「心養」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「心養」を文字に起こしたものです。画像はつぎの pdf に収録されています。

本文

心養

人生に體を養ふ要のあると均しく亦心を養ふの要あり體を養ふに食物を用ふるは凡そ生物の皆然る所なれども人類ほど其食物の種類多きはなし獅虎は生肉の喰ふべきを知りて其他を知らず牛馬は野草の喰ふべきを知りて亦その他を知らず禽獸蟲魚おのおの其食とする所は僅に一二に止まると雖も特り人間に至ては鹽噌肉菜種々雜多にして酸辛甘苦殆んど擇む處なければ食物の種類多きこそ高等動物の特徴にして人の人たる所以の一に數ふるも亦敢て不可なきが如し人の體を養ふに斯くも多樣の食物を要すとせば心を養ふにも亦多樣の趣向を要することならん蓋し他の動物の心を察するに其食物の種類少なきが如く其心事も亦狭少なれば人は多樣の食物を喰ふが如く其心事も亦多樣にこそある可きに若しも或る一方に偏して他を顧るの餘地なしとすれば是れ既に霊活を欠けるなり至高なる人類の食を食として下等動物の心を心となすに近し體を養ふの法は則ち之を得たりと雖も心を養ふの法は猶ほ甚だ遠しと云ふて可ならん歟、又體を養ふに運動を要するの生理あれば心を養ふにも亦運動を要するの心理あらん坐して動かざれば足に痺を生ずるが如く凝て解けざれば心に迷いを起す坐するは敢て不可なけれども足に痺を生ずるは攝生の旨にあらず凝るも或は可ならんなれども心に迷を起すは既に保心の義に反せり痺れざるは動かせばなり之を體養と云ひ迷はざるは解けばなり之を心養と云ふ左れば體養は静動宜しきを得るにあり心養は變通を妨げざるにあり共に人生に欠く可らざるの須要にして心身の運動と稱するもの即ち是れならん、扨その心を養ふの趣向と云ひ將た心の運動と云ふは如何なる事ぞと尋ぬるに他なし身に種々の藝を蓄へて時々その藝に遊ぶにあるのみ農工商より政事、法律、詩歌、碁將棊に至るまで人事一切都て是れ藝に非ざるはなし一人にして其多岐に渉るの能ある者は多藝の人と稱せられ否らざる者は無藝の人と評せらる多藝の人は能く移るが故に心常に凝滞せず無藝の人は移ること能はざるが故に心常に偏僻す碁打が碁に凝りて親の死に遇はず詩人が詩に耽りて人事を忘却するが如きは極端の事例なれども世には無藝にして唯一筋の外に出でざるが爲め或は判斷を誤る者或は幸福を失ふ者その種類甚だ多し必竟その一筋に拘泥するは初めより多藝に習はず習はざるが故に眞味を解せず解せざるが故に顧みざるの過ちにして若しも彼に是に思ひを百方に馳するの能あらば心に癖を生せずして行路に澁滞なかるべきのみならず種々の樂みを樂んで品位はますます高かるべし今これを身體に喩へんに樂みの一事にても目に見るあり耳に聞くあり口に味ふあり鼻に嗅ぐあり盲者は目の樂みなき者、聾者は耳の樂みなき者、啻に樂みなきのみか之を稱して不具と云ふに非ずや心の藝に於けるは猶ほ耳目鼻口の樂みに於けるが如き歟、其一藝に偏する者は目あれども耳鼻口なき者と同じく恰も心の不具たるを免れず不具を形體に咎めて之を精神に問はざるは彼の食物を人にして心を他の動物にするものゝみ心養の法は多藝なるに在り

