「意地悪な英国・明朗な米国-福沢が見た二つの国-(口頭発表版)」

last updated: 2018-12-28

このテキストについて

2018年3月29日に武蔵野大学(東京都)で開催さ れた日本イギリス哲学会での発表 「意地悪な英国・明朗な米国-福沢が見た二つの国-」 の発表要旨と資料及び音声を、平山氏の了解のうえアップロー ドします。

「意地悪な英国・明朗な米国-福沢が見た二つの国-(論文版)」も公開しています。

発表要旨

日本イギリス哲学会シンポジウムⅡ近代日本とイギリス思想―「明治150年」をめぐって

意地悪な英国、明朗な米国-福沢が見た二つの国-

静岡県立大学 平山 洋

まずは私たちが暗黙裏のうちにに前提としている事柄が、じつは確固たる根拠をもたない、ということについて。というのは、「近代日本」がメインタイトルに、元号「明治」がサブタイトルに使われているところから見て、この二つに何やら密接な関係があると捉えられがちな常識、そのものの誤解についてである。

近代日本という言葉からは、一般には西洋近代文明を受け入れた日本という漠然としたイメージが想起される。福沢諭吉や新島襄が明治維新(1868年)の後に日本の西洋文明化を提唱したためにそう受け取られてしまうわけだが、明治維新の英訳がMeiji Restrationであることからも分かるように、明治とは単に長州藩尊王攘夷派が王政復古の象徴として選んだ言葉にすぎなかった。つまり明治という元号と日本の近代化(西洋文明化)とは元来無関係なのである。

福沢諭吉が目指した西洋文明国としての近代日本の祖型は、明治よりもむしろ慶應にあった。慶應(西暦1865年5月1日~1868年10月22日)という最後の和年号は、禁門の変(西暦1864年8月20日)で朝敵長州軍を撃退した禁裏御守衛総督徳川「慶」喜に「應」えるという意味を含んでいた。幕府はその時点で西洋的近代化政策を実施しつつあり、旗本福沢諭吉はその方針に従って、自ら教育機関(後の慶應義塾)を創設して人材を育成しようとしていたわけである。

その核となるのがイギリス思想(さらにその変容態ともいうべきアメリカの思想)で、彼は三度の外遊(1860年米国サンフランシスコ、1862年欧州、1867年米国ワシントンDCとニューヨーク)の経験から、先ず何より精神において西洋人と同等の人材の必要を痛感したのであった。

となると、その場合モデルとなるべき国は英国なのかそれとも米国なのか、という問題が生じるのは当然のことである。英国は立憲君主国であり、皇室制度をもつ日本としては将来的にそうした政治体制に移行しなければならないというのは、福沢の維新前からの宿願であった。しかし国家全体として英国が望ましいかといえば、そこでの生活を実際に経験してみると居心地のよいものではなかったのである。英国の中上流階層のもつ植民地人や庶民階層への差別意識や、実際に直面した彼らへの過酷な扱いは、福沢ら外交使節団一行を不愉快にした。慶應義塾のモデルとして直接にはロンドンのキングスカレッジ中等部を選んではみたものの、あり得べき社会のモデルとして、彼が望ましいと感じたのはむしろ米国だったのである。

1860年春、咸臨丸でサンフランシスコに到着した福沢の見たのは、「極楽世界」とでもいうべきものだった。2年後に経験した欧州のようには階層差別が激しくはなく、肉体労働にも相応の敬意が払われている米国のあり方を、福沢は社会のモデルとしたいと考えたのである。後年二人の息子の留学先として選んだのも英国ではなく米国の東部であったし、米国の中流階層へのある種無邪気な信頼感を終生抱き続けたのでもあった。

具体的な思想家についていうと、福沢は自らを日本のベンジャミン・フランクリンたるべく振る舞った。フランクリンは科学者であると同時に新聞社主で、さらに社交クラブ・学会・大学の創設者でもあった。『学問のすすめ』は日本版『貧しいリチャードの暦』として大々的に売れ、福沢が望んだアメリカ型日本人の育成に大きく寄与した。それと同時に英国的手堅さの一典型として、マシュー・アーノルドの批評方法論にも強い影響を受けたのだった。

