「海軍々人の端艇競漕」
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時事新報に掲載された「海軍々人の端艇競漕」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
海軍々人は去る十八日を以て隅田川に端艇競漕を催ほしたるに付ては天皇陛下にも親しく御覽遊ばされ滿都の士民蟻の如く群集して川の兩岸に黒山を築き諸艦より撰出されたる士官水兵は萬衆歡呼の間に漕ぎ去り漕ぎ來て互に雄を爭ひ水雷の爆發、擬製軍艦の粉碎、防材の乗越し等種々の餘興もありて近來の壮觀を呈したるは只一時の快樂に過ぎざるが如くなれども其實は然らず海軍々人の名譽を高むると共に廣く世人の腦中に海軍思想を吹込みたる其効能は盖し甚だ大なる可し防材乗越しの事は威海衛攻撃の當時我も人も耳にしたる所なれども抑も防材とは如何なる物にして之を乗越すには如何なる方法を以てするか實驗したるは只當局の軍人のみなりしに今目前に於て一小艇がスラスラと何の苦もなく波間の巨材を乗越したるを見れば自から海軍技術の妙味を感ぜざるを得ず又水雷を以て軍艦轟沈の事も日清戰爭の際、實地に施したる所なれども世人は未だ之を目撃するの機會を得ざりしに今回數隻の軍艦が假令ひ擬製の小艇にもせよ水雷の爆發と共に空中に跳飛ばされ粉微塵と爲りて四方に散亂する凄まじき光景を演じたるに付ては恰も實戰を見るの思なきを得ず特に逞しき水兵が自由自在に小艇を操縱して波上を〓すること飛鳥の如く一上一下一進一退負けず劣らず相競ふ其勇ましき樣を目撃し又三皇族殿下が金枝玉葉の〓〓を忘れて親から舵を操つゝ士官を励ますの威風〓〓〓れ〓誰か感〓〓〓〓〓〓んや其他〓〓〓の〓を〓〓疾走し敷設水〓の中〓に水波を奔〓〓〓時ならぬ〓〓〓〓〓〓が如〓〓〓〓〓〓〓の學術を〓用〓たる〓〓〓〓〓て其〓〓〓〓〓〓海軍の興味を〓はしめたる効能は盖し著しものある可し去れば〓〓の壮遊は年々實行して海軍奬勵の實効を收めんこと何人も希望する所なるに近年絶て其沙汰なかりしは遺憾と云ふ可し聞くが如くんば去る明治二十四年十二月に一たび海軍端艇競漕を催ほして皇太子殿下の行啓を辱うしたれども格別の盛況を呈せず其翌二十五年にも之を實行して皇后陛下の臨御を仰ぎたれども是亦今回の壮觀に比す可くも非ず其後今日まで何等の計畫もなく打過ぎたるは種々の事情に妨げられしが故にして今後とても經費の出處に窮するが爲め毎年實行するは或は難かる可しと云ふ會計法の未だ嚴密ならざりし時代に於ては比類の費用も海軍省の經費中より支出するを得たれども今日に於ては最早や之を官費に仰ぐを得ず過日の費用は海軍人銘々より醵出したるものにして今後之を實行するにも同樣の方法に依りて毎回五千圓内外の金を醵出せざる可らず些少の金高なるが如くなれども豐ならざる軍人の嚢中より年々餘分に是丈けの金を出すは困難の事情なきに非ざる可し然れども今は海軍擴張の際にして端艇競漕の海軍奬勵に及ぼす影響の大なるを知る以上は些少の金錢の爲めに躊躇す可きに非ず萬一費用の出處に差支ふることもあらば廣く世間有志の義捐を求むるも決して妨なかる可し現に今回の催ほしに付ても一二の篤志者より金圓を寄贈したき旨申出でたりとのことなれば若しも競漕事務所に於て義捐を容るゝに於ては喜んで志を致すもの甚だ多かる可し費用の一點は憂ふるに足らざるなり但し軍艦集散の都合もありて三月とか十二月とか時を定めて實行するは困難ならんかなれども年に一度之を催すに差支はある可らず我輩の敢て希望する所なり