな錯誤がまかりとおるようになったのか。著者は、全集が編纂されていく裏面のポリティクスを抽出する。そして、福沢像がゆがめられていく過程を、分析した。文献学の醍醐味があじわえる本である。(日経新聞 2004 年 10 月 28 日号夕刊)

谷沢永一の「偽装」は、私が唱えた『福沢諭吉伝』と『続福沢全集』は時局迎合の書だった、との主張をさらに進めて、徳富蘇峰が自らの『国民新聞』に連載した『近世日本国民史』を単行本化したとき、連載時には小さな活字だった時代表記をメインタイトルとした事例を挙げて、「書名を引っ繰り返したのは、区切りのいいところで受賞するための準備工作であった。石河は粘土細工のように福澤を造型し、愛国者の伝記を書いた愛国心に愛でての、大いなる栄誉を期待したのであろう」(『 Vioce 』 2004 年 11 月号 258 頁)と結んでいる。

2 .『福沢諭吉伝』は帝国学士院賞受賞を意識していたのか

徳富蘇峰の父親一敬が属する肥後実学党と福沢は、維新前から深い交流があった。蘇峰は、著作を残さなかった実父の身代わりとして、天保の老人諭吉に戦いを挑んだ、と私は考えている。蘇峰と同世代の石河は、福沢の弟子として蘇峰をライバル視していたが、蘇峰が石河を相手にしていなかったことについては、拙著『福澤諭吉―文明の政治には六つの要訣あり』(362 ~ 364 頁)にも書いたことだ。だが、大正 12(1923)年に蘇峰が『近世日本国民史』によって帝国学士院から恩賜賞を授与されたことと『福沢諭吉伝』編纂とに関係があったとは、まったく気づいていなかった。目から鱗が落ちるとはこのことである。

谷沢の指摘に注意しつつ『福沢諭吉伝』を読み返すと、なるほどそれらしい証跡を見つけだすことができる。その一つが、福沢が東京学士院(帝国学士院の前身)の初代院長だったことが詳細に記述されているくだりである。第 2 巻第 30 編「山より里へ」第 3「東京学士院会員となる」がそれで、現在はほとんど忘れられているそこでの事績が 15 頁に亘って詳述されている。また、第 4 巻第 44 編「先生の大患と病後」第 5「皇室よりの恩賜」には、明治 33(1900)年 5 月の金 5 万円の恩賜について 15 頁も割かれている。深読みかもしれないが、それも関係があるようにも感じられる。この 15 頁中 9 頁を占めるのは、福沢名で時事新報紙上に掲載された「今回の恩賜に付ての所感」であるが、その起草者は石河自身であった。

伝記全 4 巻の刊行は昭和 7(1932)年 3 月から 7 月にかけてで、仮に学士院賞の候補となっていたとしたら、受賞は翌 8 年となったはずである。そこで昭和 8 年 5 月の受賞者を調べてみると、恩賜賞 2 件を含む 7 件すべてが理科系の博士たちによって占められていた。人文科学からの受賞者が出なかったのは昭和 5 年とこの年だけで、他の年次の文科系の受賞を徳富蘇峰の受賞に遡って一覧してみると次のようになる。

