「なぜ『修業立志編』は『福澤全集』に収録されていないのか?」

last updated: 2015-03-13

※「忠孝論」は日原昌造の執筆であることが判明しました。 「杉田聡編『福沢諭吉 朝鮮・中国・台湾論集』(22)」をご参照ください。

このテキストについて

石毛 忠編『伝統と革新―日本思想史の探求』ぺりかん社、  2004 年、  217-235 頁所収の「なぜ『修業立志編』は『福澤全集』に収録されていないのか? ―福澤真筆論説「忠孝論」と「心養」の発掘と関連して―」を転載します。 転載にあたって、当ウェブサイト管理人が文章の一部に手を加えました。 変更点は、次の通りです。

  • 「忠孝論」「心養」に記載されている「くの字点」を、置換しました。
  • 『修業立志編』所収の論説リストは、箇条書きでしたが、表にしました。
  • ウェブサイトへのリンクを生成しました。

はじめに

福澤諭吉に『修業立志編』という単行本があることを知っている人は少ない。その初版は 1898(明治 31)年 4 月に時事新報社から発行されていて、表紙にははっきり「福澤先生著」と印刷されている。時事新報社は 1882(明治 15)年に福澤が設立した新聞社で、それ以降に発表された全著作の版元であるから、『修業立志編』は『学問のすゝめ』にみられたような偽版の類ではありえない。正真正銘福澤諭吉著の単行本であるにもかかわらず、今日まで刊行されたいかなる『全集』や『選集』、さらに『著作集』にも収められたことのない幻の本なのである。論者の調査によれば、『修業立志編』は、全国の大学図書館等に一〇数冊収蔵されていることが確認できるのみである(註 1)。

汗牛充棟たる福澤研究の積み重ねのうちに、このような重大な見落としがあるなどということがあり得ようか、と読者はあるいはいぶかしがるかもしれない。現在一般に広く行き渡っている岩波書店の『福澤諭吉全集』全 21 巻(以下現行版『全集』)は、周到な調査と厳密な校閲で定評があり、編者の富田正文はその労をもって 1965(昭和 40)年度の学士院賞を受賞しているほどなのである。そこに単行本がまるまる一冊脱落しているとしたら、それは由々しい事態といわねばならない。

そこで本論文は、その『修業立志編』とはどのような著作であるかを紹介し、所収の 2 編の論説を翻刻することで、それが『福澤全集』未収録とされた理由の追究することを目的とする。このことが本論集のテーマである、日本思想史における伝統と革新とどのような関係があるのかについては、おいおい明らかになってゆくはずである。

1  忘れられた福澤諭吉の単行本『修業立志編』

今も述べたように『修業立志編』は完全に忘れられた著作となっているのであるが、『全集』において編纂者がついうっかり見落とした結果として未収録となっているわけではない。はっきりと意図的に落としているのである。その経緯を説明するためにはまず『全集』編纂の過程について語る必要がある。

存命中から現在まで福澤の『全集』と称される企画は都合 4 回立てられている。生前の 1898 年に時事新報社から刊行された『福澤全集』 5 巻本、1925(大正 14)年から翌年にかけて国民図書から刊行された大正版 10 巻本と、それへの遺漏を収めた 1933(昭和 8 年)年から翌年にかけての岩波書店刊行の昭和版『続福澤全集』 7 巻本、それから戦後になって 10 巻本と 7 巻本を併せて整備した 1958(昭和 33)年から 1964 年にかけての岩波書店刊行の現行版『福澤諭吉全集』 21 巻本である。

このうち通常明治版と呼ばれている 5 巻本は福澤自身の発案にもとづくもので、その時までに刊行されていた福澤名義の著作が集められている。現行版では第 6 巻所収の『実業論』(1893 ・ 5)までに相当している。『福翁百話』(97 ・ 7)、『修業立志編』(98 ・ 4)、『福翁自伝』(99 ・ 6)などそれ以後の出版物や『時事新報』の無署名論説、さらに書簡は収録されていない。この明治版は約四半世紀の間命脈を保ったが、重要と思われる著作のいくつかが抜けている不便さがあったため、新たに大正版の企画が持ち上がったのである。

大正版の編纂には 3 年前の 1922(大正 11)年まで『時事新報』の主筆を務めていた石河幹明が携わったのだが、そこには明治版未収単行本ばかりでなく、第 8 巻から第 10 巻に「時事論集」として演説筆記および無署名で発表されていた社説と漫言が収められることになった。大正版第 1 巻の「端書」には、「慶應義塾編纂の『修業立志論』(ママ)に載て居る文章は、本集『時事論集』中の各篇に分載せるを以て、別に一冊として収録せず」とあり、さらに同第 8 巻の「時事論集例言」で石河は、

