「福沢諭吉における国家と個人」

last updated: 2018-11-01

このテキストについて

以下は、2010 年 10 月 9 日(土)・ 10 日(日)の両日に慶応大学(三田)で開催された、日本倫理学会(第 61 回大会)の主題別討議「明治の思想における国家と個人」の発表要旨です。 発表は平山氏のほか、八木公生氏・朴倍暎氏によってなされ、発表後に討議が行われました。掲載にあたり、平山氏の指示により、漢数字をアラビア数字に変換するなど、最小限の修正が加えられています。

当日の発表の音声ファイルを公開しています(6.7MB)。

この発表の論文版は 『アジア独立論者福沢諭吉』(2012年ミネルヴァ書房刊)に収録されています。

発表要旨

福沢諭吉における国家と個人

平山 洋(静岡県立大学)

1.教育勅語は大層なものなのか?

大層なものだと人が言うから、そうかもしれないと漠然と信じつつ、でもやっぱりどこが大層なの? という印象しか残らない文章がある。教育勅語はそうした凡庸文の最たるものである。そのものを読む限り、教育勅語は明治天皇が国民に向けて発した、ありきたりな徳目実践の勧めにすぎない。輔弼者の副署はないから、法令の要件を満たすことはなく、強制力はない。天皇の言葉を軽んずることは社会慣習上許されなかったから、奉読される場合には、ははっ、と頭を垂れていればそれで終わりである。

内村鑑三不敬事件はどうなるのか、御真影と勅語謄本を校舎の火災から救うために殉職した小学校の校長の話はどうなるのか、と人はあるいは問うかもしれない。この両件についての後世への伝承は、思うに大仰すぎる。

前者は、明治 24(1891)年、第一高等中学校の非常勤講師だった内村が、教育勅語奉戴式の席上、勅語謄本に最敬礼しなかったことをもって指弾され、ついには退職に追い込まれた事件であるが、不敬事件と通称されるものの、いわゆる不敬罪とは無関係である。内村を糾弾したのは生徒と一部教師であり、敬礼は宗教儀礼でないと確認のうえ再実施した内村を学校当局は懲戒することはできず、退職は依願によるとされているが、退職届けの署名が果たして本人なのかどうかも怪しい。要するに、内村不敬事件の実態は、よくある学校内部の勢力争いにすぎないのである。

後者は、大正 10(1921)年、偶然発生した校舎火災の際に重要書類を持ち出そうとした校長が殉職した事件が発端となっている。その不幸な事件を、新聞が、御真影・勅語謄本を救い出そうとして殉職した、と美談調で報道したため、以後殉職する校長が続出した。その対応策として建設されたのが、御真影と勅語謄本を収める耐火収納庫奉安殿の建設である。小学校では年 5 回の式日(紀元節・天長節・原始祭・神嘗祭・新嘗祭)に教育勅語の奉読が義務づけられていたが、奉安殿建築後は、そこから御真影と勅語謄本を取り出して式場(講堂)に据えるところまでが新たに儀式化された。つまり、御真影を運ぶ校長が、天皇の代役を務めたのである。この儀式化は、明治時代の記憶も薄れてきた大正の末頃に始まった。

毎年 5 回、奉安殿から恭しく取り出されて、職員・生徒の前で奉読された、というのがいわゆる教育勅語体制の全てであって、それ以上でも以下でもない。教育勅語が大層なものとなったのは、むしろ第 2 次世界大戦後のことである。その一番大きな原因は、教育学者海後宗臣の保身と、戦前の教育をことさらに悪いものと記述したがる言論界の風潮だったと思われる。

紙幅の都合もあるのでここでは海後についてだけ言うなら、終戦までの海後は、国民精神文化研究所員として、後は東京帝国大学文学部教育学科の助教授として、国民精神総動員運動に邁進していた。戦後GHQのパージを受けずにすんだのは、その時点では小物だったからだ。昭和 22(1947)年に教授に昇進、2 年後に新設された東大教育学部の事実上初代の学部長となった。このようにして海後は戦後民主主義教育の旗手の一人となったわけだが、自分の戦前の活動を、抗しきれない巨大な力によって、やむなくそのようにした、と弁明したのである。同時に彼は、近代教育史の権威として教育勅語の詳細な成立史を刊行し、弟子たちも師に倣えということで、多数の教育勅語研究を発表した。かくして教育勅語は戦前の教育界を覆うリバイアサンとなったのである。

