福沢諭吉のアイヌ民族観―朝鮮人観と比較して

last updated: 2018-10-26

このテキストについて

平山氏の依頼により、2018年10月20日に北海道網走市東京農業大学オホーツク校舎で開催された韓国日本近代学会での発表「福沢諭吉のアイヌ民族観―朝鮮人観と比較して」をアップロードします。

なお平山氏より、

「発表冒頭部で触れている黒瀧先生の講演とは、同学会大会の基調講演「日本の近代化と北海道ー榎本武揚と明治維新」(黒瀧秀久東京農業大学生物産業学部教授)のことで、その内容は同氏著『榎本武揚と明治維新』(岩波ジュニア新書)とほぼ同じです。基調講演後私の発表を聴いてくださった黒瀧教授に感謝します」

とのメッセージがありました。

発表要旨

福沢諭吉のアイヌ民族観―朝鮮人観と比較して

静岡県立大学 平山 洋

福沢諭吉のアイヌ民族観については、『文明論之概略』(1875)中の「野蛮」の説明としてある次の記述がおそらくはもっとも近い。すなわち、「居に常処なく食に常食なし。便利を遂ふて群を成せども、便利尽くれば忽ち散じて痕を見ず。或は処を定めて農漁を勤め、衣食足らざるに非ずと雖ども器械の工夫を知らず、文字なきには非ざれども文学なるものなし。天然の力を恐れ、人為の恩威に依頼し、偶然の禍福を待つのみにて、身躬から工夫を運らす者なし。これを野蛮と名く。文明を去ること遠しと云ふ可し」(巻一)。福沢自身はアイヌ民族(蝦夷人)と実際に交流したことはなかったが、幕臣時代に蝦夷地開拓に携わった人々と親しかったため、彼らからの情報をもとに、すでに西欧の思想界で一般化していた「文明」「半開」「野蛮」の区別をアイヌ民族にも適用したのである。

「文明」「半開」「野蛮」の3分類はあくまで西洋文明を基準にしての区別であるから、西洋文明をもって文明の本質と考える福沢の立場からすると、朝鮮は日本もともに「半開」に属している。すなわち、「農業の道大に開けて衣食具はらざるに非ず。家を建て都邑を設け、其外形は現に一国なれども、其内実を探れば不足するもの甚だ多し。文学盛なれども実学を勤る者少く、人間交際に就ては猜疑嫉妬の心深しと雖ども、事物の理を談ずるときには疑を発して不審を質すの勇なし。摸擬の細工は巧なれども新に物を造るの工夫に乏しく、旧を脩るを知て旧を改るを知らず。人間の交際に規則なきに非ざれども、習慣に圧倒せられて規則の体を成さず。これを半開と名く。未だ文明に達せざるなり」(巻一)というのが朝鮮と日本の現状であった。

福沢によれば、1870年代の朝鮮は日本とともに「半開」の位置にいるが、今後西洋文明の移入に努めれば「文明」へと至るのである。その「文明」とは、「天地間の事物を規則の内に籠絡すれども、其内に在て自から活動を逞ふし、人の気風快発にして旧慣に惑溺せず、身躬から其身を支配して他の恩威に依頼せず、躬から徳を脩め躬から智を研き、古を慕はず今を足れりとせず、小安に安んぜずして未来の大成を謀り、進て退かず達して止まらず、学問の道は虚ならずして発明の基を開き、工商の業は日に盛にして幸福の源を深くし、人智は既に今日に用ひて其幾分を余し、以て後日の謀を為すものゝ如し。これを今の文明と云ふ。野蛮半開の有様を去ること遠しと云ふ可し」(巻一)というもので、朝鮮も日本もいまだその地位には達していないのであった。

福沢は一般に言われる中華文明、すなわち儒教による文明の価値を低く見ていて、朝鮮が「文の国」であることを認めはするも、それをいくら極めたところで「半開」から脱することはできないと考えていた。ではアイヌ民族について、彼らが「野蛮」から抜け出せないと考えていたかというと、そんなことはない。ただ時間はかかるとみていて、『徳育如何』(1882)では、「人の智徳は教育に由て大に発達すと雖ども、唯其発達を助るのみにして、其智徳の根本を資る所は、祖先遺伝の能力と其生育の家風と其社会の公議輿論とに在り。蝦夷人の子を養ふて何程に教育するも其子一代にては迚も第一流の大学者たる可らず」と述べている。

19世紀の当時にあっては、「獲得形質は遺伝しない」という今日の常識はいまだ常識とはなっていなかった。そのため、この遺伝能力の劣位についてのアイヌ民族への偏見を福沢自身の人間性に帰することはできない。福沢は当時の常識からそう述べたに過ぎず、その主張の本質はといえば、環境という出発点の差についての残念な真実の指摘にあったものと考えられる。

資料

音声