「福澤先生が時事新報創刊以来その紙上に執筆せられたる論説は約五千篇ある可し。編者曾て社説起草の参考に供する為め其主要なるものを抄写して之を坐右に置けり。今回時事新報社が一万五千号の記念として福澤全集を発刊するに際し之を「時事論集」と名けて其中に収録することゝせり」(1 頁)

と述べている。すなわち論説・演説集である『修業立志編』所収の各編は大正版の「時事論集」に入っているため、単独の著作としては第 7 巻以前の巻に収めることをしなかった、というのである。

そもそもこの『修業立志編』は、1898 年 5 月に慶應義塾で一貫教育が開始されるのに合わせて教科書として編纂されたものだった。現行版にはその「緒言」だけが収録されていて、そこには、

「今回学事の改良を計るに就き、日本近時の文体にて綴りたる読本の必要を感じたれども、世間在来の出版書中に適当なるもの少なし。依て老生が是まで右演説館に演説したる其筆記又は時事新報紙上に掲載したる論説等、凡そ少年子弟の為めにしたる文章を集めて一部の読本と為し、仮りに之を少年修業立志編と題して印刷に付したり」(第 19 巻 775 頁)

とある。同年 4 月 14 日付『時事新報』広告欄には、「来る 16 日発行」として「本書は福澤先生が明治 19(1886)年以来慶應義塾々生の為めにせられたる演説又は世の少年子弟の為めに立論せられたる論文」を集めたものである、とある。

収録論説等は全部で 42 編であるが、『時事新報』への発表年月日は表示されていない。現行版の「時事新報論集」にもいずれが『修業立志編』所収のものかは示されていないので、それぞれの題名や冒頭の文から「時事新報論集」のどこに収録されているか一編づつあたってみると、次のような結果が得られた(番号、発表年月日、現行版所在は論者が付した)。

番号論説のタイトル発表年月日現行版所在
1「独立の精神」発表年月日不明全集未収録
2「独立の大義を忘るゝ勿れ(演説)」(91 ・ 8 ・ 2)第 13 巻 166 頁
3「須く他人を助けて独立せしむべし(演説)」(91 ・ 10 ・ 20)第 13 巻 205 頁
4「一身独立して主義議論の独立を見る可し」発表年月日不明全集未収録
5「金銭は独立の基本なり(演説)」(91 ・ 7 ・ 15)第 13 巻 158 頁
6「慶應義塾の懐旧談(演説)」(89 ・ 5 ・ 7)第 12 巻 130 頁
7「銅像開被に就て(演説)」(93 ・ 11 ・ 1)第 14 巻 179 頁
8「人間万事児戯の如し(演説)」(92 ・ 11 ・ 24)第 13 巻 572 頁
9「小心翼々以て大功を期すべし(演説)」(92 ・ 10 ・ 29)第 13 巻 554 頁
10「恃むべきは唯自家の才力あるのみ(演説)」(87 ・ 5 ・ 4)第 11 巻 254 頁
11「学問の要は実学にあり(演説)」(86 ・ 2 ・ 2)第 10 巻 549 頁
12「先づ鄙事に多能なるべし(演説)」(88 ・ 6 ・ 5)第 11 巻 496 頁
13「成学即ち実業家の説(演説)」(86 ・ 2 ・ 18)第 10 巻 554 頁
14「後進生に望む」(88 ・ 5 ・ 7)第 11 巻 481 頁
15「物理学の必要(演説)」(88 ・ 3 ・ 17)第 11 巻 461 頁
16「須く政論の上戸となるべし(演説)」(92 ・ 3 ・ 20)第 13 巻 323 頁
17「人生の楽事(演説)」(93 ・ 11 ・ 14)第 14 巻 195 頁
18「富豪の処世法」(91 ・ 6 ・ 30)第 13 巻 142 頁
19「文明教育論」(89 ・ 8 ・ 5)第 12 巻 218 頁
20「人生の快楽何れの辺に在りや」発表年月日不明全集未収録
21「活発なる楽を楽む可し」(97 ・ 7 ・ 31)全集未収録
22「士流の本分を忘る可らず」(93 ・ 6 ・ 27)第 14 巻 82 頁
23「礼儀作法は忽にす可らず」発表年月日不明全集未収録
24「徳行論(演説)」(86 ・ 3 ・ 4)第 10 巻 572 頁
25「私徳固くして楽事多し」(88 ・ 2 ・ 23)第 11 巻 447 頁
26「徳教は目より入りて耳より入らず」(89 ・ 1 ・ 30)第 12 巻 9 頁
27「徳風を正に帰せしむるの法は其実例を示すに在り」(88 ・ 2 ・ 13)第 11 巻 444 頁
28「忠孝論」発表年月日不明全集未収録
29「先進と後進」(93 ・ 4 ・ 25)第 14 巻 34 頁
30「新旧両主義」(93 ・ 6 ・ 9)第 14 巻 71 頁
31「無学の弊恐る可し」(93 ・ 10 ・ 6)第 14 巻 147 頁
32「実業家の学術思想」(90 ・ 3 ・ 5)第 12 巻 388 頁
33「国は唯前進す可きのみ」(『福翁百話』第 62)第 6 巻 304 頁
34「社会の人心は其尚ふ所に赴く」(93 ・ 3 ・ 14)第 14 巻 9 頁
35「父母は唯其病是れ憂ふ(演説)」(92 ・ 2 ・ 20)第 13 巻 306 頁
36「衛生の要は消化の如何にあり(演説)」(92 ・ 4 ・ 2)第 13 巻 332 頁
37「寿命の大小」(93 ・ 1 ・ 4)第 13 巻 620 頁
38「衛生の進歩」発表年月日不明全集未収録
39「国民の体格と配偶の撰択」(94 ・ 4 ・ 7)第 14 巻 336 頁
40「体育の目的を忘るゝ勿れ」(93 ・ 3 ・ 23)第 14 巻 18 頁
41「心養」発表年月日不明全集未収録
42「英国の学風」発表年月日不明全集未収録

