「福沢諭吉のアイヌ民族観―朝鮮人観と比較して(論文版)」

last updated: 2018-12-21

このテキストについて

平山氏よりの依頼により、「福沢諭吉のアイヌ民族観—朝鮮人観と比較し て」(論文版)をアップロードします。

福沢諭吉のアイヌ民族観―朝鮮人観と比較して(口頭発表版)も公開しています。

なお、安川寿之輔氏の立場については、次のサイトを参照してください。

本論文完成の報告を兼ねて、安川氏にメールが送られています。

本文

はじめに

この論文の目的は福沢諭吉のアイヌ民族観の特質を、その朝鮮人観と比較することで明らかにすることにある。ここでアイヌ民族観について焦点をあてる理由は、近代国家としての日本が成立するにあたり、アイヌ民族が当然に日本国籍を有する唯一の異民族となったことが、福沢の日本人観に影響を与えたかもしれないと考えたからである。

福沢のアイヌ民族観についての関心は意外に新しく、最初に言及したのは杉田聡(2015)(注1) であった。杉田は「福沢が信じた遺伝絶対論」を説明するにあたり、彼のアイヌ言及を引用している。

さて、『時事小言』を通じてかく国権拡張に向けた戦術が定まり、遺伝絶対論はその後も執拗に説かれる。「先天遺伝の有力なるは決して欺くべからず、また争うべからず」(⑧57f.)(注2)と論じて、後の朝鮮論・中国論を思わせる、民族差別的な例に福沢は言及する。すなわち、「北海道の土人の子を養いてこれに文を学ばしめ……辛苦教導するも……わが慶応義塾上等の教員たるべからざるや、明らかなり」(⑧58)と。(『天は人の下に人を造る』59、60頁)

杉田が引用している『時事新報』初年の「遺伝之能力」(18820325,27)(注3)には草稿は残っていないものの、比較的信憑性の高い大正版全集(1925,26)に収録されていることから、福沢本人の執筆とみてよい社説である。

その後安川寿之輔(2016)(注4)と杉田(2016)(注5)がこの問題について扱っている。とりわけ後者は「アイヌに対する視線」として項目を立てて福沢のアイヌ観について詳述している。杉田はそこで「遺伝之能力」の内容を紹介した後、

ここで福沢がアイヌを無知蒙昧で幼稚な民と見ている点は、重大である。福沢がどこまで子細を知っていたかは不明だが、福沢の死の前々年(一八九九年)には「北海道旧土人保護法」が制定され、アイヌの土地所有をふくめた基本的な権利が、大幅に制限されたからである(井上勝②一七六以下)。その時期に『時事新報』が特に同法について報じたあとは見られないが、福沢のアイヌに対する見方は、『時事新報』の報道姿勢を決したに違いない。(『福沢諭吉と帝国主義イデオロギー』66頁)

と福沢のアイヌ民族観と「北海道旧土人保護法」との関連を示唆している。

杉田と安川によれば福沢はアイヌ民族に対して強い差別意識をもっていたとのことであるが、北海道に行ったことがない福沢がアイヌ民族と実際に交流したという物的証拠は今のところ出てきていない(ただし東京での接触の可能性については後に述べる)。通常差別意識とは、自らの集団とは異なる他者との接点においてあらわになるものである。杉田や安川の指摘は、私には奇妙なことのように思われる。

そこで本論文は、まず1において福沢のアイヌ民族への言及を抽出し、ついで2では福沢の文明観について説明する。そして3では野蛮とされたアイヌ民族観と半開野蛮が混在している朝鮮人観について概観し、4では朝鮮人の評価が半開と野蛮を揺れ動く理由について考察する。

1 福沢著作で言及されるアイヌ民族

福沢のアイヌ民族観について近年になるまで注目されてこなかった理由は、おそらくはその言及がわずかであるためである。試みに慶應義塾のHPにある「デジタルで読む福沢諭吉」で検索すると、「アイヌ」の用例はなく、全部で5カ所ある「蝦夷人」「北海道の土人」がそれに相当しているとわかる。

その最初の用例は『文明論之概略』(1875)にある。

譬へば今支那の有様を以て西洋諸国に比すれば之を半開と云はざるを得ず。されども此国を以て南阿非利加の諸国に比する歟、近くは我日本上国の人民を以て蝦夷人に比するときは、これを文明と云ふ可し。(第二章「西洋の文明を目的とする事」、④18)

