「進むの一方あるのみ」
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本文
進むの一方あるのみ
近年我國力は非常の發達にして數に徴するも明白なり第一に貿易輸出額の增進は勿論、各
種の會社の如き數年前に比して更らに面目を改め各處に其數を增したるのみならず漸く規
模を大にして資本百萬圓以上のものは枚擧に遑あらず又從來民間には租税減額の説頗る喧
しかりしに今は反對に增税を唱へて之を事實に見るも毫も負擔に苦しむの色なし戰後經營
の必要に出でたりとは云ひながら畢竟人民の資力に餘裕あるの事實を表するものにして此
數年間の增進に比例すれば今後の進歩はますます速にして如何なる度に達す可きや我輩の
殆んど想像に苦しむ所なり抑も國力の增進は人民の銘々に富みたるの結果に外ならずして
試に一個人の身代を計へたらば從前に比して著るしき增加を見るは疑ふ可らず差當り吾々
の眼に觸るゝ所に就て見るも以前の社會に於ては百萬圓以上の分限は非常の金滿家にして
何十萬圓の身代さへも甚だ多からず世間に富豪の名を成したる次第なりしに近來は何十萬
は勿論、百萬以上のものも决して珍らしからず現に日々身代の增しつゝあるは今日の實際
にして今後ますます其勢を加へて國中幾多の財産家を生じ百萬圓などは最早や計ふるに足
らざるものと爲り千萬圓以上に非ざれば富豪金滿家の名を下さゞるに至ることならん我輩
は現今の有樣より推測して斯る時機の到來甚だ遠からざるを確に信ずるものなり人民の次
第に富んで銘々に身代を起すは取りも直さず國力の增進にして誠に喜ぶ所なれども扨事の
實際に斯る時勢に處する銘々の覺悟は如何す可きやと云ふに進歩の氣運は恰も陽和の氣候
の如し春風駘蕩百花爛漫の好時節無情の草木も均しく東帝の恩を蒙らざるはなし既得の身
代を株守して自から勉めざるも例へば所有の地面株券等は世間の發達に隨ひ自然に價を增
して獨り自から財産の增殖を見ることならん苟も故意に過失を犯さゞれば損するの掛念は
ある可らずと雖も若しも斯くの如く安閑として單に既得のものに安んずるときは假令ひ自
然の勢に連れて身代の增殖を見るも其增殖は一般普通にして僅に財産の幾割を增したるに
過ぎざるに世間にては何十萬のものが何百萬と爲るのみか無一物の素寒貧と輕蔑したる輩
がいつの間にか遽に分限者と爲りて却て侮らるゝなどの奇談も圖る可らず現時の有樣にて
云へば今の十萬圓は昔しの一萬圓と見て實際に相當の次第なれば吾々の身代は何萬圓なり
否な何十萬圓なりなど自から安心して自から富豪を以て誇る其中に何ぞ圖らん世間を顧み
れば續々非常の富豪大家を生じて其何萬圓何十萬圓は只是れ何千圓何萬圓に過ぎざるの實
を發見するともあらん油斷ならぬ時節なりと云ふ可し左れば此時節に際して身代を維持し
て其地位を失はざらんとするには大に動て進むの覺悟こそ肝要なれ動て進むときは自から
危險の掛念もあらんなれども他の人々は勢に乘じて早足に走る其中に或は躓かんことを恐
れて安坐したらんには獨り跡に取殘されて淋しき思を爲すの外なかる可し何人も忍ぶ能は
ざる所なれば苟も世間に後れざらんとせば大に動て進む可きものなり