ここで驚かずにはいられないのは、大正版の編纂者である石河幹明は単独の書物としての『修業立志編』を全集未収録としているばかりではなく、そこに収められている論説のうち 9 編を「時事新報論集」のどこにも入れていないということである。つまり「『修業立志論』に載て居る文章は、本集『時事論集』中の各篇に分載」という大正版「端書」の記述はまったくの虚偽であったのである。石河は福澤が自らの署名著作に入れることを許可した論説を独断で全集から外しているのであるから、これは現行版『福澤諭吉全集』全体の信憑性にかかわる問題でもある。

福澤の単行本からいくつかの論説を全集未収録としたことについて、『修業立志編』の編集に携わった弟子の菅学応に福澤が宛てた書簡(1898 ・ 3 ・ 2)の註に次のようにある。

「菅が「時事新報」の社説などを取集めて「修業立志編」と題して編纂し、福澤の著書として出版したときのもの。この編纂物は大部分は福澤の筆に成つた社説であるが、中に二、三の福澤以外の人の執筆したものも混つてをり、且つ福澤執筆の社説はすべて「時事論集」中に採録してあるので、本全集では「修業立志編」は単行本の形では採録しなかつた」(第 18 巻 822 頁)

この註は現行版の編者である富田正文が書いたようになっているが、昭和版『続全集』の当該書簡にもほぼ同文のものが付されている。つまり実際に注記したのは石河ということである。石河は大正版『全集』の「時事論集」に『修業立志編』所収の 9 編を未収録としておきながら、その事実を 8 年後に出された昭和版の「書簡集」まで伏せていたのである。

全集から脱落しているのは「二、三」編ではなく全体の 5 分の 1 を越える 9 編である。とはいえ、未収録とした理由については「福澤以外の人の執筆したもの」であるから、という一応の説明がなされている。問題はそれらが本当に福澤の執筆ではないのかどうかということに移されよう。

それら 9 編の論説は、一人称が「我輩」となっていないため署名論説と考えられる「忠孝論」(1892?)および「心養」の 2 編と、残りの 7 編の 2 つのグループに分けられる。確かに社説の 7 編は社説記者(論説委員)の執筆である可能性が高い。そのうち「活発なる楽を楽しむ可し」は草稿が残っているため北川礼弼の起筆であると確認できる。「独立の精神」、「一身独立して主義議論の独立を見る可し」、「人生の快楽何れの辺に在りや」、「礼儀作法は忽にす可らず」、「衛生の進歩」の 5 編も北川の筆である可能性が高い。「英国の学風」は高橋義雄が書いた『英国風俗鏡』(1890 ・ 12)中の「オクスフォルド大学生」にほぼ同一の部分があるため確実に彼の筆である。これら 7 編はともに内容上は大正版に収められているカテゴリーⅠの論説と重複する部分も多いので、「福澤以外の執筆」という理由の他にとくに排除する理由は見られないように思われる。

しかしそもそも署名論説であったと推測できる「忠孝論」には文中に「忠義については余が文明論之概略中に於て審かに論じた」(『修業立志編』 181 頁)とあることから、また「心養」は文体と語彙からみて、福澤の直筆である(註 2)。つまり別人の筆であるから全集未収録としたわけではないのである。すなわち石河の註にさえも明白な虚偽がある。それとも「福澤執筆の社説」と書くことで、社説として掲載されたのではない「忠孝論」や「心養」の排除を等閑に付したのであろうか。

この 2 編については『時事新報』紙上に「福澤諭吉」名で発表されたと推測できるにもかかわらず、石河はあえて全集から排除している。これらを翻刻するのには相応の意義があると考えられる。