第 13 回(大正 12(1923)年)徳富猪一郎「近世日本国民史」(恩賜賞)・柿村重松「本朝文粋注釈」(恩賜賞)、第 14 回(大正 13 年)八代国治「長慶天皇御即位の研究」(恩賜賞)・広瀬治兵衛「和鏡聚英・続和鏡聚英」(大阪毎日新聞社賞他)、第 15 回(大正 14 年)矢吹慶輝「三階教の研究」(恩賜賞)、第 16 回(大正 15 年)沼田頼輔「日本紋章学」(恩賜賞)、第 17 回(昭和 2(1927)年)加藤繁「唐宋時代に於ける金銀の研究(但し其の貨幣的機能を中心として)」(恩賜賞)、第 18 回(昭和 3 年)神戸正雄「租税研究」(恩賜賞)・高野 辰之「日本歌謡史」(帝国学士院賞)、第 19 回(昭和 4 年)田辺尚雄「東洋音楽の研究」(帝国学士院賞)・山上八郎「日本甲冑の新研究」(桂公爵記念賞)、第 20 回(昭和 5 年)文系に該当なし、第 21 回(昭和 6 年)宇井伯寿「印度哲学研究(全六巻)」(帝国学士院賞)、第 22 回(昭和 7 年)金田一京助「アイヌ叙事詩ユーカラの研究」(恩賜賞)、そして問題の第 23 回(昭和 8 年)には人文社会科学からの受賞はなく、第 24 回(昭和 9 年)仁井田陞「唐令拾遺」(恩賜賞)・ 沢口悟一「日本漆器の研究」(大阪毎日新聞社賞他)、第 25 回(昭和 10 年)小倉進平「郷歌及び吏読の研究」(恩賜賞)・ 花山信勝「聖徳太子御製法華義疏の研究」(恩賜賞)と続く。

昭和 5 年は全部で 3 件の受賞しかないから文科系からの入賞がなくても不自然ではないが、昭和 8 年は 7 件もあるのに恩賜賞 2 件を含め全てが理系からなのである。奇妙といえば奇妙である。『福沢諭吉伝』は、帝国学士院にまったく相手にもされなかったのであろうか。昭和 7 年から翌 8 年にかけて、同書刊行に関係した展覧会が各地で開催され、またいわゆる「福沢ルネサンス」の運動が盛り上がったのではあったが、そうした風潮は、学士院の内部にまでは及ばなかったものと見える。同時期、東大国史学科の助教授だった平泉澄は福沢伝の記述に明確な疑念を抱いており、自ら執筆した陸軍士官学校の教科書『本邦史教程』(昭和 12 年刊)で福沢批判を展開したことは、『福沢諭吉の真実』(185 ~ 187 頁)に記述した通りである。

続全集が完結した昭和 9(1934)年から 31 年が経過した昭和 40(1965)年、石河の弟子である富田正文は「「福沢諭吉全集」の編纂校訂註解」の功を以て日本学士院賞を受賞している。ちなみにこの年の恩賜賞は文学博士小島憲之の「上代日本文学と中国文学」、富田以外の学士院賞受賞者は、理学博士江崎玲於奈をはじめ、9 名全員が理系の博士号取得者である(http://www.japan-acad.go.jp/japanese/activities/jyusho/051to060.html)。石河の宿望は弟子の富田によって達せられたというべきなのであろうか。

3 .田口富久治による平山支持

ともかく、伊藤之雄・井上章一・谷沢永一による 3 編の書評が『福沢諭吉の真実』刊行初年のアカデミズム関係者による反応であるが、翌年以降に発表された福沢諭吉関係の研究論文や研究書で、拙著に触れていないものはないと言ってよい。それも当然のことで、私の見解が広く知られてしまった以上、私に賛同するにせよしないにせよ、「取り上げない」わけにはいかなくなったのである。

そうした状況下でいち早く私に賛同の意を表明したのは、田口富久治名古屋大学名誉教授の『丸山真男とマルクスのはざまで』(日本経済評論社・ 2005 年 8 月刊)である。その第 3 部「五〇年の研究生活を振り返ってーーいま思うこと」において、自らの師丸山真男の研究と関わらせつつ、田口は次のように述べている。

ところでここ両三年で若干の話題になった丸山批判としては、安川寿之輔『福沢諭吉と丸山眞男―「丸山諭吉」神話を解体する』(高文研、二〇〇三年)と今井弘道『丸山眞男研究序説―「弁証法的な全体主義」から「八・一五革命説」へ』(風行社、二〇〇四年)があります。安川の本は、その前著『福沢諭吉のアジア認識』(高文研、二〇〇〇年)に引き続いて、丸山の福沢理解を全面的に批判し、丸山が福沢について打ち立てた「神話」を解体する、というふれこみの大冊(四八〇頁)でありました。また今井の著書は、安川の丸山批判が福沢批判に限定されている点に批判をもちつつ、そこから大きな励ましと、著者安川に対する感謝の念を抱きつつ、福沢と丸山を「緊急権国家」体制(小林直樹の一九七九年の本の表題)の思想家として批判することを一つの主要目標とする仕事でありました。