これは文明の相対性について説明している部分で、西洋諸国を文明に位置づけると支那(中国)は半開になってしまうが、アフリカ諸国と比較すれば文明となる、また同じく半開とされる日本の上層をアイヌ民族と比較すれば文明となる、ということで、西洋諸国を基準にすればアイヌ民族は野蛮となることが暗に示されている。

2つ目の用例も『文明論之概略』にあって、松前藩によるアイヌ民族の取り扱いは文明開化と呼ぶに値するかが問題とされている。

第一 爰に一群の人民あり。其外形安くして快く、租税は薄く力役は少なく、裁判の法正しからざるに非ず、懲悪の道行はれざるに非ず。概してこれを云へば、人間衣食住の有様に就ては其処置宜しきを得て更に訴ふ可きものなし。然りと雖ども、唯衣食住の安楽あるのみにて、其智徳発生の力をば故さらに閉塞して自由ならしめず、民を視ること牛羊の如くして、これを牧しこれを養ひ、唯其飢寒に注意するのみ。其事情、啻に上より抑圧するの類に非ずして、周囲八方より迫窄するものゝ如し、昔日松前より蝦夷人を取扱ひしが如き是なり。これを文明開化と云ふ可き乎。この人民の間に智徳進歩の有様を見るや否。(第三章「文明の本旨を論ず」、④39,40)

ここでもアイヌ民族自体を野蛮とするかについては議論は避けられているのであるが、引用文中の「人民」(アイヌ民族)の様態は後に触れる野蛮の定義に一致するので、福沢は彼らを野蛮とみなしていたことは確かである。

以上が『文明論之概略』中の2つのアイヌ民族への言及であるが、次は7年後の明治15年(1882)になってからである。3つ目の用例となるのが杉田も引いている3月発表の「遺伝之能力」で、アイヌ民族に関する全文は、

北海道の土人の子を養て之に文を学ばしめ、時を費し財を捐てゝ辛苦教導するも、其成業の後に至り我慶應義塾上等の教員たる可らざるや明なり。蓋し其本人に罪なし、祖先以来精神を錬磨したることなくして遺伝の知徳に乏しければなり。(⑧58)

となっている。著書『天は人の下に人を造る』の中で杉田は「時を費し財を捐てゝ」と「其成業の後に至り」、さらに「蓋し其本人に罪なし」に始まる最終部を省略していることがわかる。

4つ目は5月刊行の『帝室論』で、

日本内地の人民と北海道の土人とを比較するときは、内地は文明にして北地は不文なりと云うべし。如何となれば内地は人事繁多にして北地は簡約なればなり。内地の人民は三度の食事するに毎人に膳椀と箸とを備へて、北地の土人には往々是れなきものあり。(⑤284,285)

とある。そして最後の5つ目は10月刊行の『徳育如何』である。

人の智徳は教育に由て大に発達すと雖ども、唯其発達を助るのみにして、其智徳の根本を資る所は、祖先遺伝の能力と、其生育の家風と、其社会の公議輿論とに在り。蝦夷人の子を養ふて何程に教育するも、其子一代にては迚も第一流の大学者たる可らず。(⑤354,355)

見られるように「遺伝之能力」と『徳育如何』のいずれもアイヌ民族の子供に教育を施しても限界があるという内容で、学問をすればいくらでも伸びる可能性があるとしていた10年前の『学問のすすめ』とは異なった立場であるようにも見える。

明治15年に3回アイヌ民族に触れたのを最後に、以後は彼らへの言及はなくなってしまう。それはそれとして興味深い問題ではあるものの、その点について考察するのは後回しにするとして、次に福沢自身の文明観を概述することにする。

2 福沢の文明観―野蛮・半開・文明

よく知られているように福沢は世界のどの地域であろうとも人間は野蛮から半開を経て文明にいたると考えていた。この考えは当時の西洋社会で広く受け入れられていたもので、直接にはギゾーの『ヨーロッパ文明史』(1828)に由来している。福沢の文明観がもっとも体系的に示されているのが代表的著作『文明論之概略』(1875)で、そこでの野蛮・半開・文明の定義は次のようなものである。