2  『全集』未収録の福澤真筆論説「忠孝論」

この「忠孝論」の発表年月日は不明であるが、内容からいって 1892 年から翌年にかけて行われたいわゆる「教育と宗教の衝突論争」の一環として発表されたように思われる。『修業立志編』の 178 頁から 186 頁にかけて掲載されていて、その各頁は 1 行 30 字 12 行である。句読点は原典の通りとする(註 3(管理人による註))。

忠孝の二字は古来我国の二大主義にして、恰も人間品行の度を測量するの尺度とも云ふべし。忠孝両ながら全しとは、人間最上の品行を評したるものにて、忠ならんとすれば孝なり難しとは、人生至難の場合を形容したる語なり、外に在ては忠、内に在ては孝、此二者をさへ満足に行へば、夫れにて人間の義務を尽し、天の約束を遂げたるものとなし、敢て他を顧みる遑なし。不忠不は人間の最大悪事にして、他に如何なる善行美事あるも、若し忠と孝とに於て一点の瑕瑾あれば、以て全体の品行を損するものとして、世に齢するを得ざる有様なりしと雖も、彼の廃藩置県の後は、世に忠義を唱ふる者少なく、今日に至ては、孝を論ずる学者もなく、恰も我日本人は先祖祖先伝来の二大主義を頓に忘却したる者の如し。蓋し古人の所謂忠義なるものは、人に対するの忠義、即ち其藩主に対するの義心にして、御馬前に討死と云ひ、御主人の身代と云ひ、君辱めらるれば臣死すと云ひ、唯人に対するの行為なるが故に、廃藩の一挙その御主人は今の華族となりて、今日は既に其人なし、其人なきが故に、其人に対するの忠義も亦自から消滅するの道理なり。今日に在ても、無理に今の華族に旧主人の名を付して、忠臣の技を演ぜんとする者なきにあらざれども、こは無智にして正直なる田舎の老人か、然らざれば他に自から為めにする所ありて、外形を装ふ者のみ、固より物の数とするに足らざるなり。然らば則ち忠義の心は之を美とするに足らざるかと云ふに、決して然らず、唯其忠義の方向を変じ、昔年人に対するの忠義心を存して、今日国に対するの忠義に変形せんと余輩の願ふ所なり。但し此国と云へるは、山野河海等有形の国土を指すにはあらずして、其国土に住居する人を総称するものなるが故に、国に忠を尽すとは、即ち其国人に忠を尽すの謂ひにして、再言すれば、人々自から己れの為めに忠を尽すと云ふに異ならず。斯く忠の字を解する時は、或は世に学者の異説もある可けれども、試に思へ、今国権を拡張して我国の独立を維持するは何ぞや、日本国は余輩の自から居住住居する国なり、若しも一朝此国の独立を失ひ、他国人の為めに掠奪されて、他の制御を受くることもあらんには、其影響余輩の身上に及び、大に害を蒙るべきが故に、国権に対して忠を尽すのみ、即ち吾々が身のために忠を尽すのみ、甚だ単一なる事柄にして、其理甚だ明白なり。斯の如く忠義心の働の分界を定めて、外面の虚色を去るときは、忠も亦人間の一大美事にして、之を先天の約束と云ふも可ならん。余輩の解する所にては、忠の字の義斯の如しと雖ども、知字の先生には自から又他の解釈あるべし、若し之あらば、幸に其教を惜む勿れ。但し此忠義の事に就ては、余が文明論之概略に於て審かに論じたれば復た此に贅せず、依て聊か左に孝のことを説かん。

