「何ぞ其れ遲きや」
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本文
何ぞ其れ遲きや
我日本國にて全國縦横に鐵道を敷設するの必要なるは今更論を待たざることにして談苟も
鐵道に及べば其工事の官たり民たるを問はず我輩は唯其之を敷設するの神速ならんことを
希望するものなり然るに曩きに我國にて私設鐵道論の勃起せし以來今日に至るまで凡そ一
箇年餘の歳月を閲し其間兩毛鐵道、茨城鐵道、山陽鐵道、九州鐵道、越後鐵道、大坂鐵道
等續々私設の義を出願するものあり其發起株主の面々を見れば國中有名の紳士紳商にして
工事の測量、運送貨物の多寡等既に夫れ夫れの調査手續を爲して始めて出願に及びたるこ
となればマンザラ書生流の計畫とも思はれずイザ左らば政府に於ては速に其着手を促す可
き筈なるに事業社會に在ては千萬貴重なる一箇年餘の歳月を費して今日尚未だ公然たる許
可を得ざるは果して何等の由縁なるや左りとは我輩の甚だ遺憾とする所なり西洋諸國には
各國夫れ夫れの鐵道政畧なるものある由にて例へば英國には各國夫れ夫れの鐵道政畧なる
ものある由にて例へば英國にては鐵道敷設を以て一に之を私立の會社に任じ政府は僅に其
大體を監督するに過ぎざれ共獨逸にては正しく其反對にして鐵道は唯政府の手のみを以て
經營し之を私立會社に委せず其他仏蘭西、伊太利等にては政府にて敷設するものあり或は
保護を與ふるものあり或は又全く私立に任するものもありと云ふ盖し彼の獨逸國が鐵道を
官有に限りたるは經濟上の考に非ずして重もに軍國攻防の都合に出でたるものなれば我輩
は漫に之を非とせざれども四面環海、陸戰の必要を感ぜざる我國状に於て軍國交通の爲め
にとて政府の手ばかりにて鐵道を所有せんとするは今の我國の實際に適せざるものゝ如し
且つ鐵道は公共の事業にして假令へ之を私立にするも起業を可否する事、人畜物品の運賃
の最高額を定むる事、不慮の災害を防ぐが爲めに必要の監督を施す事、郵便及び軍事の爲
め特に若干の負擔に任せしむる事等の個條は鐵道會社に對する政府の特權とも稱す可きも
のにして何れの國の鐵道條例にも此等の個條あらざるはなし故に我國にても追て編制する
鐵道條例中には必らず之を特記することならんなれば全國鐵道の一部分を擧げて之を私立
會社に任ずるも一旦事急なるに臨んで政府の間を缺くなどの心配は萬々ある可らざるなり
斯くて我國の鐵道政畧に於て私立敷設を許可するに不都合なしとすれば須らく速に之を許
可して少しも早く其工事に着手せしむること肝要ならん或は我政府にては目下私立鐵道條
例編制中にして條例いよいよ成れば之れに照らして其工事を許可するならんと云ふものあ
り如何さま鐵道の世の中に鐵道條例なきも不都合ならんなれば之を編制すること肝要なら
んと雖ども鐵道政畧の大體に於て既に私立を許可するの精神ならんには私立鐵道發起人に
向て先づ其要領を論して其起業を許可し置き扨て其後にて徐に條例を編成するも事の順序
に於て別に不都合はなかる可きなり盖し鐵道の始めて此世界に現出するに當りて先づ之を
敷設したる國々にては萬端無經驗の事なれば其條例を編成するに種々考案を要したること
勿論にして千八百三十年英國リバプール及マンチエスターの間に鐵道を敷設したる其當座
は鐵道の工事は一時運河船渠會社等の例に據りて先づ上下兩院の許可を受け政府は其都度
會社の遵奉す可き箇條を達することにして千八百四十年、四十二年四十四年、五十四年及
び七十三年の諸鐵道條例を待て始めて今日の條例を成したるものなりと云へば當時立法家
の苦心想ひ見る可く隨て之を編成するに多くの時日を要したるならんと雖ども我國にて今
日鐵道條例を設けんとするには起業の手續監督の方法等之を先進各國の實例に照して其利
害可否を判斷することを得べければ其編成甚だ容易なる可きなり意ふに目下全國各地の鐵
道發起者より出願したる諸工事は早晩政府の許可を得ること必然なる可しと雖どもいよい
よ許可の沙汰を得るまでは發起者諸氏もレールの買入、枕木の注文等工事の實際に關する
部分を準備するに由なく目下春芽を發し來りたる鐵道事業をして爲めに大に凋喪せしむる
の恐なきを得ず即ち今我輩が我政府の其向きの者に對して私立鐵道の許可何ぞ其れ遲きや
の一言を呈する所以なり