2.教育勅語に言及しなかった福沢諭吉

教育勅語は発表当初はべつに大層なものではなかったから、福沢諭吉が全集全 21 巻において、一度も勅語に言及していないのは特段奇異なことではない。内村不敬事件をきっかけにして、帝大教授井上哲次郎とキリスト教徒との間に、いわゆる「教育と宗教の衝突」論争が起こったが、福沢率いる時事新報は反儒教・非キリスト教の立場だったため、いずれにも与しなかった。教育勅語についての福沢の考えを間接的に知ることができる手がかりとして、全集未収録の社説「教育に関する勅語」(明治 23 年 11 月)がある。その内容は、要するに、明治天皇が国民の風紀の乱れを憂慮して普遍的徳目を奨励したことは評価できる、政府当局者は従来までの朝令暮改を反省して、風紀の向上に務めてもらいたい、というものである。大正版と昭和版の正続全集の編纂者である石河幹明はこの社説を再録していないので、福沢の論説とはされていない。おそらく執筆したのは石河だろうが、そこには福沢自身の考えが反映されていると考えられる。

教育勅語の内容に賛同しているなら、それをもっと賞揚してもよいはずであるが、福沢がそうしなかったのは、彼がその実際の起草者である井上毅を特に嫌っていたからだ、と私は推測する。井上は明治 6(1873)年頃から大久保利通の懐刀となり、大隈重信と福沢諭吉が目指していた英米を日本の近代化のモデルとする方針の邪魔をしていた。それが最も顕著に現れたのが明治 14(1881)年政変なのであるが、そのことは後で触れる。

また、福沢没後においても慶應義塾は、永らく御真影と教育勅語謄本の下賜を願い出ることはなかった。その両者が塾監局(事務局)に設けられた奉安室に安置されたのは昭和 13(1938)年 2 月になってからで、慶應義塾にはそれまで学祖福沢諭吉の肖像画はあっても、天皇の肖像が飾られたことはなかったのである。

3.教育勅語への応答としての福翁百話・百余話・修業立志編

教育勅語では 12 の徳目が奨励されている。大日本帝国憲法下では勅語を明治天皇じきじきのお言葉とみなす、というのがお約束だったため、井上哲次郎を初め多くの人々が、畏れながら、とこの教育勅語の解説本を書いている。明治 23(1890)年から昭和 14(1939)年まで、そのその数は 306 に及ぶ。とはいえ解説本の作者たちは、そこで明治天皇の真意なるものを明らかにしようとしたわけではなく、要するに自分自身の道徳観を、天皇の口を借りて広めようとしただけである。12 の徳目自体は、神道・儒教・仏教・キリスト教いずれの立場からも是認できるもので、政府はどの立場からの解説本であってもその刊行を許した。そうなると、福沢自身が勅語の解説本を書いてもよかったわけだが、そうはしなかったのは、玉座の陰に隠れつつ論敵を追い落とすような真似はしたくなかったからである(実例、井上哲次郎)。

とはいえ、福沢は福沢なりに、12 徳目の解釈を、その後の著作で展開している(注1)。要するに福沢は、公言することなく教育勅語の解説本を書いていたわけだ。すなわち、孝行(徳目 1)とは、親を乗り越えて子供が成長することである。兄弟の友愛(徳目 2)は、親が子を平等に扱うことで実現できる。夫婦の和(徳目 3)は、相互に尊敬することから始まる。朋友の信(徳目 4)は、社会生活を営む上での基礎である。謙遜(徳目 5)は卑屈とは違って内に矜持を秘めている。博愛(徳目 6)は、文明社会実現のための必須の条件である。修業習学(徳目 7)には、まず実学を旨として、個人が独立し一国が独立するための基礎をつくる必要がある。知能啓発(徳目 8)にあたっては、科学的分野の修得を中心にする。徳器成就(徳目 9)で目指すべき人格とは、西洋人に対しても恥ずかしくないものでないといけない。公益世務(徳目 10)とは、国民として政府の運営を正しく導くことである。遵法(徳目 11)として法律を遵守しなければならないのは、それが国民の公心をあらわしているからだ。義勇(徳目 12)により公に奉ずるとは、国民が国家に忠を尽くすのではなく、国民が国民自身に忠を尽くすことと捉えるべきだ。