孝行は支那儒教の大本にして、彼の四書五経なるものも、其説く所の大半は孝の一字に在るものゝ如し。孝は百行の本など云へるは、即ち儒教の真面目にして、親に事へて孝なれば、百事成らざるものなく、天下の太平も孝に在り、年の豊荒も孝と不孝とに在り、雪中の竹の子、土中の金釜、皆孝の徳に依らざるものなし、孝行の功徳広大なりと云ふべし。我日本にても、古来子に教ゆるに先づ孝の一字を以てし、其所生の恩に報ずるを以て、人間第一の義務となし、学者は書を著はして孝の徳を述べ、政府は之に賞を与へて、孝行の人を奨励する等、人事の目的は孝の一点に止るものゝ如く然かり。余輩固より孝行を軽んずる者に非ず、啻に之れを軽んぜざるのみか、世に孝行のますます盛ならんことこそ希望する所なれども、古来我国の習俗の如く、唯孝の一事を以て人間の約束となし、此一方にのみ心身を用ひて、更に他を顧ざるが如きは、亦甚だ感服するを得ざる所なり。熟ら人間進歩の様を考ふるに、子は親よりも賢く、親は又其祖父母よりも利にして、代々世々の末となるに随ひ人智も亦益々上達し、以て今の世の中となりたることならん。固より子にして親の智力に及ばず、親にして子に劣る者も少なからずと雖ども、是は常例の外にして、一般の定則と云ふべからず。往古野蛮の時代と、今日文明の様とを比較対照して、今日の人智果して古に優ることあらば、之を人類生々遺伝の積集したるものと云はざるを得ず。去れば此進化の理を信じ、又人生の目的は次第に後生子孫の幸福を増進するに在り、即ち生々の義務なりとするときは、親の子に対する義務を以て重しとせざるを得ず即ち子の孝行より親の慈愛を以て大切とするこそ人類の約束と云ふ可し。今この理を明にせん為め、仮に世の中の人をして、悉皆不孝ならしめ、世は極て乱暴なりとせんに、其有様は殆ど禽獣世界に斉くして、決して羨むべきものならずと雖ども、苟も父母にして自から智徳の能力を維持して、子を愛するの情を失はざるときは、尚ほ其能力を子孫に伝へて、天下後世文明に進むの道ある可し、人類の進化に対しては、孝行の効能甚だ重しと云ふ可らざるなり。之に反して、若しも世に孝行のみ盛にして、子を愛するの慈心なき時は、人生の有様如何なるべきや、祖先遺伝の能力を伝ふる道断絶して、生々之を積集するに由なく、之を積集して世の進歩を来たすに道なく、世は益々澆季に赴き、益々能力の度を減じ、益々退歩して遂には禽獣世界に陥り、天地開闢の始に返るべし。今幸にして其然らざるは、子の孝心よりも、親の愛心に依て維持したるものなりと云はざるを得ず。右は万物進化の理に依て説きたるものなれども、今又人情の赴く所に随て之を考ふるに、親の子に対するの情と、子の親に対するの情と、其情愛の深浅に於て自から差あるものゝ如し。蓋し芝居狂言、裨史、小説抔の仕組を視るに、世人をして最も感動を生ぜしむる所は、浮世の義理に迫りて、父母が其愛子を殺すの一段にあり。政岡の愁歎、寺小屋の段、人をして流涕せしめざるはなし。義理の為めに愛子を殺すは、実に人情忍びざる所にして、此忍ぶべからざるを忍び、人情為し難きを為すの趣向は、即ち作者の巧手段にして其最も得意とする所なり。或は父を殺し、母を刺すの趣向を仕組んで、人の感動を惹起さんとするものあれども、人心に感する所は唯悪漢の悪を悪むのみにして、悲歎の情は之を子殺に比して、大に趣を異にする所あるが如し。左れば子の親に対する情は、未だ之を純精無雑と云ふ可らず。蓋し社会の習俗と、古来の教育とに由て養成したる一種の人情と云ふも可なり。子を持て知る親の恩とは、古人の名句にして、其意味は子を育つるは誠に面倒にして骨の折れるものなるが故に、之を自分の身に引較らべて、己れも斯く我親に骨を折らせ、面倒を掛けたることならんと思へば、実に親の恩は海よりも深く、山よりも高きものなりと心に感ずべしとの意を、句調好く述べたるものなり。然れども苟も世間並の人物にして、己れの子を養育すること面倒なりなどゝ思ふ者はある可らず、既に之を面倒なりと思はざれば、今更親の事を想起して自分の面倒を引較ぶるの理由もある可らず。畢竟古人も人間社会の実際を視察して、動もすれば孝道の盛ならざるを知り、恰も数理を以て人情の発達を責めたるものならん、亦以て人生孝心の純精ならざるを窺ふに足る可し。之に反して、親の子を愛するの情は、教育の助力に依らず、習慣の圧制に拘はらず、天然に発生するものにして、是れぞ純精無雑の至情と云はざるを得ず。左れば今教育の要は、人生の素質に具はる所のものを益々養成して、社会の進歩を利するに在りと聞くからには、孝教固より大切なりと雖も、父母の慈愛は更に大切なるが故に、大に天下の父母を教え、其不慈不愛の罪を責るは、徳教家の当さに務む可き所のものなる可し。

以上が「忠孝論」の全文であるが、先にも述べたように初出年月日は不明である。それを知るためには 1892 年から 97 年までの『時事新報』をくまなく点検していかねばならないのである。

3  『全集』未収録の福澤真筆論説「心養」

次に紹介するのが「心養」であるが、こちらの発表日は「忠孝論」よりもさらに絞るのが難しい。とにかく『修業立志編』の 249 頁から 253 頁までに掲載されている全文を採録する(註 4(管理人による註))。