安川の仕事については、静岡県立大の平山洋が、早くから批判をおこなっていましたが、平山の『福沢諭吉の真実』(文芸春秋、二〇〇四年)の第三章「検証・石河幹明は誠実な仕事をしたのか」と第四章の四「福沢と石河のアジア認識は全く異なっている」が、平山の安川批判のまとめである、と考えていいわけです。

もちろん、平山のこの書物の画期的意義は、現行の『福沢諭吉全集』(岩波書店、全二一巻)の「時事新報」の論説一五〇〇編の半数近くが、福沢の未関与ないし関与度の低いものであり、また日清戦争や朝鮮問題に関する一八九四、九五年度の論説一〇編―その中には福沢が中国侵略を肯定したという主張の根拠とされてきたものも含まれる―中七編は福沢は無関与とし、そのことを論証しようとしていることです。それではこれらの論説の執筆者は誰で、これらを全集の中にもぐりこませた犯人は誰か。それは福沢の弟子の一人で、時事新報社で主筆などをつとめ、退社後、福沢の全集編纂と伝記(全四巻)執筆に一人であたった石河幹明(一八五九~一九四三)であるというのが、平山の主張であります。

平山の仕事は、「時事新報」論説執筆者の再検討を進めていた井田進也(『歴史とテクスト 西鶴から諭吉まで』光芒社、二〇〇一年)の仕事を継承したものであり、専門家による検証を必要としますが、かなり信頼に値するもののように見えます。安川やその福沢「研究」にかなり依拠した今井が、この石河の詐術にころりとだまされて、福沢を――そして福沢を高く評価する丸山を――近代日本最大の保守主義者と評したり(丸山については、福沢の主体的責任を無視していると批判する――安川の場合)、あるいは福沢と丸山を串刺し的に「緊急権国家体制の思想家」と貶価する(今井の場合)企ては、この一点からも破綻しているのではないのか。それだけではありません。服部之總や遠山茂樹など講座派を代表するマルクス主義近代史家も、このトリックに気がつかなかったと平山はいいます。

石河に騙されなかったのは、かの東京帝国大学の国史学教授平泉澄であった(平山本、一八五~一八七頁)というのも皮肉なことであります。丸山の場合はどうであったのでしょうか。平山は、丸山も服部や遠山と同じように、石河のごまかしに気づいていないとしていますが、その辺は、専門家の鑑定を待つしかないでありましょう(平山本、二一〇~二一六頁)。ただし、平山のこの労作は、丸山の「福沢諭吉の『脱亜論』とその周辺」(日本学士院論文報告、一九九〇年九月一二日。『丸山眞男手帖 20 』に収録)には言及していませんし、東大法学部における岡義武と丸山眞男との位置関係について、事実と逆の記述をしているところがあります。(『丸山真男とマルクスのはざまで』 256 ~ 258 頁五〇年の研究生活を振り返ってーーいま思うこと

最後の「東大法学部における岡義武と丸山眞男との位置関係について、事実と逆の記述をしている」とは、「竹内は岡及び松本三之介ら丸山門下の執筆者との打ち合わせのうちに」(『真実』 222 頁)とある部分を指していると思われるが、私としては丸山門下は松本らだけにかけているつもりだった。それはともかく、このような適切な評価を与えていただけたことは、私としても励みとなるものである。

杉田はこの研究に気づかなかったのであろうか? そんなはずはない。田口の著書は、安川の『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(2006 年 8 月・高文研刊)ですでに紹介されているからである。

4 .西村稔による平山批判

政治学分野で拙論を批判しているのは、西村稔京都大学大学院人間・環境学研究科教授の『福澤諭吉 国家理性と文明の道徳』(2006 年 12 月・名古屋大学出版会刊)である。西村は『福沢諭吉の真実』中の「忠孝論」(日原昌造執筆・『修業立志編』所収)に関する次の部分、