まず野蛮とは、

居に常処なく食に常食なし。便利を遂ふて群を成せども、便利尽くれば忽ち散じて痕を見ず。或は処を定めて農漁を勤め、衣食足らざるに非ずと雖ども器械の工夫を知らず、文字なきには非ざれども文学なるものなし。天然の力を恐れ、人為の恩威に依頼し、偶然の禍福を待つのみにて、身躬から工夫を運らす者なし。これを野蛮と名く。文明を去ること遠しと云ふ可し。(第二章「西洋の文明を目的とする事」④17)

という状態のことを言う。ついで半開とは、

農業の道大に開けて衣食具はらざるに非ず。家を建て都邑を設け、其外形は現に一国なれども、其内実を探れば不足するもの甚だ多し。文学盛なれども実学を勤る者少く、人間交際に就ては猜疑嫉妬の心深しと雖ども、事物の理を談ずるときには疑を発して不審を質すの勇なし。摸擬の細工は巧なれども新に物を造るの工夫に乏しく、旧を脩るを知て旧を改るを知らず。人間の交際に規則なきに非ざれども、習慣に圧倒せられて規則の体を成さず。これを半開と名く。未だ文明に達せざるなり。(第二章「西洋の文明を目的とする事」④17)

という状態である。さらに文明とは、

天地間の事物を規則の内に籠絡すれども、其内に在て自から活動を逞ふし、人の気風快発にして旧慣に惑溺せず、身躬から其身を支配して他の恩威に依頼せず、躬から徳を脩め躬から智を研き、古を慕はず今を足れりとせず、小安に安んぜずして未来の大成を謀り、進て退かず達して止まらず、学問の道は虚ならずして発明の基を開き、工商の業は日に盛にして幸福の源を深くし、人智は既に今日に用ひて其幾分を余し、以て後日の謀を為すものゝ如し。これを今の文明と云ふ。野蛮半開の有様を去ること遠しと云ふ可し。(第二章「西洋の文明を目的とする事」④17)

という段階のことである。

これらの定義と照らし合わせてみると、アイヌは野蛮に、日本・朝鮮・清国は半開に位置づけられるというのだが、福沢は文久2年(1862)の欧州派遣のおりに上海にも立ち寄っているので、アジアの半開という評価には彼の経験的な裏打ちがあったといえる。それに対してアイヌ民族との接触は記録されていないが、幕府時代に蝦夷地開拓に携わった榎本武揚らと交流していたため、彼らからの情報をもとに判断したと推定することは可能である。

ここで注意するべきは、野蛮・半開・文明の3分類はあくまで西洋文明を基準にしての区別であるため、西洋文明をもって文明の本質と考える福沢の立場からすると、清国・朝鮮と日本はともに半開に属してしまうことである。安川や杉田は清国や朝鮮を半開としたことを福沢のアジア蔑視の証拠と見なすのであるが、半開というのなら日本も同じ位置にあるということに彼らは触れようとしない。(注6)

洋学者たる福沢は中華文明(儒教による文明)の価値を低く見ていて、清国や朝鮮が「文の国」であることを認めはするも、それをいくら極めたところでそれだけでは半開から脱することはできないと考えていた。(注7) 今後西洋文明の移入に努めれば真の文明へと至ることができるというわけである。また、明言は避けられているとはいえ、事実上アイヌ民族を野蛮としたことについても、福沢の個人的な差別意識に根ざすものではなく、単に当時の西洋諸国の価値観を踏まえていたにすぎないのである。

その証拠として明治13年(1880)に英国で刊行されたイザベラ・バードの『日本奥地紀行』(注8)があげられる。バードは明治11年の8月から9月にかけて北海道を旅行してアイヌ民族と交流したのであるが、そこで彼らを野蛮と見なしつつ、次のように述べている。

アイヌが文明化していない民族の中では高い位置を占めることは疑うべくもない。だが、最も荒々しい遊牧民族と同様で、教化することはまったく不可能であり、文明と接触しても堕落させるだけである。数人のアイヌの若者が東京に送られていろいろ教育や訓練を受けたものの、蝦夷に戻ってくるとすぐに未開の状況に逆戻りしてしまい、残ったのは日本語の知識だけだった。彼らには多くの点で魅力があるが、その愚かさと無関心、見込みのなさには嘆かわしいものがある。そしてなお一層嘆かわしいのは、その人口が再び増えそうなことである。<体躯>が非常にしっかりしているので、現在のところはこの民族が絶滅しそうな様子はない。(『完訳日本奥地紀行』3、138頁)