人世に体を養ふの要あると均しく、亦心を養ふの要あり、体を養ふに食物を用ふるは、凡そ生物の皆然る所なれども、人類ほど其食物の種類多きはなし、獅虎は生肉喰ふべきを知りて、亦その他を知らず牛馬は野草の喰ふべきを知りて、亦その他を知らず。禽獣虫魚おのおの其食とする所は僅に一二に止まると雖も、ママり人間に至ては塩噌肉菜種々雑多にして、酸辛甘苦殆んど択む所なければ、食物の種類多きこと、高等動物の特徴にして、人の人たる所以の一に数ふるも亦敢て不可なきが如し。人の体を養ふに、斯くも多数の食物を要すとせば、心を養ふにも亦多様の趣向を要することならん。蓋し他の動物の心を察するに其食物の種類少なきが如く、其心事も亦狭少なれば、人は多様の食物を喰ふが如く、其心事も亦多様にこそある可きに、若しも或る一方に偏して、他を顧るの余地なしとすれば、是れ既に霊活を欠けるなり、至高なる人類の食を食として、下等動物の心を心となすに近し、体を養ふの法は則ち之を得たりと雖も心を養ふの法は猶ほ甚だ遠しと云ふて可ならん歟。又体を養ふに運動を要するの生理あれば心を養ふにも其運動を要するの心理あらん、坐して動かざれば足に痺を生ずるが如く、凝て解けざれば、心に迷を起す。坐するは敢て不可なけれども足に痺を生ずるは摂生の旨にあらず、凝るも或は可ならんなれども心に迷を起すは既に保心の義に反せり。痺れざるは動かせばなり、之を体養と云ひ、迷はざるは、解けばなり、之を心養と云ふ。左れば体養は静運宜しきを得るにあり心養は変通を妨げざるに在り共に人生に欠く可らざるの須要にして、心身の運動と称するもの即ち是れならん、扨その心を養ふの趣向と云ひ、將た心の運動と云ふは、如何なる事ぞと尋ぬるに、他なし、身に種々の芸を蓄へて、時々その芸に遊ぶにあるのみ。農工商より政事、法律、詩歌、碁将棋に至るまで、人事一切都て是れ芸に非ざるはなし。一人にして其多岐に渉るの能ある者は、多芸の人と称せられ、否らざる者は無芸の人と評せらる。多芸の人は能く移るが故に、心常に凝滞せず、無芸の人は移ること能はざるが故に、心常に偏す。碁打が碁に凝りて親の死に遇はず、詩人が詩に耽りて、人事を忘却するが如きは、極端の事例なれども、世には無芸にして、唯一筋の外に出でざるが為め、或は判断を誤る者、或は幸福を失ふ者、その種類甚だ多し。畢竟その一筋に拘泥するは、初めより多芸に習はず、習はざるが故に、真味を解せず、解せざるが故に顧みざるの過ちにして、若しも彼に是に思ひを百万に馳するの能あらば、心に癖を生ぜずして、行路に渋滞なかるべきのみならず、種々の楽を楽んで、品位はますます高かるべし。今これを身体に喩へんに、楽みの一事にても、目に見るあり、耳に聞くあり、口に味ふあり、鼻に嗅ぐあり、盲者は目の楽みなき者、聾者は耳の楽みなき者、啻に楽みなきのみか、之を称して不具と云ふに非ずや。心の芸に於けるは猶ほ耳目鼻口の楽みに於けるが如き歟、其一芸に偏する者は、目あれども耳鼻口なき者と同じく、恰も心の不具たるを免れず、不具を形体に咎めて之を精神に問はざるは、彼の食物を人にして心を他の動物にするものゝみ、心養の法は多芸なるに在り。

以上が「心養」の全文であるが、具体的な社会・政治状況についてまったく触れていないため、いずれの時期の『時事新報』にあたればよいのか皆目見当がつかない。掲載年月日を知るには 1886 年から 97 年までの紙面全てに目を通さなければならないのである。

4  師・福澤が「革新」で弟・石河が「伝統」である

ここで問題となるのが、『全集』編纂者である石河幹明は手の込んだ細工までしてこれら 2 編を排除したのか、ということである。現行版の「時事新報論集」には、福澤の真筆ばかりでなく、社説記者であった高橋義雄・石河幹明・北川礼弼らが代筆した論説が含まれていることは近年井田進也の研究によって明らかにされつつある。石河が福澤直筆でない論説が含まれていることをもって『修業立志編』を全集未収録としたのにはそもそも無理があったのだが、百歩譲ってそれを認めるとしても、社説記者起筆の 7 編を捨てるのに紛れて福澤真筆の 2 編をも排除したのにはよくよくの理由がなければならないはずである。論者は、石河には福澤の真の姿を知られたくなかった事情があったと想像する。

まず「忠孝論」であるが、福澤はそこで、江戸時代の主君に対する忠を天皇に対するそれとして転換するというありがちな説明の仕方をとっていない。個々の国民がすべての国民を思いやる心を総称して忠と呼んでいるのである。この場合の忠は、ほとんど愛国心と同じ意味である。前近代的忠義概念を近代的愛国概念で読み替えているのである。ここに福澤の革新性が見て取れるように思う。