政事家と政事

政事家の政事に偏すること何ぞ夫れ甚だしきや政府部内の情實は云ふも更なり自由と呼び改進と唱へて黨派の掛引に良心を欺き勢権の競爭に萬事を犠牲にするも復た顧る所なきが如し瞋恚煩惱愚痴とは佛家の三惡として戒むる所なれども今その實景を政事界に見ること最も多きは蓋し讀者も認むる所ならん産業なり商事なり社会の人事その數多き中に獨り政治に熱中して炎々當る可らざるの勢あるは唯驚くの外なし蓋し是れには多年の習慣あり時世の風潮ありて爲めに自然に驅逐せられたるものならんとは雖もツラツラ彼の政治家輩の私を視察すれば多くは政事の外、身に覚えたる藝とてはなきものゝ如し商事の心得ある者ならば夫の淺ましき運動に苦まんよりは寧ろ商界に餘勇を鼓するの工風をなさん、學術の修練ある者ならば失意の際に〓沛せずして却て學園に逍遙するの餘地を求むべきなれども如何せん政事を除けば他に全く通用の道なきが故に飽までも之に拘泥して或は常理の外に逸し或は指笑を厭はざるものには非ざる歟その由來を詮すれば初め政事に眩して他を顧みざりしが故にイツしか心に癖を生じ癖は性を成して事の茲に及びたるものなるべし今の政事家の擧動こそ所謂凝て思案に能はざるの弊を證するものにして其社會に及ぼす所の影響は勿論當人の爲めに計るも幸福に乏しくして誠に氣の毒なりと云はざるを得ず政治家も亦その食物を人類にして其心事をば劣等動物にするものか彼輩の無藝無能憐む可きのみ

金滿家と金

黄金の人生に至寶たるは素より云ふ迄もなけれども唯金あるを知りて他を知らずとせば是れ人にして金化したる者なり人にあらず金なりと云ふも可ならんか今の金滿家を見るに身の本來の價あるに非ずして金威によりて纔に世間の尊敬を買ふ者多きが如し唯その財産の多寡によりて輕重せらるゝ迄のことなれば今日百萬圓の身代の者が明日に至り五十萬圓に減ずるときは其身も同時に五十萬圓の人となり無一錢となれば又隨て無き人となる可し左れば世人が之に接して交を求るも其人に交るに非ずして其金に交るのみ之を金友と云ふ黄金多ければ交廣く黄金多からざれば交も亦廣からずして遂に或は天下に一友なきの不幸に陥ることもある可し然かのみならず彼の金友多きは其金德に浴し又これに浴せんと欲する者の群集なれども他の一方に於て其德澤を被らざるのみか却て金威の爲めに窘めらるゝ者もあれば金友の反對に金敵の多きも亦謂なきに非ず黄金以て友を得べし又隨て敵を生ず可し其友永く恃むに足らずして其敵は常に恐る可し皆是れ富豪が金に凝るの結果にして固より人生の快樂を妨るものなれば我輩は敢て其貨殖を非とするにあらざれども貨殖の事繁なる其傍にも時に書籍に目を晒らし將た戸外經世の爲めに盡すか乃至は琴棋書畫俳偕發句等遊藝の嗜みにてもあらば自然に其心機を轉じて凝りを解かし又隨て黄金外の親友を得て共に文事を語り共に風流を樂しみ微妙の際に一身の行路を安くするのみならず富豪本來の目的たる家道の維持法に於ても間接に益する所多かる可しと敢て信じて疑はざる所なり

以下のテキストについて

近代デジタルライブラリー|国立国会図書館にて公開されている、『修業立志編』の「心養」をテキストにしました。テキストにするにあたり、なぜ『修業立志編』は『福澤全集』に収録されていないのか?の「心養」を参考にしました。以下、いくつかの注意点を列挙します(も参照のこと。)。

  • 本来は一段落のみですが、適宜改行しました。
  • 「新字旧仮名」のスタイルをとりましたが、例外があります。
  • 一部の漢字を平仮名に直しています。

なお、上記ウェブサイトで公開されている、『修業立志編』の情報は、以下の通りです。

出版者
時事新報社
出版年
明 31(1898)年 4 月
NDC 分類番号
150
著者標目
慶応義塾

本文

人世に體を養ふの要あると均しく、亦心を養ふの要あり、 體を養ふに食物を用ふるは、およそ生物の皆然る所なれども、 人類ほど其食物の種類多きはなし、 獅虎は生肉の喰ふべきを知りて、亦その他を知らず、 牛馬は野草の喰ふべきを知りて、亦その他を知らず、 禽獣蟲魚おのおの其食とする所は僅に一二に止まると雖も、 ひとり人間に至ては、塩噌えんそ肉菜種々雑多にして、酸辛甘苦殆んどえらむ所なければ、 食物の種類多きこと、高等動物の特徴にして、人の人たる所以ゆえんの一に数ふるも亦敢て不可なきが如し。