資料

意地悪な英国、明朗な米国ー福沢が見た二つの国ー

日本イギリス哲学会第42回研究大会シンポジウムⅡ近代日本とイギリス思想ー「明治150年」をきっかけに

於武蔵野大学有明キャンパス・2018年03月29日

静岡県立大学 平山 洋

(1) 「明治維新」についての3つの誤解

① 「維新」とはRestrationの意味で、元来は西洋文明化を志向していない : もとは長州藩攘夷派のスローガン

② 「明治維新」とは明治天皇による神武創成への回帰を目的にしている : 1867年旧12月の王政復古クーデタにより実権を掌握した薩長とりわけ長州の政府要人が主唱

③ 近代化を唱える「五箇条の誓文」(1868年旧3月)は、新政府内旧公武合体派(旧佐幕派)による旧攘夷派への牽制のため : 明治新政府は一枚岩ではなかった

参考:五箇条の誓文

一廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ 一上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ 一官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス 一舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ 一智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

(2)福沢諭吉(1835~1901)の文明開化構想

①福沢の思想遍歴 : 西洋軍事学から経済的人間育成へ

②3度の西洋経験 : 1860年米カリフォルニア、1862年欧州、1867年米東部

③西洋文明移入の主体としての江戸幕府 : 慶應義塾(前身)はもともと幕府立総合大学への登竜門としての位置づけ

④日本の西洋文明化を図るのは欧州行以後 :まずは人材の育成が必要 「和魂洋才」ではなく「洋魂洋才」 社会制度の西洋化

(3)模範国の探求

①福沢は社会制度と人間育成とを区別する : 社会制度としては立憲君主国 人間育成としては米国の進取の気性の移入

②『西洋事情』(1866年刊)が幕末の改革家に与えた影響力は甚大 : 赤松小三郎「口上書」・坂本竜馬「八策」・由利公正ら「五箇条の誓文」・山本覚馬「管見」など

③『西洋事情』の核心「文明政治の六条件」: 1、自主任意 2、信教自由 3、科学技術 4、学校教育 5、産業育成 6、福祉向上

④どうすれば日本で六条件は実現できるか: ミドルクラスの創出 日本風アメリカン・マインドの醸成

参考:文明政治の六条件(『西洋事情』冒頭より要約)

第一条件、自由を尊重して法律は寛容を旨とすること 第二条件、信教の自由を保障すること 第三条件、科学技術を奨励すること 第四条件、学校を建設して教育制度を整備すること 第五条件、法律による安定した政治体制のもとで産業を振興すること 第六条件、福祉を充実させて貧民を救済すること

(4) 意地悪な英国ーだが制度は真似しないとー

①当初モデルとしてドイツ同盟(1815~1866)を想定 : 『福翁自伝』によれば欧州行では後の外相寺島宗則とそう語り合っていた

②英国議会を見学して驚愕する : 日本にも会議はあった、でも議会はない 多数決に従うことの意義 立法や予算も議会の主管

③社会福祉や病院の運営システムに感心する : 欧州行での福沢の担当は海軍と病院制度の調査

④英国社会のもつ嫌な部分も体感 : 露骨な階級制度 政治家になる道は当時の日本よりも狭い

参考:議会を見ての驚愕(『福翁自伝』より)

例えばコヽに病院と云うものがある、所でその入費の金はどんな塩梅にして誰が出して居るのか、又銀行と云うものがあってその金の支出入は如何して居るか、郵便法が行なわれて居てその法は如何云う趣向にしてあるのか、仏蘭西では徴兵令を励行して居るが英吉利には徴兵令がないと云う、その徴兵令と云うのは、そもどう云う趣向にしてあるのか、その辺の事情が頓と分らない。ソレカラ又政治上の選拳法と云うような事が皆無分らない。分らないから選拳法とはどんな法律で議院とはどんな役所かと尋ねると、彼方の人は只笑って居る、何を聞くのか分り切った事だと云う様な訳け。ソレが此方では分らなくてどうにも始末が付かない。又党派には保守党と自由党と徒党のような者があって、双方負けず劣らず鎬を削って争うて居ると云う。何の事だ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をして居ると云う。サア分らない。コリャ大変なことだ、何をして居るのか知らん。少しも考えの付こう筈がない。彼人と此人とは敵だなんと云うて、同じテーブルで酒を飲んで飯を喰って居る。少しも分らない。ソレが略分るようになろうと云うまでには骨の折れた話で、その謂われ因縁が少しずつ分るようになって来て、入組んだ事柄になると五日も十日も掛かってヤット胸に落ると云いうような訳で、ソレが今度洋行の利益でした。