一方この論説(「忠孝論」・平山註)をあえて全集未収録とした石河は、大正版「時事論集」に自らが書いたと断ったうえで「忠義の意味」(九五・七・一〇)なる論説を入れている。そこで石河は、「人々銘々に平素の業を励むの結果、一国全体の文明富実を致して、外に対して国の重きを成し、其国に君臨する帝室の地位をして尊厳光栄ならしむるもの、即ち国民の本分にして、之を人民平時の忠義と認めて実際に間違ある可らず」(現行版『全集』⑮二二九頁)と書いている。

皇室の尊厳のために日々の仕事に励むことが忠義である、というわけである。福沢自身は忠義の説明に「帝室の地位」など全く用いようとしなかったのであるから、まさに正反対の理解といえよう。石河の忠義の解釈は一八九〇年代にあってごく平凡なものであったが、この論説を石河にあえて書かせたなどということがあり得るとも思われない。「忠義の意味」は、スクラップブックから抄写に改竄するにあたって「忠孝論」の代わりに滑り込ませた、福沢とは何の関係もない論説だったのではなかろうか。(以上『福沢諭吉の真実』 115 ~ 116 頁)

を捉えて、次のように述べている。

平山洋は、この表現、正確には、「国に君臨する帝室の地位をして尊厳光栄ならしむる」という一句を、「皇室の尊厳のために日々の仕事に励むことが忠義である」と解釈したうえで、福澤は忠義の説明に「帝室の地位」など用いようとしなかったから、この一句は「忠孝論」(『立志編』所収)における忠義論と「正反対の理解」を示しており、この論説(「忠義の意味」)自体を、『時事新報』編集者であった石河幹明の思想の表れとしている(『福沢諭吉の真実』 115)だが、文脈を見ればわかるように、この論説の重点は「人民平時の忠義」にあり、それを形容する「皇室」云々の一句だけを取り出してこのように評するのは、枯れ尾花に幽霊を見る類の神経過敏ではないだろうか。無論、だからといって福澤が戦時に忠君愛国的報国心を否定したというわけではない。しかしまた、逆に天皇制を政治的に擁護したというわけでもない。福澤は、明治二六年に、「百千年の大勢より考ふれば、君主制は変じて民主制と為り、抑圧専制の政は転じて自主自由の政治と為る、事実に徴して明白なる所なり」と明言し(⑭ 145)、『福翁百余話』ではこういっている。君主とは、民心を一つのところに帰す必要から生じたものであり、君主の動揺は民心の動揺、一国変乱の不幸に繋がるから、そのような場合、「独立の士」は「平和」のために尽力すべきであるが、そのためには平生から「世安維持の天職」を勤めるべきであり、しかもその忠義の源は「自尊自重」、「自動」であって「他動」ではない、と(⑥ 406f .)。なお、『時事新報』掲載の福澤の論考に関する平山の詳細な書誌的研究についてここで評論することはできないが、右の見解にも示唆されるように、一定の福澤像(『福沢諭吉の真実』 160f .)を前提としているところに問題があるということだけを指摘しておきたい。(西村稔『福澤諭吉ー国家理性と文明の道徳』 304 頁、第 3 章第 1 節の註 4)

西村の著書で拙著が登場するのはこの 1 箇所だけである。これだけを読んで内容を正確に理解できる方は、私以上の読解力があると保証する。この註がなぜ分かりにくいかといえば、西村は、現行版全集第 15 巻 226 頁の註「本編以下三編は福澤の意を受けて社説記者石河幹明の起草したものである」にまったく触れないまま、「この論説(「忠義の意味」)自体を、『時事新報』編集者であった石河幹明の思想の表れとしている(『福沢諭吉の真実』 115)」と拙著を引用しているからである。私の本を読まずにこの部分に行き当たった西村本の読者は、何で突然石河が出てくるのかと、目を白黒させたことであろう。あるいは私がとんでもないことを言っていると誤解するかもしれない。

5 .西村の立論に対する平山の疑念

要するに、私の立論上重要な、石河は『修業立志編』所収の「忠孝論」を大正版全集から排除しながら、自分が執筆したと明言している「忠義の意味」を全集に入れている、という単なる状況説明がスッポリ抜けているから分かりにくいのである。