こうした徳目の解釈は、従来までの儒学による理解とは甚だしく異なっている。一言で言うなら少々バタくさい。福沢は徳目の再解釈をおこなうにあたって、徳目をいったん英語に訳し、ついでその意味を日本語に移し替えて記述しているように思われる。

4.交詢社憲法草案への応答としての大日本帝国憲法

福沢にとって、大日本帝国憲法や教育勅語を作った伊藤博文(長州)や井上毅(肥後)は、郷里豊前中津近くの似たり寄ったりの境遇のもとに生まれ育った年少者にすぎなかった。明治 8(1875)年の演説「政府と人民」の中で、福沢は維新前の伊藤を、「縁の下を逃げ回っていた無頼者」と呼んでいる。もとは大隈重信(肥前)の部下の伊藤が台頭したのは、明治 6 年の征韓論争のときに、薩摩の大久保利通に味方したのがきっかけだった。以後は内務省(警察)に自分の勢力を広げ、明治 11 年に大久保が暗殺されると、維新当時は長州出身者の最後尾だった伊藤の序列は、いつしか長州第一位になっていた。上には筆頭参議の大隈がいるだけである。

そんなときに起こった明治 14 年の政変の本質は、大隈と福沢の弟子たちが知恵を絞って作った交詢社憲法草案の採択を伊藤らが阻止した、というところにある。交詢社憲法草案は、すでに郵便報知新聞紙上に連載されて広く知られていた。そこでは、大きな力をもつ衆議院から推薦された人物を天皇が首相に任命する、と定められ、しかもその首相は閣僚を天皇に推薦できる、とある。完全な議院内閣制度が採用されている実質的なその中身は、日本国憲法から第 9 条を省いたものといってよいほどである(坂野潤治説)。

大隈と福沢の勢力を政府内部から排除した伊藤は、翌明治 15 年からドイツに憲法調査のため留学しているが、それは要するに、立憲体制に移行するのをなるだけ遅らせるということを目的としていた。大日本帝国憲法は、交詢社案では不可分離とされていた内閣と議会を分けて、とくに内閣の力を強化したものであるが、個別の条文は交詢社案の換骨奪胎といってよい。立憲体制に移行するのに、7 年もの期間をかける必要はなかったのである。

交詢社案から大日本帝国憲法への書き替えにあたっては井上毅が深く関係していたが、福沢らが維新前から協同していた肥後実学党と対立していた肥後学校党の流れを汲む者として、福沢や大隈の自由主義思想は政府の力を弱体化させ政権の運営を不安定にする、という信念に基づいていた。

5.朝鮮独立の支援者としての福沢諭吉

福沢のモットー「一身独立して一国独立す」は、万人万国に適用される。彼は朝鮮国の独立と近代化を強く支持し、慶應義塾に朝鮮人留学生を多く迎え入れ、また朝鮮独立党の指導者金玉均らの活動を後援した。修業立志編中の論説「須く他人を助けて独立せしむべし」は、日本人塾生相互の助け合いを勧めているが、同様のことは、朝鮮人に対しても、また朝鮮国そのものに対しても等しく奨励されたのである。

福沢がアジアへの侵略を提唱していた、という見解は、昭和 40(1965)年代に流布されはじめたもので、福沢存命時はもとより、没後 30 年までまったく存在しなかった。明治 18(1885)年の「脱亜論」など、侵略論者としての福沢像を根拠づける無署名の時事新報社説が、昭和版続全集に収められたのは昭和 8(1933)年になってからだからである。朝鮮の独立提唱者から侵略論者への福沢像の転換には、時事新報論説主幹で弟子の石河幹明が関係している。その石河によって続全集に採録されなかった福沢自筆草稿残存の社説に、明治 27(1894)年の日清戦争直前に掲載された「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」がある。福沢がその頃日本の一部から出始めていた朝鮮併合論に反対していたことは、それを見ればはっきりと分かる。

脚注

(1)
福翁百話』、『福翁百余話』、『修業立志編