アイヌ民族の若者に教育を施しても無駄である、というこのバードの見解は、紀行が公にされて2年後にあたる明治15年の福沢の発言と正確に呼応している。慶應義塾図書館にはこのバードの紀行の初版本が所蔵されているのであるが、福沢が刊行直後にこの本を読んだという証拠は今のところ発見できていない。ただ確実に言えることは、野蛮なるアイヌ民族の若者を教育するのには限界があるというバードの指摘には経験的な裏打ちがあって、それが福沢の見解とも一致しているということである。

3 野蛮としてのアイヌ民族と半開野蛮が交差する朝鮮人

バードの紀行文の記述から、さらに別の事実が見えてくる。それは福沢とアイヌ民族が直接接触した可能性があることである。引用文中の「数人のアイヌの若者が東京に送られていろいろ教育や訓練を受けた」とは、北海道開拓使が東京に設置した仮学校附属北海道土人教育所に関する言及なのである。

この学校については廣瀬健一郎(1996)(注9) による詳細な研究があって、その冒頭に次のようにある。

開拓使は1872年5月、東京府芝(現、東京都港区)の増上寺に設置した開拓使仮学校附属北海道土人教育所(以下、北海道土人教育所と略記)と、東京府下渋谷村(現、東京都渋谷区)に設置していた開拓使第三官園(開拓使官園と略記)にアイヌを強制的に入学・入園させた。北海道土人教育所では主に読・書といった学科を教授し、開拓使官園では農業を指導した。しかしながら、帰郷を願い出る者が多く、1874年7月、退学ないし帰省を希望したアイヌ全員を帰道させ、北海道土人教育所を廃止した。開拓使官園では翌8月、帰省者を再び東京に連行し農業指導を開始しようとしたが、応じたアイヌは皆無であった。(『北海道大學教育學部紀要』第72号、90頁)

北海道土人教育所の所在は芝増上寺境内の北端にあたり、三田の慶應義塾(すなわち福沢邸)からは真北にほぼ1キロの距離である。そこに明治5年5月から同7年7月までの2年間、20数名のアイヌ民族の青年たちが起居して教育を施されていたのである。『文明論之概略』(1875)が執筆されていたのと同じ時期のことで、そこでのアイヌ民族への言及の背景に、彼らとの接触の経験があった可能性が出てきた。というのは、教育所の教科書として福沢の『啓蒙手習文』(1871)が採用されていたことにより、その教育効果の確認のために自ら視察に赴いたとしても不自然ではないからである。当時の開拓使次官は榎本武揚の助命運動に際して親しくなった黒田清隆で、教育所設立にあたって福沢に相談があったのかもしれない。

いろいろと手を尽くして調べてはみたものの、福沢がアイヌ民族と接触した証拠はついに見つけられなかった。そのため、明治15年(1882)に2回ある、「アイヌ民族の青年への教育効果には限界がある」旨の発言が、単なる想像によるのか、実際の経験に由来しているのか、それともイザベラ・バードの紀行文の受け売りなのかについては、いずれが正しいかの判断はつかない。ただ、アイヌ民族の教化の困難については、バードや福沢だけでなく他の関係者も等しく証言していて、福沢の偏見とばかりはいえないのである。

それに、杉田や安川は、福沢の見解は何をしても無駄という「遺伝決定論」として批判するのであるが、よくよく読んでみると、福沢は彼らの教育がまったく無意味だと言っているわけではなく、習得の速度が遅い、と述べているにすぎないことがわかる。すなわち、『徳育如何』(1882)には、「蝦夷人の子を養ふて何程に教育するも其子一代にては迚も第一流の大学者たる可らず」(⑤355)とあって、次代以降の一流学者への道は閉ざされていないのである。

このように福沢は、アイヌ民族について、彼らが野蛮から抜け出すのに時間がかかるとみていた。というのは、19世紀後半の当時にあっては、「獲得形質は遺伝しない」という今日の常識はいまだ常識とはなっていなかった。そのため、この遺伝能力において劣位とするアイヌ民族への偏見を福沢自身の人間性に帰することはできないのである。福沢は当時の常識からそう述べたに過ぎず、その主張の本質はといえば、環境という出発点の差についての残念な真実の指摘にあったと考えられるのである。

