「敎育の犠牲」

last updated: 2019-11-26

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時事新報に掲載された「敎育の犠牲」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

本論に付きフレデリック ハリソン氏の意見

本論に付き余が所述の要旨は試驗なる者は元來敎育を補助するが爲めに生じ次第に其勢力

を揩オて遂に敎育の主人たるに至りたりと云ふに在り今日の有樣を以て見れば敎育と試驗

と恰も主從の關係を逆にして主人却て奴僕の地位に居るの姿なれども余は敢て試驗を以て

無用なりとするにあらず又敎育の事は試驗を要せずして可なりと云ふにもあらず本來試驗

は良奴僕なり又惡主人なり世に良奴僕が惡主人に變じたる例の如く試驗も亦今は惡主人と

なりて敎育を虐使窮窘せしむるものなりと云はんと欲するのみ

抑も何を敎ゆ可きか、如何に敎ゆ可きか、又其結果如何ならんと適當に判斷するは主敎者

に若くものある可らず試驗は其授業の結果如何を知る方法の一にして注意と節制と自由と

を以て之を行へば其效著しきものなれども今日の實際に於ては知らず識らずの間に成長し

て一の仕組をなし次第に其範圍を廣めて一種の職業となり遂に試驗掛と稱する專門家の一

體を造出するに至りしが扨この試驗掛の人々は概ね少壮にして經驗に乏しく小學校の塲合

を除きては其學力さへも一般の敎師に比し劣等の地位に在るものにて其職に就くや直に熟

練經驗を氣取りて試驗に從事し自ら授業をなさずして敎師の敎ゆる所と學生の學ぶ所とを

試むるものあるが故に學生をして自然に敎師の敎を忽せにして却て試驗掛の意に投ぜんと

するの心を生ぜしむるより其勉強する所のものは敎科の本書にあらずして試驗の覺書とな

り其研究する所は學問の趣意にあらずして試驗及第の秘訣となれり是に於てか又世上に試

驗豫備者なる一種の專門家を生じ其職業は敎授にあらず試驗にあらず唯學生をして試驗に

及第せしめんとするにありて之も亦速に發達して骨牌を弄し風琴を弾ずると同じく熟練な

る一種の手術となり而して其結果たる敎育社會に勝負の氣風を輸入し敎師は次第に試驗掛

の爲に支配せられ又この豫備家の爲に驅逐せられ學問は恰も親ら授業の責に任せざる兩專

門家の掌中に歸したるの姿とはなれり余は曾て二三の大學校及び其他の諸學校に於て三十

餘年間授業及び試驗に從事せり固より專門の試驗掛にはあらざりしかども絶えず試驗の事

に關係して他の試驗掛の人々と事を共にしたれば其道に於て多少の經驗なきにあらず勿論

今の試驗掛及び豫備家の人々は最も鋭敏にして氣力に富み且つ純誠なるもなりと云ふ能は

ざるも彼等は多少の熟練と正直とを以て其事に從ふものなれば畢竟今日の弊は其人にあら

ず其仕組にあるものにして敎師、試驗掛、豫備家、生徒ともに互に試驗の爲めに驅逐奔走

する其有樣は恰も水車の絶えず廻轉するが如くなれども此試驗水車の働きは正味の米を餘

所にして唯その皮糠を磨ぐに過ぎざるのみ

余は敎育の事に試驗を要せずと云ふものにあらず又徹頭徹尾、試驗に反對するものにあら

ず余の不平を訴ふる所は試驗の頻繁無限なる事、試驗術の次第に發達して一種人工の仕組

と爲りたる事、試驗掛と云へる一種の職業を進出するに至りたる事、之に連れて試驗豫備

家の職業出來したる事、試驗法の器械的となりたる事及び授業法が試驗の從屬となるに至

りし事等に外ならずして之を約言すれば余は彼の單に紙に印刷したる問題に答ふる如き極

めて簡易にして且つ低廉なる手段の次第に搨キして爲めに眞實智識を研究するの領地を侵

すのみならず政府も亦公然この手段を認めて以て敎育の目的となすが如き擧動に對して不

平なるのみ

余は本論に關して敢て小學校の事には論及せざる可し抑も小學なるものは法律強迫の下に

在りて租税に依て維持せられ政府又は公共に依て支配せられ就中その授業は全くの初歩に

止まるものなれば其試驗の方法も他の高等敎育に應用すべからざる畫一の仕組を用ゆるも

亦その理由なきにあらずして且つ小學の塲合に於ては試驗掛の學力も明かに其敎師に優り

平生の授業法も多少器械的なれば其試驗法も亦隨て器械的ならざるを得ず斯く云へばとて

余は今の小學の試驗法を賛成する者にあらず唯こゝに論出することを欲せざるのみ又小學

試驗の過重なるが爲め身體上に及ぼす所の結果もこの論の趣旨にあらざるを以て余は單に

少なくとも生徒に於ける精~壓迫の害の十分の九は課業勉強の爲めならずして全く試驗の

爲めに起るものなることを一言し其詳論は之を他日に讓る可し

抑も試驗は他の事物と同樣、其方法簡易にして時々隨意に之を施行するときは其利少なか

らずと雖も其仕組整頓して畫一のものとなれば害を見るの常にして即ち學生が試驗の爲め

にするの念薄ければ學問の功は却て著るく試驗掛が其力を用ふること寛なれば被試者の學

術は却て正當に試みらるゝものと知る可し蓋し往時の試驗法は實に斯の如きに過ぎざりし

が三四十年以來試驗病の流行よりして其有樣を一變し無數の試驗は吾人の一身を圍繞し來

り遂には試驗掛なる一種の職業を生じ其事たるや將棊の技の如く尋常ならざる熟練巧智を

要するものとなりて今は主試者被試者ともに其技に堪能し被試者の最も熟練なる者に至て

は其試驗を經過するに容易なること昔時の大學者と雖も遠く及ばざる所なりギツポンの如

きも今日に在らしめなば歴史科の試驗に落第しウエルリントンも陸軍學校に入る能はずバ

ルク其人も時間を限りて幾種の問題を即答するの試驗には必ず高點を得ること能はざるな

らん此に至りて流弊も亦極れりと云ふへし(以下中略)

然らば則ちこれを救正するの方法如何と云ふに余の所見を以てすれば下の如くなる可し曰

く現行の試驗は其數、多きに過ぐるが故に宜しく之を減少す可し、試驗掛に一層の時間と

餘裕とを與ふ可し、成る可く敎師をして自ら試驗の事に任ぜしむ可し、試驗をして一種特

別の職業となさしむ可らず、試驗掛をして生徒と併せて敎師をも試驗せしむ可らず而して

學問なるものは金錢其他の報酬なしと雖も自ら之を研究す可きものたることを覺悟し信を

敎師に置て授業と試驗とを彼に任じ就中學生を信用し彼を獎勵して智識を求むるが爲め自

身及び公uの爲めに勉強せしめ以て學生が明利の爲めに學ぶの氣風を矯むることを得ば或

は今の敎育社會の流弊を一洗するに足るべき歟(畢)