既述のように石河は福沢執筆と知っていて排除したわけではなく、日原昌造の執筆であるために全集に入れなかったわけだが、福沢が署名入り単行本『修業立志編』に入れることを許した論説を抜いて、自分のものと認定したわけでもない「忠義の意味」を収録した事実にはかわりがない。

その点に触れずに、内容上から見て、「忠孝論」と「忠義の意味」の中身には大きな違いがない、と苦心しつつ述べているのが、この第 3 章第 1 節の註 4 なのである。中身が同等なら、なぜわざわざ排除したのか? 違いがあると認識していたからこそ、石河は、後年私のような物好きがすべての出典を探し出すかもしれない、というリスクを負ってまでして「忠孝論」を取り除いたのではなかろうか。

私には「忠孝論」と『福翁百余話』中の「独立の忠」(⑥ 406)は内容上の重なりは大きいが、「忠義の意味」は違うように見える。その大きな違いは、「忠孝論」と「独立の忠」での忠は国民国家への義務として共和体制下でも成立可能なのに、「忠義の意味」では君主制しか想定されていないところにある。そこに君主(主君でもよい)の生きた肉体を抜きにしては忠を成り立たせることができない石河の想像力の限界を感じるといってもよい。

さて、「忠孝論」と「忠義の意味」の忠は、私には異質に見えるが、西村には同質に見えている。西村は私がそう見てしまう理由として、西洋文明の導入者という一定の福沢像が前提としてあるからだという(拙著 160 頁にはおおむねそうしたことが書いてあるので、そう言っているとしか受け取れない)。この注記が付されている本文が、拙著を読んだ上で書かれているのなら何の問題もない。平山のような考え方はあるが、自分はそのような制約を設けずに福沢の思想を解釈すると、あらかじめ熟慮してのこととなるからである。しかし註 4 が付せられた『福澤諭吉ー国家理性と文明の道徳』の第 3 章「士魂」は、2000 年から 2003 年にかけて発表された「福澤諭吉と武士の伝統ー教養と作法を中心としてー」を元にしていて、それは『福沢諭吉の真実』の刊行より前なのである。

そうなると、私としてはどうしても疑念を感じざるを得なくなる。つまり、『福沢諭吉の真実』を読む前の西村は、福沢の武士観を分析するに際し、使用した時事新報論説に福沢の思想ではないものが含まれる可能性に気付いていなかったのではないか、そして、その事実を隠すために「忠義の意味」が石河執筆であることを伏せたまま、やみくもに拙著を否定したのではないか、という疑いである(西村稔宛書簡参照)。

ともあれ、ことほど左様に拙著『福沢諭吉の真実』は、研究者の心にさざ波を立てている。杉田が、研究者は拙著を「まともに取り上げない」などと、およそ真実からかけはなれた虚勢を張るしかなかったのも、実際にどのように取り上げられているかを「解説」に書いてしまったら、誰も『福沢諭吉 朝鮮・中国・台湾論集』に採録されている論説など、まともに読む気にならなくなってしまうからである。

6 .『福沢諭吉の真実』に対する研究者の態度

拙著に対する肯定的な見解 4 つと、安川寿之輔・杉田聡以外の否定的見解 1 つを以上によって見たが、いずれにせよ、拙著を「まともに取り上げない」ものはない。石河への盲目的な愛に囚われてなのか、『福沢諭吉の真実』をまともに取り上げたくない安川や杉田には、最初から有り得べき福沢の姿ーアジア蔑視の侵略的絶対主義者としてのそれーがあって、その像を否定する著作(らしきもの)の、オビの惹句をチラリと見ただけで、拒絶反応を起こしてしまうのである。

それに対し福沢アレルギーのない研究者の拙著に対する平均的態度は、「そうか、福沢の無署名著作には、福沢以外のものも含まれている可能性があるのか、じゃあ注意しないといけないな」程度のことである。以下に引用する八木紀一郎京都大学経済学部教授の見解は、そうしたごく普通の反応を示している。