それでは『文明論之概略』(1875)において、ともに半開の位置にあるとされた朝鮮と日本の前後関係はといえば、それは、前述のように西洋文明摂取の進捗状況にのみよっている。すなわち、朝鮮の開国は日朝修好条規(1876)を起点とするのに対して、日本の場合は日米修好通商条約(1858)を出発点とするので、日本のほうが先行しているというわけである。ところが奇妙なことに、いったん半開と判定されたはずの朝鮮について、野蛮とか地獄などと評する場合がある。

人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。 我輩は此国を目して野蛮と評せんよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と云わんと欲する者なり。 而して此地獄国の当局者は誰ぞと尋るに、事大党政府の官吏にして、其後見の実力を有する者は即ち支那人なり。(「朝鮮独立党の処刑後編」『時事新報』(18850226)⑩225)

福沢のアイヌ民族観が一定であるのに対して、朝鮮人観は半開と野蛮が交差している。以下ではその理由について考察する。

4 福沢の朝鮮人観が変動するのはなぜか

福沢の朝鮮人観が変動するのはなぜなのであろうか。まず第1の解釈として、朝鮮を半開とする社説と野蛮とする社説では書き手が異なっていた可能性があげられる。というのは、拙著『福沢諭吉の真実』(2004)(注10)の刊行以来、現行版全集の「時事新報論集」には福沢の弟子が執筆した社説が含まれていることは常識となっていて、野蛮とする無署名の社説の作者を検討する必要が出てきたのである。

そこで「デジタルで読む福沢諭吉」で調べてみたところ、福沢の署名入りの著作中には朝鮮を野蛮とする用例はなかった。半開については日清戦争後に刊行された『福翁百話』(1896)に「半開の名を附すべき支那朝鮮等の国情」(⑥346)とあるのが朝鮮と結び付けられている半開の唯一の例で、その他の半開は支那あるいは亜細亜が実例としてあげられている。いずれにせよ署名著作中に支那や朝鮮を野蛮とする用例はない。そうだとすると朝鮮を野蛮としたのは福沢が経営していた新聞『時事新報』の記者だったのかもしれない。

ところがこの解釈1には問題がある。というのは、署名著作には収録されていないものの、福沢作であるのが確実な文章中にも朝鮮を野蛮とする記述があるのである。論者としては先にも触れた「朝鮮独立党の処刑後編」は語彙と文体からいって福沢真筆と判定する。また、福沢作と確認されている『時事新報』以外の新聞論説にも朝鮮を野蛮とする用例がある。すなわち、

近日世上に征韓の話あり。一と通り聞けば伐つ可き趣意もなきに非ず。野蠻なる朝鮮人なれば必ず我に向て無禮を加へたることもあらん。道理を述て解すこと能はざる相手なれば、伐つより外に術なしと云ふ説もあらん。加之これを伐たんと云ふ輩は敢て私心を挾むに非ず、愛國盡忠の赤心を事實に顯はさんとすることなれば、一概に之を咎む可らずと雖ども、國を愛するには之を愛するの法なかる可らず、忠を盡すには之を盡すの路を求めざる可らず。其法と路とを求るには、心を靜にして永遠の利害を察すること最も緊要なり。彼の手足の怪我を見て狼狽するが如きは思慮の足らざる人と云ふ可し。朝鮮交際の利害を論ずるには先づ其國柄を察せざる可らず。抑も此國を如何なるものぞと尋るに、亞細亞洲中の一小野蠻國にして、其文明の有樣は我日本に及ばざること遠しと云ふ可し。(「亜細亜諸国との和戦は我が栄辱に関わりなきの説」『報知新聞』(18751006)⑳145)

とあって、「野蠻なる朝鮮人なれば」とか「亞細亞洲中の一小野蠻國」と書かれている。『報知新聞』は福沢の弟子が経営していた新聞で、社説の前に福沢の執筆である旨の注記がある。この社説が発表された明治8年は『文明論之概略』発表の年でもあって、そこで福沢は、支那(清国)や亜細亜を半開としていた。ここでとくに朝鮮が野蛮とされていたとなると、福沢は清国と朝鮮とを区別して、朝鮮を清国より低く見ていたことになる。

このように福沢作の論説にも朝鮮を野蛮とする用例があるとなると、解釈1は成り立たなくなる。ただ解釈1は不成立とはいえ、それにもさらに反論が可能である。それはすなわち、野蛮なる朝鮮という表現は、現状に対する福沢の憤りや、作者としての福沢以外の見解を示しているのではないか、と解釈できることである。