(5)英国の意地悪さは封建日本に通じる

①福沢は英国を意地悪な国だと感じたが、国内的には当時の日本と似ている : 自由と議会制の導入を早急に実現すれば、追いつくことも可能と判断

②日本のほうが上をいっている部分もある : 身分制は同様でも庶民階層の秩序意識は日本が上 御しやすい国民性は産業育成にとっての利点

③1867年の第2回米国行で大量の英書を購入 : 欧州行で得た知識が『西洋事情』に反映 第2回米国行ではより具体的になる  『フランクリン自伝』の精読

参考:福沢の西洋批判(『学問のすすめ』第15編より)

西洋の文明もとより慕うべし。これを慕いこれに倣わんとして日もまた足らずといえども、軽々これを信ずるは信ぜざるの優に若かず。彼の富強はまことに羨むべしといえども、その人民の貧富不平均の弊をも兼ねてこれに倣うべからず。日本の租税寛なるにあらざれども、英国の小民が地主に虐せらるるの苦痛を思えば、かえってわが農民の有様を祝せざるべからず。西洋諸国、婦人を重んずるの風は人間世界の一美事なれども、無頼なる細君が跋扈して良人を窘しめ、不順なる娘が父母を軽蔑して醜行を逞しゅうするの俗に心酔すべからず。

されば今の日本に行なわるるところの事物は、はたして今のごとくにしてその当を得たるものか、商売会社の法、今のごとくにして可ならんか、政府の体裁、今のごとくにして可ならんか、教育の制、今のごとくにして可ならんか、著書の風、今のごとくにして可ならんか、しかのみならず、現に余輩学問の法も今日の路に従いて可ならんか、これを思えば百疑並び生じてほとんど暗中に物を探るがごとし。この雑沓混乱の最中にいて、よく東西の事物を比較し、信ずべきを信じ、疑うべきを疑い、取るべきを取り、捨つべきを捨て、信疑取捨そのよろしきを得んとするはまた難きにあらずや。

(6)明朗な米国―人間はこうでなくっちゃ―

①第1回米国行、1860年春のカリフォルニア体験 : 将軍継嗣問題で殺伐としていた日本から咸臨丸で米国に

②個人的に親しくなった米国人2人がまた立派だった : 咸臨丸に同乗していた米国海軍大尉ブルックとサンフランシスコでの世話役商人ブルックス氏  さらにメーアアイランド海軍工廠指令マクドーガル大佐と交流する

③帰国後の報告書に「米国は極楽世界」と書く : 米国には身分制がない 実力主義が貫徹されている

参考:アメリカ人が横領するわけがない(『福翁自伝』より)

是で安心であるとした所で、此方では軍艦一艘欲しい。夫から諸方の軍艦を見て廻わって、是れが宜かろうと云いって、ストーンウオールと云う船、ソレが日本に来て東艦となりましたろう、この甲鉄艦を買うことにして、その外小銃何百挺か何千挺か買入れたけれども、ソレでもマダ金が彼方に七、八万弗ドルラル残て居る。是れは亜米利加の政府に預けて置いて、その船を廻航するに付いて、私共は先に帰ったが、海軍省から行った人はアトに残って、そうして亜米利加の船長を一人雇うて此方に廻航することになって、夫れで事が済んだ。丁度船の日本に着いたのは王政維新の明治政府になってから、即ち明治元年であるが、その事に就いて当時会計を司どって居た由利公正さんに遇って後に聞いた所が、ドウもあの時金を払うには誠に困まった、明治政府には金がない。如何うやら斯うやらヤット何十万弗拵らえて払ったと云う話を私が聞て、ソレは大間違いだ、マダ幾らか金が余って彼方に預けてある筈だと云うたら、爾うかと云って、由利は大造驚いて居ました。何処にドウなったか、二重に金を払たことがある。亜米利加人が取る訳わけはない、何処かに舞込んで仕舞うたに違いない。