いっぽうこの論説をあえて全集未収録とした石河は、大正版「時事論集」に自らが書いたと断ったうえで「忠義の意味」(95 ・ 7 ・ 10)を入れている。そこには次のようにある。

忠義とは如何なるものなりやと云ふに、例へば天子蒙塵など云ふの場合に当り、義兵を起して王に勤むるが如き、最も賞賛する所にして、人民が君主の身辺に対して直接に本分を尽すを以て忠義の旨を得たるものと為すが如し。直接の忠義、その功、固より大なり。往々人をして感泣せしむるもの多しと雖も、人間世界の治乱を平均するに、乱世は短くして治世は長し。国中の人民は平時に於て君主に接近す可きに非ざるが故に、若しも右等直接の働のみを指して忠義と認るときは、忠義の区域は甚だ狭くして、然かも闇黒不祥の時代を待て始めて光を放つものと云はざるを得ず。天下豈斯の如きの理由ある可けんや。人々銘々に平素の業を励むの結果、一国全体の文明富実を致して、外に対して国の重きを成し、其国に君臨する帝室の地位をして尊厳光栄ならしむるもの、即ち国民の本分にして、之を人民平時の忠義と認めて実際に間違ある可らず。(現行版『全集』第 15 巻 228 ~ 229 頁)

皇室の尊厳のために日々の仕事に励むことが忠義である、というわけである。福澤自身は忠義の説明に「帝室の地位」などまったく用いようとしなかったのであるから、まさに正反対の伝統的な理解といえよう。石河の忠義の解釈は 1890 年代にあってごく平凡なものであったが、この論説を石河にあえて書かせたなどということがあり得るとも思われない。「忠義の意味」は石河が「忠孝論」の代わりとして大正版に滑り込ませた、福澤とは何の関係もない論説だったのではなかろうか。

次に「心養」であるが、それには石河の高橋・北川ら他の社説記者にたいする自己意識が陰を落としているようである。丸山信編『福澤諭吉門下』(日外アソシエーツ)によれば、石河幹明は、26 歳で時事新報社に入った 1885 年から、63 歳で主筆の座を下りる 1922 年までの在職 37 年の間に、単独の書物を一冊も著していない。1932 年に刊行した『福澤諭吉伝』全 4 巻が唯一の著作といってよく、35 年に出した『福澤諭吉』 1 巻もその短縮版ともいうべきものであった。編纂物も正続『福澤全集』だけである。

石河幹明と高橋義雄はいずれも水戸出身で慶應義塾入学前からの知人であった。その高橋は、在職中の 1884 年に 22 歳で『日本人種改良論』を出版したのを皮切りに、三井銀行・三越百貨店・王子製紙で重役を務めながら、世界見聞記やビジネス本さらに趣味の書物を、1937 年に没するまでの間に、おおよそ 40 冊ほども書いたり編纂したりしている。まさに「多芸の人」であった。

この「心養」を読んだだけでも、福澤が中上川に宛てて書いた 1888 年 8 月 27 日付書簡の中で、「老生の所見にて高橋が一番役に立候」とするいっぽう、「石河はあまりつまらず」と評していた理由が透けて見える。福澤は何かに凝り固まった考え方をする人間を軽蔑していたのである。「世には無芸にして、唯一筋の外に出でざるが為め、或は判断を誤る者、或は幸福を失ふ者、その種類甚だ多し」。その中に自らも含まれていることを石河は敏感に察知したのではないか。あるいは石河はこうした文章を全集に収めることが、何か福澤の品位を落とすように思われたのかもしれない。彼の理解を超えたことであったかもしれないが、実際はそうではないにもかかわらず、である。北川筆の「活発なる楽を楽しむ可し」にも次のようなくだりがある。

活世界の活事務に任じて、恰も千軍万馬の巷に馳駆する者は、一挙一動の間にも、心身を養ふて、後れを取らざるの覚悟こそ肝要なれ、遊戯娯楽も自から快活なるものを選ばざる可らず。例へば暑を避くるにも、単に箱根、日光等に限らず、或は北海道千島の海浜に逍遙し、若しくは一歩を進めて、西伯利の広原を探検するが如き、興味頗る多かる可し。或は深山幽谷を跋渉して、奇鳥異木を採集し、或はボートを浮べ、ヨツトを馳せて、清風を楽しむも亦妙なり。其他騎馬旅行、遠足、射的等、兎にも角にも戸外活発の遊戯を専とせば、身心共に健全となりて、始めて繁劇なる文明の実務に当るに足る可し。(『修業立志編』 145 ~ 146 頁)

ここにはまさにブルジョア的趣味が描かれている。現実の福澤はこうした活動を好み、高橋・北川らとは難なくその気風を共有できたのであった。ところが石河だけは最後までそうした感覚に違和感があったようである。「英国の学風」もまた石河によって全集未収録とされているが、この論説は英国の大学教育は紳士の養成を目的としているということを高く評価したものである。大正版『全集』が編まれた 1925 年の段階では、第一次世界大戦を共に戦った友好国イギリスへの感情はまだ悪くはなかったはずである。ところが石河は『修業立志編』の掉尾を飾っているこの論説を、福澤の執筆ではないからという理由で落としているのである。