詳しく読んでみるならば「朝鮮独立党の処刑後編」での野蛮は、甲申政変(1884)の関係者への厳罰に憤っている部分で使われている。第3節の最後に引用した部分のすぐ前には次のようにある。 

壮大の男子を殺すは尚忍ぶべしとするも、心身柔弱なる婦人女子と白髪半死の老翁老婆を刑場に引出し、東西の分ちもなき小児の首に縄を掛けて之を絞め殺すとは、果して如何なる心ぞや。 尚一歩を譲り老人婦人の如きは識別の精神あれば、身に犯罪の覚えなきも我子我良人が斯る身と為りし故に、我身も斯る災難に陥るものなりと、冤ながらも其冤を知りて死したることならんなれども、三歳 五歳の小児等は父母の手を離るるさえ泣き叫ぶの常なるに、荒々しき獄卒の手に掛り、雪霜吹き晒らしの城門外に引摺られて、細き首に縄を掛けらるる其時の情は如何なるべきや。 唯恐ろしき鬼に掴まれたる心地するのみにして、其索の窄まりて呼吸の絶ゆるまでは殺さるるものとは思わず、唯父母を慕い、兄弟を求め、父よ母よと呼び叫び、声を限りに泣入りて、絞索漸く窄まり、泣く声漸く微にして、終に絶命したることならん。 (「朝鮮独立党の処刑後編」⑩225)

また、「亜細亜諸国との…」での朝鮮を野蛮とする用例は、福沢の意見とは異なる征韓論者の見解を紹介する部分で使われている。すなわち「野蛮なる朝鮮人」の前に「一と通り聞けば」とあって、「野蛮なる朝鮮人」から「伐つより外に術なし」までは征韓論者の台詞なのである。また、「亞細亞洲中の一小野蠻國」の前には「尋るに」とあって、ここから「及ばざること遠し」までは福沢の問いかけへの征韓論者の回答である。つまり朝鮮を野蛮としているのは福沢の見解ではない。

朝鮮を野蛮とする事例を個々に検討してみれば、福沢はその文明の段階を半開からさらに引き下げたわけではないと分かるのであるが、イデオロギー的色彩を帯びた次の解釈2もまた依然として有力である。その解釈とは、福沢は日朝修好条規締結後当初は朝鮮国と協同歩調を取ろうとしていたが、甲申政変支援の失敗を経て、後には朝鮮侵略論者へと意見を変えたのではないか、その際半開国を侵略するのでは理が立たないので野蛮国へと格下げしたのではないか、というのである。この解釈2は第二次世界大戦後の左翼陣営によって唱えられたもので、直接には石河幹明の『福沢諭吉伝』第3巻(注11) の影響下にある。

この解釈2を補強するのが杉田のいう「遺伝絶対論」で、福沢が優生学の泰斗ゴルドン作『遺伝的天才』(1869)に感化されて朝鮮人の遺伝的劣位を確信し、その文明度の引き下げを図った、というのである。『時事小言』(1881)に紹介されているため明治13年(1880)頃に福沢がゴルドンを読んでいたのは確実である。杉田も指摘するように、この本の内容は相当に怪しげで、有力政治家の子供が政治家になりやすいのは事実だとしても、それは遺伝的形質によるのではなく単に取り巻きによる「曳き」のせいではないか、というような誰でも思いつくような反論にさえ答えていない。福沢はこの本に依拠して「遺伝之能力」を書いていて、その中でアイヌ民族の子供に教育を施すのはほとんど無意味であると述べている。そうなると、この時期を境に朝鮮人の日本人に対する遺伝的劣勢とでもいうべき事実を確信して、朝鮮を半開から野蛮に落としたという見解にもっともらしさが加わることになる。

しかし、この解釈2についても反論が可能である。すなわち 全集への採否を問わずに『時事新報』掲載の論説を追ってみると、朝鮮国は半開国と扱われることが多いものの、時折野蛮と評される場合があって、時期的にはっきり区切られるものではないのである。現に日清戦争後の作である『福翁百話』(1896)には「半開の名を附すべき支那朝鮮等の国情」(⑥346)とある。最晩年にも、朝鮮の独立を擁護する社説「朝鮮独立の根本を養う可し」(18980504・全集未収録)がある。