(7)英国と米国、どう組み合わせて移入するか

①『西洋事情』、幕末政治提言のネタ本となる : 赤松小三郎と山本覚馬が上申した大政奉還論の中身は福沢訳米国憲法だった

②1863年から66年にかけての福沢自身の政治活動がどうであったかは不明 : いわゆる慶應の幕政改革に参画していたのではないか(平山の推測)

③明治維新後は、政治体制は英国流、人間育成は米国流とはっきり定めて活動 : 『英国議事院談』『帝室論』『国会論』等と『学問のすすめ』(フランクリン由来)『分権論』(トクヴィル由来)等の対照性  方法としてのマシュー・アーノルドの批評主義

参考:交詢社案私擬憲法(平山洋「福沢諭吉における国家と個人」(2011)より)

明治十四年の政変の本質は、大隈と福沢の弟子たちが知恵を絞って作った交詢社憲法草案の採択を伊藤らが阻止した、というところにある。交詢社は今でこそ銀座の社交倶楽部ということになっているが、元々は来るべき立憲体制に備えて、憲法草案を作るために設立されたと考えられる。その正式な発足日は明治十四年政変の一年九ヶ月前の明治十三年一月二十五日で、幹事には元佐賀藩主鍋島直大、参議員(役員)として元外国奉行栗本鋤雲(旧幕臣)、五箇条の誓文の起草者の一人である由利公正(越前)、大隈の弟子である小野梓(土佐)、三菱の岩崎小二郎(土佐)が加わっていた。

憲法草案を実際に練ったのは、小幡篤次郎・矢野文雄・小泉信吉・馬場辰猪ら福沢門下生で、その内容は以下の通りである。すなわち、天皇は神聖不可侵とされる一方で、政務全般については首相が全責任を負う議院内閣制度が採られている(第二条)。首相ほか大臣は元老院(貴族院)か国会院(衆議院)の議員でなければならない(第十三条)。国会院議員は成人男子の制限選挙によって選出される(第四十三条)。天皇は「衆庶の望みに依て」首相を選任するとあり(第十二条)、結局のところ国会院の多数派の指導者が首相となることが明文化されているわけである。統帥権は天皇にあるが、それも首相を通してしか行使することはできない(第六条・第十一条)。軍人には面白くないであろうこれらの条文の代わりにか、現役軍人にも選挙権は与えられていた(第四十三条)。現行日本国憲法下の自衛官と同じ扱いである。政治的意見を表明するすることを禁じられていた軍人にも、個人的な政治参加を許しているこの規定により、不満が反乱へと暴発する危険性は軽減されたはずである。完全な議院内閣制度が採用されている実質的なその中身は、日本国憲法から第九条を省いたものといってよいほどである。

(8)近代日本における英米思想の悲惨なる運命

①廃藩置県(1871)で「日本連邦帝国」構想は潰え、明治14年政変(1881)で「英国モデル構想」も消滅 : 英学を標榜する私学への圧迫 ドイツ思想の優遇 キリスト教とのからみで思想は国民全体へは広がらない構造に

②そもそも自らが明治維新の主体勢力だと考える旧攘夷派としては、英米思想自体が危険思想であった : 共和制は論外、立憲君主制でも天皇親政は不可能 女性解放論は儒教道徳に反し、キリスト教は天皇制度を危うくする

③福沢諭吉率いる慶應義塾は親英米を貫いたが、徳富蘇峰率いる民友社は反英米に転じる : ある意味英米思想を知りすぎている蘇峰が反英米に転じたことで、近代日本は「皇室中心主義」と国家膨張に突き進んだ

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