経済学あるいは経済思想の枠を超える問題であるが、福沢に対する批判的なスタンスは、現在では彼の「脱亜論」を中心に形成されている。福沢は、朝鮮・中国の民衆を蔑視していて、あからさまな帝国主義を志向していたと論じているのは安川寿之輔(2000)であり、彼はさらに現代における福沢の最良の理解者とされる丸山真男(丸山 1986,2001)の福沢論批判に至った(安川 2003)が、これは福沢の近代化論のなかでの農民や地方、あるいは女性の位置という問題にも結びついている。以前から批判的な立場からの福沢論の代表者は遠山茂樹(遠山 1970)とひろたまさき(ひろた 1976)であるが、ひろたの最近の福沢観も留保はあるものの安川のそれに近い(ひろた 2001)。しかし、他方で、これまでほとんどすべての福沢研究者が依存してきた『福沢全集』に対する深刻な疑問が平山洋(2004)によって提起されている。プレ・ファシズムの時期に『福澤諭吉伝』(石河 1932)を執筆した石河幹明は、彼に編纂がまかされた『福澤全集』の「時事論集」の諸巻に、露骨な対外拡張主義を表明した彼自身の執筆になる「社説」を多数組み入れたというのがその疑惑である。しかし、文明論者福沢にとって、アジア諸国との関係、近代化・産業化に取り残された人々との関係がどのように理解されていたのかというのは、『全集』編集への疑惑を超えて存在する問題である。新たに刊行された『書簡集』も含めて、より一層慎重な文献考証を経たうえでの立論が要請されているであろう。(『経済思想〈 9 〉日本の経済思想(1)』(2006 年 7 月・日本経済評論社刊)第 1 章「福沢諭吉」5 頁)

同様のスタンスでの紹介として、周程北京大学科学と社会研究センター准教授は『福澤諭吉と陳独秀』(2010 年 3 月・東京大学出版社刊)において安川・平山論争について概説し、拙論を重要な問題提起として位置づけている(同書 40 頁)。ただし、それ以上の深入りはしていない。

ということで、現在まで『福沢諭吉の~思想』(~には、政治・経済・宗教・道徳・農民・武士・アジアなどが入る)に類したタイトルの著書や論文を書いてきた研究者は全員、基礎的文献として現行版全集を用いてきたのだから、時事新報論集中の 1500 編強が実は怪しいとなると、その新事態への対応は、(1)様子見、(2)私の研究に基づいての立論、さらに進んで(3)自分で判定基準を見つけだそうとする試みの、おおよそ 3 通りに区分できる。

大多数は(1)様子見で、とりあえずは署名著作と草稿残存社説の範囲内での立論を試みているようである。使える材料が大幅に減少してしまったため、どうしても立論のスケールが小さくなりがちになっている。(2)私の研究に完全に依拠しているのは関口すみ子法政大学法学部教授で、著書『国民道徳とジェンダー―福沢諭吉・井上哲次郎・和辻哲郎』(2007 年 4 月・東京大学出版会刊)の第 3 章第 1 節「『時事新報』の道徳論」は、『福沢諭吉の真実』と「大正版『福澤全集』「時事論集」所収一覧及び起筆者一覧」の判定に基づいて立論されている。光栄の至りである。(3)は、図書館情報学の専門家である安形輝亜細亜大学国際関係学部准教授・上田修一慶應義塾大学文学部教授による「『時事新報』初期の社説の著者推定」で、聖書やプラトン、またヘーゲル研究で試みられてきたような、テキストを電子データ化した後、電算機を用いた分析により起筆者を推定する方法が模索されている。

ここまで『福沢諭吉の真実』への反響について書いてきたが、その後の 2 冊の著書のうち『福澤諭吉―文明の政治には六つの要訣あり』(2008 年 5 月・ミネルヴァ書房刊)については、鷲田小弥太札幌大学経済学部教授が『本を創った思想家たち』(2009 年 5 月・ PHP 研究所刊)で、また、渡辺浩東京大学法学部教授が『日本政治思想史―十七~十九世紀』(2010 年 3 月・東京大学出版会刊)で、福沢諭吉に関する記述の主たる参考文献とされている。また、『諭吉の流儀』(2009 年 5 月・ PHP 研究所刊)については、篠塚英子お茶の水女子大学名誉教授による紹介「諭吉流儀の人付き合い」(『金融財政ビジネス』 2009 年 6 月 18 日号)が発表されている。