我輩は一歩を進めて此際朝鮮の開發に盡力せんことを望む。其次第は元來朝鮮の盛衰は日本の安危に一方ならぬ影響を及ぼすものなり。若しも衰弱の極、自から倒るゝか或は他の強國に侵略せらるゝこともあらんには、日本は恰も丸裸にて風雨に晒さるゝの姿と爲るに反して、富強獨立を全うするに至れば貿易も繁昌して相共に利すると同時に、互に藩塀と爲りて自から立國の易きを見る可し。

石河幹明によって全集載録を見送られたこの社説が福沢によるものであることは、別のところですでに発表している。(注12) そこでの福沢の立場は『文明論之概略』(1875)の時代と変わりはないもので、先行する半開国としての日本は朝鮮の独立を支援することで共存共栄を図るべきだ、というのである。ここには朝鮮を野蛮とする視線などみじんも感じられない。福沢自身の言葉によるかぎり、朝鮮は最晩年にいたるまで一貫して半開に位置づけられているのである。

以上を踏まえて、時折現れる朝鮮を野蛮とみなすありかたを、国としては半開という立場と整合的に理解しようとするならば、解釈3として次のような結論を導くのが妥当となろう。すなわち福沢は朝鮮の国としての発展段階を一貫して半開としながら、そこでの政策に過酷な側面があった場合、為政者たる朝鮮国の指導部を野蛮と評したのではないか、いうことである。そして、たとえそのように評価したとしても、福沢に朝鮮人蔑視の感情があったとは言えないばかりか、そこに侵略への意志を見ることもできないのは明らかなのである。

おわりに

本論文の目的は、福沢諭吉のアイヌ民族観の特質を朝鮮人観との比較から明らかにすることにあった。 とはいえ、福沢によるアイヌ民族への言及は著作中で5ヵ所にしかなく、そこからうかがわれる福沢のアイヌ人観は、慎重に明言は避けられてはいるものの、野蛮と見なしてしていたと判断できる、という程度のことであった。ただしそれは、イザベラ・バードの紀行文にあったように、当時の一般的な文明観を反映した評価にすぎないのである。いっぽう朝鮮については『文明論之概略』(1875)以来晩年の『福翁百話』(1896)まで半開で一貫していて、国の発展段階を野蛮とした事実は確認できなかった。

そもそもアイヌ民族観に焦点をあてようとした理由は、近代国家としての日本が成立するにあたり、アイヌ民族が当然に日本国籍を有する唯一の異民族となったことが、福沢の日本人観に影響を与えたかもしれないと考えたからである。ところが、アイヌ民族への言及は、回数が少ないばかりか、期間としても明治8年(1875)と明治15年(1882)の2年の間にしかなく、その後については何とも言えないのである。次々に起こる政治経済問題に注意が向いて、福沢はアイヌ民族についての関心を失ってしまったのかもしれない。杉田は「北海道旧土人保護法」(1899)との関連を示唆しているが、福沢本人に由来する文献ばかりか、『時事新報』全体を見渡してもアイヌ民族への言及を見つけられないため、同法と福沢を結びつける根拠は薄弱と言うしかない。

杉田は福沢のゴルドン受容によって民族的偏見が強まったと書いている。ところが、こと朝鮮人に対しては、あるいは慶應義塾に入学してきた留学生たちの体躯の立派さを目にしたことによってなのか、その受容後にむしろ評価を上げているほどである。「遺伝之能力」の5ヵ月後の社説「朝鮮政略備考」(18820811)では、「朝鮮国の人民を日本国人に比較すれば、身幹壮大にして食料も多く膂力強きが如し。我輩は之を見て羨ましきことと思(ふ)」(⑧280)と述べている。先にも触れたように、ゴルドンの所説は怪しげではあるが、その受容によって福沢は、日本人の遺伝的純潔を守るために他民族との混血を防ごうとするのではなく、逆に体躯の優れた人種との混血を奨励しさえしたのである。(注13)このような動きは、杉田の主張する日本民族の優越性に基づく他民族蔑視への傾斜とは逆の方向を向いている。