人の躰を養ふに、斯くも多数の食物を要すとせば、心を養ふにも亦多様の趣向を要することならん。 けだし他の動物の心を察するに、其食物の種類少なきが如く、其心事も亦狭少なれば、人は多様の食物を喰ふが如く、其心事も亦多様にこそある可きに、 若しも或る一方に偏して、他を顧るの余地なしとすれば、是れ既に霊活を欠けるなり、 至高なる人類の食を食として、下等動物の心を心となすに近し、體を養ふの法は則ち之を得たりと雖も、心を養ふの法は猶ほ甚だ遠しと云ふて可ならん

又體を養ふに運動を要するの生理あれば、心を養ふにも其運動を要するの心理あらん、 坐して動かざれば、足に痺を生ずるが如く、凝て解けざれば、心に迷を起す。 坐するは敢て不可なけれども、足に痺を生ずるは摂生の旨にあらず、 凝るも或は可ならんなれども、心に迷を起すは既に保心の義に反せり。 痺れざるは、動かせばなり、之を體養と云ひ、迷はざるは、解けばなり、之を心養と云ふ。

左れば體養は静運宜しきを得るにあり、心養は変通を妨げざるに在り、 共に人生に欠ぐ可らざるの須要にして、心身の運動と称するもの、即ち是ならん。

さてその心を養ふの趣向と云ひ、た心の運動と云ふは、如何なる事ぞと尋ぬるに、 他なし、身に種々の芸を蓄へて、時々その芸に遊ぶにあるのみ。 農工商より政事、法律、詩歌、碁将棋に至るまで、人事一切すべて是れ芸に非ざるはなし。

一人にして其多岐に渉るの能ある者は、多芸の人と称せられ、否らざる者は無芸の人と評せらる。 多芸の人は能く移るが故に、心常に凝滞せず、無芸の人は移ること能はざるが故に、心常に偏僻す。

碁打が碁に凝りて親の死に遇はず、 詩人が詩に耽りて、人事を忘却するが如きは、極端の事例なれども、 世には無芸にして、唯一筋の外に出でざるが為め、或は判断を誤る者、或は幸福を失ふ者、その種類甚だ多し。 畢竟その一筋に拘泥するは、初めより多芸に習はず、 習はざるが故に、真味を解せず、 解せざるが故に顧みざるの過ちにして、 若しも彼に是に思ひを百万に馳するの能あらば、心に癖を生ぜずして、行路に渋滞なかるべきのみならず、 種々の楽を楽んで、品位はますます高かるべし。

今これを身體に喩へんに、楽みの一事にても、目に見るあり、耳に聞くあり、口に味ふあり、鼻に嗅ぐあり、 盲者は目の楽みなき者、聾者は耳の楽みなき者、ただに楽みなきのみか、 之を称して不具と云ふに非ずや。

心の芸に於けるは猶ほ耳目鼻口の楽みに於けるが如き、 其一芸に偏する者は、目あれども耳鼻口なき者と同じく、恰も心の不具たるを免れず、 不具を形體に咎めて、之を精神に問はざるは、彼の食物を人にして心を他の動物にするもののみ、 心養の法は多芸なるに在り。

  • ルビを独自にふっています。原文にはありません。
  • 「體」と「躰」は、「体」と表記せずにそのままにしてあります。
  • 「蟲」も、「虫」と表記せずにそのままにしてあります。
  • 「特り」は、漢字辞典(『漢語林』)を見たところ、「ひとり」という意味がありましたので、「ひとり」とルビを振ってみました。「独り」の間違い?
  • 発行日は、「明治 31 年 4 月 16 日」とのことです。おそらく初版本でしょうか?
『伝統と革新』所収の「心養」との相違点(【】で括った箇所)
蓋し他の動物の心を察するに【、】
之を得たりと雖も【、】
運動を要するの生理あれば【、】
坐して動かざれば【、】
坐するは敢て不可なけれども【、】
凝るも或は可ならんなれども【、】
左れば体養は静運宜しきを得るにあり【、】
心養は変通を妨げざるに在り【、】
共に人生に欠【ぐ】可らざる
心身の運動と称するもの【、】即ち
即ち是れならん【。】
不具を形体に咎めて【、】