(以上本セクションのみ肩書き付きで記述したが、それが私の本意ではないことを再度申し述べておく。)

7 .安川寿之輔・杉田聡が決して引用しない『福沢諭吉の真実』の結論部

このように、従来までの研究にありがちだった、現行版全集の「時事新報論集」を絶対視する立場をとる研究者は、安川と杉田を除いて、もうほとんどいないといってよい。その絶対少数者である彼らの平山・井田批判の骨子は、「井田メソッド」の執筆者判定は確実性に乏しいと言うに極まっている。しかし、こんなことは誰の目にも明らかなことだが、「井田メソッド」が不確実であることと、石河による社説選択が確実であることとは、まったくの別問題である。

私は「井田メソッド」によってのみ石河の社説選択が恣意的だと結論づけたのではなく、その立論の根拠は、全集編纂と伝記の関係や、他ならぬ石河の証言の曖昧さ、時事新報の編集業務の実際の様子、さらには、福沢直筆残存社説の過半数(92 編中 50 編)を「時事論集」に入れなかった事実等、多岐に及んでいる。安川や杉田は、そうした傍証に一つ一つ説得的な反論を試みなければならない。

それはおそらくできないだろう。だが、だからといって、安川や杉田が私の見解に同意することもまたあり得ない。というのも、上条(31)の引用末尾にも明らかなように、彼らは福沢批判を学問としてではなく政治闘争の手段として行っているからである。安川と杉田のような「擬似学問を放置すれば歴史は偽造され、社会は再び誤った道を歩ませられるであろう」。

最後に、安川や杉田が決して引用しない『福沢諭吉の真実』の結論部を再掲することで、この逐条的註を終えることにしたい。文中の服部とは服部之総、遠山とは遠山茂樹であるが、この二人の個人名を安川寿之輔杉田聡に読み替えても、まったく問題なく意味が通じることに注意されたい。

最後に服部・遠山連合については、イデオロギー的立場からの戦略を思わずにはいられない。特に服部にとって福沢は戦前からの敵であった。例えば「福沢ルネサンス」期に発表された服部の論文「福沢諭吉前史」(一九三四・一二)は、雑誌『歴史科学』の「福沢生誕百年祭記念特集」として永田広志の「福沢諭吉について」とともに掲載されているが、その内容は福沢の権力へのおもねりを揶揄したものだった。すなわち、福沢はそもそも金儲けと幕府内での出世のために洋学を学んでいたのだが、『学問のすゝめ』の頃からその目的は変容し、慶応義塾を日本資本主義興隆ための人材の供給源として政権中央への進出をはかったのだ、ということである。とはいえこの時点の服部は石河による伝記と昭和版『続全集』を精読していない。

一九五〇年に服部が慶応義塾大学で行ったという講演の内容は知られていないが、演題の「日清戦争と福沢諭吉」からみて、遠山の論文と同様に伝記第三巻が参考にされていたと考えられる。服部としてみれば、石河編纂の伝記と全集が戦後になってもそのまま残されたというのは、敵軍の武器弾薬庫を無傷で手に入れた将軍のような心持ちであったろう。しかも富田・丸山ら相手陣営はあくまで伝記と全集を守り抜こうとしているのであるから、石河が賞賛していた福沢の時局性と侵略性をそのまま批判の内容とすれば有効な武器とすることができた。

たとえ批判の手段として用いていた無署名論説の信憑性に疑問が生じたとしても、その事実をもって福沢評価をプラス方向にもっていこうとする気はそもそもなかったのである。なぜなら侵略的絶対主義者とされる前の評価として一般的であった、単なるブルジョア思想家としての福沢からしてが、すでに人民の敵であったからである。(以上『福沢諭吉の真実』236~237頁)