民族としての血統の純潔については重要視していなかった福沢は、アイヌについても、民族問題は同化によってやがては解消されると考えていたのではなかろうか。民族個々の文化伝統の維持の観点からするならば、そうした考えはあるいは由々しき無関心ということになるかもしれない。しかし、あくまで西洋文明の移入こそが最優先課題であると見なしていた文明論者福沢としては、そう判定するのが必然だったように思われるのである。(終)

脚注

(1)
『天は人の下に人を造る―「福沢諭吉神話」を超えて』2015年1月、インパクト出版会刊。以下、著者名または著作名に続く括弧内は発表年を示す。
(2)
『福沢諭吉全集』(1958年から1964年・岩波書店刊、以下現行版)第8巻57頁を示す。本文中でもこの形式を準用する。
(3)
1882年3月25日、27日掲載であることを示す。
(4)
「「ヘイトスピーチの元祖」福沢諭吉の「土人」発言」『さようなら!福沢諭吉』第2号(2016年11月・安川寿之輔発行)25頁。
(5)
『福沢諭吉と帝国主義イデオロギー』2016年12月、花伝社刊。
(6)
そればかりか、拙著『福沢諭吉の真実』と『アジア独立論者福沢諭吉』(2012年7月・ミネルヴァ書房刊)によって完全に否定された「アジア蔑視論者にして帝国主義者」としての福沢を批判し続けている。とくに『アジア独立論者』は、安川の『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(2006年7月・高文研刊)と杉田の『福沢諭吉朝鮮中国台湾論集』(2010年10月・明石書店刊)への反論となっているのだが、安川・杉田はともに「福沢本人と確認できる文章からはアジア蔑視も帝国主義も導出できない」という拙著の主張に応答していない。
(7)
西洋文明の受容は未だしではあるものの、中華文明伝承の国として見るならば、福沢による朝鮮の評価は高い。『学問のすすめ』九編には「我日本の文明も、其初は朝鮮、支那より来たり」(➂89)とあり、『文明論之概略』第九章「日本文明の由来」には、「養蚕造船の術、織縫耕作の器械、医儒仏法の書、其他文明の諸件は、或は朝鮮より伝(う)」(④149)とある。また、『時事小言』には、「往古、蕃匠とて朝鮮より大工を雇うて之に学び、又今の日本の大工道具も多くは朝鮮より舶来したるものとの事」(⑤211)とか、「漢学も最初は朝鮮より舶来したりとの事」(⑤212)とか、「千百年の後より今日吾人が西洋を師と為したる有様を見たらば、千百年の以前、我先人が朝鮮に学びたるの趣に異なること無かるべし」(⑤212)とある。
(8)
金沢清則訳『完訳日本奥地紀行』3(2012年11月・平凡社刊)。
(9)
「開拓使仮学校附属北海道土人教育所と開拓使官園へのアイヌの強制就学に関する研究」『北海道大學教育學部紀要』第72号(1996年12月・北海道大學刊)89~119頁。
(10)
2004年8月、文藝春秋社刊。
(11)
満州事変勃発半年後の昭和7年(1932)4月に岩波書店から刊行されたこの『福沢諭吉伝』第3巻が、21世紀の現在にいたる、帝国主義者にしてアジア蔑視者としての福沢像の種本になっている。この巻は主としてそれまでの明治版福沢全集(1898)・大正版福沢全集(1925,26)に収録されていなかった『時事新報』の無署名社説によって構成されている。しかし『福沢諭吉伝』の刊行後に出された昭和版続福沢全集の「付記」によれば、その多くを石河幹明本人が執筆したとのことである。詳しくは拙著『福沢諭吉の真実』第四章「一九三二年の福沢諭吉」を参照のこと。
(12)
「時事新報社説の起草者推定―明治24年10月~明治31年9月―」(日本思想史学会大会発表・2015年10月18日・於早稲田大学)「時事新報社説問題の最終的解決-『福沢諭吉全 集』改訂の試み」(日本思想史学会大会発表・ 2016年10月30日・於関西大学)
(13)
人種改良論の嚆矢とされている『時事新報』社員高橋義雄の『日本人種改良論』(1884)について、福沢はその活動を積極的に支援した。この混血の勧めには同時代には加藤弘之が、後代には徳富蘇峰が強く反発した。蘇峰による批判については、拙論「石河幹明は不誠実な「仕事」をした―都倉武之論文への応答とその他のことども―」『国際関係・比較文化研究』第17巻第1号(2018年9月・静岡県立大学刊)縦25~44頁を参照のこと。