これら『修業立志編』所収でありながら現在は読むことのできない 9 編は、大正版「時事論集」に採録されるのが当然だったし、こうした趣味は石河編纂の『福澤諭吉伝』の記述にも反映されるのが好ましかった。しかし石河は自らが編纂している伝記に不都合な『時事新報』論説は、たとえ福澤執筆であったとしてもあえて捨て、後世の人々が容易に読めないようにしてしまったのである。

もっとも、このように正続『福澤全集』には収録されなかった 9 編ではあったが、『修業立志編』自体は教科書として継続して使用されていたため、慶應義塾の学生には広く知られていたのである。それは 1898 年 4 月 13 日の初版の印刷以来、1912(明治 45)年 7 月 3 日までに 27 版が印刷発行されている。その後も重版を続けたらしく、1936(昭和 11)年 3 月 20 日には改版が出されている。二・二六事件の 1 ヶ月後ということになるが、目次では 42 編すべての収録が確認できる。ただしどうやらこの刷りをもって単行本としての『修業立志編』は 38 年の生命を終えたらしい。1935 年の国体明徴の宣言を受けて、天皇中心の日本のあり方を説いた「国体の本義」が各方面に配布されはじめたのは、翌 1937 年 5 月のことであった。

おわりに

本論文集の共通テーマは「日本思想史その伝統と革新」である。論者の思い過ごしかも知れないが、このテーマ設定の底流には、営々と築かれてきた伝統思想を後代の革新的思考が少しずつ穿ってゆき、ついにはその破壊された伝統のうえに革新が新たな時代思潮の基盤を築く、といったような一種の進歩史観があるように感ぜられる。そのような考えには暗黙裏に、伝統を担うのはより古い世代で、革新はより若い世代が推進するという前提があるようだ。

確かに考察の範囲を数世紀といった長いスパンでとった場合にはそうしたことも言えるかもしれない。しかし、30 歳程度の年齢差にすぎない一世代の間では、しばしば逆転が起こるのではなかろうか。師・福澤と弟・石河の関係を見るとき、その果たした役割はまったく反対であった。独立自尊の精神からすべてを解決しようという福澤の革新的思想を、石河は伝統的な国家主義の立場から躍起になって否定しようとしたかに見えるのである。

皮肉なことに、福澤とは正反対の国家観を抱いていた石河は、単に時事新報社に長く在職したという理由によって、慶應義塾から『福澤諭吉伝』の執筆を委嘱され、また自らすすんで正続『福澤全集』の編纂を進めたのであった。これらの編著作物はいわば石河の目から見た福澤の姿なのであるが、それが真実にもっとも近かったのであろうか。そのことについては今後の研究を待たなければならないのである。

註 1

『修業立志編』を所蔵している図書館は以下のとおり。

  • 京都女子大学
  • 駒沢大学
  • 県立奈良図書館
  • 香川大学
  • 大阪大学
  • 鹿児島大学
  • 新潟大学
  • 神戸大学
  • 小樽商科大学
  • 筑波大学
  • 東京学芸大学
  • 東京神学大学
  • 東京大学
  • 東洋大学
  • 同志社大学
  • 国際日本文化研究センター
  • 明治学院大学

(以上 NACSIS Webcat による表示順)。ほかに慶應義塾大学にもある。

註 2

福澤諭吉の文体と語彙に関する研究として、井田進也著『歴史とテクストー西鶴から諭吉まで』(光芒社、2001 年)がある。そこで指摘されている福澤的語彙「均しく」(92 頁)、「ますます」「扨」「喩」(以上 107 頁)の使用がこの「心養」で確認できる。

註 3(管理人による註)

平山氏に伺ったところ、『伝統と革新』所収の『修業立志編』の底本は、「明治 45 年 7 月 3 日印刷発行・ 27 版」とのことです。 このページで掲載しているドキュメントは、『伝統と革新』に掲載されている「忠孝論」を、加除訂正したものです。

なお、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーにて公開されている、『修業立志編』を底本とし、サイト管理人が「忠孝論」をテキストに起こしてみました。ルビもふってみました。

註 4(管理人による註)

平山氏に伺ったところ、『伝統と革新』所収の『修業立志編』の底本は、「明治 45 年 7 月 3 日印刷発行・ 27 版」とのことです。 このページで掲載しているドキュメントは、『伝統と革新』に掲載されている「心養」を、加除訂正したものです。

なお、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーにて公開されている、『修業立志編』を底本とし、サイト管理人が「心養」をテキストに起こしてみました。ルビもふってみました。